知多半島の半田はミツカンの街と言ってもいいくらいで、所有する工場、本社ビル、大きな黒塀屋敷、ミツカンミュージアムなどが市の中心にあり、雨が降っている日は街中に酢の匂いが漂う。最近は「種馬発言事件」「ミツカン父子引き離し事件」が話題となり、先月元親子間の裁判が始まったと思ったら、その直後に被告である八代目会長が心不全で急死してしまった。
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もともとミツカンは養子縁組でその歴史を繋いできた企業だ。初代の中野又左衛門からして養子だったし、二代目と三代目又左衛門は盛田家からの養子、四代目は盛田の分家からの養子、五代目も盛田の血を引く養子でかつ四代目の妻の実弟だった。六代目からは先代の実子が跡を継ぎ、先日亡くなった八代目の未亡人が現在の副会長で長女が社長を務めている。八代目の次女の子供が待望の男児だと分かった時点で八代目夫婦の養子にするよう要求され、断ると離縁を迫られたとのこと。ミツカン一族は四代目から中埜に苗字を変えたが、ずっと盛田家の血が受け継がれている。

その盛田家は隣の常滑の由緒ある造り酒屋で、「ねのひ」ブランドの日本酒が愛知県では有名だ。子供の頃テレビでよく「酒~は、子の日松」と呼び出しが唄う広告が流れていた。全国的にはソニー創業者のひとりである盛田昭夫の実家と言った方が分かりやすい。彼は長男だったので本来は十四代盛田久左衛門を名乗るはずだったが、井深大とソニーを創業するため実家のビジネスは弟の和昭に任せられた。

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四代目中埜又左衛門は盛田一族である盛田善平と組んでビール造りを始める。苦労して丸三ビールを完成させ、次にドイツ風の「カブトビール」を発売しエビス、アサヒ、キリン、サッポロに次ぐブランドに育てたが、やがて事業を売却しビール事業で得た麦の知識をもとに製粉業に参入する。最初は小麦粉でマカロニを作ろうとするが失敗し、パンに切り替える。

当時名古屋古出来町の捕虜収容所にいたドイツ人技師数人を雇ってパン焼き窯を完成させ、名古屋に敷島製パンを創立し盛田善平が社長に就いた。その後ドイツ人のパン焼き専門技師であるフロインドリーブを雇い攻めに転じる。当初配送には箱車を使用していたが思い切って梁瀬自動車でフォードのトラックを買い、ボディに大きく「シキシマパン」と書いて市内を走らせた。東京の木村屋のアンパンが好評と聞けばすぐにまねをして作り、木村屋の販売が良好なのは直営店のおかげだと聞くと栄町に直営1号店、広小路に2号店、その後も東新町、上前津と拡大させた。ちなみに現在の盛田淳夫社長は善平の曾孫にあたる。
2022-09-25
愛知県と言えば名古屋とトヨタのある豊田市が思いつくくらいで知多半島が話題になることはほとんどない。名古屋も閉鎖的に見えるが、知多は家と家のつながりが他の地域よりさらに密で、かつ地元への愛着が強いように思える。盛田家と中埜家は養子縁組を繰り返してまるで同じ一族のようだし、中埜家は敷島製パン創業にも参画するだけでなく、一時はソニーの大株主でもあった。

その後の話。ミツカンは味ぽんやふりかけを発売してチルド・加工食品市場に参入し、1997年から納豆製造会社3社を吸収合併し製品ラインを拡大中である。
盛田家の十四代盛田久左衛門は善平亡き後二代目敷島パン社長を兼任し、息子の盛田和昭は家業と並行して創業時のソニーのテープレコーダーを販売して兄の昭夫を助けた。またアメリカで見学したコンビニを7‐11より3年も早く日本に導入し名古屋でココストアを展開した。シキシマパンは2003年にブランドをPascoに統一して日本第三のパンメーカーに成長した。シキシマパンの最初の技師フロインドリーブは会社を辞めた後も国には帰らず、神戸の中山手通で神戸ジャーマンホームベーカリーを開業し息子に引き継がれて現在に至っている。



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