マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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崎陽軒のシウマイ弁当は好きな弁当なのだけど値段が弁当の割には少し高い。街の弁当屋やコンビニ弁当と比べる気はないが、一日に2万7千も売れる日本一の弁当ならもう少しコスト削減できるのではなかろうかと考えるのは外資でコストを削れと言われ続けてきた習い性かもしれない。つい最近来月から1000円越えへ値上げとの発表があり、値上げ前に食べねばと買ってきた。
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現在は950円だが来月からは1070円になる。米がこれだけ上がっているから仕方ないかもしれないが、強気の120円の値上げ、パーセントにしたら13%アップ。1980年代に横浜に引っ越してきた時は600円だった。それから25年経っても710円だった。ハマのソウルフードだと思って毎月のように食べていた。蒸かしているからご飯が冷めてもおいしいし量もたっぷりある。2008年に値上げして780円になったが、2010年には30円値下げして750円となった。いいところがあるじゃないかと思ったが、その後は2014年に二回の値上げ、2016年と2018年にも値上げして860円となり、2022年には900円に2023年には950円と価格改定した。原材料や人件費が多少上がったのかもしれないが、2000年からのデフレが20年間続いた世の中で5回の値上げはちょっと許しがたい。努力が足りなかったんじゃないの。その間にJAS法違反もあったし。

それで過去の値上げを調べると、1954年に100円で発売してから次が18回目の値上げだ。プラス1回の値下げ。4年に一回の値上げが多いのかどうかは判断できない。ただ消費者物価指数の伸びと比較して作表してみるとこんな感じになる。
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上の黒点付きの黄色の線がシウマイ弁当の値段の移り変わりで、下の青の線が消費者物価指数。両方とも1953年をゼロの起点としている。70年代以降シウマイ弁当の価格はCPIをコンスタントに若干上回るくらいで推移していたが、乖離が目立ち始めるのは2008年以降かな。そこからは一般的な物価の値上げを下に見るように上昇している。一時は全国展開も考えた崎陽軒だったが、ヨコハマ再集中でブランド力を強化したものの、地元民と出張客だけでは更なる売り上げ拡大は困難とみて値上げに踏み切ったのだろうか。客を甘く見るとやけどをすると思うのだが。

そう思うのも2022年に頼りなさそうに見える慶応出の四代目が社長になり、就任して数か月後にシウマイ弁当からマグロの照り焼きを外し代わりに鮭の塩焼きを入れたことから始まる。その理由がコロナ禍の世界的なサプライチェーンの混乱でマグロの必要量を確保できなくなった、という信じられないものだった。近所の中央卸売市場やスーパーにはいつもと同じようにマグロは並んでいる。買い負けたなんて社長が言ってはいけない。そう思っていたら一週間後にマグロに戻した。サプライチェーンは一週間では急変したりはしないものだ。一週間後に手に入るのだったらその前の週にも手配できただろうと思う。頑張ってマグロを提供し続けるのが経営責任じゃなかったのか。パッケージまで鮭のものに変えたのに、それをまた戻すなんて節度がない。それに鮭が気の毒だ。その数日後こんどは翌月からシウマイ弁当を40円値上げして900円にするとの発表があった。とんでもないドタバタがあったのだ。

穿った見方をすればこの40円の値上げを正当化するためにマグロを出しにして原材料の高騰を訴え、一週間だけ鮭にお勤めをしていただき、やっぱり鮭では務まらないから高価なマグロにもどしますから値上げの方ををよろしくね、とあのボンクラ社長が言っているような気がした。購買者のことなんか全く考えていないみたいだ。若社長が専務時代に出たNHKの崎陽軒のドキュメンタリーでその頼りなさ、心もとなさを晒しだし「えっ!これが次期社長?崎陽軒危うし!」と思ったが、その気持ちはいまだ変わっていない。今度の値上げは要注意です。

今年は2025年。「2025年問題」の年だ。私もその一員である団塊世代全員が今年75歳以上の後期高齢者になるので、社会保障費の増大、医療や介護体制維持の困難化、労働力不足という日本経済や社会に深刻な問題を及ぼすのだと言う。今年時点の後期高齢者数は2154万人。超高齢化社会だ。その背景にあるのは少子高齢化だが、2025年に3人に1人が65歳以上に、5人に1人が後期高齢者になることは何十年も前から予測できたことで、今問題にするのは政府の無策を晒すだけだと思う。それに何か危惧することがあるたびに団塊の世代がその要因であると言うのは勘弁してもらいたい。
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18年前には「2007年問題」というのがあった。団塊世代が一斉に定年退職を迎えるので労働力不足や、蓄積された技術や経験が喪失されるのではないかとの懸念があった。しかしその前年に改正高齢者雇用安定法が施行され企業は、定年廃止か定年延長か再雇用かの選択を迫られ、多くの企業が再雇用に走ったため逆に高齢労働者数は増え、大きな問題は起きなかった。
同時に「2007年問題」にはもう一つ期待されていた面があった。団塊世代の退職金が投資市場に流れ込んで市場を活性化するのではと思われたが、退職金はほとんど貯蓄に回され投資市場にはさほど流入しなかった。意外と団塊世代はカタいのだ。

その後定年を65歳に延長する会社が増え、団塊世代が65歳で定年退職になる「2012年問題」が話題となった。この時も技能継承が問題視されたが、5年前と同様に雇用延長や再雇用によって何とか乗り切った。しかし再雇用で賃金が下がるため、エンジニアの中には報酬の高い中国、韓国、台湾などの企業に技術を伝授するために再就職した人も多かった。裏切者、という声もあった。

「2015年問題」というものも存在した。団塊世代のすべてが65歳以上となり、労働人口の減少だけでなく年金をフルに受け取れる年金給付人口の急増で年金財政が悪化するのではないかとの心配が起きた。予想されたように年金財政は圧迫され、支給年齢の引き上げや現役世代の負担増が引き起こされた。団塊世代は「最後の食い逃げ世代」と呼ばれた。

そして現在の「2025年問題」だ。確かに医療費では迷惑をかけている。後期高齢者は平均で年97万円と75歳以下の人の約4倍の医療費を使う。膨張する47兆円の医療費の4割を後期高齢者が占めるのだ、それもその多くが1割負担で。申し訳ないと思う。でも望んで長生きをしているわけではない。スパゲッティ状態になってまで長生きしたいとは思わない。わが家は夫婦二人で年間30万円の後期高齢者健保を払い、昨年の医療費は二人で4万円弱だった。多少は貢献してるんだけどね。

この先には「2040年問題」という大問題が待っている。団塊ジュニア世代が高齢者になるのだ。2040年には65歳以上の高齢者が全人口の35%を占めるようになる。世界のどの国も経験したことのない超超高齢化社会だ。生きていれば私は93歳だが、多分この世にはいない。街には高齢者があふれるだろう。車いすやシニアカーだらけになるだろう。病院や介護施設も老人で一杯でケアをする人たちも老人であろう。医療費や現役世代の負担がどうなるかなんて想像もつかない。他の国も日本に遅れて同じ状態になると思われるので、この国の対応策がよいお手本になれるといいのけど。それはひとえに日本がこの2025年問題をどう乗り切って、何を学ぶかにかかっていると思うのだが。

マンションの管理人さんがひとり辞めた。年配の方だったので不思議にも思わなかったが、管理会社は少し焦っているように見えた。大手ディベロッパーだからすぐに後任は見つかるだろうと思ったが、そうはいかないようだ。すぐ採用面接にとりかかると言っていた。

そういえばマンションの管理組合の理事をしているゴルフ仲間が、昨年1年で管理人が3人辞めてしまい、突然の退職で引継ぎが十分にできないため総会が開けないと言っていた。中小の管理会社だったが、多分口うるさいクレーマーがいたのだろう、最後の一人はノイローゼのようになって辞めたらしい。思った以上に大変な仕事なのだ。
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マンション関連では建物そのものの高齢化、住人の高齢化、理事会役員の高齢化とならんで管理会社の管理人の高齢化が問題となっている。もともとマンション管理員は年配者の転職先として人気があったが、企業の定年延長や再雇用で応募者が激減している。だから欠員が生じて募集をかけても応募者が少ない。中小の管理会社は恒常的に人員不足らしいが、大手でも人手が足りず既存マンションの欠員の補充ができていないし、新規受託の依頼があっても管理員の応募が見込めないため受託できない。かつ人員不足が管理員の人件費高騰を招き、多くの管理会社が管理委託費の値上げを要求している。値上げが認められない場合は時短など仕様変更をせざるを得ないし、組合としてもそれを受けざるを得ないことが多い。最悪の場合は「もう続けられられません」と管理会社の撤退もありうる。

管理員の仕事は高齢者に向いているように思われるが3K要素が強く、その割には求められるスキルが多く対人関係対応能力も必要だ。過激な要求をされることも多く離職率が高いことも応募の減少の理由だ。どのマンションでも見られそうだが、特に高級住宅地エリアで顕著だそうだ。

理事長を半年やっていると管理スタッフ問題だけでなく今まで見えなかったこと、気づかなかったことが沢山ある。それらを解決しようとすると理事長は管理会社寄りだ、管理会社に丸め込まれている、という老人が多い。大抵彼らは理事や理事長の経験のある引退した老人なので時間だけはあり、趣味のように注文を付けてくる。管理人室にやってきて忙しいのに一時間も話し込んだ、ということはよくある。どこにもクレーマーはいるのだが、本人はクレーマーだという意識は全くなく、マンションの役に立っていると信じ込んでいるのが一番質が悪い。過去の事例や手続きなどの細かいことには執心するが、将来を見据えた提案などはほとんどしない。「そんなに長くは生きていない」と言うのが常套句だ。

私の住むマンションも来期は大規模修繕工事やエレベーター更新を控え、おまけに管理会社からは管理委託費の値上げを要求されている。はやく新しい管理人が見つかり仕事に慣れてもらいたい。理事のなりてもなく輪番でも理由を付けて断る人ばかりだ。次の総会は荒れそうな気もするが、クレーマー対策もしながら資産価値の維持や居住性向上のための先を見据えた提案をしなければと思う。あと半年何とか乗り切ろう。

速報ではあるが2024年の東京都区部の消費者物価指数が発表された。総合指数が対前年比+2.3%、生鮮食品除きでは+2.1%、生鮮を除いた食品が+3.7%となっている。これで3年連続で物価上昇率は2%を超えたことになる。
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しかし年間で物価上昇はたったの2.3%、食品(生鮮品除き)が3.7%しか上がっていないというのは毎日買い物をする専業主夫としては納得できない。生鮮では野菜が26%、果物が17%上がったと言う報道はあるが、非生鮮品でも加工食品や飲料が大きく値上がりしている。コメも27%アップと言う記録的な数字だが、今調べたら米は精米したものでも生鮮食品に入るのだそうだ。知らなかった。その他にも小麦粉や油脂やミルクを使った商品は二けたの値上げをしているし、今年値上げされた食品12500品目の平均値上げ率が17%とされているので総合の2.3%と生鮮除きの食品の+3.7%はどう見ても低い。
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もちろん値段が上がっていない製品もたくさんあるのだが、購買者は上がったものばかりに目が向くものだ。いつも買うコーヒー豆やオリーブオイルなどは前年の二倍になっているし、生協が配達してくれる「つや姫」は5キロで夏には2538円だったが先月は4082円と61%も上がっていた。

そんなことを考えながら、今年の買い物がすべて終了したので我が家のエクセル家計簿で値上げ率を検証してみた。

2024年の食費は90万円でひと月当たりにすると75000円、65歳以上の無職夫婦二人世帯の2023年平均(72930円)より2000円多いだけだ。確か75歳以上世帯の平均はは60000円位だったと記憶している。平均値も今年はもうすこし上がっていると思はうけど。対前年比は+4.4%、生鮮三品を除くと+9.5%で、ほら+3.7%では収まっていない。
わが家の食費の中で一番の支出は菓子類で月平均で約10000円、食費の12%を占める。いくら昔菓子の仕事をしていたとしても少し多すぎるかも。その次が野菜と総菜類で月に約9000円。菓子類の対前年伸び率は4.9%、野菜は13.7%増えたが総菜類は-9.2%と縮んだ。野菜は毎日10品くらいとっているので今年の値上がりを考えたら仕方ないかもしれない。

食費の中で野菜に続くのは魚類、冷凍食品、飲料、果物、パン、外食だ。この中で伸び率が大きかったのは冷凍食品の56%、パンの29%と外食の14%。冷凍食品はお取り寄せと手抜き料理が増えたためで、パンは小麦粉の値上がりとちょっとおいしいパンをとグレードを上げたのが理由だ。外食は同窓会がいくつかあったので仕方ない。

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値上げの要因としては上の図で分かるように全部の要素が上がった。原材料も人件費も物流費も上がれば値上げは仕方ないか。前年と比べると人件費理由が3倍となり、円安要因が2.5倍となっている。つまり円安で石油が上がり、それが輸入原材料と包装資材と輸送費を押し上げ、物価が上がったために賃金を上げざるを得なかったという構造が見て取れる。この構造はあと数年は続くだろう。政府が望んだ形ではなくデフレが終わりインフレが始まるということだ。

食費以外では雑貨・日用品が10%増えた。紙製品や洗剤の値上げが大きかった。月2ペースで行ったゴルフ代も10%増えた。それらを帳消しにしてくれたのが光熱費だ。電気代が-5.8%、ガス代+給湯費が-9.6%、水道代が-4.3%と政府の補助金もあって下がったため光熱費合計でも-7.4%となり、月4万円台だった光熱費が3年ぶりに3万円台まで落ちた。加えて今年は車検がなかったことで16万ほど浮いた。

生鮮食品の野菜と果物は支出が増えたが、肉類と魚類は-18%、-23%と激減した。値上がりのせいもあるが歳のせいか肉を食べようという意欲が落ちたし、魚は前年にサブスクをやめたことが効いている。今年は何とか消費支出を前年以下に抑えられたが、これ以上インフレと戦うのは無理じゃないかと思う。残された短い人生あまり節約ばかりでは楽しくないし、食事と趣味をケチったら何のための人生かわからなくなる。健康なうちが花ですものね。

衝動買いした都内のマンションが住みづらかったので、元町に店を持っていた義父の勧めもあって建ったばかりのパークシティ本牧に部屋を借りた。1987年だった。浜っ子の家内は本牧の米軍宿舎をフェンス越しに覗いていたことをを憶えているので、あこがれの街に住めると喜んでいるようだった。ただ駅からは遠くJRなら石川町、東急線なら桜木町からバスを使わなければならなかった。数年後には地下鉄が延伸されるという話だった。広い平らな原っぱにタイル張りの新築マンションが9棟建っていた。本牧原という住所名にピッタリの風景だった。
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小3の娘は毎日片道2キロの道を草をかき分けながら間門まで通学しなければならなかったが、そのおかげで喘息が治った。買い物も便利とは言えず、週末には車で元町ユニオンに出かけた。不動産屋は駐車場なんかいりませんよ、原っぱにとめておけばいいんですと言ったが、そうもいかず原っぱの一角の7千円の駐車場を借りた。

数か月後に状況が変わった。89年春の開業を目指すマイカル本牧の工事が始まったのだ。そんなことは聞いていなかった。まわりの草は刈られて整地され、目隠しのフェンスが建てられそこにアーティストたちが思い思いの絵を描いた。白地バックに鮮やかな色で描かれたポップな絵画は夏の太陽に映えて、日本ではないような光景だった。
騒音と埃には悩まされたが予定通りにマイカル本牧は完成した。高級ブティックやブランド店も嬉しかったが、スーパーと映画館や劇場が併設されているのが一番ありがたかった。すぐマイカルカードを作った。
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出来上がった建物は壁はごく薄いベージュがかった黄色、屋根は三角でオレンジ色というスペインを想起させる配色で全10棟。わが家の前の道は「イスパニア通り」と名付けられていた。コンセプトはアーバンリゾートで、180ものショップやレストラン、スポーツ施設などが入っていた。前宣伝も派手だったので開店時から大変な混雑となった。もともとバス便しかない場所なのでバスはいつも満員、車で来る人も多く駐車場待ちの車が道路をふさぐので週末は車に乗る気がしなくなった。おまけに地主が強気になって7千円の駐車場は一気に2万円に跳ね上がった。マイカル本牧は大規模な流通実験として全国的にも注目され観光バスの目的地にもなったので店も道も混んだ。初年度はディズニーランドを超える1500万人が訪れたという。

食品や日用品はサティで買い、時々は5番街のブティックで買い物をし、夕食後に毎週のようにシネコンで映画を見た。足の便が悪いせいか最終回は我々夫婦二人だけのことがほとんどだった。家から1分で行けるのは楽だった。家内はスポーツジムに通い、見たい演目があるとアポロシアターにも足を運んだ。オフィサーズクラブにも飲みに行った。食事を作るのが面倒な時は走って行ってピザやハンバーガーが買えた。なんとなく生活が彩を帯びたような気がした。

しかしオープンから2年もしないうちにバブルが弾けた。電車の便がない本牧は寂れはじめると一気に下降が始まる。売り上げが下がると高い賃料が足かせになる。閉店後にプティックの店員が「今日はブレスレットが1個売れただけだった」と話しているのを聞いたことがある。5番街のカステルバジャック、アクアスキュータム、ベネトンなどはさっさと撤退した。アポロシアターも客が来なくなり、マンションのポストに週末の公演の無料券が何回も入っていた。客が少ないと演者にすまないと思ったのだろう。しかしクラシックバレエやクラシックコンサートの公演の時は初めて見る客が多いようで拍手をしてはいけないところで大きな拍手が起きたりした。レストランも閉店が続きマイカルが目指した未来都市、小粋なアーバンリゾート構想はガラガラと崩れ始めた。

結局地下鉄が延伸することもなく陸の孤島のようなってしまったマイカル本牧。バブルの崩壊だけでなく、93年にはランドマークタワーが完成したみなとみらい21地区に客を奪われるようになると業績はさらに悪化した。経営再建のため大半の建物を売却したが状況は変わらず、2011年にイオンに吸収合併される形でマイカルそのものが消滅してしまった。マイカル本牧、22年の短い生涯だった。

子供のころからアメリカのポップスが好きでラジオでニール・セダカやポール・アンカを聞いていた。英語はよくわからなかった。やがてフジテレビが「ザ・ヒットパレード」を放映しはじめ、その後も「明治屋マイマイショー」や「森永スパークショー」と続いた。それらの番組で歌われたほとんどの曲は洋楽のカバー曲でアメリカで流行っているポップスを和訳したものだった。

当時アメリカンポップスを唄っていたのは飯田久彦、ミッキーカーチス、ザ・ピーナッツ、森山加代子などでグループで歌っていたのは伊藤素道とリリオリズムエアーズくらいだった。そんなときにパラキンが現れた。最初のヒット曲はグループを抜けた水原弘の後釜で加入した坂本九が歌った「悲しき六十才」だった。その2か月後には「ビキニスタイルのお嬢さん(石川進)」と「ステキなタイミング(坂本九)」のカップリングでヒットを飛ばし、その後も1ヶ月か2ヶ月間隔で新曲を出すという、今では信じられないペースだった。翌1961年には11枚ものシングルを出した後、「上を向いて歩こう」のヒットを出した坂本九が独立した。62年にはキューピーの愛称でグループ1の人気者だった石川進も独立し、代わりに九重佑三子が加入した。
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翌年フォーシ―ズンズのカバー曲「シェリー」がヒットし、7枚のシングルが発売された。この頃がグループの最盛期だったような気がする。紅白歌合戦にも出場したし、「明治屋マイマイショー」やNHKの「若い季節」「夢で逢いましょう」に毎週のように出演していた。翌64年には九重も独立し、毎年のようにボーカリストが変わり昔のファンが離れていった。メンバーの入れ替わりが激しいグループではあったが、それだけスターを産み出したということだと思う。ボーカルは変わったがスティールギターのダニー飯田、ギターとボーカルの佐野修、同じく上野保夫、ベースの石田智、ボーカルとウクレレの増田多夢は当時の不動のメンバーだった。私がコンサートに行った時のドラムスは後にジャズドラマーとして活躍するジョージ大塚だった。

60年代後半からはヒットにも恵まれず、東芝からクラウンレコードに変わってからはポップスから歌謡曲路線に切り替わった。メンバーの離脱も進みオリジナルメンバーはダニー飯田と佐野修だけになり、かつての人気グループも存在感は希薄になった。離脱した増田多夢は91年に亡くなり、リーダーだったダニー飯田が1999年に亡くなってパラダイスキングは解散となった。

中学から高校の時期にレコードを集めて聞いていたパラキンだったが、在籍していた水原弘、坂本九、ダニー飯田、石川進、増田多夢、ジョージ大塚、みんな鬼籍に入ってしまった。あれから60年年経っているのだから仕方がないのだけどね。人気グループではあったが今思うと全員が素人っぽくて、ガツガツしていなくて、懐かしき良き時代の歌手たちだったのだと思う。

ひところ騒がれた「老後2000万円問題」を最近聞かない。もともとが政府の正式発表でもなかったし、2017年単年の家計調査データを使っていることに問題があった。2017年でなく2022年データを使うと2000万円は800万円まで下がるし、そこに反映されていなかった退職金を加えると(全員に適応はできないが)もっと下がるかプラスになる。かつ夫婦そろって65歳から30年生きられる確率は低いので(特に男性が)必要額はさらに下がる。

なぜこんなことになったのか。メディアがキャッチーな「老後2000万円不足」に飛びついたこともあるが、日本人の金融リテラシーの低さにも問題があるのだろう。深く考えもしないで「老後不安」と言う言葉に煽られ恐れおののいたのだ。そのためにある程度以上の資産を持っている高齢者までが、長生きしたらどうしようと節約に努め金を使わなくなってしまったのだ。

内閣府が発表した「令和6年度経済財政白書」によると85歳を過ぎても金融資産はピーク時(60-64歳)の1割程度しか減っていない。我が国の金融資産の7割以上を55歳以上の高齢者が保有し、70歳以上で見ても全体の4割近くを占めている。この層が金を使わないと日本経済は廻らないのだ。少し古いが総務省のデータでも世帯主の年齢別金融資産残高平均は下記のグラフのようになっている。
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80歳以上の世帯でも60歳代の純金融資産の93%を維持している。世帯主が80歳代ということはほぼ平均寿命近辺であり、平均余命は5年前後だ。残された資産は相続されるのだろうが、現役時代に苦労して蓄えた資産を使い残していることには違いない。引退したら資産を取り崩して余生を楽しむはずだったのではないのか。

20年位前に大前研一が雑誌「日経マスターズ」にこんなことを書いていた。日本人の貯金額が最大になるのは死ぬ時で、だいたい3000万円位のキャッシュを持っている。いっぽうイタリア人は死ぬ瞬間に持っているお金がなくなるように使う。死ぬときに金が残っていたら悔やむくらいに金を使って人生を楽しむ。当時この記事を読んだときは、「本当かね、いつ死ぬかなんて誰も分からないじゃないか」と思っていた。だけど他の国のデータ(イタリアのは見つからなかったが)をみると確かに75歳以上になるとピーク時の資産の約半分になっている。
2024-12-19
日本は引退後に金融資産が減らない珍しい国のようだ。相続税だって高いのにね。この違いは子供のころからの金融教育や社会人になってからのリカレント教育が存在しないことが原因かもしれない。ある年齢以上の日本人にはお金のことを話すのははしたないという風潮がまだ残っている。確かに引退後に病気になったら、認知症になったら、予想以上に長生きしてしまったらという心配はあるだろう。ただ金融資産は老後の生活のために苦労して蓄えた金のはずだ。これからは「いかに貯金を取り崩すべきか」を考えるべきだ。70歳以上の高齢者が日本の総個人金融資産2200兆円(10年前から600兆円も増えている!)の4割弱を保有するので約800兆円となる。この1割でも社会に還元すれば日本経済は確実に好転すると思う。

そのためには現在から人生の終わるときまでの収入と支出を予測して「生涯キャッシュフロー表」を作成することが「資産取り崩し計画」に最も有効ではないかと思う。私は現役時代に自分は87歳まで生きる、家内は98歳まで生きると想定してキャッシュフロー表を作り、それを毎年修正している。収入は年金中心なので予測しやすいし、これから起きそうなイベントやリフォーム、大型家電の買い替えなどを見込んで年ごとの支出を算出すればある程度の家計管理が可能になり、イタリア人ほどではないが余生を楽しもうという気にはなる。働いている時期にこれを作るときっと役に立つと思うのでお勧めなのだが。

遂に年賀状をやめる時が来た。もう50年以上続けてきたがそろそろいいだろう。終活や断捨離の一環として書籍、レコード、ビデオなどは10年くらい前から整理し始めたが、今年は衣類やPCに保存されているデータなどに手を付けようと考え、ついでに年賀状も最後にしようと決めた。

現役時代は200枚くらい書いていたが、引退すると仕事がらみの賀状が減った。やがて喪中はがきが年々増えて枚数はさらに減少し、最近では学生時代の友人や仕事仲間本人が亡くなるケースが増えた。仕方がない、平均寿命まであと4年だ。もともと私の年賀状は長文だ。こんな感じだ。
2024-12-18

「謹賀新年」だけでは寂しいと時事ネタや気になったトピックスを綴ってきたが、ネタを探すのが面倒になり中身がマンネリ化してきたのも、この辺りが潮時かと考えるようになった一因だ。若い世代を中心にSNSで新年のあいさつをする人が増え、2003年に43億枚あった年賀状は2025年は10億枚強に激減している。前年より25%も減るのはデジタル化だけではなくハガキの値上げも大きく影響していると思われる。私の周りでもLINEやメッセンジャーで「紙の年賀状止めます」と送ってくる仲間も多い。

国内の総郵便量は減り続けていて、2022年度には民営化以降初めての営業赤字となった。今回の30%強の値上げで一時的には黒字になるが、2年後にはまた赤字になると予測されている。効率化を求めて土日の配達廃止など手をうってはいるが、郵便事業は仕分けや配達など労働集約型事業なので余程の抜本的な改革をしないと現状は打破できないだろう。

他の国に住んでみると実感するが、日本の郵便事業や宅配事業はすこぶる信頼性が高い。ちゃんと配達されるし荷物が破損する率も低い。いつまどこのサービスレベルが維持できるのか、どこまでユーザーは値上げに耐えられるのかの議論が続くと思われる。

住んでいるマンションでは毎年二回減災訓練がある。今日がその日だ。休日の朝に室内のインターホンのスピーカーから巨大地震が発生したとの案内放送が流れ、室内待機の後、火災が発生して延焼中なので避難しろとの指示が出る。同じ内容の放送が敷地内のスピーカーからも流れ住民の退避が始まる。
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働いていた頃はせっかくの休日の朝に放送で起こされるのは3時にベッドに入る自分には少し腹立たしく、訓練に参加することは少なかった。今は管理組合の理事長なので参加せざるを得ない。訓練は退避後広場に集合して消火器やAEDの使用訓練があり(時には地震体験車やはしご車を消防車から出してもらうこともある)その後会議室に移動して消防署員や防災専門家による講話がある。本日の講話は「高層マンションにおける防災」というタイトルだった。

マンションは高層階になるほど地震の揺れ幅が大きく、家具などの転倒、落下、移動による被害が大きくなることは阪神淡路や東日本大震災で実証されている。怪我だけでなく通路や出口ドアを塞ぐことによって避難障害を招くこともある。それらを防ぐために背の低い家具に変えたり、人がいない方向に倒れるように家具の向きを変えたり、窓際には重量物や移動しやすいものを置かないようにする。大きな家具はL字金具で壁に固定したり、ストッパーを併用したりする、などが実物とともに紹介された。

記憶ではかつては防災訓練と呼んでいたと思う。今は減災訓練だ。「防災」が災害を未然に防止し被害をゼロに近づけるための努力なのに対し、「減災」は災害は起こるものだと考え被害を最小に抑えるための事前対策と定義づけられる。自然をねじ伏せようという考えから自然には敵わないと現実的になったような気がする。この変化は1995年の阪神淡路大震災の経験から来たらしく、その後「減災」が一般的になったようだ。

国や地方自治体は「自助」「共助」「公助」で災害に備えよと言う。まず自分および同居家族で身を守り備蓄品や持ち出し品を準備する。次に隣近所や町内会、自治会などのコミュニティで助け合う。最後に国や自治体の対策や制度を利用する。ただ防災に詳しい人は「公助」は期待しないほうが良いという。国や市のプライオリティはまず公共施設や病院、学校に置かれ民間の共同住宅はその後になるだろう。

「公助」がないわけではない。私の両親は阪神大震災で被災した。寝室の箪笥が倒れてあわや直撃だったらしい。電気ガス水道すべてが止まり、その夜自衛隊の給水車が来たので二人で9階から階段でおり、寒い中並んで水を貰い、階段をまた昇って部屋にたどり着いたら二度と下に降りる気力も体力もなかったらしい。老人から死んでいく、と妹が言っていた。だから「自助」が第一で「共助」がそれに続く。ただ、困った時だけの「共助」は機能しない。普段から協力したり、少なくとも顔見知りになっておかないと非常のときに役に立たない。

今日のような減災訓練に、毎年同じことをしているから今年は参加しない、という老人もいる。繰り返しが大事なんだよ。災害発生時はだれもがパニックに陥る。パニックになると準備したことしか実行できない。それも十分に準備したことしか。消火器は扱えるかもしれないが、パニック時にAEDがちゃんと扱えるか自分でも自信がない。毎年同じ訓練を受けて体で覚えないと駄目なんだけどね。

ジャム理論は選択肢が多いと人は決められない「決定回避の理論」だった。選択肢がある程度以上になると選択が難しくなり決めるのが困難になる。その数は5~9という説もあれば、3~5という説もある。それ以下であれば消費者は比較的簡単に決定することができるはずだ。そこで3という数字の出番になる。

もとは商品やサービスは三段階に分けて提示すると真ん中の選択肢を選びやすいという「ゴルディロックスの原理」と呼ばれる経済学用語で、「ゴルディロックスと三匹のくま」という童話に端を発している。ゴルディロックスという少女が三つの選択肢からちょうどよい温度のスープやちょうどよい硬さのベッドを見つけていくことから、欧米では「ちょうどよい」へと誘導する手段をゴルディロックの原理と呼ばれていたらしい。

わが国では三種類を表すのに松竹梅がよく用いられる。ゴルディロックスと同様に三つの選択肢がある場合には極端を嫌う日本人の多くは無意識に真ん中を選んでしまう。これが松竹梅の法則で、価格や品質が違う三種の製品を提示して、一番売りたい製品を真ん中に位置させるというのがポピュラーな販売方法だ。鰻屋や寿司屋でもよく見られる松定食、竹定食、梅定食。松はおいしそうだがちょっと贅沢すぎるし、失敗したらもったいない。梅を頼むとみみっちいと思われそうだ。その結果真ん中の竹が選ばれる。
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実証データはあるらしいのだが、よく言われるのは松:竹:梅の比率は2:5:3となることが多いそうだ。半分の人は竹を選ぶ。選択肢が竹と梅の二つになると3:7になるらしい。ま、これは価格の設定にもよるだろう。一番売りたいものを真ん中に設定したいのなら、松と竹の価格さを大きめに取り、竹と梅の差は小さめにする。例えば松が5000円ならば、竹は3000円で梅は2000円位が妥当かもしれない。竹の3000円に2000円を足せば松を頼めるがプラス2000円はちょっとね、でも2000円の梅にあと1000円を足せはおいしいもの、上質なものが手に入るのならと考えると竹に落ち着く、というわけだ。(上のうな重の例はこの説とは異なりますね。この店は安価な鰻がウリなので松を薦めたいのでしょう。)

選択肢が4以上になると「決定回避の法則」が働いて、買わないという選択をさせてしまう可能性が高くなる。選択肢がふたつだと上記の竹と梅のように安い方に流れて利益率は下がる。松竹梅の法則は選択肢を3にすることで真ん中の買ってほしい商品を選ばせるように誘導し、「買うか買わないか」の選択から「どれを買うべきか」の選択に論点を切り替えてしまう所が効果的と言えるところだ。

15年くらい前にこんなCMがあった。ホームセンターの一角にベビーカー売り場があり4種類の製品が陳列されている。若い夫婦がその前に立ちざっと見た後に1台を選んで買っていった。その後20種類近いベビーカーが並べられると、買いに来た夫婦は悩んだ末に選ぶことができず買わずに帰ってしまった。
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CM画像にはプリンストン大学のシャフィール博士の「選択肢が多い方がより良いものが選べると思うでしょう。選択肢が増えすぎると人はむしろ何も選べなくなるんだよ」のスーパーインポーズが挿入されていた。

このCMを機に「決定回避の法則」は少し知られるようになった。マーケティングの分野ではこの法則は「ジャム理論」とか「ジャムの実験」の名前で語られることが多い。コロンビア大学のアイエンガー教授が1995年に行ったジャムの試食販売実験に基づいている。教授はスーパーマーケットの入り口近くで24種類と6種類のジャムの試食販売を繰り返し、種類の多さが売り上げにどう影響するかを調べた。11
その結果は24種類のジャムを陳列した場合は通行客の6割が立ち寄って試食したのに対し、6種類の時は4割しか試食しなかった。しかし試食後に購入した人の比率は24種類の時がわずか3%であったのに対し、6種類の時はその10倍の30%だった。実購買者比率は24種の時が60%x3%で1.8%だったが、6種の時は40%x30%の12%となり6倍強の差がついた。

「6種類ならともかく24種類全部試食したのかい」と突っ込みたくなるところだが、6種の方がコンバージョン率が高いのは明らかだ。ただ集客率が高いのは24種の方なので、陳列数が多いのが一概に悪いとは言えない。またこれはジャムの場合なので、製品のカテゴリーや消費者のタイプによっては状況が変わることも忘れてはいけない。私も先日台所の照明を蛍光灯からLEDに変えようとヨドバシに出かけたが、30くらいの種類があって戸惑った。日本製ならどれでもそんなに変わらないだろうと考えて、一番安い製品を選んだ。関与度の低い製品だとどれにするか考えるのが面倒になり、私のようなコスト志向の消費者は選択肢が多くても苦にすることはあまりない。

売るサイドから見ると集客のためにはある程度の種類を揃えなければならない。消費者の混乱を避けるためには、製品の特徴をシンプルに表した説明文、その店での売り上げランキング、お店のおすすめなど消費者をうまくガイドするような方法を加えておけば混乱は最小化できるはずだ。

ちなみに上記の広告は大和証券グループの広告だと初めて気づいた。よいCMだとは思うのだが広告主を想起できないのは広告としてはどうなんだろうか。(下のサイトで見られます)
https://youtu.be/lJZjF8IbfSk

博報堂生活総合研究所が調理寿命・調理定年は何歳なのかということをネット調査(24年3月 n=1500)に基づいて紹介している。これは仕事に定年があるように、ある年齢に達したら手作り料理主義を放棄しても良いのではないかという評論家の樋口恵子氏の提唱をベースにした調査らしい。氏の説は歳をとったら市販の総菜、レトルト、テイクアウト、外食を活用して楽をしようという考えで、女性を中心に支持が集まっているとのことだ。わが家でも私の定年退職と同時に家内が料理を卒業し、そのかわり私が17年間料理担当となっている。

博報堂によると調理寿命・調理定年には二種類あり、ひとつは料理をする気力がなくなる「ココロの調理寿命」、もうひとつが料理をするのが体力的にきつくなる「カラダの調理寿命」だという。確かに歳ともに食欲が落ち、料理をする気が起きない日が増えるし、重い鍋や鉄フライパンを振る元気がない日も多くなる。調査データによると作る気力が失せるのが全体では56歳(女性は57歳)、体力的に駄目になるのが63歳(女性は65歳)らしい。ということは、うちの家内も私の定年の少し前ににプッツンしていたということかもしれない。
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このデータで面白いのは、食べるのにも寿命・定年があるのではないかという発想だ。確かに歳をとると食べる量が減るだけでなく、脂っこいものを敬遠するようになるし、淡泊な和食に回帰する老人も多い。調査によると平均では44歳で若いころより食が細くなり大盛を頼むことができなくなる。いくらおいしい店でも行列までしてラーメンを食べようとは思わなくなるのが45歳。そこまでしてうまいものを食べようという意欲が失せるのですね。ガツガツ食べていた好きな焼肉が胃に重たく感じられるようになって控えるようになるのが50歳から51歳としている。
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これはなんだかわかる気がする。すでに大盛を頼んだり、店の前で並ぶようなことをしなくなって20年は経っている。夕食でもご飯のお替りをすることはもうない。ただ脂っこいものは相変わらず好きで、焼肉、ロースかつや鰻、揚げ物はローテーションに含まれている。今日も夕食用に海老フライを揚げた。健康のことを考えるとさすがに昔のように量は食べられないけど。

最近は高齢者の一人暮らしが多いし、食材の値上がりが激しいので、一人で調理するよりテイクアウトしたりUberで頼んだり、中食したり、市販の総菜を買う方が食品ロスも少なくて効率的なこともあるらしい。夕方のデパ地下やスーパーの弁当や総菜売り場では値下げシールが貼られるのを待っている高齢者や外人さんをよく見かける。調理寿命は年齢だけでなく孤食が増えていることも影響しているのだろう。博報堂の国際比較データでも「食事を買う」「一人で食べる」は8カ国中日本が1位だった。

歩きスマホをしている若者を毎日見かける。老人はそれができない。立ち止まってスマホを少し遠ざけながら、時には老眼鏡をかけ直して画面を見る。若者のように片手で操作はできず、左手でスマホを持ち右手でゆっくり文字入力をする。でも多くの老人は数年前までは二つ折りのガラケーを使っていたのだ。スマホに変えただけ進歩と言うことはできる。特に女性は。

ハルメク生き方上手研究所が調査した55歳から74歳女性の「シニア女性のデジタル活用事情」 によると、彼女らのスマホ利用率は昨年は96.9%で前年から2.6ポイント伸びている。コロナ禍で人と人をつなぐコミュケーション手段としてスマホがシニアに注目されたと言ってよいだろう。増加は主にガラケーからのスイッチと思われるが、コロナ禍でシニア女性層がオンライン決済やQR決済の必要性に迫られたこと、外出ができなくなってネットショッピングやLINEを使いだしたことも要因だと考えられる。下降傾向にあったパソコン利用率がコロナが拡大した2020年から回復しはじめ昨年は49.1%と前年から7.6ポイントも上がったことがそれを裏付けている。
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スマホに変えることによって生活が変わったこともデータが示している。電通シニアラボの「シニアのスマホライフ実態調査」によると、60代70代の6割強がスマホを持って生活が良くなったと回答しており、「とても良くなった」と答えたのは女性の方が明らかに高かった。彼女らがスマホの価値を評価した項目としては、「分からないことをすぐ調べられる」「暇な時間を楽しむことができる」「社会の動きや流行が分るようになる」などを挙げている。スマホに変えてちょっぴりハッピーになったシニア女性の喜ぶ顔が見えるようだ。
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当然デメリットもあり、「目が疲れる」「用もないのにスマホを見てしまう」「スマホ頼りになり自分で憶えなくなった」などが挙げられているが、これはシニアだけではなくすべてのユーザー共通だろう。

シニア女性の方が男性よりもスマホの恩恵を受けているのは、男性は現役のころから日常的にパソコンを使っていたため引退後も調べ物やECでの買い物をパソコンでもするのに対し、女性はパソコンを何らかの目的で利用している人は半数以下で、メールや検索もほとんどをスマホでするからだと思われる。NTTドコモモバイル社会研究所のデータによると、情報の検索をシニア女性の78%はスマホで行い、パソコンを使う人は9%しかいない。

我が家の家内も数年前にスマホに変え、現在は2台目を使用中だ。最近はPCを触っている時間よりもスマホを手にしている時間の方が長い。検索やLINEだけでなくチケットの予約をしたり、ポイントで買い物をしているようだ。ちいさいのと外に持ち出せるのが便利なのだと思う。文字や絵を簡単に拡大できるのもスマホならではだ。特に老人にはありがたい。アプリを使えるようにはなったのだが、画面がフリーズしたり、メッセージが出たりするたびに日に何回も「これはどうすればいい?」と聞きに来るのだけは何とかしてもらいたい。

若いころはそこそこの読書青年だった。浪人時代に、受験勉強からの逃げだったかもしれないが、本を読み始めて好きな作家が何人かできた。彼らが青年時代に読んだ本や薦める書籍を片っ端から読んだ。小説類だけでなく、旧制高校生の三大愛読書が「善の研究」「三太郎の日記」「愛と認識その出発」と聞けば理解できないままに目を通し、亀井勝一郎の人生論や青春論を夢中になって読んだ。体系だった読書ではなく手当たり次第だった。
当時は小遣いも少なかったので岩波文庫に助けられた。その頃の岩波文庫は他の文庫のような表紙カバーはなく、定価は★で表示されていて、★ひとつが50円だった。「茶の本」や「桜の園」「共産党宣言」のような薄い文庫は50円で、いつも買った後喫茶店で読み終えた。コーヒー代も50円だったので100円で何時間か楽しむことができた。
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大学も文学部に入り下宿の四畳半は本であふれていた。週に2~3冊の本を読み、読後ノートも付けていた。しかし留年ののち退学処分を受け、一年後に他の大学に編入学してからは専門書を読むことに集中せざるを得なかった。就職後は仕事がらみの本を読むことが増えた。結婚して住んだ部屋の六畳間の天井まで壁一面の本棚に本をを並べていたら、遊びに来た友人に「寝ている時に地震がきたら死ぬぞ」と脅かされた。問題は家内が私の何倍かの読書家で一日中本を読んでいる。最高は一日に13冊読んだと言っていた。二人とも図書館には行かないので本は増え続け、そのころ蔵書数を数えたら4000を少し超えるくらいだった。

歳をとりはじめると、つまり老眼が始まるとだんだん読書と縁遠くなる。新しい知識への欲求が弱くなるのもあるが、読書が苦痛になるのだ。昔買った岩波文庫や古典の全集は活字が小さい。少し読んでいると目が疲れてくる、もしくはピントが合いずらくなる。そのうち老眼鏡の数だけが増えてきて、どれがどの度なのか分からなくなる。
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もう活字の小さい本は読めない。10年くらい前から終活の一環としてレコードやCD、VHSテープと並んで書物もヤフオクやアマゾンで処分し始めた。既に2000冊くらいは捌けたと思う。売れるたびに本を梱包しながら、買った時のことやうろ覚えの内容を思い出しながら娘を嫁に出すような気持になる。しかし持っていても読むことはもうないのだ。本箱の空きスペースは年々広がり、そこに家内が本やいろんなものを並べるようになった。気が付けばドア横に通販家具で作った隠し戸棚のような扉付きの書棚も、まだ読書意欲が私ほどは落ちていない家内の新書や文庫本、洋書に侵食されてしまった。
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昔読んだ円地文子の「めがねの悲しみ」というエッセイは見えすぎてしまう悲しみを綴っていたが、両目とも眼内レンズのお世話になっている後期高齢者は、眼鏡をしても年々衰えていく視力をボヤくばかりである。

野菜も値段が上がっているが果物も同等かそれ以上に高くなっている。わが家は朝食には必ずフルーツがつく。新婚旅行でカナダに行ったときに独身時代にろくな朝飯を食べていなかったため朝食のおいしさに驚き「うまい!」と言ったばかりにその時と同じ朝食が何十年続いている。パン、コーヒー、ヨーグルト、フルーツの4点セットだ。フルーツならサラダを作るより簡単だし。
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結婚して住んだのは新高円寺駅近辺だった。近くに三平ストアという低価格スーパーマーケットがあり、果物をいつも安く売っていた。リンゴや梨や柿など季節のフルーツがザルに4~5個のっていて200円だった。安月給だったので果物だけでなく食料全般をこのスーパーで買って随分助けられた。そんな昔と比べても仕方はないのだが、最近の果物の値上がりはひどい。今日も近所のスーパーでフルーツを選んだが、選択に悩んでしまった。秋の果物の中で梨は好きなもののひとつなのだが、1個で350円、2個で698円の値が付いている。最初に市場に出る幸水と比べると今の時期の梨は高いことは知っているが手を出しにくい値段だ。
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その他にも半年前は5個で398円だったキウイと4個で同じく398円だったグレープフルーツが共に498円に上がっていた。かつ値上げ幅を抑えるためか両方ともいつもより品質が下がっているような気がする。結局今日は4個で598円のネーブルオレンジを買ってきた。よく考えたらオレンジもこないだまで4個で398円だった。それが498円になり今では598円。それもサンキストなどの米国産はほとんど見かけなくなり、今日買ったものも南ア産だ。
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グレープフルーツもそうだがオレンジも南ア産はフロリダ産に及ばない。なぜ米国産を見かけなくなってしまったのだろうか。昔は車を輸出した船が手ぶらで帰るのはもったいないので安価な運賃で西海岸からフルーツを運んで帰った、という記事を読んだことがある。輸送費が安かったこともあるだろうが、最近は米国でも値上がりが激しいので日本が買い負けているのだろう。下図を見ると米国でもこの3年で約4倍になっている。
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為替レートも影響しているに違いない。2011年当時110円前後だった為替は今年は150円前後。去年398円だったものが598円になってもおかしくはない。輸入フルーツも国産の梨やリンゴもこんなに値上がりするのなら(国産品は猛暑と台風のせいで今年だけのことだと思いたい)、消費者は安い果物にシフトするか購入回数を減らすしか選択肢は残っていない。

農水省は「毎日くだもの200グラム運動」を提唱しているし、厚労省は令和14年度の果物摂取の目標値を200グラムと設定している。これはフルーツの摂取量が下がっているので農家保護のため国が動いているのだと思われる。ある調査でも果物の購入頻度は「ほとんど買わない」が1位で「週に1~2回」が2位となっている。この高値が続けば野菜より必需性の低い果物の購入頻度はさらに下がり、価格は上昇し買わなくなるという負のスパイラルに入り、我が家の朝食メニューに影響が出るかもしれない。

野菜や果物の価格が予想以上に高騰している。主婦はやりくりに四苦八苦し、生産者も異常ともいえる気候の変動に振り回される、とどのテレビ局も報じている。たしか同じようなことが一年前にも起きていた。
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我が家の家計簿をチェックすると、毎月の5~8万円の食費(飲料、酒、外食除き)のうち最大の支出は野菜でコンスタントに1万円を超えている。それに続くのは菓子、総菜・調味料、果物、肉、魚、パン、乳製品、コメなどである。ちなみに先月9月の食費は対前年比で+15.1%、野菜の購入費は同+48.6%だった。私は単なる野菜好きで菜食主義者ではないが野菜だけでこの上昇は年金生活者の家計へのインパクトが大きい。

今日もスーパーの野菜売り場で考え込んだ。葉物野菜が高い。いつも150円から198円くらいのホウレン草が398円だ。大晦日でも298円だったのに、この値段では主婦は素通りする。100円台で買える小松菜に流れる。隣にあるはずのセロリが今日は見当たらない。あまりに高くなって売れなくなり、傷むくらいなら仕入れないという選択をしたように思われる。セロリは意外と傷むものだ。私も小松菜にした。
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野菜価格の乱高下が続くので、大雨が降ると数日後に葉物野菜や根菜類が高騰すること、台風の後では露地野菜の値段が上がり、酷暑が続くと葉物野菜やトマト、ピーマンなどが高値になることは体験上憶えてしまった。生産者も大変であることは理解している。暑い日が続くと落花したり発芽しなかったりで生産量が減るし形の悪いものが増える。台風が来れば野菜だけでなくコメや果物にも大きな影響が出る。風や雨だけでなく最近は停滞する台風が多く日照時間が減るために生育不良を招く。台風のために年に一度の収穫がなくなることは親戚が果樹園をやっていたのでよく聞いた。その年の収入がなくなるのだ。生産量が落ちれば需給のバランスで価格が上がるのは市場の原理である。

農家の苦労も分かるのだが、年金生活の後期高齢者は自分の生活も守らねばならない。何件ものスーパーを廻る元気はないので、棚の前で値札を睨み、頭の中で数少ないレパートリーから今晩のメニューを考える。クリエイティブな作業といえばそうなのかもしれない。昨日までは涼しくて秋到来と思ったら、また暑さがぶり返した。しばらくはメニュー選び苦労しそうだ。
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最近はウェザーニュースが野菜価格の予報までするようになっている。そんなことより最近外れることが多い天気予報の精度を上げる方が大事なんじゃないの?

結婚した当時住んでいたマンションの水はおいしくなかった。コーヒーや日本茶をおいしく飲もうと小瓶入りのミネラルウォーターを贅沢だと思いながら買っていた。1瓶500ccが50円位で、たしかサントリー製だった。バーで水割りを頼むとバーテンダーが運んでくるあの水だ。バーではいつも栓が空いたまま持ってくるので中身は水道水ではないかと疑っていた。

当時売られていた水は業務用製品だけで、用途は水割り用か乳児の粉ミルク用だった。ミネラルウォーターという名前もなかった。その数年前イザヤ・ベンダサンが「日本人とユダヤ人」の中で、「日本人は水と平和はタダで手に入ると思っている」と書いて衝撃を与えた。たしかに平和ボケの時代だったが、自衛隊や在日米軍のコストが税金で賄われていることくらいは皆知っていたので平和はタダとは思わなかったが、水はタダではないという感覚はなかった。状況は今でも変わらないが、喫茶店や蕎麦屋、レストランに入るると黙っていてもどこでもお茶または水が出てくるのは日本だけだ。それもタダで。

だから1982年に1リットル以上のPETボトルが清涼飲料用に認められ翌年ハウス食品から「六甲のおいしい水」が発売された時は、高品質の水が蛇口をひねれば出てくる国で誰が金を払って水を買うのかと思った。60年代に発売された缶コーヒーは徐々に浸透しつつあったが、80年代に市場に出たポッカの缶入りほうじ茶や伊藤園の缶入り煎茶は苦戦を強いられた。まだ「お茶はタダ」の時代だったのだ。しかし主力の茶葉事業が縮小している製茶メーカーの伊藤園は簡単に諦めるわけにはいかない。89年に「缶入り煎茶」を「お~いお茶」と名前を変え、ルートセールスの強みを生かして弁当と一緒に売る戦法で扱い店舗を増やし、売り上げを前年の3倍である40億円まで伸ばした。
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伊藤園が次に手掛けたのがペットボトルの緑茶飲料だ。缶と異なりリキャップできるメリットは大きい。しかし缶では気にならなかった沈殿物の存在は中身が見えるPETでは致命的だ。苦心の末茶殻をろ過する特許フィルターを開発し、1990年に1.5リットルの「お~いお茶」を発売した。その後飲料業界には追い風が吹き始める。90年代に入るとマンションの貯水タンクの水質問題が起き、安全な飲料への関心が高まった。96年にはそれまでゴミ散乱の懸念で禁止されていた1リットル未満のPET清涼飲料がリサイクル体制の確立で許可されるようになった。その頃私は飲料業界にいたが容器が足りず各社で500ミリPETボトルの争奪戦だった。そして2011年の東日本大震災。これ以降ミネラルウォーターをはじめとする飲料を災害時の飲料として備蓄する家庭が急増した。わが家にも6ケースのローリングストックが常時ある。
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伸び続ける緑茶市場にはキリン生茶(2000年)、サントリー伊右衛門(2004年)、コカ・コーラ綾鷹(2012年)と飲料大手が参入し緑茶戦争の様相を呈した。これらに対応するために伊藤園は2000年には他社に先駆けてホット対応のペットボトルの開発・販売をし10万店の販売店に専用ウォーマーを無償で提供した。2001年からは九州中心にお~いお茶専用畑を契約農家と作って原材料の調達を確保し、2004年には「お~いお茶濃い味」の発売、2012年以降はシンガポール、タイ、中国、ハワイに子会社を設立するなどトップブランドを守る施策を立て続けにとってきた。また2011年には大塚食品と、2019年にはアサヒ飲料と自販機の製品相互販売契約を結んでいる。大手と比べて少ない自販機経由の販売を強化するためだ。

経営としては自社農園も自社工場も持たないファブレス経営で開発力、機動力と提携先との協力関係がビジネスドライバーとなっている。ちなみに茶系飲料は金額ではコーヒー飲料の後塵を拝しているが、生産量では圧倒的一位で伊藤園はトップシェアを維持し続けている。

9月半ばになっても毎日暑い。人に会うたびに「いつまでも暑いですね」と挨拶し、老人たちは「この季節でこの暑さは体にこたえる」と返す。私の部屋は南西向きなので朝から夕方まで日差しが入り、毎日エアコンをつけっぱなしにしないと生きていけそうにない。昨夏も史上最高の暑さだったが、今年もほぼ同じ平均気温だった。
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窓には半透明フィルムを貼り、レースと遮光カーテンを使っているのだがそれでも暑い。エアコンを使わないと朝起きた時の室内温度が33度の時もあった。シーツと枕と掛布団は汗まみれ。マンションは密閉性と保温性に優れているとはいえ暑すぎる。YKKのデータによると夏の暑さの74%は窓から流入するのだという。冬の熱流出の50%も窓からだという。わが家でも夏暑く冬寒いので二重ガラス窓にしようかとか、内窓を設置しようかとか考えたがコストや見ばえを考えてまだ決断に至っていない。
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現在住んでいるマンションも築31年目に入り窓に関するクレームも多い。窓の密閉性が劣化してすき間風が入る、サッシの遮音性が悪い、強風時にガタガタ鳴る、サッシのゴムパッキンの劣化がひどい、などなど。現在来年の大規模修繕に向けて修繕案の策定中だが、サッシの修繕は一窓20万円位、交換となると40万円位がかかり400戸を超えるマンションではとんでもない金額となる。たぶん次の大規模修繕まで申し送りになるのだろう。

そもそも断熱性に問題があるとされるアルミサッシを日本ではなぜ使い続けているのだろう。かつてカナダ勤務の時数軒のマンションで暮らしたがアルミサッシは一つもなかった。ハンドルを廻して窓を外に押し出したり、観音開きの窓ばかりでフレームも鋳物か木製のものがほとんどだった。アメリカやヨーロッパでも同様だった。最近では樹脂サッシ窓が中心で冬の寒さの厳しいイギリスやドイツ、韓国やアメリカでは新築の窓の3分の2以上が樹脂窓で、韓国では8割を占めている。アメリカでは半分の州でアルミサッシが禁止されている。アルミは樹脂の1400倍の熱を通してしまうとも言われている。日本でも北海道などでは樹脂窓の普及率が高いということは断熱性が評価されているということだ。私は国内で15回引っ越しを経験し、そのうちの10回はマンション暮らしだったが、10軒のマンションはすべてアルミサッシだった。
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(町田昌弘氏の写真集より)
なぜこんなことになったのか。アルミサッシは3社の寡占状態で、加工もしやすく利益率のすこぶる高い製品だ。住宅ブームの時に各メーカーはアルミサッシの安価なことと耐久性を武器に住宅メーカーに働きかけ、ユーザーは窓のことなど気にせずに家やマンションを購入したということだ。住んでみると夏はアルミサッシは日差しを受けて熱くなり、冬は結露を招いてカビの発生を起こす。気づいた時は既に遅くマンションでは窓は共用部なので自分で取り替えることすらできない。おまけに夏の冷房代、冬の暖房費は跳ね上がる。樹脂窓と比べると室温が夏で2度高く、冬で4度低くなることが報告されている。ここを是正するだけどCO2の発生をかなり抑えられると思うのだが。

日本人は長い間自然に近いところで暮らし、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。」という徒然草の精神が少しは残っているのかもしれない。密閉性を嫌い、開放性を好むのは現在の都会生活では快適とは呼べない。硬質塩化ビニールの樹脂窓の普及と、遮音性と密封性で劣る引き戸でなく開き戸の普及を住宅メーカーと窓メーカーは真剣に考える時期に来ている。

毎年9月26日が近づくと伊勢湾台風を思い出す。昭和34年の15号台風。当時は名古屋市南区に住んでいて小学6年生だった。大型台風が来るというので窓が割れないように前日に自分の部屋の出窓に外から板を何枚も打ち付けた。強風で瓦が飛び窓に当たって割れると、そこから風が入り出口を求めて屋根を破って突き抜けるのが最大の被害だからだ。父親は勤めていた大同製鋼の名古屋港に面している築地工場に台風対策で泊まり込んでいて不在だった。
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夕方に史上最大の勢力で紀伊半島に上陸した15号台風は勢力を保ったまま速度を上げ、愛知県の北方を通過しようとしていた。台風は進路の右側のほうが風が強く危険と言われているうえに、この台風は中心気圧の低さだけでなく直径700キロという暴風域の広さと風速の強さが特徴だった。名古屋は台風に襲われることが多く、以前山崎川近くに住んでいた時には父親におぶわれて工場に何度も家族で避難したことがある。

当日はその父親がいない。マイペースの母親は停電になるかもしれないからと暴風域に入ったのに深夜に入浴を始めた。家の周りは風の音が鳴り響き、建物が揺れている。板は打ってあるものの窓ガラスが内側にしなって今にも割れるように思われた。必至で両手で窓ガラスを押さえ続けた。危険この上ない行為だったがこれしかその時は思いつかなかった。2~3時間押さえていたと思う。

翌朝外に出ると家の塀はすべて倒れ、庭の柳の木は折れ、納屋は飛ばされて前の道に倒れ収めてあった書物やSPレコードが散乱していた。天白川のほうに歩いていくと何軒もの家の屋根に大きな穴が開いていた。担任の山田先生の家もやられていた。いつも乗る鯛取通りのバス停は30センチほど水に浸かっていてバスは通れそうもなかった。小学校は3日間臨時休校となった。
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父親が帰ってきて惨状が明らかになった。高潮と重なって台風15号による浸水がひどく港区、中川区、南区や市の西側のゼロメートル地域は何日も水が引かなかった。わが家の2キロほど近くまで水が来ていた。堤防は崩れ2階まで水が来た地域も多く、市内でも相当数の死者が出た。流れている死体や戸板に乗ったまま流されている老婆、養殖場から流れた鯉や金魚も多く見たと父親は言っていた。名古屋港には貯木場が多く、高潮で海水と共に「暴走木材」と呼ばれた材木が大量に市街地に流れ込み住宅を破壊したことが被害を大きくした。最終的には死者・不明者数は全国で5098人となった。
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その夜我が家には奥さんを台風で亡くした父親の会社の部下の人が泊った。泥だらけだったので母親はなんども風呂のお湯を取り替えていた。次の日は家を流された知り合いの夫婦が寄宿した。飼っていた犬を助けられなかった無念さを一晩中語っていた。3日目からは違う一家が泊りに来た。同じ年頃の男の子がいたので少し遊んだ。あれだけの人が来て、ちいさな氷の冷蔵庫しかなく、商店は開いていなかったはずなのに母親はどうやって食事を作ったのだろうか、記憶にない。3日目位に支援食が届けられ生まれて初めてカンパンというものを食べた。白金カイロくらいの大きさでぼそぼそしていておいしいとは思えなかった。

あれから65年が経った。台風が接近するたびに、伊勢湾台風よりひどい台風は来ないだろうと楽観していたが、今住んでいるところは横浜港まで500メートルくらいの川沿いの埋め立て地だ。地球温暖化で海水温度が上がり続け、65年前と同様なスーパー台風が上陸すると、河川は氾濫し、電力は喪失し、地盤も場所によっては崩落するかもしれない。9月26日を前にして、そんなことを考えながら備忘のために書き留めました。

前回チェルシー、サイコロキャラメルとカールの販売中止(カールは販売地域限定)と復刻版発売について書いたが、昔働いていたガム業界にも復刻版があるので書き残しておこう。

チューインガムは他のカテゴリーに比べると製品の数が少ない。製造メーカーが少ないのと輸入品がほぼ無いことがその理由だ。日本チューインガム協会には20数社が参加していると記憶していたが、今調べたら16社に減っていた。戦後には200社がひしめいていたのだが。当然新製品の数も多くはなく、ロングセラー製品や一時代を築き上げたヒット商品が多い。ロングセラー商品としてはグリーンガム、クールミント、クロレッツ、キシリトールガムや子供向け商品のマルカワのオレンジガムやフィリックスガムなどがある。今は市場から消えてしまったがトライデント、キスミント、フラボノなども一時期市場をリードした。定期的にブームがやってくるフーセンガム市場ではプレイガムのコーラ味のように爆発的に売れて品切れを起こす製品も登場した。

ガムという製品は基本的にはガムベースに甘味料と香料などを加えるだけなので製品のバリエーションに乏しい。子供製品はおまけをつけた玩菓と呼ばれるカテゴリーもあるが、大人向けではユニークなフレーバーや剤型で差をつけるしかない。形状としては板ガム、糖衣ガム、ブロックガムが中心で、かつては粉状のガムやシュレッダー状のガムやキャンディガムも存在した。フレーバーは流行りがあるので数年で廃れてしまうことがある。何年か前にロッテが発売した復刻ガムはその種の製品だった。
2024-09-10
一番古いのはコーヒーガムで次がリグレーをコピーしたジューシィフレッシュだが、梅とブルーベリーも根強いファンを持っていて80年代にはどちらもトップ10にランクインしていた。特にブルーベリーのデビューは鮮烈で、山手線の車内で一人が噛んでいると車両全体にあの臭いが蔓延するくらいだった。ベリー系商品のはしりで私も担当していたキャンディにラズベリー味を追加した。

先月ロッテはイブという香水ガムとクイッククエンチガムの再販売を始めた。1978年発売のクイッククエンチは2年前に続く再復刻だ。イブは1972年の発売だが、ロッテはその前からピンクミントという香水ガムを持っていた。香水ガムは大きなセグメントにはなりそうにないと思ったが、その後もローラ、ロブ、ドナと製品ラインを強化した。どうも重光社長が号令を出したらしい。
2024-09-08
こうした復刻製品が続くということは昔それらの製品を愛用していた世代にはなつかしいし、知らない世代にとってはレトロ感あふれる製品で新鮮に映るのだろう。縮小一本槍だったガム市場が昨年から持ち直していることも背景としてはあるのかもしれない。ただ穿った見方をすれば他の菓子類より新製品開発の余地が少ないガム市場でマーケティングと開発の手詰まり感が見える。砂糖入りガムからシュガレスガムへ、板ガムから糖衣ガムに移行した市場で若いユーザーに一度板ガムの良さを知ってもらいたいとか、新奇素材やフレーバーが見当たらないのでかつてのヒット商品で一時しのぎをしようとしているようにも思われる。こういう時こそ企画や開発の腕の見せ所なんだけどね。
Dentyne
個人的に復刻版を出してもらいたいと思う廃版製品は、当時一番アメリカのガムという雰囲気を持っていたデンティーンガム、それもシナモン味ですね。ちょっと硬くてニッキの味と香りがが強かった。それとあのパッケージ。懐かしいね。

つい半年前に販売中止を発表した明治のチェルシーが9月3日に北海道限定の土産用商品として復活したというニュースにびっくりした。北海道産の素材を使ったり食感を柔らかくするなどの変更点はあるようだが、半年前に「終売は残念だ」とブログを書いたばかりなので騙されたような気分だ。2024-09-08 (7)
しかしよく考えれば明治という会社はこういうことをする会社なのだ。2017年に50年の歴史を持つカールの東日本での販売を中止し、関西以西だけに商圏を縮小した。10億売れればヒットと言われる業界で、当時60億の売りがあった製品を関東以北だけとはいえ発売を辞めるというのは普通では考えられない。
2024-09-08 (4)
それだけではなくかつて販売中止にされたカールうすあじ、カレーがけの2種を2001年に復刻版として販売し、その後も廃版となったピザあじ、バターしょうゆ味、いそあげを再販売している。うすあじなどは3度も復刻された。それ以前にも2016年に90年の歴史を持つサイコロキャラメルを終売にした数か月後に北海道サイコロキャラメルとして北海道限定で販売を始めた。諦めが良い会社なのだか未練がましい会社なのだかよく分からない。
2024-09-08 (2)
だから半年前チェルシーの販売中止が発表された時に復刻がありうるのではと疑われ、広報担当は「販売終了は長い時間をかけた苦渋の決断であり、弊社としては今後も新たな価値ある商品を提供していきたい」と答えたのに、今日ニュースを読んで「またか」と思った。

しかし商売としてはおいしいのかもしれない。日本人は限定版に弱いし、お土産だと価格に鈍感になる。かつて100円で売られていたサイコロキャラメルは北海道で248円で売られているし、チェルシーは21粒入りで864円、カールは10袋単位ではあるがネットで200円強で販売されている。先日はカールの工場がある松山市がふるさと納税の返礼品にカールを加えたら、東日本からの申し込みが殺到し、予定数はすぐに捌け、再度再々度の追加もすぐに無くなったとの記事があった。こういうことをもし予測して終売にしたり復刻版を出しているとしたら明治という会社はたいしたものだと思うが。ま、そんなことはあるまいて。

7月の家計調査によると、2人以上世帯の実質消費支出は対前年比で+0.1%と3カ月ぶりのプラスだった。勤労者世帯は今春の賃上げで+5.5%の収入増のはずだから、思ったほど支出は増えてはいない。いろんなものの値段が上がっているから節約志向になることは理解できる。
2024-09-06
日経の記事によると、オリンピックがあったせいでテレビ購入費が+74%、パソコンが+44%、国内パック旅行が+47%と好調だったが、消費支出の3割を占める食料が-1.7%と減少した。牛肉や豚肉の消費が減り、値ごろ感のある鶏肉へのシフトなどが見られるという。これだけ物価が上がると賃上げ分は消えると考えた消費者が節約して将来のために貯蓄に走ったとしてもおかしくない。これでは賃上げで消費を拡大し、企業業績が上がって景気が良くなるという政府のシナリオに狂いが出る。

私は専業主夫なのでモノの値段は大体分かる。最近の食料品の値上がりは常軌を逸している。このひと月に買った生鮮食品以外で前回買った時と比べて値上がりしたものトップ5。
オリーブオイル(Jオイル250g)268円から437円 +63%
米(生協のつや姫5キロ)2538円から3218円 +27%
素麺(揖保乃糸300g)300円から367円 +22%
ボンカレー(レトルト)124円から147円 +19%
明治ミルクチョコレート 105円から122円 +16%

生鮮品も上がっているので、賃金が5.5%上がっても追いつかない。節約しなきゃ、と思うのが普通だ。高齢者の年金も2.8%上がったが、介護保険料、後期高齢者保険料、固定資産税も上がったので実質マイナスだ。節約するか働き続けるかの二択だ。65歳から74歳までの日本人の51.8%が働いていて、これはG7の国の中で最も高い。働き続けることは生きがいにもなるし、経験が人の役にも立つし、健康にも良い。しかし内閣府の調査では65歳以上の8割強が家計が苦しいと答えているので、年金では暮らせないので働かざるを得ないという実情が透けて見える。
2024-09-07
お金に働いてもらう(投資)という手もあるが、最近の株価と為替の激動を見ていると判断力の鈍りつつある高齢者は避けたほうが賢明かもしれない。結局節約しか残された手段はない。ただ節約ばかりしていると残された少ない年月が楽しくなくなる。必要なもの以外のモノは買わないが、せめて毎日食べるものと親しい友人たちとのゴルフだけはなんとか継続したい。

記憶に残っているテレビ番組(9)

子供のころから音楽は洋楽が好きだった。当時はラジオでしか聞くことができなかったが、1959年にフジテレビで「ザ・ヒットパレード」が始まった。アメリカで流行している曲を日本語に訳して日本人が歌うという番組だった。司会ははミッキー・カーチスでバックはスマイリー小原とスカイライナーズ。ザ・ピーナッツやナベプロ三人娘などが出演する渡辺プロダクション主導のテレビ初のヒットパレード番組だった。ナベプロが力を見せつけテレビ界を牛耳り始めた番組でもあった。
2024-09-03 (1)
その渡辺プロダクションの前に業界をリードしていたのはマナセプロダクションだ。日本最古のプロダクションで曲直瀬正雄と花子の夫婦が1948年に仙台で起業した。のちにアメリカで活躍するジャズ歌手のナンシー梅木を育て、水原弘や山下敬二郎などを擁していた。その後坂本九、森山加代子、ジェリー藤尾、渡辺トモ子、ダニー飯田とパラダイスキング、九重佑三子らの人気ポップス歌手を抱える最大のプロダクションになった。

ザ・ヒットパレードの後にも「森永スパークショー」など多くの番組を制作していた渡辺プロダクションほどの派手さはなかったが、「明治屋マイマイショー」や「ピアスナインショー」などでマナセプロ所属の歌手たちの活躍の場は多かった。ナベプロとは異なりテレビだけでなく地方でのコンサートも数多く開き、高校生の時に名古屋公会堂で坂本九、森山加代子、パラキン、九重佑三子などのステージを直に見ることができた。
2024-09-03
当時は単独提供番組が多く、番組名の前にスポンサー名が付いた。マイマイショーもオープニングから「明治屋 明治屋 食べ物なら何でも 明治屋 明治屋 飲み物なら何でも」のジングルで始まり、「いつでも一番いいものは 明治屋」で終わった。スタジオにはカウンターがあり番組名の元になっていたマイジュース、マイジャム、マイレモンなどが並んでいたと思う。司会は坂本九で歌有りコント有りの30分番組で2年弱続いた。

こう書くと渡辺プロダクションとマナセプロダクションは競合のようだが、曲直瀬正雄・花子夫妻の長女である美佐がジャズマンの渡辺晋と結婚し設立したのが渡辺プロダクションなのである。松下幸之助の義弟である井植歳男が三洋電機を興したのに何となく似ている。ナベプロの現在の会長と社長は渡辺美佐の長女と次女が務め、マナセプロの社長は美佐の妹である曲直瀬道枝であり、道枝の長男が同業のYU-Mエンターテインメントの代表を務めている。まるでファミリービジネスのようだ。

ナベプロには多くの批判もあったが、両プロダクションが戦後日本の芸能人の地位向上と待遇改善に貢献したことは間違いない。最近は新興勢力に押されて昔日の面影はないがナベプロはまだ多くのタレント、歌手、芸人を抱えて影響力を保持している。一方マナセプロは移籍や独立したタレントが多く、タレントリストで顔と名前が想起できたのは西田ひかるただ一人だった。

子供のころから広告が好きだった(38)

たいていの消費財商品は使用者が自分で購入することが多い。しかし亭主に頼まれて下着やカミソリの替え刃を主婦が買うとか、おじいちゃんの入歯洗浄剤を頼まれるということもあるだろう。この使用者と購入者が一致しない最大の製品群は子供が食べたり使ったりする商品だ。子供の服や文房具などはその典型であるが、子供が食べる食品・菓子類や飲料もその種の製品だ。

子供が母親に買ってくれとねだる場合もあれば、母親が子供のために買い与える製品もある。支払いをするのは母親なので企業は母親をターゲットとする。両者が満足する商品ならば問題ないが、そんな商品は多くはない。今日もスーパーで子供がアンパンマンアイスだかガリガリ君だかを買ってくれとねだり、母親が駄目と言っているのを見た。昔はコーラが飲みたいのに「骨が溶けるよ」と訳の分からぬ理由でノーと言われた子供が多かった。

そんななかで子供と母親の両方をうまく説得した広告の一つがかっぱえびせんではなかろうか。
2024-08-30 (1)
やめられない とまらない かっぱえびせん。このCMソングは60年近く流されている。アメリカには「この世で最も勇気のある者はピーナッツを一粒食べてそこで止められる男だ」という格言があるが、エビ好きの日本人はかっぱえびせんもひとつでは止められない。かっぱえびせんは製品と広告の秀逸さであっという間にスナック菓子のトップブランドになり、カルビーの名を知らせしめ、その後のサッポロポテト、ポテトチップス、じゃがりこなどの同社製品開発・発売の財政基盤を作った。同時にかっぱえびせんは日本を代表するロングセラー菓子となった。

ただおいしいだけの菓子ではない。当時の菓子はせんべいやあられ以外は甘いものばかりだった。すこし塩味の効いたエビの風味の軽いスナック。養殖魚のエサにしか使われていなかった小エビを丸ごと使っているので子供の成長に必要なカルシウムに富む。それを直接的に訴求するのでなく、CMソングを「かしこい母さん かっぱえびせん」で締めることで子供のために製品を選択した母親の心をくすぐった。かしこい母さん かっぱえびせん。うまい表現だった。栄養価の高い未利用資源の有効活用を社是とするカルビーの面目躍如だ。

そう思うのは昔の経験から来ている。日本人に恒常的に不足している栄養素はカルシウムだけだったので、カルシウム含有の子供向けの菓子を作って販売したことがある。ターゲットを子供だけにしたことが間違いだった。子供はカルシウムの必要性なんか気にしない。母親を巻き込むべきだったのだ。
その前にはシュガレスガムを「これならママもOKさ」というキャッチコピーで広告を打っていた。製品としては成功した部類だったが、今思うと子供はもっと甘くて量のある砂糖入りのガムを噛みたかっただろうし、母親はシュガレスでもガムは噛ませたくなかったのではなかろうか。違う表現があってもしかるべきだった。

カルシウムにしろシュガレスガムの例にしろとかく外資は頭でっかちになりがちで、コンセプトだけで物が売れると考えるのが弱みかもしれない。マーケティングの教科書に「コンセプトで牛を川辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」とあった。C(コンセプト)+P(プロダクトパフォーマンス)のバランスが大事なのだ。それと、この国では機能的ベネフィットだけではなく情緒的ベネフィットも付加すべきだった、というのが40年経ったあとの反省だ。遅すぎる。

子供のころから広告が好きだった(37)

たった一本のテレビCMが製品だけでなく会社の業績を大きく変えることがある。無名の会社が突然有名になったり、地方の会社が一夜で全国区になったりする。広告の麻薬的な効果である。その確率はとんでもなく低いが。

まず思いつくのが「禁煙パイポ」だ。マルマンの系列会社だったアルマンが、製品がまったく売れず最後の賭けで銀行から借金をしてテレビ広告を制作した。当たらなければ倒産必至で、出演タレントも交通費と弁当だけが支給されたとのことだ。普通に何本かを撮影したあと、市川準監督は製作費がないということはオンエア量も少ないと判断し印象に残るカットを最後に収めた。それが小指を立てて「わたしはこれで会社を辞めました」の台詞だった。この広告で禁煙パイポは一気に有名になり7億円の売り上げは40億円まで跳ね上がった。一本のCMが会社を救った例だ。
2024-08-27 (2)
地方のメーカーが広告でナショナルブランドになることもある。味噌という商品はもともと地場産業で地域の大豆や米などで作られ、もっぱら地元中心に流通していた。私は名古屋生まれだが、地元の赤みそや八丁味噌で育った。イチビキ、サンビシ、マルサンなどのメーカーが有名だったが、関東に出てきた時にそれらのメーカーの赤だし味噌が売られていなくてびっくりした。いまではコンビニやスーパーに一つか二つは置いてある。

地場の味噌メーカーで最初に全国展開したのはマルコメだ。各地に販売会社を設立したり自立式容器ドイパックの導入もあったが、少年を坊主にしてのマルコメ坊やのCMの力も絶大だった。「マルコメ、マルコメ、マルコ~メ味噌」のジングルが耳に焼き付いている。1977年からマルコメ君のCMを放映しはじめ、翌78年には全国トップの味噌メーカーに上り詰めた。その後も日本初のだし入りの「だし入り味噌 料亭の味」などのヒット製品を出してその地位を確保している。
2024-08-27 (3)
全国的な広告を打つ会社がなかったこともマルコメには幸いしたが、それを追いかけた同じ長野県の味噌メーカーであるハナマルキはもっと大変だったと思われる。マルコメが日本一になった6年後、社名をハナマルキに変え、生産設備を更新し、テレビ広告を大量投入し始めた。タレントには当時は駆け出しのモデルだった今井美樹を使って「一日一杯のハナマルキで 大人になりました」「味噌は天才」とマルコメの少年と差別化する方向をとった。その後は現在も使われている「おみそな~ら ハナマルキ」のジングルを採用し知名度のアップを狙った。
2024-08-27
そのかいあってハナマルキはナンバー2の味噌メーカーとなった。3位にも長野県のひかり味噌が入り、味噌市場上位は長野勢の独占である。

今井美樹もこのCM以降ドラマ出演が増え1986年には歌手デビューもしている 。彼女はかつてハナマルキのCMがデビュー作だと時々話していたが、その前に彼女はクロレッツの最初のCMに出演している。WL社の受付嬢の役で、当時これはというタレントがいなかったが広告代理店がいいモデルがいますということで出演してもらった。背の高い笑うと口の大きい女性、というのが第一印象だった。山梨県でのテスト販売時にオンエアしたが全国展開の時は同時に撮ったコミカルな方を一本を流したので今井バージョンはほとんど人目には触れなかった。そのCMは思ったほど当たらず、次に半ばヤケで制作した岡本麗の「いかがでしょう~か」の物売りCMがヒットしてクロレッツは離陸できた。予想外だった。事程左様に広告というのは先が読めないものなのだ。

子供のころから広告が好きだった(36)

バブル期とは1986年12月から1991年2月までの4年強の期間に起きた好景気、資産の過度の高騰、よく言えば経済の拡大期とされる。今思うと狂っていた時代とも考えられるし、人によってはもう一度戻りたい懐かしの時代でもある。私にとっては40歳前後の働き盛りで仕事は面白く、会社の業績も5年で2倍に成長した時代だった。

現在の落ち目の日本からは想像もできないが、その象徴が企業の時価総額ランキングだろう。
2024-08-20
上位20社中なんと日本企業が13社と過半数を占める。かつトップ5は全部日本の会社だ。この間の為替レートはそれ以前よりは強かったが121円から159円のレンジだったので、円が強くてドル換算の恩恵で膨らんだわけでもない。そのころ読んだE.ボーゲルの「ジャパン アズ ナンバーワン」やR.クリストファーの「日本で勝てれば世界で勝てる」の時代が来たと本気で考えていた。

そんな時代の空気は当然広告にも影響する。まず思い出されるのがリゲインの「24時間戦えますか」シリーズだ。サラリーマンに扮した時任三郎が世界中を駆け回りながら「24時間戦えますか」と唄いながら働き倒すというCMだ。ジャパンマネーが世界を席巻していた時代だったし、企業戦士という言葉も定着した。今思えばブラックの最たるものだが当時は人気のCMで流行語となった。
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ただこうした熱血広告一辺倒ではなく、経済成長の恩恵を受けて余裕も生まれてきた時代でもあったのでゆとりのある広告も存在した。リゲインの対極を行くグロンサンは高田純次の「5時から男」で終業後の充実を訴求したし、バブル真っ最中の87年に流されたコカ・コーラのCMは高揚感や将来への希望が見えるあの時代の雰囲気を良く表していると思う。
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金余りの時代でもあったので広告主はギャラにこだわらずに外国タレントを多用した時期でもあった。毎日のようにCMでシュワルツェネッガー、マイケル・J・フォックス、マドンナ、マイケル・ジャクソン、マライア・キャリー、ジーン・ハックマン、ハリソン・フォード、グレグ・ノーマン、トム・ハンクス、ショーン・コネリーなどの顔を見ることができた。本国では決して出演を受けないであろう車、煙草やアルコール飲料の広告の仕事も日本だけでのオンエア契約と高額ギャラで押し切ったような感じだった。
2024-08-20 (5)
上記はダイアン・レインの宝石店の広告だが、この時期の深夜帯はこの手の広告ばかりだった。カメリアダイアモンドを販売していたじょわいゆ・くちゅーるマキや武富士、ハウスのCMが5分に一回は流れていた。いわゆる「青天井」と呼ばれる販売方法で、空いている時間にお任せで挿入CMをすることにより、TV局は売りにくい深夜ゾーンのスポット広告枠が捌け、広告主はリーチは限定されるものの安価にスポットが購入できるというメリットがあった。いまではこんな予算を無視するような販売方式はないんだろうなあ。

ともあれ、そんな時代だったのです、バブル期は。
注:時価増額ランキングの東洋銀行は東海銀行だとおもいます

子供のころから広告が好きだった(35)

1964年の東京オリンピックの頃だった。まだ我が家のテレビは白黒だった。軽快なリズムに乗ってアニメーションの広告が流れてきた。当時のアニメーションCMといえばカッパの黄桜CMかクリクリ三角のヴィックスかアンクルトリスくらいだったが、それらとは全くテイストが異なるCMだった。それに唄っているのが当時の世界的ヒット「アイドルを探せ」を出したばかりのシルヴィ・ヴァルタンだった。
2024-08-12 (3)
ドライブウエイに春がくりゃ イエイエイエイエイエ~イ イエイエイエ
プールサイドに夏がくりゃ イエイエイエイエイエ~イ イエイエイエ
C'est bien  (セ ビヤ~ン)
レ~ナウン レナウン レナウン レナウン娘が
お洒落でシックなレナウン娘が ワンサカサッサ ワンサカサッサ
イエイエイエイエイエ~イ イエイエイエ
2024-08-12 (1)
あのハスキーな声で人気の美人シンガーがイエイエイエとかワンサカサッサと唄うのだから記憶に残るのが当然のCMだった。作詞作曲は当時は無名だった小林亜星。あの頃外国の歌手や俳優をCMで使うということは殆どなかったから余計に目立った。当時のレナウンは若い女性向けのウェアしかなかったと思うが、若い男性やおじさんの間にもレナウンの名前は浸透した。

その後もイエイエのCMシリーズがヒットし、投入したアーノルドパーマーブランドや紳士服のダーバン、アクアスキュータムの買収などで製品群を拡げ一時は世界最大のアパレルメーカーとなった。私も学生時代はJUNの服を着ていたが、サラリーマンになってからはアウトレットでアランドロンが宣伝するダーバンのスーツを買い、ゴルフを始めてからはアーノルドパーマーのウェアを着るようになった。

しかしバブル期の大規模投資が裏目に出て採算が悪化すると同時に急成長するファストファッションに市場を奪われるようになり、百貨店をメインの販路としていたレナウンはバブル崩壊後に経営難に陥る。2010年には中国企業の傘下に入ったが事業は好転せず、その10年後には民事再生法を申請し、今年の8月に破産手続きが完了し122年続いた歴史に幕が下ろされてしまった。

子供のころから広告が好きだった(34)

東芝がCO2削減のために白熱電球の製造を終了してから10年以上が経つ。電球は会社発祥事業の一つであり120年間作り続けてきた看板製品だった。わが家もほとんど使わないふたつのダウンライト以外は全部LED電球に変わった。電気代は激減したが時々あの温かみのある光りが懐かしくなることがある。

子供のころ我が家の電球は東芝製だった。乳白色電球と透明電球が混在していた。蛍光灯などというものは高価でまだ一般的ではなかった。ただ当時の電球はよく切れて、そのたびに電気屋に買いに行かされた。あの頃の電気屋はメーカーによって系列化され、ナショナル、東芝、日立、サンヨーなどそのメーカーの製品しか置いてなかった。60Wの電球は65円か70円だった。
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東芝は電球では我が国最古参で市場のリーダーでもあった。ちなみに蛍光灯も東芝が日本で最初に開発し発売した。家電製品ではナショナル、日立と並ぶ大手で大広告主でもあり、当時単独提供していた東芝日曜劇場(TBS)や東芝土曜劇場(CX)をはじめ数多くの提供番組を持っていた。それらの番組の冒頭にいつも流れるCMソングがあった。

街のランプがお花になった マツダランプだ明るく咲いた
とんとん東芝遠太鼓 たのしいお祭りもう近い

藤山一郎が朗々と歌う「マツダランプの唄」で当時のCMソングとは少し異なるトーンだった。私もこの広告は憶えていたが、なぜ東芝なのにマツダランプなのだろうと思っていた。後年マツダは二神教で知られるゾロアスター教の光の神であるマツダから来ていると知った。商標そのものは米国のGEが持っていて提携企業にも使用を許可していたとのことだ。そういえば東芝の電気店にはこんな看板がかかっていた。
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そんな名門であった東芝も業績の悪化や不祥事が重なり、分社化を進めると同時にテレビはハイセンスに、洗濯機などの白物家電は美的集団に委譲されるなどして、2023年には上場停止にまで追い込まれてしまった。わが家にある東芝製品はテレビのレグザとLED電球だけになってしまったが、さっき調べたらどちらもMade in Chinaとあった。


参考までに「マツダランプの唄」は下記で聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=ZsxfP8GmaXE

だんだん老人以外はテレビを見なくなっている。博報堂発表の2024年の年代別メディア接触時間は下記のグラフのようになっている。紺色がテレビの一日当たりの視聴時間で、10代と60代では2.5倍の違いがある。かつ時系列でみると10代は2006年に2時間46分あった視聴時間が2024年には半分以下の1時間14分に激減だ。一方60代は3時間15分が18年間で3分縮んだけで3時間12分となっている。
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もうテレビは爺と婆のメディアと呼んでもいいだろう。ここ数年視聴率や広告収入が落ち目のテレビ業界は、それまでの世帯視聴率ではなく13歳から49歳までのコア視聴率を上げるべく番組作りをしてきた。それなのにコア層からも見放されテレビの前にいるのは老人ばかり。いつからこんなことになってしまったのか。

私はテレビはニュースとゴルフ番組しか見なくなったがたまには他の番組も見る。見ていていら立つのがCMの入り方だ。ここが要という直前にCMが入る。CMを見させる手法なのだろうが、私は大抵ここでチャンネルを変えるかスイッチを切る。どうせCM明けにはさっきまでの復習場面が入るのだろう。この方法が嫌われていることを制作側は気が付かないのだろうか。

自分が歳をとったせいかもしれないが最近のタレントの顔と名前が分らない。わかるのは彼らがつまらないことくらいか。昔はチャンネルを見なくともどこの局か分かった。局の特徴は消え同じような顔ばかりになった。予算の制限が強化されギャラの高い大物の出番は減り、ギャラの安い小物ばかりを大勢出すので特徴が出ないのだ。売れないタレントは数少ない機会を利用してなんとか目立とうとする。その典型的な例がワイプというものだ。バラエティ番組で多用される画面の隅の小窓に出演者の顔が映るあれである。
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これは日本のテレビだけの手法で他の国では見たことがない。1990年頃から使われ始め今では多用されている。多分制作側が「ここは泣くところだぞ」とか「はい、ここで笑って」とカンペ代わりに使ったりする感情の押し売り道具だ。当然小窓の芸人はここを先途と大きくうなずいたり、笑ったり、泣いたりとオーバーなリアクションをとる。視聴者からすると見たい画面に集中できないし、何もしていない芸人のアップの表情など見たくもない。最近は韓国のテレビがこれを真似しているらしいが、こんなものを輸出してもしょうがないんだけどね。

他にも安直なグルメ番組、金をかけない近場の旅番組、内容のないコメントしかできないコメンテイター、早く辞めてほしいMC、字幕の多さなど不満はいっぱいある。地上波だけでなくBS放送も昔の時代劇、ドラマの再放送、韓国ドラマ、通販番組ばかりだ。でも直らないだろうな。しょうがない、テレビを見ないことしか選択肢はない。老人にとってもテレビが「最も安価な暇つぶし」だった時代は終わったような気がする。







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一昨日内閣府が発表した経済財政白書に年齢別に見た世帯あたりの保有金融資産というものが載っていた。世帯主の年齢別にその世帯が保有している金融資産をグラフ化したものだ。よく見るデータは20代から70代までが多く、85歳以上までカバーするものは少ない。これを紹介した日経の見出しは「ためた老後資産、85歳過ぎても減少1割、長生きで節約志向」だった。
2024-07-30
銀行や政府が発表する金融資産額は負債は勘案されていないことが多く、ほとんどが単身世帯を含んだ全世帯データで、かつ中央値ではなく富裕層含みの平均値だ。当然のことながら一部の富裕層が数字を引き上げている。しかしこのデータでは金融資産がピークの65歳でも「老後2000万円問題」をクリアしていない。昨今では物価上昇を受けて老後4000万円問題などと書き換える記事も多いし、高騰する老人ホームを利用するともっと必要となる。いつまで生きるか分からない老人は節約するしかない。

全世帯を見ても老人には参考にならないので、出典は異なるが世代別の数字を確認してみる。二人以上世帯では60歳代で1800万円、70歳代で1900万円と金融資産が増えている。他のデータでは60歳代をピークに下がっていくのだがこの金融広報中央委員会データは年齢が上がると平均資産も上がっている。世論調査とあるし中央値がきれいすぎるから多少信ぴょう性に欠けるかもしれない
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もう少し信用できる調査はないかと探したら日経CNBCのニュースにぶつかった。これも富裕層含みの数字だが二人以上の無職高齢者世帯の貯蓄額とある。家計調査だからまあ信用できる。えっ 平均で2500万もあるの!。それにここ数年微増ではあるが増え続けている。確かに子供は独立しているだろうしローンは完済だろうから理解できないわけではない。たぶん1億円以上の純金融資産を持つ148万世帯が貢献しているに違いない。そう思いたい。
2024-07-30 (3)
日経CNBCが良心的なのは富裕層含みではあるが平均値だけでなく、中央値(有職世帯も含んではいるが)の1604万円をベースに家計調査データを基に年齢層ごとの毎年の不足額を算定し、かつ2%のインフレを組み込んで1600万円であと何年生活できるかを計算していることだ。それによると月1~4万円の赤字でも47年は生きられると結論付けている。

これは85歳からの赤字額が激減することと、病気や老人ホームなどの支出は想定されていないためでもあるが、このグラフを見て健康だけが取柄の後期高齢者は少し安心したのであります。健康第一!健康第一! さ 安心して寝よう。おやすみなさい。
2024-07-30 (5) 
参考までに試算に使った年齢層別の月別収入と支出、赤字額はこんな感じになるとのこと。
金融資産の6割、消費支出の4割を占める高齢者が金を使わないと日本経済は廻りませんね。
2024-07-30 (1)


外資系企業7社で33年間過ごしたサラリーマン人生だった。いろんな面でドライだと考えられている外資でも人間関係や人との絆はちゃんと存在していたように思う。

新卒で入社したのは広告代理店。コピーライター志望で入ったが配属されたのは媒体局のコカ・コーラ専属のメディアプラニング部門だった。楽しくて働きやすい部門だった。3年後にマーケティング局に転属になり、労働組合の書記長をすることになった。会社側の代表が人事局長のI氏で実直で優しい人物で、組合側から見ると比較的楽な交渉相手だった。数年後にヘッドハンターからの電話で面接に行くとI氏がいた。当時は55歳が定年だったので定年退職後に製薬メーカー(ワーナーランバート)の人事のトップとして入社し、菓子事業部が人を探していた時に私のことを思い出したらしい。知っている人が上層部にいるのは心強い。即入社を決めた。

菓子の仕事は面白く毎日が充実していた。数年後に管理職になったがもう少し現場の仕事がしたかった。会社の医薬品部門にスミスクラインから転職した人がいて、数年後にまたスミスクラインに戻った。コンタックの担当が欠員となった時に私のことを思い出し面接に呼ばれた。簡単な宿題が出てそれを提出したら採用が決まった。ただ入社後数か月で日本の製薬会社のOTC部門を吸収合併し会社の雰囲気が悪くなったのと上司との折り合いも良くなくて退職し、元上司の口利きもあってワーナーランバートに出戻った。人材が潤沢でない外資系企業ではこうした出戻りはよくあることだ。

また菓子の仕事に戻り、カナダでの海外勤務を終えて日本に戻ったら私の後任で一時的に赴任していたアメリカ人が戻る場所がなくて居残っていた。同じポジションに二人いるのも妙だが仕事を無理に二分割するのはもっと理不尽だった。昔から知り合いのエージェントに頼んで次の仕事を見つけてもらった。ヘッドハンターに依頼したのはこの時だけだ。

紹介されたのはペプシコーラだった。ペプシマンキャンペーンの頃で業績は上向きだった。新製品開発チームや開発会議の新設、人員補強など組織の強化に取り組んだが半年後に事業はサントリーに売却移管された。マネジメントや開発、工場要員などは不要とされ生まれて初めてハローワーク通いを数か月経験した。その間ペプシ事業の売却を知ってマーケティング人材採用のため来社した関西の製薬会社の元人事部長が採用に動いてくれて調査部長の職を得て神戸に転居した。

神戸での最初の2年は快適だったが、その後新設の抗癌剤のチームを任されてからが大変だった。消費財の経験しかないマーケターがこなせる仕事ではない。毎日今日が最後の出社日になるかもと思いながら電車に乗った。そんな時東京のヘッドハンターから電話があり、消費財と医療用医薬品の両方の経験を持つマーケターを探しているが面接に来ないかとのことだった。バファリンの会社だった。

バファリンがOTCと医療用の両方を持っているとは知らなかったし、失敗だったと思った医療用医薬品への転職がこんなところで役に立つとは思わなかった。日本法人のカナダ人社長に面接されたが私がカナダで働いていたことにも興味を持ったようだった。翌月には本社の社長との面談があった。面接中に「ペプシにいたのか。本社の交渉相手は誰だった」と聞かれた。彼も以前ペプシに在籍していたとのことで結局それが決め手になったのか採用されて最後の勤務先となった。

もともと転職志向があったわけではないし英語も不得手だった。知人がエージェントに私の名前を出したこともあるが、私のことを知っている人が誘ってくれたことも何度かあった。まだ外資に行く人が多くなかった時代なので、個人的ネットワークが重要だった。転職してからかつての部下や仲間を採用することはよくあったし私も何度かしたことがある。その人の強みと弱みを知っているから強いところを活かすポジションをあてがえば失敗は少ない。自分の首がかかっているから採用にも慎重になる。日本の企業で働いたことがないから比較はできないが、組織に頼ることが少ない外資系企業の方が人と人とのつながりや絆が強いのではなかろうかと思ったことは何度もあった。昔の仲間とは今でも繋がっている。

2023年度の在京キー局の決算は全局増収だった。日テレが1.9%、フジとテレ東が2.0%、テレ朝が2.1%、TBSが2.8%成長だった。ただ経常利益はTBSとテレ東がプラスだったものの残りの3局はマイナスそれも二けたマイナスだった。テレビ広告費はネット広告に抜かれてもう何年にもなる。売りはつくったものの高コスト体質は変わらず、かつコロナ禍で動画配信利用者が急増しテレビの視聴率が下がり続け広告収入が減っているのが大きな理由だ。
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テレビの広告枠は肉屋で「牛肉300グラム!」とグラム単価で買うのと同じように視聴率300%でいくらと視聴率ベースの単価で売られる。視聴率が下がれば単価も下がり当然その分売り上げ金額は下がる。売る枠を増やそうにも総放送時間の18%と上限が決められている。昨年のキー局合計の広告収入は7623億円で前年比-4.7%、フジテレビなどは-8.1%だった。ゴールデンタイムのPUT(Persons Using Television 総個人視聴率)も31.1%と未曽有の低さだ。たしかに見たくなるような番組は少ない。

今のところは広告収入の減少分をTVerなどの配給収入で補っているようだが、これだっていつまで続くのか保証はない。中身のある、見ごたえのある番組を作らないと地上波の将来はないと思うのだが。局別の世帯視聴率の推移を見ると下のグラフのようになる。この3年の下降は注目に値する。全局下がっているがフジの下落がひどい。2011年の8%が2023年には半減の4%だ。過去の成功に囚われて視聴者の変化についていけていないようだ。
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半世紀近く前に広告代理店でテレビの仕事をしている時に在京5局は2強2弱1番外地と言われた。TBSと日テレが2強、フジとテレ朝(当時はNET)が2弱、テレ東(当時は東京12チャンネル)が番外地だ。2強には水戸黄門、8時だョ!全員集合、太陽にほえろなどのお化け番組があったが、他の3局にはなかった。フジとテレ朝がトレンディドラマや欽ちゃんで視聴率を稼ぐのはその数年後からだ。日テレはバラエティ番組で数字を稼いでいるが、TBSとフジはかつての勢いを失い、今ではかつての2弱テレ朝が世帯視聴率の三冠王となってしまった。テレ朝が上昇したのではなく他局より下降の度合いが少なかったからではあるが。フジは万年最下位のテレ東に追いつかれそうになっている。時代は変わるのだ、視聴者が変わるのだから。

食品をはじめ全てのものが値上がった2024年の上半期が終わった。日経によると6月の物価は前年比2.1%上昇だという。生鮮品を除くと2.3%の上昇だとあるが我々は生鮮品を食べて生きているのだから2.3%の方を使うべきだね。下のグラフから推測すると生鮮品を含めると上半期は2.5%は物価が上がっていると考えてよいだろう。年金も6月支給分から2.7%上昇したが、年金生活者の家計はこの半年どうだったのかと例によって家計簿を集計してみた。
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この半年の後期高齢者であるわが家の支出は対前年比でマイナス1.2%だった。よくやったと言うべきか。住居費と光熱費を除いた消費支出は+3.1%と増えているが、食費が-14.6%と貢献している。そんなに節約したとは思わないが前年がその前の年の+13.2%だったので前々年のレベルに戻したということか。去年サブスクしていた魚や総菜の宅配を辞めたことが大きいと思われる。便利だったが値段の割にはおいしくなかった。

上半期の-1.2%は光熱費のマイナスに負うところが大きい。5月まで光熱費補填があったため電気とガスが前年比で-17%、昨年の水回りリフォームの効果で水道代が-11%と下がった。このインパクトを除くと-1.2%は+1.3%となる。食費を除くその他の支出は前年と大差はないので光熱費の削減が家計を助けてくれた。自民党は夏場には選挙対策でまた補填をするらしいが、魂胆は気に入らないが家計的にはちょっとは救われる。

ついでに恥を忍んで書き記すと我が家の上半期のひと月当たりの税金なども含めた総支出は約35万円だった。引退後何年もかけてここまで削減してきた。老後2000万円問題が話題となった時の議論は、無職高齢者2人世帯の全国平均の消費支出は23.5万円、総支出は約27万円で年金だけでは月5.5万円不足するので30年間で2000万円が必要だというものだった。これは全国平均の数値なので大都会のマンション暮らしだと固定費は全国平均の9万では済まず、あと4万くらいは必要だ。

ゆとりのある生活をするためには36万円位が必要だとの調査もあり、この3年の物価上昇が続けば老後2000万問題は4000万問題になると最近は言われている。ゆとりのある生活をするためには我が家は年金だけでは8万円ほど不足し、個人年金分を加えてカツカツの収支である。個人年金は自分で払った原資を基にしているので貯金を食いつぶしているので同じで、かつ支払期間は10年間だ。来年は免許を返納して車を諦めれば3万ほど支出は削減できるだろう。

円安はどんどん進行しあっという間に160円台を突破した。この半年で20円安くなった。さらに進行するだろうし介入する大義名分も見つからない。輸入品はさらに値が上がりし、石油が上がるので国産品だって輸送費分はしっかり上乗せされるだろう。残された長くはない時間を節約ばかりして生きていても楽しいとは思えない。しかし変に長生きをして病気にでもなったら、もしくは自分か家族が認知症にでもなったら目も当てられない。生きづらい世の中になったものだ。でも没落しつつある国家で生きるというのはこういうことなんだろうと思う。

先週住んでいるマンションの管理組合総会があり、その後の理事会で理事長になってしまった。嫌な予感はしていたのだが追いこまれるようにしてなってしまった。

理事は12人いて1年ごとに6人が入れ替わる。私も昨年から理事を輪番で引き受けて2年目になる。理事長は通例として2年目の6人の中から選出される。理事長はどの組合でも理事の互選で選ばれるが、なりたくない人は理事長を決める前に監事とか広報とか大規模修繕委員とか防災委員に立候補してうまく抜ける。気が付けば2年目で残っているのは2~3人だけで、彼らもなんのかんのと理由を付けて敬遠するので仕方なく引き受けてしまった。

私が住むマンションも建築後30年となり住民も高齢化している。理事のなり手はなく輪番で指名されるのだが、高齢、体調、親の介護、子供や孫の送迎などを理由に断る人が多い。月に1回の理事会も3時間くらいかかるのが普通だし、何かの担当になれば理事会以外にも月に1~2回は会合に出席しなければならない。理事の負担は軽くはない。

マンションも古くなってくると大規模修繕、エレベーターの更新、給排水管の取り換えなど金のかかるプロジェクトがまとめて出てくる。物理的、機能的劣化だけでなく社会的劣化にも対応しなくてはならない。400戸を超す集合住宅の意見をまとめるのは簡単ではなさそうだ。おまけに我がマンションは私のように部屋を買ったサラリーマンだけでなく相当数の旧地主である地権者、多くの賃貸用の部屋を持つURと立場の異なる所有者がいて、かつ部屋自体も住居だけでなく商店、医院、美容院、事務所、保育所、レストランに用いられていて所有者の管理や資産に対しての考え方も様々だ。かつURの賃貸住居を除いても賃貸に出している住戸保有者は4割を超える。賃貸居住者は一般的に管理に対して関心は薄い。

そのうえどこの管理組合にもいるように理事長経験者の御意見番的老人が必ずいる。総会には必ず出席し、最前列に座って質問をする。80代が多く経験には富むのだが将来のビジョンとかには関心がないらしく子細な点への質問が多く、最終的には私がやっていた時代には…と過去の成功体験で話が終わる。こういう人たちともうまくやらなくてはいけない。などと考えると頭が痛くなってきた。

来週には新理事長としての抱負や新年度に取り組む事業や課題を発表しなくてはならない。望んでなったわけではないのでたいした抱負はないのだがある程度の格好は付けなければならない。取り組むプロジェクトとそのプライオリティづけ、理事会の運営方法、なり手のない理事に立候補してもらうための方策、管理費や修繕積立金の値上げに対する考えなどをまとめておこう。幸いに外資でプロジェクトをまとめたりプライオリティとつけたりすることは十分学んだし、引っ越しを15回して10のマンションで暮らした経験もあるのでそれだけを頼りに考えをまとめることにしよう。

スーパーの棚でパウチ入りのシーチキンを見つけた。以前からあるのかもしれないが初めて見た。数年前にノザキのコンビーフがねじ巻き缶からパッ缶に変わった時も驚いたが、このシーチキンのパッ缶からパウチへの変身にもビックリした。
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しかしこれは望ましい変身なのではなかろうか。ごみの量が減るし保管しておくスペースも軽減される。割高な1缶売りを敬遠して3缶パックや4缶パックを買っていたが、このパウチなら場所はとらないし、1個で買っても缶より安い。賞味期限こそ缶の37カ月に対し25カ月と多少短いが全く問題はない。

シーチキンは1931年清水の後藤缶詰所が試作したマグロの油漬け缶詰めに端を発する。もとはアメリカ向けの輸出用商品だったが、1969年に地元の三保の松原の羽衣伝説からはごろも缶詰め株式会社に社名変更した。シーチキンの商標は1958年に登録している。当時はミカンの缶詰との二本立て経営だった。私の父親は清水の生まれで当時実家は鶏の缶詰を作っていた。清水には缶詰工場がいくつかあった。子供のころ親戚から毎年お中元とお歳暮にはごろものミカン缶詰が贈られてきた。たぶん親戚のだれかが働いていたと思われる。

売れ行きがいまいちだったシーチキンだが、二代目社長が始めた特約店づくりと1967年に開始したメニュー提案型のテレビCMが功を奏し、開始前の3万箱から10年後には250万箱まで販売を伸ばした。食事の欧風化の追い風もあったが、他に先駆けて1982年にイージーオープン缶(パッ缶)の採用、ローファット、ローカロリー化へのかじ取りが早かったことも成長の要因となった。いまでもシーチキンははごろもフーズの売り上げの半分を稼ぎ出し、ツナ缶市場のシェアは5割を超える。清水にはツナ缶御三家と呼ばれる缶詰め会社があり、全国の97%を静岡県で生産している。
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もともと缶詰は1811年に英国で発明された。この発明により製品の保護、輸送そしてラベルを貼ることによりブランド名、成分、製法、用途、宣伝文句などを明確に伝達できるようになり、パッケージ化が可能となった。パッケージ化が可能になると、それまで量り売りなどで売られていた製品のブランディング化が可能になった。こうしてスープや保存食、フルーツ缶など多く生産されるようになった。ツナのオイル詰め缶はぴったりだったわけだ。
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しかし重い、錆びるなどののデメリットもありアルミ缶やイージーオープン缶などが誕生した。アルミ缶は軽いが「電気の缶詰」と呼ばれるほど高価であり、アルミのプルトップは開缶時に微小量のアルミが缶内に落下するとされ、これが脳内に蓄積されてアルツハイマーの一因となると一時話題になったことがある。清水にあったアルミのただ一つの精錬工場も原油と電力料金の上昇で10年前に撤退し、精錬したアルミを輸入している日本は円安で輸入価格も高騰し缶からパウチへの転換はさらに進むんだろうなあ。

子供のころから広告が好きだった(33)

グリコグリコ アーモンドグリコ 一粒で二度おいしい 一粒で二度おいしい
グリコグリコ アーモンドグリコ しゃぶったら変わったよ ミルクの味のアーモンド

小学生の頃テレビから流れてきたCMソングだ。コンガを叩く音にリズミカルに乗ったラテンの旋律をバックに紙人形が踊るというコマーシャルだった。まだアーモンドというものをほとんどの人が知らない時代だったので、二度おいしいアーモンドとは何なのだろうかと思った。
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それまでにグリコは食べたことがあったが、アーモンド見たさに買ってみた。確か8粒入りで十円と、16粒入りで20円の二種類だった。口の中に入れるとミルク味にナッツの香りがプラスされている。嚙むと小さく粉砕されたナッツがつぶれてアーモンドの味が強くなる。これがアーモンドなのか。ナッツと言えばピーナッツしかなかった時代だから新鮮に感じた。

グリコ創業者の江崎利一は1930年にアメリカ産業視察団の一員として渡米し、ナッツ専門店で一番高いが一番おいしいアーモンドに出会った。25年間温めておいたアイデアを大人向けのグリコを開発するときに隠し玉として使ったというわけだ。ホエーのミルク感に噛むとアーモンドの香ばしさが加わって独特の食感と味が生まれた。「一粒で二度おいしい」というコピーも利一が考え出した。未知のナッツだったアーモンドは一気に知られるところとなり、アーモンドグリコはヒット商品となった。円が1ドル360円だったこともあってアーモンドの輸入価格は高く、製造原価だけが問題だった。

その3年後にはアーモンドを一粒丸ごと入れたアーモンドチョコレートを発売しチョコレート市場に参入した。チョコレートの2倍のグラム単価のアーモンドを使ったため小売価格は割高になったが、活発な広告活動もあり成功を収め総合菓子メーカーへと脱皮することができた。江崎グリコは広告の量も多いが、製品の開発時に他社との差別化を明確にして開発すること、それを分かりやすく憶えやすいコピーする巧みさがある。グリコの「一粒300メートル」も、アーモンドグリコの「一粒で二度おいしい」も子供のころすり込まれたら一生忘れない。

しかし、あれだけのヒット作だったのにキャラメル市場の停滞もあってアーモンドグリコに過去の面影はない。今日も近所のスーパー3店、セブンイレブン、ダイソー、デパートで探したが見つからず、最後にキオスクでやっと買うことができた。久しぶりに味わったアーモンドグリコはなんだか懐かしい味がした。子供のころ16粒で20円だったのが18粒で170円になっていたのが時の流れを感じさせた。

最近はニュースとゴルフ番組以外はテレビを見ることがない。しょもないバラエティ、クイズ番組、旅番組、食べ歩き番組には食傷気味だ。同じような顔ぶればかりだし、半分以上は知らないタレントだ。それも才能がありそうには見えない、場数を踏んで慣れだけで一丁前の顔をしている連中だ。

コロナ以降ネットに喰われっぱなしのテレビ業界は製作費の大幅な削減を強いられ、ギャラの安いタレントの出番が増えた。地上波もひどいがBS放送はさらに酷い。出演者のほとんどが物故者のドラマ(特に時代劇)、何度目かの再放送映画、韓国ドラマ、懐メロ番組、そして一番多いのが通販・物販番組だ。

地上波も最近では名の知れた芸人をMCに使って食品や日用品を通販番組で売っているが、BSの通販番組は家電、健康器具、衣料品、日用品、化粧品、サプリメントと多岐にわたり、サプリなどは薬機法(旧薬事法)を無視したような表現が満載だ。番組スタイルはMCと2~3人のガヤ芸人、メーカーの担当者とほぼ昔と同じだ。調理家電や包丁などはカタカナ名をつけた物売りタレントがMCを務めたりする。以前は通販番組といえば落ち目の芸人や歌手が出てきたが最近やたら目立つのは中野珠子というタレントだ。
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以前はリポーターをやっていたと記憶しているが、今では節操なくいろんなものを売る物売り芸人みたいだ。化粧品、サプリ、ヘアカラー、補正下着、梅干し、青汁、ごま油にごま煎餅、スマートウォッチ、紳士ベルト、ストレッチマット、電動工具、尿漏れ用パンツなどなど、BSやCSテレビをつけると必ずといっていいくらい彼女に当たる。二年くらい前はたまにだったが最近はすごい出演数だ。通販MCのポジションを確保したのだろうが、最近は多忙のせいか表情に疲れが見える。感じが悪い人ではないのだがこれだけ出ていると「またかよ~、もういいよ」と思う。以前は気にならなかった体を上下に揺らしながらの話す姿も気になり始めた。

昔広告代理店でメディアプランナーをしている時、広告出稿時の接触回数分析というのがあった。視聴者に何回CMを見せるのが効果的、かつ効率的かというものだ。Three-hit theoryという説があり、広告は3回目から有効だというものだった。たくさんの回数を見せればよいというものでもなく、何十回も同じ広告を見れば飽きられるし、認知率も上がらないので効率的ではなくなる(効果は逓減するが広告費は1回目も30回目の同じだけかかるから効率は悪化する)。だから当時は3回から10回を適正接触頻度とし、この回数の接触者(Effective Reach)を最大化するメディア計画を作っていた。

同様に通販番組もMCも広告物である。何度も同じものを見せられれば視聴者の関心は薄れ、商品もMCも飽きられる運命にある。通販番組で扱う商品は競合品と比べて大きな差を持つものはほぼ無いし、MCも余程の才能がある人を除いてやがて飽きられ淘汰される。数年前まで通販番組に出ていたが最近お目にかからないタレントは大勢いる。大昔にも物売りタレントはいたが、泉大助はナショナル(現パナソニック)専属だったし、押坂忍は東芝と守備範囲を絞っていた。今のように仕事であればなんでも売るというスタンスではなかった。クライアントもキャスティングにもっと留意すべきだし、所属事務所も稼げるときに稼ごうだけと考えるだけでなく、サラリーマンの生涯キャッシュフロー的な発想があってもしかるべきではなかろうか。

私は外資系企業でしか働いたことがありませんが、英語は得意ではありません。6回の転職を経験しましたが(採用されたら上司となる)外人さんとの採用面談はいつも不安でした。面談の後の食事がたまにあるのですが、これははもっと苦手でした。こちら側もある程度は仕事以外の話を英語でしなければならないからです。

日本で何年か過ごした外人さんの多くは日本人の曖昧さやはっきりしない態度に少しうんざりしています。なぜもっと明快に答えを言わないんだと思っている人が結構多い。それに対して、これは日本語の曖昧さに原因があり、日本人が農耕民族であることが大きな理由であると、面接後の夕食の場で説明したことがあります。つたない英語でこんなことを話しました。

日本人は農耕民族です。数千年以上も農耕で生きてきました。農耕は部落全体で同じ作業をします。春には村全員で田植えをします。何時間も腰をかがめる辛い作業です。誰かが辛いとか疲れた感じる時は他の人も辛い・疲れたと感じる時です。「I am tired」と言う必要はなく「Tired」で十分です。皆が同じ感情を共有しているからです。真夏に雑草駆除をするときも同様です。全員で同じ作業をします。この時にも「暑いね」だけで十分です。全員が暑いと思っているからです。だから農耕民族である日本人は大抵の会話でIとかYouとかHeの主語を使いません。あなた方は恋人に「I love you」と言うでしょうが我々は「Love(愛してるよ)」だけです。それで十分通じます。S⁺V⁺OのVだけで事足りるのです。

一方あなた方は狩猟民族に属します。動物を捕らえて生きてきました。狩猟も共同作業です。ただ役割分担が必要です。私は獲物の後ろから追い立てる。ジョンは左後方から、マイクは右後方から音を立てながら追い立ててくれ。そして前もって掘って枯草で蓋をした穴に誘導して獲物を落とすんだ、と言う感じですね。この作業では各人の役割が明確に決められなければ遂行できません。必然的にI、You、He、Sheの主語が必要になります。集団の言語と個人の言語。ここが両民族の言語の一番の違いではないでしょうか。

長い間ほとんど主語なしで通用する言語で物事を考えてきた民族と、SVOが揃わなければ成立しない言語で考えてきた民族の思考方法が異なって当然です。阿吽の呼吸とか以心伝心などと言う言葉は狩猟民族の国にはないでしょう。日本は農耕民族でかつ世界で最もHomogeneousな国だから余分なことは言わなくても通じるということなのです。

こんなことを話すと外人さんは、そんな視点で考えたことはなかったと少し理解したような顔をします。分かってくれたかどうかは別にして。

日本語の曖昧さの理由は他にもあるんですけどね。柔軟性がありすぎて明確な定義をしないまま外国の言葉を簡単に取り入れすぎること(カタカナ語の多いこと!)や、言葉の定義を明確にしないまま新語を作ることなどです。こうして日本語はますます曖昧になっていきます。来日した外人さんが最初に覚えて重宝するのが「どうも!」だと聞いて驚ことたことがありました。確かに「サンキュー」にも「コンニチハ」にも「サヨナラ」にも使えて便利ではあります。最近も「やばいよ」が否定的にも肯定的にも使われていると知って、この先日本人と日本語は大丈夫だろうかと後期高齢者は思ったところです。

今週からNHKで「老害の人」というドラマが始まる。義理の息子に社長の座を譲って引退した老人が突然会社に現れて社員に自慢話や昔話をするというのが第一話らしい。老人は見たくもないだろうし、誰が想定視聴者かよくわからないドラマだが、内館牧子の老後小説のドラマ化第三弾とのこと。働いている時は老害など気にもならなかったが、引退して地域のコミュニティや集会に顔を出すと気になる老害老人を何人か見かける。
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一般的に老害とは、社会や企業の中で年齢や経験を盾に実権を握り続けたり、周囲の意見を聞き入れずに周りに迷惑をかける高齢者と言われる。企業では定年があるし、多くの会社では役職定年制も採用されているので、一部の同族会社以外では権力を持ち続けられる老人はほぼいない。問題はそうした老人が引退して地域やコミュニティ、ボランティア活動の団体に参画した時に見られる。マンションの総会や自治会の会合でやたら発言する老人は大抵このタイプだ。

本人は自分の経験や知見が役に立つと思っているし、確かに有益な意見もないではない。ただ彼らが現役で活躍した時から20年くらい経っているので、社会や住民意識はかなり変化していると思われるが、その点を考える人は少ない。発言のしかたにも問題があることもある。自分だけが分っている、という感じで話すからだ。特に大会社で役員や上級職の経験がある人に多いような気がする。

私が観察した老害の特徴は下記のようなものだ。自分でもこの傾向に陥ることもありそうなのでたいしたことは言えないが、自戒の念を込めて。
①自分の経験や体験、特に成功体験を語りたがるし、重きを置く。
②逆に失敗体験したことやものを極力回避しようとする。羹に懲りて膾を吹く、ですね。
③物事を多面的に見られなくなる。複眼思考が苦手というか、できない。
④反論されると感情的になる。声を荒げることもある。間違いを認めようとしない。
⑤若い人に対して上から目線で話す。
⑥話が長い、くどい。

つまり経験は豊富だが、思考に柔軟性がなくなり始め、自分は正しいと信じるプライドの高い人が老害になりやすいのかも。そういう人に近づかない、話をスルーするという手もあるが、そうばかりもいかない。対応策として考えられるのは、

①ちょっと我慢をして、まず話を聞く。長いことが多いので大変かも。
②経験に裏打ちされた良い点もあるのでそこは受け入れる。
③反論するときは否定語から入るのではなく、発言者の意見をまず肯定しておいて、次にこれを加えたら、この部分を変えたらもっと良い案になるとかの代替案を提示する。
④一般論が多い場合は、具体的な提案に落とし込んだ実行案はどんなものになるかを問う。
⑤視点を変換させる提案をする。「相手から見たらこの案はどう映るでしょうか」「現状を改革するには良いアイデアだとは思いますが、30年後のことを考えるとどのように変えたらいいでしょうか」
⑥「さすがですね、その考えは思いつかなかったです」と褒め殺す。

ドラマでは老害に対してどう対応するか見ものではある。

しばたはつみと朱里エイコ。ほぼ同世代で同時代を生き、歌謡曲やスタンダードからジャズまでカバーした実力派の女性歌手だった。音楽一家に生まれ、若いころに単身渡米して修行したことや、なかなかヒットに恵まれず不遇の時代があったことなどの共通点も多かった。小柄だが声量があり、パンチのきいた歌い方やルックスまでちょっと似ていた。
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しばたはつみはピアニストとヴォーカリストを両親に持ち、9歳から米軍キャンプで歌い始めた。その後スマイリー小原とスカイライナーズの専属歌手となり、数多くのCMソングを歌った。小川ローザの「OH!モーレツ」や弘田三枝子やシルヴィ・バルタンも歌った「レナウン娘(ドライブウェイに春がくりゃイェイェイェイェ~イ)」が有名だが当時はだれが歌っているか知らなかった。20歳の時渡米し2年を過ごして帰国し、しばたはつみの名前で活動を始めた。テレビに出始めたころ家内の幼馴染の愛称「奥目ちゃん」にそっくりだったのでわが家では「奥目ちゃん」と呼んでいた。

海外での活動が多かったせいか国内でのヒット曲は「マイ・ラグジュアリー・ナイト」くらいであまりない。ただ「サウンド・イン”S”」にMCとしてレギュラー出演していた時に歌ったアメリカンポップスやジャズナンバーが印象的だった。70年代にはジャズピアニストの世良譲に師事してジャズを学んでいる。ビッグバンドをバックに歌うジャズのスタンダード曲はYouTubeで聞くことができる。個人的には当時広告代理店でコカ・コーラを担当していた時に彼女が歌った「Come on in Coke '77」が記憶に残っている。張りのある高音の伸びが特徴の歌手だった。東京音楽祭の最優秀歌唱賞、日本ジャズヴォーカル賞大賞などの受賞歴がある。

朱里エイコはオペラ歌手と舞踏家の家庭に生まれた。佐々木功のバンドで歌ったりしていたが、18歳の時オーディションで選ばれて2年の契約で単身渡米し、英語学校に通いながら歌やダンスのレッスンに励んだ。当時はEiko Tanabeの名前で全米のホテルやナイトクラブで歌った経験を持つ。帰国して朱里エイコの名前でリサイタルをし、レコードデビューをするもするも前評判ほどは売れず、歌の修業をするために再度渡米。一人でホテルとの契約やバンドメンバーへの給料の支払いなどをしつつ、各地でワンマンショーを成功させた。1971年に一時帰国して発売した「北国行きで」がヒットしたが、ヒットと呼べるのはこの一曲だけだった。
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1975年に再々度渡米してからは日本とアメリカを往復する生活となった。カーネギーホールなどでも公演をし、ステージで英語を駆使してパフォーマンスができる数少ない日本人アーティストとなった。小柄だが豊かな声量、ダイナミックな動きでLittle Dynamiteと評されもした。ただ彼女が目指したのはステージ・エンターテナーだったが日本での活躍の場は限られ、交通事故や家族とのトラブルもありメンタルも強靭とは言い難かったため傷心の期間が長かったという。失踪事件も何度か起こしている。
しばたはつみとの共通点は声やルックス以外にもある。レナウンの「イエイエ」のCMソングを歌い、コカ・コーラの「うるおいの世界」を歌ったことだ。特に「うるおいの世界」は布施明、森山良子、かまやつひろしと競作になったが彼女のヴァージョンが一番だと思う。

そんな二人だったが、しばたはつみは急性心筋梗塞で2010年に、朱里エイコは虚血性心不全で2004年に、二人とも突然にかつひっそりと亡くなった。享年57歳と58歳だった。夭逝というにはふさわしくない年齢かもしれないが、最後のシングルを出したのが33歳と41歳の時だったから、その後の20年前後を目立った活躍の場を持つことなく過ごさざるを得なかったのは辛かっただろうと思う。体調を整え再起の準備をしている時だったので無念なままの孤独な他界だったと思う。合掌。

そこからジュースを飲んだらだめよ 私がが口をつけたとこよ~

学生時代に授業をサボって友人たちと麻雀をしている時に雀荘のテレビから流れてきた歌だ。ハーフの女の子が唄っていた。当時はハーフの歌い手は山本リンダとゴールデンハーフくらいだったのでちょっと目立った。シェリー(Sherry)という名前でフランス系ハーフの17歳の小柄な美少女だった。画面を見ていた一人が「顔は外人だがスタイルは日本人だなあ」と呟いたのを憶えている。
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モデルとしても活躍していたらしいが、歌手としては十数枚のレコードを出したものの記憶しているのはデビュー作の「甘い経験」だけだ。その後テレビドラマの「オズの魔法使い」で主役のドロシーを演じて注目された。一番印象に残っているのは「うわさのチャンネル!!」でマギー・ミネンコの後釜としてバラドルの立ち位置を確保したことだ。同じハーフのマギー・ミネンコが「乳揉め~!」で人気を得たように、シェリーも「ケツ見ろっ!」と美少女らしからぬセリフを叫んでいた。

「うわさのチャンネル!!」で数年活躍したあと姿を見なくなった。結婚を機に引退して家庭に入ったのだろうと思っていた。数年前から同じ名前のアメリカ系ハーフのシェリー(SHELLY)をテレビで見かけるようになり、あの可愛かったシェリーはどうしたのだろうかと思い出した。

調べてみたら、結婚はしたものの数か月で離婚し、婚外子の女児と男児を二人出産し、大阪に移住して生活のためタコ焼きバーやスナックを経営しながら生保レディとしても働いていた。母親の介護を機に介護ヘルパーの資格を取って施設で働いたり、自らも脳梗塞で倒れて店を閉じねばならなかったりとなかなかの山あり谷ありの人生だったみたいだ。ただ66歳になった現在は「元祖バラドル」とか「元祖シェリー噂のチャンネル」の名前でフェイスブッックやインスタのアカウントを持ち、地元のラジオ局に出演したり、年に数回開催している自らのライブコンサートの案内やステージ風景を流したりとどっこいしっかり生きている。
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SNSを見ても生活感もそんなに感じられないし、ステージ映像を見る限り声もまだちゃんと出ているし歌も昔よりうまくなっている。かつてのハーフの美少女が幾多の苦難を乗り越えてたくましい大阪のオバチャンになっているのを見て安心した。

フェイスブックのなりすまし広告がひどい。今朝もスマホを開いたら前澤友作氏の写真を無断使用したなりすまし広告が飛び込んできた。半年前にも違法なネット広告について「違法なネット広告を放っておいていいのか」という記事を書いたが全く改善されていない。

先週の日経にも「SNSなりすまし、メタほぼ無回答」のタイトルの記事があった。自民党がメタ社の幹部を招き対策を聞き取ったが、具体策に乏しく、事実上無回答だったとあった。こんな大きな問題を政府でなく党が行うのもおかしいが、前澤氏が日本法人に削除要請をしても、削除権限がないから米国本社に言ってくれと言われるのはもっとおかしい。前澤氏がクレームを付けてからフェイスブック上のなりすまし広告は逆に増えている。

毎日20~30の違法広告が目に付くので一日に10件くらいを報告した。全部で50件くらいだ。その後何も変化がないし、違法広告は減らない。毎日フェイスブックからはこんな返事が来るだけだ。
2024-04-23
彼らの言い分は「審査はしたが(自社の)広告規定に違反するものではなかったので広告は削除されなかった」というものだ。メタ社の広告規定には「弊社のポリシーは、金銭や個人情報をだまし取ろうとする意図を含め、詐欺的または誤解を招く方法を用いている製品、サービス、スキーム、クーポンの宣伝を禁止します」とあるが、日本法人にはその権限がないのか。メタ社には詐欺広告を徹底的に排除する義務があるのだが、昨夜の「クローズアップ現代」で見たメタ社副社長のコメントを見てもそれを全く果たしていない。ほとんどのフェイスブック上の詐欺広告はLINEに誘導されて詐欺被害に遭っているのだからメタではなくLINEのサイトに責があるとでも言うのだろうか。まったくもって腹の立つ会社だ。

警察庁によると昨年のSNS型投資詐欺による被害は277億円に上るという。英語圏でも同様な被害がありオーストラリアでも昨年政府機関が米メタ社への訴訟を起こしている。負ければ高額の罰金を払わねばならないためメタ社も対策を考慮するだろうが、メタ社は米国などの英語圏を優先し、他言語での対応を後回しにしてきた経緯がある。フェイスブック広告の収入の相当部分は日本からのものだと思われる。今日日本で初のメタ社日本法人の提訴が行われた。前澤氏やホリエモン氏だけでなく無断で利用されている多くの経済評論家や有名人は今こそ声をあげるべきである。でなければいつになるか分からない「なりすまし防止法」や「オンライン安全法」の成立を待つか、フェイスブック利用を辞めるかしか我々ユーザーに残されている選択肢はない。



山の人気者 それはミルク屋 朝から晩まで 歌を振りまく
牧場は広々 歌はほがらか その節の良さはアルプスの花
娘という娘は ユ~レイティ~

低音から高音までカバーする張りのある歌声。ファルセットに切り替わるスムースさ。はじめてウィリー沖山のヨーデルをNHKのテレビ番組で見た時のインパクトはまだ憶えている。翌日から真似しようとしたがあのヨーデルは簡単ではなかった。挫折した。
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ちょっとたれ目で愛嬌のある顔だった。次にウィリー沖山の名前を見たのは25年後に横浜本牧に引っ越してきて、時々車で前を通る新山下のバンドホテルだった。「ウィリー沖山コンサート」の看板があった。ホテル内のシェルルームの支配人をしながらステージにも立っていた。ホテルに住んでいるとのことだった。バンドホテルは「窓を開ければ港が見える」で始まる淡谷のり子の「別れのブルース」の舞台だったと言われ、五木ひろしが「よこはま たそがれ ホテルの小部屋」と唄ったあのホテルだ。シェルルームはプラターズやブレンダリーも出演し、尾崎豊、桑田佳祐、ゴダイゴ、安全地帯、TUBEなどの若手が腕を磨いた場所として有名だ。
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あの頃は、ウィリー沖山のような「その道の専門歌手」が多かった。ウィリーはヨーデル歌手(King of Yodelとも)と呼ばれたし、石井好子、越路吹雪、芦野宏、中原美沙緒、岸洋子はシャンソン歌手だった。その他にもタンゴ歌手の藤沢嵐子、ラテン歌手の坂本スミ子、ハワイアンのバッキー白片とアロハハワイアンズなどがいて、テレビに出てくると紹介がなくてもどんな歌を唄うのかが想像できた。

売り込む側にも便利だったのか、布施明はカンツォーネ歌手で、日野てる子はハワイアン歌手としてデビューした。加藤登紀子はシャンソンコンクール優勝歌手としてデビューしたがその後は定義困難なオバサンになったし、「メケメケ」でシャンソンデビューした丸山明宏(美輪明宏)はもっと分からないオジサンになってしまった。同じくシャンソン歌手だった平野レミはいつの間にか料理愛好家に化けた。

時代が移って「その道の専門歌手」はほとんどいなくなり、残っているのは演歌歌手だけかもしれない。毎年バンドホテルでコンサートを開き、80代半ばまで唄っていたウィリー沖山は2020年6月に老衰で亡くなった(87歳)。彼の住居でもありステージでもあったバンドホテルは目の前に視界を遮る高速道路が走るようになり経営不振から閉鎖・解体され、跡地はMEGAドンキになってしまった。

大歌手とか人気のあった歌い手とか言えなくても妙に記憶に残る歌手がいます。ふと気づくと忘れたはずの歌を唄っている自分がいます。そんな歌手のことを書いてみました。最初は伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズです。

私は子供のころから英語も分からないままアメリカのポップスを聴いて育ちました。ラジオから流れるポールアンカやニールセダカを聴いていました。だから今でもその頃の音楽をよく聴きます。YouTubeがあるので助かります。
2024-04-20
1950年代はアメリカの原曲を聴くか、日本語に訳されたものを聴くのが中心でした。そんな頃英語でアメリカの歌を唄うグループが現れました。それが伊藤素道とリリオリズムエアーズです。1948年に結成されリリオ・リズム・ボーイズを名乗っていましたが1952年にリリオ・リズム・エアーズに改名しました。当初は米軍キャンプでハワイアンやジャズを歌っていたのですが、テレビの人気番組「ローハイド」の主題歌を歌って人気が出ました。伊藤素道の張りのあるバリトンと鞭の音をスリッパを打ち鳴らして歌っていたのが記憶に残っています。

その後もザ・ダイヤモンズの「リトル・ダーリン」やディオンの「浮気なスー(Runaround Sue)」などのヒット曲を英語で歌っています。「アラスカ魂」も歌っていたと思います。英語もちゃんとした英語でした。米軍廻りをしていたのだから当然ですね。彼らの7年後にクレイジーキャッツが米軍で歌い始めたのですからその道(コミカルグループ)の先駆者と言ってもいいでしょう。時々々テレビに出てくるのを楽しみにしていました。14インチのブラウン管テレビでした。もちろん白黒です。
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伊藤素道あってのグループでしたが、バックには実力者も居ました。メンバーの一人だった和田昭治は1955年に谷道夫と男性四人組グループを結成しました。デュークエイセスです。和田は6年間デュークエイセスのリーダーを務めた後その座を谷に譲り作曲家に転進しました。サントリーレッド、トリスビール、湖池屋ポテトチップスなど800曲のCMソングを作曲しています。

メンバーは全員他界されたと思いますが、時々懐かしく思い出すグループです。彼らの歌声は下記できくことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=CG-vy08mBhA

本日3月の消費者物価指数が発表された。生鮮品を除く指数は対前年同月比で+2.6%だった。1月から+2.0%、+2.8%、+2.6%だから第一四半期は単純平均すれば2.5%くらいか。引退以来専業主夫で毎日の買い物を担当している身としては「そんなことはないだろう!」とちょっと疑いを持つ。それで家計簿をまとめてみた。
2024-04-19
我が家の1∼3月の消費支出は74万2千円だった。これはちょっと正確ではない。これ以外に家内が自分の年金での買い物(アマゾンやフェリシモの通販が毎週届く)や美容院代(結構高そうなデパート内の有名美容室)などが含まれていないからだ。そこまで把握したいのだが夫婦げんかが起きそうなので止めている。対前年比で見ると-11.8%である。ちょっと意外だった。しかし前年は車の車検があったので、それを差っ引くと+8.9%となる。ほら、2.5%に収まってないじゃないか。

内訳を見ると、食費は21万3千円で+4.5%だ。肉類が+34.4%、野菜類が+27.8%、果物類が+13.3%、乳製品が+11.6%と二けたの伸びだ。異常気象で爆上がりした野菜と果物、円安で値上がりした輸入肉と乳製品。値上がりしても食べないわけにはいかない。これは納得できる、せざるを得ない。

総務省によると電気代とガス代は5月まで続く支援策でまだ下降傾向にあるという。そうだった。わが家の光熱費は3か月で13万円で対前年比-24.1%と大幅に減っている。これは政府の補助策に加えて昨年実施した水まわりのリフォームと3台のエアコン買い替えのおかげで電気、ガス、水道代が20%以上下がったのだ。この光熱費を除いて昨年と比べてみると+8.9%は+20.0%に跳ね上がった。

それだけ昨年の光熱費が異常に高かったということだったし、政府の電気、ガス、ガソリン代の補助はある程度功を奏したといえるのだろう。ただ6月からは電気とガスの補助がなくなり、企業も33年ぶりの5%を超える賃上げをするので製品価格に反映されるに違いない。円も対ドルで34年ぶりの安値を付けていて短期で円高に転じる気配もない。小麦も油も乳製品もこれからまだ上がるだろう。贅沢をしているわけでは決してないが、年金生活者には暮らしにくい世の中になってしまった。

男子と比べると女子のプロゴルフトーナメントは隆盛である。試合数は38と男子より多く、賞金総額でも上回っている。最近の3年間では賞金女王は賞金だけで2億円を超えていて、これも男子を上回る。ただ稼いでいるのはごく一握りの選手であって多くのプロの生活はは結構大変だと思われる。

第一に、試合に出るにしても相当の出費が要る。必要な経費としてはコースまでの移動費、宿泊費、食事代、試合のエントリー費、キャディ費などで、一試合で20万から30万くらいかかると言われている。これだけの出費をしても予選を通らなければ賞金はゼロなので持ち出しとなる。年間38試合に出場するとなると経費だけで1000万円を越える。その他にコーチやトレーナーを雇えばその費用がプラスされるし、クラブやウェアにも相当の金額が必要だ。昨年(2023年)シード最下位52位の内田ことこ選手の賞金は2510万円だった。賞金以外の収入がないと仮定すると収支トントンだと思われる。100位の辻梨恵選手は559万円なので副収入がなければ赤字となる。それくらい女子プロの生活は厳しい。

先月トーナメントに出場した須江唯加選手の記事がJLPGAのサイトに載っていた。須江選手はプロ4年目で今年の賞金は182万円で75位。QTランキングが41位だったので出場試合は限定され、ウェイティング頼みである。開幕戦は沖縄だったが岡山の自宅から神戸まで出て、格安航空券を12000円で買って沖縄に飛び、格安レンタカーを一週間2万円で借り、ホテルに泊まらずにウィークリーマンションを3万円で契約してウェイティングで待ったが出場は叶わなかった。第二戦の高知へは高速を使い車で向かったがこれも出場叶わず帰りは一般道で帰ってきたという。二試合で2~30万は使ったと考えられるが収入はゼロ。シード権のない選手はこのくらいの節約をせざるを得ないのだ。(写真は須江選手)2024-04-15
2024年現在1346人のツアープロがJLPGAに登録されている。トーナメントに出ている約300人強の女子プロの内、ゴルフだけで食べているのは120人くらいだと言われている。賞金だけで生活できるのはその半分くらいで、残りの半分のプロはスポンサー契約料、ギアやウェア契約料、イベント出演料などを加えて生計を立てている。何年か前ステップツアーを主戦場とする10年選手と回った時、同伴者が「ゴルフだけで食べて行けるの?」と聞いたら、「食べていけます」との返事だった。ビジュアルに恵まれた若い選手にはスポンサーが付きやすい。プロアマにも呼ばれるし車の提供やウェア提供も多い。一種の不公平だがこうしたことが通例の世界だ。

プロになるまで道具、コーチ、練習場代、遠征費などかなりの金額を親が負担し、合格率3%の難関プロテストを潜り抜けてやっとプロになれる。なれるのはほんの一握りだ。なった後もかなりのプロはレッスンなどをしながら生計を立てる。かつ第一線で活躍できる選手生命は平均すると10年に満たない。人気のある職業だが投資のわりにリターンは大きくない。昨晩も10時ごろ練習場に行ったら時々見かける小学生らしき女の子が球を打っていた。後ろで父親がスマホで撮影している。きれいなスウィングで私より飛距離が出ている。頑張れ!と思いながら、自分が楽しむのが一番だよと心の中でつぶやいた。

午後近くのコンビニに買い物に出たらハンドマイクで叫ぶ声が聞こえた。向かいのKアリーナのコンサートに入場する人の整理をしているらしい。細い通路を蟻のように多くの人が一列に並んで歩いている。帰ってネットで調べたらJay Chouのコンサートらしい。老人にはなじみのない名前だがSSS席が3万3千円とあった。最近のコンサートは値段が高いね。2万人も入る大ホールなのに。
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Kアリーナは昨年秋にオープンした世界最大級の音楽アリーナだ。こけら落としはゆずやスピッツ、キンプリなどで大きく騒がれ、最初の3か月は稼働率80%を誇っていたが、最近は月に8日くらいの稼働となっている。先月末にはジャネットジャクソンのコンサートがあったがたいした話題にもならなかった。勢いが削がれたようにも思える。原因の一つは帰り道の混雑にあるらしい。

この辺りに住む住人はKアリーナでコンサートがある日は会場の近くには寄り付かないようになった。それほど人の流れが多いのだ。帰り道が一本しかなく、終演後2万人が順番に会場を出てきてもほとんど歩くことができず、通常なら10分かからない横浜駅まで1時間40分から2時間かかるという。いくつかのテレビ番組でも報道されていたが、帰りには下の写真のようになるらしい。これじゃコンサートの感動が半減しそうだ。
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Kアリーナは首都圏で外人向けの賃貸マンションなどを展開しているケンコーポレーションが開発したのだが、初のアリーナ事業でホールばかりに目が行き人流をコントロールする道路事業をタイムリーに横浜市と協同することに気が廻らなかったのだろうか。現在アリーナの北側に通行者用のデッキを作っているが、完成は6月末だという。昨年9月の開業から1年近く経っての完成だから不手際を誹られても仕方がないのかもしれない。
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このデッキが完成すれば帰路の大混雑はかなり改善されると言われているが、デッキそのものがアリーナと帷子川の間にあって道幅を大きくはとれていない。開通後は現在の一本の横浜駅までの帰り道が三本位になりそうだが、会場を出てからしばらくは相変わらずの混雑が残ると思われる。Kアリーナの隣にはヒルトンホテル、アンパンマンミュージアムがあり、アリーナ前の空き地にはオフィス、ホテル、ミュージアム、専門学校、商業施設から構成される「リンケージテラス」が2026年に着工されるのでこの近辺の混雑はどうも解消されそうもない。老人はじっと家に閉じこもっているしかないのかも。

33年と4カ月という比較的短いサラリーマン生活だった。退学処分を食らってふたつの大学に通ったため卒業が遅かったこと、60歳の時に会社が解散になりどさくさで再就職など考えられなかったたことがその理由だ。引退後まだ働いている仲間を見るともう少し働いても良かったかなと思うことはあった。年金がフルに支給される65歳までそんなに潤沢ではない貯えを切り崩さねばならないことが心配ではあった。

その反面仕事を辞めて感じられるメリットもいくつかはあった。ずっと外資だったので英語から解放されたこと。毎月の売り上げに一喜一憂しなくてもよいこと。通勤電車からの解放。思いっきり夜更かしができること。

横浜駅の近くに住んでいるので買い物に出かけると出社時や退社時のサラリーマンとすれ違う。出社時に楽しそうな顔をしている人はほとんどいない。自分もあんなつまらなそうな表情で通勤していたのだろうか。帰省や法事でたまに新幹線に乗ると、サラリーマンがずっと働いている。車内でも会社貸与のPCやスマホを開きっぱなしで、返信を打つためにキーを叩いている。
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乗る前の待合室でも横一列に並んだサラリーマンがせわしなげに作業している。エクセルをにらんで固まっている30代。メールを次から次へと返信している40代。隣の50代のおじさんはPCとスマホの2台使いで、スマホの画面はLINEだ。出張中もGPSで居場所を握られ、LINEで追いかけられるのでは気が休まらない。私のサラリーマン時代も会社ではPCを睨むのが7割、会議に出るのが3割だったけれど、出張の時はゆったり息抜きができた。まだ良い時代だった。
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経費削減でグリーン車を使えず、宿泊代を浮かすために日帰り出張が増えたので、かつてのような出張の楽しみは激減しているらしい。なんだか皆さんお疲れの様子だった。スマホとLINEの功罪かな。それに比べて車内のグループ旅行の高齢婦人(オバちゃんたち)の元気なこと。もすこし静かにしてもらえないだろうか。これじゃゆっくり眠ることもできない!

朝食の時はいつもコーヒーを飲むが、寒い冬の午後は暖かい緑茶か紅茶のことが多い。しかしお湯を沸かすのが段々面倒になってきて、最近はペットボトルの緑茶をチンして飲むことが増えてきた。楽ではあるが風情がない。紅茶もティーバッグで淹れるのだが、それなりには楽しめるのだがなんだか物足りない。メーカーは「ティーバッグはリーフティーより下に見られるが、早く抽出するために同じ茶葉を細かくカットしているだけでランクが下ではない」と言うが、ミルクも砂糖も入れない自分にはただの温かい茶色の飲料に思える時もある。
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これは香りの問題で、コーヒーは豆を挽いて蒸すときにの香りで美味しく感じるし、紅茶もポットで蒸らしてからカップに注ぐときに香りが立つ。ティーバッグにはそれがない。鼻をつまんで飲むと味を感じにくくなるが、それと同様なことが起きるのでしょうね。香りの重要さは昔コーヒーキャンディや紅茶キャンディを試作している時にいつも感じていた。いくら良い素材で作っても香りに欠けるので本物っぽいコーヒーや紅茶の感じは出ない。結局ミルクを加えてお茶を濁していた。

ティーポットで淹れればいいのだけれど、洗い物や茶葉のゴミが出るのでその処理が歳をとると面倒になる。ティーポットは何種かあるし銀のティーセットもある。昔新婚旅行でカナダに行ったときになけなしの金で買ったものだ。当時は1ドル360円で、持ち出せる外貨は500ドルの制約があった。親父からもらった100ドル札もあったが、家内へのイヌイット製のショールと職場の同僚へのお土産以外に買ったのはこのセットだけだった。買えなかったのだ。
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この銀のセットは飾っておくには良いのだが手入れが大変。すぐに曇って黒くなり磨くのも手がかかる。この写真も磨いて10日くらいだが既に曇り始めている。銀磨きクリームもけっこう高価なので結局使わなくなって食器戸棚の奥に押し込められた。

紅茶はコーヒー、ココア(チョコレート)、タバコ、アルコールとともに世界の五大嗜好品と呼ばれてきた。少なからずの習慣性、依存性を持つ。その中では紅茶は最も健康的な嗜好品かもしれない。紅茶にはコーヒー同様カフェインが含まれるがタンニンも多く含まれ、それがカフェインと結合してカフェインの効果(興奮、覚醒、利尿、消化促進、強心)を和らげると言われている。タンニンは腫瘍の増殖や転移を抑制したり、血栓の形成を予防したり、強い抗酸化作用を持ち、ボケ防止にも効果があるとのことなので紅茶は老人にぴったりの飲み物である(日本茶も同様)。たまにはポットで淹れた紅茶をゆったり呑んでみることにしよう。

ここ20年以上花粉症に悩まされている家内が毎年この季節になると買い込む商品がある。「じゃばら」だ。ゆずに似た小型の柑橘類で酸味と苦みが強いのが特徴。邪払(邪気を払う)と書かれることもある。これが花粉症に効くらしい。
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もとは和歌山県の北山村に自生していた他の地域には見られない柑橘類で、鬼も逃げ出すその酸っぱさから邪気を払う「じゃばら」と呼ばれ、地元では食酢として使われていたという。1977年にある村人がたった一本だけになってしまった「じゃばら」を「変なミカンだが独特の味でうまい」と村の特産品にできないかと村議会に働きかけ、1982年に村営農場をが造成されて本格栽培が始まり、1985年初収穫を得た。1999年には村営ブログを立ち上げ農産加工品のネット販売も開始された。しかし特産品化を狙った「じゃばら」は思ったようには売れず、毎年果実がだぶついて2000年には撤退まで考えた。

その頃毎年20キロの大量の「じゃばら」を購入する県外の顧客に村の職員が購入理由を聞くと、「子供の花粉症に効く」との返事が返ってきた。そこで村長は「花粉症対策」をキーワードにして楽天市場での試験的出店を始めた。同時に花粉症に悩む1000人を対象に無料のモニター調査を実施したところ18000人もの応募があり、モニターの46%が症状が緩和されたとの回答を寄せた。「じゃばら」にはビタミンAとC、カロチンなども含まれているが、フラボノイドの一種であるナリルチンが多く含まれており、これが花粉症に効くのではないかと言われている。楽天市場の初月販売は2万円だったが、モニター調査終了後の翌月は55万円まで上がり、2001年の総売り上げは2600万円を計上した。テレビ番組で取り上げられることも増え「じゃばら=花粉症に効果」が浸透し始めた。
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翌2002年ネット販売の予約を開始すると果汁製品は1日半で完売し、2003年は1時間で完売した。総販売金額も2002年が5000万円、2005年は1億7700万円、2006年は2億2200万円と順調に伸び、田舎の小さな村でもネットの力を利用すれば大きなビジネスができることを証明した。村の税収が6000万円であることを考えるると2億はすごい数字だ(収益は約1500万円)。この頃は楽天市場やアマゾンでも発売するとすぐ売り切れることが多く、花粉の時期には家内はいつもPC画面ととにらめっこだった。

たった一本の木から始まった「じゃばら」栽培も現在は9ヘクタール7000本の規模になり、人口たった366人(1980年の790人から半減)の村の15人が管理する村一番の産業となった。建設省出身の村長と三重県から移住したIT責任者の二人の「よそ者」の尽力もあり、かつての「幻の果実」は特産品となり、村の財政を救う「奇跡の果実」と呼ばれ、ふるさと納税品にもなって過疎の北山村の社会的インフラを立て直す起爆剤になったのだ。

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