マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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毎日のようにクマのニュースが流れる。先日は山形新幹線の駅の車庫にクマが侵入して運休になったことが報じられていたし、自宅の庭、旅館や小学校に入り込んだとのニュースもいくつかあった。クマに襲われた人もかつてないくらい多い。4人の死者と60人の負傷者を出している秋田を中心とした東北地方だけのことかと思っていたら、関東でも東京都下の日の出町や八王子などでも目撃されている。東京都も「TOKYOくまっぷ」なる目撃情報サイトを開設している。
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関東地方でクマの目撃情報がないのは千葉県だけらしく、私が住む神奈川県も静岡県や山梨県方面からクマの目撃ラインがどんどん近づいている。足柄山の金太郎伝説があるものの神奈川県のツキノワグマは生息数が非常に少なく県の絶滅危惧種に指定されているくらいだ。それなのに今年は毎月7件から13件の目撃情報があったと県が発表している。全国ベースでは2023年と比べて目撃件数は1.4倍、年率18%で増えている。
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私はクマに詳しいわけではないしそんなに興味を持ってたわけでもなかったがこれだけニュースになると気にはなる。クマの数が激増してエサが足りなくなって人里まで降りてくるようになったらしい。そのうえに今年はクヌギなどのブナ科の植物の生成が悪く凶作でクマの餌となるドングリが激減したのでエサを求めて都会まで来る。冬眠の季節なのでその前に栄養を貯えこむ必要があるのだろう。

確かにクマの数は増えているようで、農水省の発表では北海道に生息するヒグマの推定個体数は1990年の「春クマ駆除制度」廃止の影響でこの30年間で倍増し、1991年の5514頭が2023年には1万1661頭へと増えている。本州のツキノワグマは(日本ツキノワグマ研究所長の米田氏によると)1970年の3千頭から3万5千頭へとこの半世紀で10倍強になったと推定される。ただ最近では農水省の資料では増加または安定化とある。四国では生息分布域が12%縮小し、九州では絶滅とのことだ。

北大の坪田教授によるとクマはもともとは肉食性だったが進化の過程で雑食性になり現在の日本のクマは食料の8~9割を植物から摂取する。残りの1~2割はアリやハチなどの昆虫で、生息地にサケやマスが遡上すれば捕食することもあるが獣を襲って肉を食べることには積極的ではないそうだ。つまり頭数が増え、主食のドングリなどが不作のためエサを求めて人里に降りてくるのだろう。

ネットでは人的被害をなくすため見つけ次第駆除すべきと言う意見と、原因は人間サイドにもあるのでクマとの共生を求めて生活圏の住み分けや緩衝帯の設置などの自然環境を整備すべきだとの意見が飛び交っている。時間のかかりそうな解決案に対しては日常的にクマとの接点がある住民からは、現場のことが分かっていないと反論も多い。

頼みの猟友会も高齢化し後処理まで考えるといつまでもボランティアに頼っているわけにはいかない。命がけの仕事だから。自衛隊や警察官への狩猟訓練も簡単ではないだろう。南知床の自治体のように野生鳥獣専門員(法人)を置き、野生動物の管理を猟友会でなく自治体から委託された法人がクマやキツネなどの駆除対応をしているところもある。自治体職員と法人職員が即座に対応できるのが強みとのこと。全ての地区で可能とは思えないが一つの方法ではある。

消費財メーカーのマーケティング部門に転職してブランド担当となった時は自分のキャリアパスなんか考えていなかった。面白そうな仕事だと思っていたしそれまでの代理店での経験がある程度は使えるだろうくらいに考えていた。英語では苦労したが製造現場や営業活動など新鮮な発見がたくさんあった。

その頃は小さなマーケティング組織でマーケティング・ディレクターの下にプロマネは私を入れて4人だった。私以外の3人は全員アメリカの大学を卒業していて、かつ2人はMBAホルダーだった。後で気付くのだが彼らは明確なキャリアパスを持っているようだった。当時でも私費で留学すれば1000万円はかかったはずだ。帰国後にその投資を回収すべく給料の高い外資のマーケティングに職を得て上位のポジションに上がることを考えるのは当然だ。そのために転職を繰り返すこともいとわない。単純に仕事が面白そうだからと考えていた私とは将来設計が違った。

一般的にマーケティング職、特にブランド担当の職位は下から順番にあげると次のようになる。

アシスタント・プロダクトマネジャー
プロダクトマネジャー
シニア・プロダクトマネジャー
カテゴリー・マネジャー
マーケティング・ディレクター
事業部長
ゼネラル・マネジャー
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最初のアシスタント・PMはジュニア・PMと呼ぶ会社もある。私がいた会社はプロダクト・スーパーバイザーと呼んでいた。若い新人や営業から異動してきた社員は大抵ここから始める。小さなブランドを担当するか大ブランドのプロマネの補助をしながら経験を積んでPMになる。
MBA保有者はプロダクトマネジャーから始めることが多い。ケーススタディを数多くこなし知識と疑似体験が評価されるからだ。アメリカなどでは大学を出てアシスタントPMを経験してから大学院に行きMBAをとってプロマネとして働き始めるマーケターが多い。出身校によって待遇が変わることが多く、私がいた会社のひとつではMBAのトップ10校出身者は1000万、それ以外は800万と初任給に差をつけていた。

その上にはシニア・プロダクトマネジャー職を置く会社もあるが、多くの会社ではカテゴリー・マネジャーという商品群を束ねるポジションがある。その下に数人のプロダクトマネジャーが属する。
そして数人のカテゴリー・マネジャーを統括するのがマーケティング・ディレクターで日本語ではマーケティング部長と訳されることが多い。カテゴリー・マネジャーだけでなく調査部門や、新製品担当グループがある場合はそれらのグループもマーケティング・ディレクター傘下となることがほとんどだ。

その上には事業部長が位置し、マーケティングだけでなく営業部門、製造、品質管理、お客様相談室なども管轄範囲となる。取締役又は執行役員であることが多い。
そして最上位にはゼネラルマネージャー。CEOとか代表取締役社長のタイトルの会社も多い。マーケティング部門からだけ昇格するわけではないが、外資系ではマーケ出身者の比率が高い。いま思いつくくだけでもネスレ日本の高岡浩三氏、コカ・コーラと資生堂で社長だった魚谷正彦氏、ユニバーサルスタジオから刀の森岡毅氏、リーバイスとトリンプで社長を務めた土居健人氏などがいる。高岡氏はネスレ一筋だったが、他の3人は数社の転職を経て上まで上り詰めた。外資系では転職派が主流だが、どちらが良いのか今の私には分からない。

先日かつての直属上司の娘さんから上司が半年前に亡くなったと連絡が入った。驚きと悲しみに襲われたが、なぜ半年たってから知らせが届いたのかちょっと不思議だった。2年前に一緒にゴルフをしたのが最後だったが、その時は通常と変わらぬ様子に見えた。お世話になったので少なくとも告別式には参加したかった。

その後のメールでの連絡で半年もかかった理由が明らかになった。上司はゴルフ会の後に癌で入院したのだが自分のPCのパスワードを忘れてしまい、家族にも知らせることができないまま亡くなってしまった。メールアドレスも、住所情報(年賀状ソフト)もすべてパソコンに入っているので、本人のPCに入れないと連絡をとる術がない。入院中に連絡があった人には闘病中であることは知らせたが「口外無用に」と告げられたので亡くなったことも分からなかったらしい。たまたま娘さんの上司が私のかつての仕事仲間だったことが判明したため私に連絡が入り、ゴルフ仲間や同僚に知らせてほしい旨の依頼があった。

私も10年くらい前から終活に取り組んでいる。レコードやDVDは、書籍はオークションに出し、残しておきたい写真はデジタル化し、その他の写真や手紙は処分し、銀行口座やカードは最低限まで減らした。遺言ではないがエンディングノートも書き、私の死後に家内がしなければいけない手続きやパソコンのパスワードは書き留めてある。私の上司は私より完璧主義者だったのでそのくらいのことはしてあったと思う。しかし記憶力が衰えたり軽度でも認知症になったりすればパスワードを憶えるのは至難の業だ。かつ最近は情報漏洩を避けるためパスワードを使いまわすな、頻繁に変更しろとメッセージが届く。時々変更はするがそれを憶えておくのは老人には結構大変だ。一応メモは取ってあるが変えるたびにエンディングノートを書き換えるのはもっと面倒だ。

最近は高齢者でもほとんどがスマホを持ち、半数がPCを使っている。かつて紙で記録していたデータはPCやスマホの中にある。家族の誰かが亡くなると残された者は銀行口座の凍結対応やクレジットカードの処分や引き落とし口座の変更など時間のかかる面倒な作業が多い。でもそれらは銀行やクレジット会社のサポートが期待できる。しかし故人のパソコンやスマホに残されたデータや情報を取り出すのは誰も助けてくれない。本来パスワードは本人しか知らないものだ。本人がしっかり管理し、万一の時のために家族が分るようにしておかないと連絡しようにも何もできなくなる。ネット証券を利用している人は特に注意が必要だ。家族は利用していることを知らないかもしれないし、口座番号やパスワードが分からないと遺産相続にも影響する。
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まず高齢者がすべきことは家族が知っておいたほうが良いデータの一覧表を作る。それらが紙の上に残されているのか、PCまたはスマホに入っているのかを明示する。紙であれば保管場所、デジタルデータであればどのPCまたはスマホに入っているのか、その機器ごとののパスワード、PINコード、ロック解除パターンとなんという名前のファイルに保管されているかをプリントアウトして残すこと。銀行なら担当者の名前と使っているハンコも書いておくとよい。私もエンディングノートはワードで作っているので毎回パスワードを変えるたびにプリントアウトして自分の机の引き出しに入れる。ここなら見つけやすいだろうと思う。最後にちょっとした感謝の言葉が添えてあればなお良いね。

うすむらさきの藤棚の 下で歌った アベマリア
澄んだひとみが 美しく なぜか 心に残ってる
君はやさしい 君はやさしい 女学生

詰襟の学生服を着た歌手が歌っていた。高音で優しい歌い方だった。髪型も顔も自分にそっくりでちょっとびっくりした。安達明と言う歌手だった。
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安達明。1948年生まれだから私のひとつ下だ。1962年にTBSの「10人抜きのど自慢」で初代チャンピオンになりジャニー喜多川にスカウトされる。1964年にジュニア小説「潮風を待つ少女」のイメージソングである同名曲でデビュー。2曲目がこの「女学生」だった。所属する日本コロンビアは舟木一夫の弟分として位置付けて売り込みをかけた。舟木が「高校三年生」を学生服で歌ったように、安達もこの曲の時は学生服だった。「女学生」は大ヒットし当時の歌番組の常連歌手となった。性格もやさしそうで女学生の間でアイドル的な人気があった。

しかしヒットと呼べるのはこの一曲だけで、1967年までに13枚のシングルを発表したが、68年に突然引退を発表した。いわゆる一発屋に近いのかもしれない。ただほとんどの一発屋が次の一発が出ることに淡い期待をかけてしぶとく粘るのと違いあっさりしたきれいな引き際だった。私の世代にとっては記憶に残る一曲でブログに思い出を書く人もいれば、ラジオでリクエストをする人もいまだにいる。たいていのカラオケには「女学生」が入っている。

引退後は銀座のスナックなどで弾き語りを生業としていたというから歌うことが好きだったのだろうと思う。2011年に63歳で他界したことを埼玉でレストランを経営されているご子息がSNSで報告されると、多くのメッセージが寄せられいまだに人気があることが判明した。レストランにはファンが訪れ、イベントも開かれ、墓石には「女学生」の歌詞が刻まれた。熱心なファンによる安達明を偲ぶ懇親会が2度も開かれた。ネットでのファンとのやり取りを知った日本コロンビアは急遽追悼盤CD「安達明ゴールデン☆ベスト」の発売を決めた。
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その後もファンの間では3回忌、7回忌も執り行われ、毎年ファンの集いも開かれている。ヒットは一曲だったが数十年経っても、歌い手が亡くなって、もかつての聴き手の心に、記憶に長く残るのだから音楽の力はすごい。彼の場合は人柄の良さもそれらを補強しているんだろうなあ。そうだ、実家の庭には藤棚があったことを思い出した。合掌。

子供のころ聞いていたのはアメリカやイギリスのヒット曲を日本語でカバーするポップスばかりだった。テレビの歌番組でもニールセダカやポールアンカの曲を多くの日本人歌手が歌っていた。そんな頃(1962年)アメリカンポップスとは少し肌合いが異なる曲が流れてきた。全英で4週間ナンバーワンを記録したジョン・レイトンの「Johnny Remember Me」の日本語版だった。邦題は「霧の中のジョニー」。女性コーラスの"Johnny Remember Me"のフレーズが耳に残っている。歌っていたのは克美しげるだ。張りのある中低音で声量もあるうまい歌手だと思った。これは彼のデビュー曲で40万枚売れた。
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その時は歌手としてはそれほど印象には残らなかったが、半年後の3枚目のシングル「片目のジャック」が個人的には刺さった。カントリーっぽいメロディだった。当時の克美はスポーツ刈りでいかにも田舎から出てきましたという風情だった。その風貌には「霧の中のジョニー」より「片目のジャック」の方が曲調も歌詞も合っていたのだと思う。その後は「忘られぬジョニー」とか「霧の中のロンリー・シティー」と柳の下の二匹目を狙うようなタイトル曲を出していたが、1964年にテレビアニメの主題歌「エイトマン」と歌謡曲路線に転じた「さすらい」が大ヒットし2年連続で紅白歌合戦にも出場した。この2曲は彼の代表曲となり専属バンドを抱えるようにもなった。
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60年代後半は大ヒットには恵まれなかったが毎年シングルを4~8枚出す順調さだった。しかし70年代に入ると人気に陰りが出始める。レコードの発売ペースも落ち、それをなんとか盛り返そうと音楽関係者を接待するなどしたため巨額の借金ができた。その借金を付き合っていた銀座のホステスに貢がせて完済した。その後もギャンブルでの借金を愛人の金で清算するなどしていたが、克美が妻帯者だと知ったホステスに結婚を求められる。

その頃所属するレコード会社は克美を復活させる企画を立て克美は1976年に再デビューを果たす。レコードの売り上げも悪くなかったが、愛人が顛末をメディアに暴露し再デビューが不成功になることを恐れた克美は彼女を絞殺してしまう。この時は新聞で事件を知って「あの克実しげるが」と驚いたことをいまだに憶えている。

裁判で10年の実刑判決を受けたが模範囚だったので7年後に仮出所が認められた。出所後はカラオケ教室を開くなどして生計を立てていた。離婚と結婚を繰り返し、1996年に4度目の結婚をする。以後は時々はテレビ番組に出てかつてのヒット曲を歌ったり、2008年には30年ぶりにコンサートを行ったが、2013年に脳出血により他界。

激動の人生だった。テレビで見る限りは腰が低く朴訥で誠実そうな性格を持つ一面、自己中心で身勝手という弱さを持った人間だったのだろうと思う。出所後のライブではデビュー曲もきっと歌ったはずだ。最後のパートをどんな気持ちで歌ったのだろうか。「霧の中のジョニー」は確かこの歌詞で終わっていた。

僕は決して忘れはしない 死んだあの娘の 最期の言葉を
Johnny Remember Me

10月に入りやっと秋らしくなった。しかし今年の夏も記録的な暑さだった。過去最高だった2023年と2024年を上回る暑さだったと気象庁が発表した。6~8月の平均気温は平年(1991年から2020年までの30年間の平均)より2.36度高かったそうだ。ダブル高気圧が日本上空を覆っていたこと、梅雨明けが早かったこと、海水温度の上昇が主な原因らしい。暑いわけだ。これでは後期高齢者は夏バテするはずだ。

9月に入って多少涼しくなったものの真夏日を記録する日が多かった。6~9月の東京都心の真夏日数は88回で90回と最高だった2023年に次ぐ日数だった。わが家も契約電力会社からメールで送られてくる「明日の節電タイム」に協力しながら節電には務めたが、我慢できずにエアコンを入れたことが何度もあった。下のグラフでもわかるように最高気温も高かったが、最低気温が平年より高かったことが睡眠に影響して老人には辛かった。(下図は萩原雅之氏作成のものを借用)
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この夏は北海道でも39度を記録するなど全国的に異常な暑さで、8月5日には群馬県の伊勢崎市で日本最高値となる41.8度を記録した。小学校の時に習った日本の最高気温は1933年の山形の40.8度で、40度など想像もできないと当時は思った。その記録は2007年に岐阜の多治見で記録された40.9度に74年ぶりに破られたのだが、ここ数年間は毎年のように最高気温が更新されている。いったい日本の温度はどこまで上がり続けるのだろうか。
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今年の暑さはダブル高気圧や極端に早かった梅雨明けなど例年にない要素もあった。これらは日本だけの理由だ。しかし化石燃料使用による温室効果ガスの増加が起こす気温上昇、それによって北極海の氷面積が減り太陽光の反射量減少による気温上昇、海面温度の上昇が引き起こす気温上昇は世界的な現象で日本だけでは何もできない。政府はは2035年までに2013年比で60%削減するとの目標を国連に提出した。EUは2040年までに1990年比で温暖化ガスを90%削減すると提案したし、中国も2035年までに温暖化ガスの排出量をピークの7~10%削減すると先月発表した。

パリ協定では各国は2050年までに温室効果ガスをゼロにすることを表明している。目標は立派だがトランプ政権が消極的なのと、最大排出国の中国の目標が控えめすぎること、わが国の削減への具体策が見えないことは懸念材料だ。国連で25%削減を国際公約として発表し、3年後に(大震災があったとはいえ)撤回された鳩山イニシアティブの再現にならねば良いのだが。多分老人は死ぬまでこの夏の暑さにいじめられるのだろうなあ。

ヒット曲もあり、人気もあったのに事件を起こし消えてしまったり目に触れる機会が激減した歌手が何人もいる。まず思い出すのが荒木一郎だ。
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荒木一郎は新劇俳優として舞台で活躍した後1950年代から80年代まで多くの映画やテレビドラマに出演した荒木道子を母に持つ歌手であり俳優だ。俳優としてスタートしたが作詞作曲もこなし、1966年にDJを務めたラジオ番組「星に唄おう」のテーマ曲「空に星があるように」を作詞作曲し歌手デビューを果たす。

空に星があるように 浜辺に砂があるように 僕の心に たったひとつの 小さな夢がありました

抒情的なつぶやくように唄うバラードだった。豊かな感受性と繊細な感性を感じさせる曲だった。「星に唄おう」は当時住んでいた名古屋の東海ラジオの番組だったのでよくラジオで流れていたし、テレビの歌番組にも出演して唄っていた。その前年からグループサウンズブームが始まり、ザ・スパイダーズやブルーコメッツなどがヒットを飛ばし音楽番組はGS一色だったのでこうしたバラードはかえって目立ち、レコードは60万枚以上売れて同年のレコード大賞の新人賞を獲得した。この年には映画「893愚連隊」で新人男優賞も受賞している。
翌67年にはそれまでの曲調とは全く異なるグループサウンズ調の「いとしのマックス」が5枚目のシングルとしてリリースされた。アコースティックギターを抱えバックバンドのマグマックス・ファイブを率いて軽快に唄った。

真っ赤なドレスを君に 作ってあげたい君に 愛しているんだよ 素敵な君だけを
ヘイヘイ マックス Want you be my LOVE そして君と踊ろう

この曲はデビュー曲を上回る125万枚のミリオンセラーとなり同年の紅白歌合戦にも出演した。映画にも毎年数本出演し、この勢いで当分人気は上がり続けるだろうと誰もが思った。ところが1969年に女優希望の女子高生に対する猥褻行為で訴えられ、不起訴にはなったもののメディアに叩かれて謹慎生活に入り芸能活動は中断された。確か新聞記事ではカメラテストをすると自宅に招いて犯行に及んだと記憶している。その後は映画出演などは継続されていたが、今度は1977年にはクラブ歌手からレッスン中に性的ないたずらを受けたと訴えられた。損害賠償を請求され非を認めて謝罪をしたものの納得しない相手と婚約者が荒木に暴力をふるい、荒木が告訴して二人が暴力容疑で逮捕されるという事態に至った。

この事件の影響のせいか1980年代からは活動を大幅に減らしているがシンガーソングライターや文筆業の仕事は継続されている。沢田研二や原田芳雄などの歌手への歌詞や楽曲の提供や、桃井かおりのマネジャーを務めたこともある。マジック評論家としても活躍し著書も出している。自伝小説の執筆や2016年にはデビュー50周年コンサートの開催もした現在81歳のマルチタレントは表舞台から少し下がったところでその存在感をいまだに保持している。

うちの近所のスーパーやコンビニではあまり扱いがないのだがタカキベーカリーのパンは好きなパンのひとつだ。最近のお気に入りは全粒粉入りの6切れフランスパンで、おいしくて妥当な値段(258円)だ。ヨーロッパの伝統的なパンを目標にしているみたいだ。石窯で焼いているらしく石窯パンとの表示がある。オーブントースターで焼くと皮はパリッ、なかはしっとりもちもちしている。
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タカキベーカリーの名を聞いたのは45年くらい前だった。広告代理店に勤務していた時に新規クライアントを獲得するための全社プロジェクトが開始され私にあてがわれたのはタカキベーカリーのチームだった。その時は社名も知らず「なんで広島のパン屋」を狙わなければならないのか分からなかった。

タカキベーカリーは被爆からちょうど3年目の1948年8月に広島市で誕生した。製パン業に加えて1967年にレストラン併設の広島アンデルセンを、1970年に青山アンデルセンを開店し、1972年には特許取得した冷凍パンの製法を利用してフランチャイズ店舗のリトルマーメイドの展開を開始した。2002年にはアンデルセングループを名乗り、タカキベーカリーは持ち株会社のひとつとなった。プロジェクトに参加した時には既に青山アンデルセンは開店しており私も大学生の時にデートで一度食事をしたことがあったのだが、タカキベーカリーが経営しているとは知らなかった。当時は知名率も低かったがいくらなんでも不勉強で、当然新規クライアントを獲得することはできなかった。
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社名のアンデルセンはデンマークの童話作家に由来する。創業者の高木俊介が1959年にコペンハーゲンで食べたデニッシュペストリーに感銘を受けて以来デンマークをお手本としてきた。デニッシュハートというデニッシュペストリーも発売しているし、リンゴやブドウなどを栽培する農場は「アンデルセンファーム」と名付けられている。それらの縁で1981年にデンマーク女王が来日した際に広島アンデルセンを訪問された。当時のメディアの反応は「なぜ広島に?」と言う感じだった。まだタカキベーカリーの認知は低かった。その後も1987年にはデンマーク皇太子が、2011年には第二王子が広島アンデルセンや青山アンデルセンを訪れている。高木俊介は1984年にデンマーク王国から騎士勲章を授けられ1986年には名誉領事に任命されている。

パンは良心的に作られていておいしく安心して食べられる。アンデルセンはデンマーク王国との関係だけでなく同国に出店もしているし(他に香港などにも)、冷凍パンの開発、「アンデルセンのメルヘン大賞」の設立など地方の私企業としては活発でユニークな事業展開をしている。また今では普通にみられるトングとプレート使用のパン屋のセルフチョイス方式を初めて採用したのも広島アンデルセンだ。関東ではアンデルセンやリトルマーメイドの名前は十分知られるようになったが、タカキベーカリーの浸透度はイマイチだ。先日近所のデパ地下のアンデルセンでバゲットを買った時に「ここは広島のタカキベーカリーですよね?」と言ったら、店員さんがすごくうれしそうな顔をしたのが印象的だった。

そんなに余裕があるとは言えないが何とか金銭的な心配が少ない年金生活を過ごせている。ただ財政的に逼迫状態だった時期は何度か経験した。歳をとってからの逼迫期は投資の失敗が理由なので反省・納得せざるを得ない。しんどかったのは社会人になった頃と結婚してからの数年だった。

私が社会に出たのは1974年だった。前年に第一次オイルショックが起き、経済成長率は5.1%から戦後初めてのマイナス成長に陥落し、トイレットペーパーの奪い合いがあった時期だった。消費者物価指数は24%も上昇し「狂乱物価」と呼ばれた。入社した広告代理店の仕事は面白かったが給料は安かった。忙しい部署で連日の残業で残業代が基本給に近づくことも時々あった。入社した年に従業員からこれでは物価上昇に追いつかず生活できないと不満が出て労働組合が結成された。翌年の春闘では30%を超える昇給を勝ち取った。これで暮らしていけると思った。

その年に結婚した。ボロアパートから高円寺の1DKのマンションに引っ越した。家賃は数倍になったので生活は楽ではなかった。それでも商売(倒産経験もある)をしていた家で育った家内は「毎月決まった額が決まった日に入るのは楽だわ」と気にする風もなかった。私が職場のマージャンで大負けして家に入れる額が減ったりすると大変だった。結婚した頃は自分の貯金を取り崩して料理学校に通ったり洒落た食材を買っていたが、だんだん貧乏サラリーマンの食卓になり、夕食のメニューがカレーとか大葉のパスタとかシンプルになった。帰りが遅いので深い時間に食べることが多かったし、独身時代に比べれば食事の質に問題などなかった。20年後くらいに「あの時はほんとにお金がなくて一番安くできるのがあのパスタだったのよ」と言われた。昼飯も下のパン屋でジャムパンを一個買って済ませていたようだ。

お嬢様育ちだったらしい家内は世間一般の社会常識や交渉能力に欠けているところがあった。あの頃は珍しくもなかったが、コンドームを売りに来る女性営業がいた。一種の押し売りだ。一度にグロス(12ダース)を1万数千円で売りつけるのだ。何度も断るのだが引き下がらない。最後に「今うちには2千円しかなくてこれであと2週間暮らさなくてはならないのです。どうしたらいいでしょうか」と言ったら呆れて帰って行ったそうだ。ある時は新聞の集金人が来たが「手持ちがない」と言っても納得しない。脅されたと恐怖を感じた家内は私のコレクションからオリンピック硬貨を引っ張り出してそれで払った。帰宅してその話を聞いてとんでもなく高い新聞料金に呆れ怒りもしたが終わったことは仕方ない。コイン収集はそこで止めた。

一番こたえたのは家に帰ったら「もうお米がありません」と言われた時だ。そんな台詞は戦後のドラマの中だけだろうと思っていたことが我が家で起きたのだ。あわてて親父からもらったロレックスを持って近所の質屋に駆け込んだ。学生時代から何度もこのロレックスには世話になった。結婚してからの数年間もけっこうな頻度で出番があった。後の返済が大変になるので借りるのはいつも1万円だった。そのロレックスは、もう時計など必要なくなった定年後に売り払った。

この程度の貧乏話は珍しくもないだろう。苦労したとあまり思わなかったのは、楽天家で金銭に関して拘泥しない家内に助けられた面もあるし、日本経済が右肩上がりで将来は明るいと皆が思っていた時期だったのも幸いした。現にその後の10年間は、転職したせいもあるが、給料が毎年二桁上がって生活は少しは楽になり子供を育てることもできた。今の若い人たちと比べることはできないが、時代に恵まれていたと本当に思う。競争相手が多い団塊世代に生まれ、損をしたと思ったこともあるが、今考えれば日本経済がまだ成長している時期に会社員としてのピーク時を迎えられたことは幸運だった。「団塊世代は最後の食い逃げ世代だ」とよく言われたが、今となってはその謗りを甘んじて受けたいと思う。

最近のゴールデンタイムはバラエティ番組だらけだが、昭和時代にはホームドラマが数多く放映されていた。テレビ放送開始後は「うちのママは世界一」や「パパは何でも知っている」などのアメリカの中産階級家庭を舞台にしたホームドラマが多かったが、その後は国産ホームドラマが盛隆となった。

その先駆けとなったのが「パパは何でも知っている」をモデルとした「ママちょっと来て」で1959年から4年間放映された。母親役は乙羽信子で、宝塚のお嬢様女優からしっかり者の母親へ見事に転身し、その後も「肝っ玉母さん(第3シリーズ)」など多くの母親役を演じた。当時は俳優というのは一種特殊な職業で今のように簡単にはなれなかったのと、五社協定があり他の映画会社だけでなくテレビ出演にも制約があったため、映画会社に所属しない宝塚出身者の出番は多かった。乙羽信子以外にも轟夕起子、淡島千景、八千草薫、月丘夢路、有馬稲子、新珠三千代などが宝塚出身でテレビで活躍していた。(左が乙羽信子、右が八千草薫)
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当時は多くのホームドラマが制作され、加藤治子、山岡久乃、京塚昌子、森光子は「日本のお母さん」女優と呼ばれていた。加藤治子は「七人の孫」や「寺内貫太郎一家」などでおっとりしているがテキパキと一家を仕切る品の良い母親を演じていた。山岡久乃はしっかり母さん的存在で「みんなで7人」「三男三女婿一匹」が代表作。京塚昌子は「ありがとう」「肝っ玉かあさん」で恰幅が良く割烹着が似合う母親役が記憶に残る。森光子は「時間ですよ」シリーズなどのチャキチャキ母さんが印象深い。(下は加藤治子と山岡久乃)
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あの頃は他にも沢村貞子、奈良岡朋子、荒木道子、池内淳子、杉村春子、三宅邦子、賀原夏子などの女優が母親役をよく演じていた。今思うと母親役には加藤治子、三宅邦子、荒木道子、轟夕起子などが演じるおっとり母さんと、森光子、沢村貞子、乙羽信子、奈良岡邦子などのキビキビ母さんの2種類がいた。

また母親の忙しさを強調するためだろうかやたら大家族が多かった。「七人の孫」「マンモス家族」「ただいま11人」「大家族」「三男三女婿一匹」などのタイトルを見るだけで大家族での母親の大変さが想像できる。確かに当時は大家族がまだ多かった時代だ。2025年現在ひと家族の構成人員は2.2人だが、1953年は5.0人だった。子供が5人いる世帯も珍しくはなく「七人の孫」のようにお手伝いさんがいる家庭も結構あった。

今では結婚しない単身者世帯も多く、老人の一人暮らしも激増している。昭和初期のような大家族とあの人間関係は若い人には受けないのだろう。ホームドラマはめっきり少なくなってしまった。それにここに名前を挙げた女優も有馬稲子一人を除いて全員他界してしまった。昭和は遠くなりにけり。

子供のころ住んでいた名古屋ではしょっちゅう赤福のコマーシャルが流れていた。「伊勢の名物赤福も~ちっ」と唄っていたのは藤田まことと記憶している。ただ赤福を食べる機会はそんなになかった。地元の人はお参りは熱田神宮に行くので伊勢まで出かける人は少なかったし、まだ名古屋駅の売店で売っていなかったような気がする。
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最初に食べたのがいつだったかは覚えていないが、あんこのまろやかさと品の良い甘さは印象的だった。ヘラですくって食べるのも気に入った。ひと箱全部食べたいくらいだったが家族で分けると一人3個くらいだった。翌日までとっておくと餅が堅くなって少し食感が変わるのが残念だった。

赤福は伊勢神宮の近所で売られ始めて300年以上が経つ伊勢を代表する銘菓、いや三重県を代表する名物かもしれない。創業は宝永4年(1707年)だから富士山が噴火して宝永山ができた年だ。赤福以外に三重の名産品には松阪牛と御木本真珠、桑名のしぐれ蛤くらいしか思い出せるものない。真珠と牛肉は高価なので手ごろなお土産としては貝新の志ぐれ煮か赤福餅しかないのではなかろうか。父親は出張で時々三重に行ったのだが、おみやげは赤福ではなく大抵は貝新のあさりの志ぐれ煮だった。個人的にはあさりよりしじみ煮の方が好きで今でも時々買う。貧乏性なんだろうな。
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東京に来てから赤福のことは忘れていた。赤福を買うようになったのは菓子の仕事をするようになってからだ。会社のチューインガム工場が名古屋にあり、キャンディの製造を依頼していた名糖産業もその近所だったので、当時担当していたホールズや開発中だったクロレッツの打ち合わせのため毎月のように名古屋出張があった。たまにはお土産をと思って駅の売店を覗くのだが昔から知っている納屋橋饅頭やきよめ餅は存在感がなくなって見知らぬ菓子ばかりになっていた。ただ赤福だけがいつも一等席に陳列されていた。名古屋名物ではないけどおいしくて安いので懐かしくて手に取った。8個入りが500円か600円だったと思う。

その頃には新幹線の他の駅でも売られていたし、社内販売でも扱われていたように記憶している。赤福は1960年代から積極的な拡大政策をとっていたし、1975年にフジテレビが「赤福のれん」という9代目主人の浜田ますをモデルにした連続ドラマを十朱幸代主演でオンエアし人気を博したことも影響していたのかもしれない。

しかしこの拡大政策が裏目に出て大量生産された赤福餅を賞味期限内に売りきることが困難になる。2000年代に入ると製造日と消費期限の偽造、冷凍製品の販売、売れ残り製品の再利用問題が発覚し、駅売店や百貨店での販売自粛や本店の臨時休業などが発生した。その後も元社長が経営する関連企業が暴力団との関係を報じられるなど不祥事が相次いだ。

最近やっと落ち着いた感じの赤福だが、8個入りの価格も2004年に720円に上げてから、760円(2016年)、800円(2022年)、900円(2023年)とこの10年で3回の価格改定だ。ヘラも木製から紙製へと変更するなど昔からのファンが失望しているのかもしれない。ネット上ではサイズが小さくなった、あんが甘くなった、食べるたびに味が違うなどのコメントが目立つ。可愛さ余って憎さ百倍的状態かもしれない。
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赤福は企業として売り上げ的にはほぼ単品経営なのだが、季節商品をいくつか持っている。今月は夏季限定の「赤福水ようかん」が企画販売されたので高島屋で予約して手に入れた。初めて食べたのだがなんとなく赤福のあんこを感じるし寒天分が少なめで食感はともかく餡の味が前面に出るのは好ましいい。ただ水ようかんの製造はデリケートでちょっとでも配合を誤ると固まらなかったり、硬くて水ようかんぽくなかったりする。赤福の水ようかんもまだ改良の余地は十分にある。でもその前に赤福餅の品質の安定化が先ではないかと思っている。

1971年7月20日三越の銀座通りに面した一角にマクドナルドの上陸第一号店がオープンした。その2か月前に大学を処分された私は銀座まで出かける元気もなかったが、テレビニュースでその騒動を見ていた。ハンバーガーを買うために長蛇の列ができ、メディアも多数集まり、周辺ではピエロが開店チラシを配っていた。
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ハンバーガーがどんなものかはみんなうっすら知ってはいたが、味にうるさい日本人の口に合うのかと訝しがる人も多かった。しかし一号店が日本の中心地である銀座のど真ん中だったこと、前年から銀座で歩行者天国が開始されていたこと、日本経済が高度成長期の真っ最中で沸き立っていたこと、などが重なり連日の大混雑だった。

当時の値段はハンバーガー1個が80円だった。マックフライは70円とちょっと割高で、コーヒー/コーラ/ファンタは50円だった。学食のカツ丼やカレーライスが70円、近所の洋食屋の定食が200円だった頃だ。私には値段よりも店内の見えるところでパテを焼き、ポテトを揚げてすぐその場で客に出すという見せるプロセスが新鮮だった。32秒で焼き上げるスピードもそうだが、売れ残ったハンバーガーは10分で、ポテトは7分で廃棄処分するというのが驚きだった。アメリカ式のマニュアル通りと言えばそうなのだが、「え、捨てちゃうの、もったいない」と皆が思った。

子供たちは給食でパンに慣れていてハンバーガーに抵抗がなかったこと、喫茶店入店を禁止する中学・高校は多かったがハンバーガーショップは禁止対象でなかったこと、外食と言えば寿司屋やレストラン中心で亭主がいないと行きにくかったがマクドナルドなら主婦も入りやすかったためハンバーガーは広い客層に受け入れられ一気に外食市場に入り込んだ。200円でおつりがくる値段も魅力だった。一号店には客席がなかったため、路上でハンバーガーを食べる若者が溢れ、それまでの立って食べる、歩きながら食べるというタブーをもいとも簡単に打ち砕いてしまった。

2年後の1973年からはテレビ広告を開始した。「味なことやるマクドナルド」のCMソングが首都圏に大量に流され、知名度が急上昇した。東京の後は京都、大阪、地方都市にチェーン店を展開し5年後の1976年には100店を突破した。その後1993年に1000店を、1996年に2000店を、1999年に3000店を記録した後現在もその数を維持している。
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昨年末に従業員101人以上の企業に対し女性管理職比率の公表を義務付ける方針が発表された。厚労省のデータによると我が国の管理職(課長職以上)に占める女性比率は11.6%だとのこと。管理職8人に一人が女性だということだ。これは多いのか少ないのか。企業労働者の44.7%が女性であることは世界平均と大差はないので、フィリピンの53%、スウェーデンの43%など多くの国で女性管理職が30%を超えている事実と比べると我が国の11.6%は最低クラスである。なぜ日本はこんなに低いのか。
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この11.6%は全産業の平均値で、医療や福祉や教育、金融保険業界ではそれより高い。看護師やケアマネジャー、教師や保険業には女性が多いから管理職が多くても当然だろう。逆に拠点を地方に持つことが多い製造メーカーでは一般的に女性管理職が少ない。メーカーでも資生堂やロレアルのように5割を超える比率の会社もあり、化粧品のように女性社員の多い会社が女性管理職の比率が高い(資生堂は80%、ロレアルは60%が女性社員)。でもこれは他の国に比べて低い理由の説明にはならない。

同じく厚労省のデータを見ると課長以上の管理職がいる企業は2023年時点で54.2%で(赤の点線)ほぼ横ばいで推移している。言い換えると約46%の会社には課長以上の女性はいないということだ。これが日本の女性管理職比率を押し下げている要因だろう。
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ではなぜ半数近くの会社には女性管理職がいないのか。パーソル総合研究所の調査データによると女性の活躍推進を阻害している課題として①女性の昇進意欲がない②十分な経験を持った女性が不足している③登用要件を満たせる女性が少ない④優秀な女性が十分に採用できない⑤企業全体の風土が男性中心になっているが挙げられている。冗談ではない。800人の回答者は経営層と人事担当層が各400とあるが、彼らは自分たちの責任を全く感じていない。明記されてはいなかったが多分800人のほとんどは男性だと思われる。五つの理由はすべて会社の責任であり女性社員の責任ではない。
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優秀な女性を採用できないから才能に相応しい経験を十分に積ませる機会が少なくなるし、登用要件を満たせる人材が生まれにくい。男性中心の会社だから「ガラスの天井」が意識され女性の昇進意欲が上がらない。これらは会社の組織として解決すべき大問題である。経営層や人事部がこんなことにも気が付かずに女性社員のキャリアを考えているとしたらそんな会社に未来はない。世の中には男性社員と女性社員しかいないのだ。

私が新卒で入社した会社の配属先の部長は女性だった。14人の部で14の机が長い島を作っていた。一番向こうに手動のタイプライターを叩いている中年の女性がいた。どこの会社にもこういう定年間際の女性がいるんだな、と思っていたら直属上司から「あそこにいるのが部長だ」と言われてびっくりした。(今思うと彼女はまだ30代だった。大人に見えた)。役員の秘書として採用され仕事を憶えていくうちに、上司が長期出張で不在中でも業務を滞らせることなく処理するようになり、秘書ではもったいないと会社の花形部門の長に選ばれたらしい。
父親が商船会社勤務で世界中を転々とし確か大学も正式には卒業はしていないと聞いた。判断力と決断力に優れ、人の長所を伸ばすことに長けていた。新入社員の自分が電話で得意先の依頼に困惑していると、「その依頼断りなさい。何か言ってきたら部長の承認を貰っていますと伝えなさい」とすぐアドバイスが飛んでくる。毎晩遅くまで全員が働く部署だったが、みんな自分たちがこの会社を廻しているという気概で働いていた。そういうふうに思わせる雰囲気を作り出すのも彼女の才能の一つだった。時々は彼女も含めた残業後の飲み会もあった。転職を繰り返し何人もの上司に出会ったが、最上のボスだったし自分の管理職像のロールモデルになった人だった。

だから私はその後の会社勤務でも男だからとか、女だからという発想はしないようになった。人はみな強みと弱みを持っている。それを見極め強いところをさらに強化するような業務や仕事のしかたをさせることが良い上司の条件だと思う。弱点を矯正するのは時間と痛みを伴う。褒めて育てる。そういうふうにしていると男とか女だからなんて気にしなくなるのだけれどね。

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生まれてから幼稚園まで住んでいた社宅の玄関横にはトマトが植えてあった。夏になるとそれをおやつ代わりに食べた。塩をかけて食べたのだがそんなに好きではなかった。野菜でもない、果物でもない蝙蝠の様な食べ物だと子供心に思っていた。

トマトジュースもドロッとした食感が嫌いだった。それにトマトジュースはポピュラーではなかった。我が国では昭和8年にカゴメ(当時の社名はは愛知トマトソース製造)が製造を開始し瓶入りの高級品だった。戦争で中断の後、昭和24年に製造を再開し30年代に缶入りにしてから需要が伸び、昭和38年にはデルモンテが参入して市場が拡大した。高度経済成長のひずみとして食品公害が表面化し、消費者の天然・自然・健康志向が高まったことも成長の後押しをした。

昭和47年にカゴメがテレビ広告を大々的に展開し始めた。「お酒を飲んだ翌朝は」のキャンペーンだ。九里洋二、太地喜和子、黒柳徹子、ちあきなおみと毎年酒豪タレントを起用したがやはり初年度の田辺茂一の印象が一番強い。紀伊国屋書店の創業者社長で「粋人」「日本一働かない社長」「夜の市長」などと呼ばれ、夜な夜な銀座で飲み歩くことで有名だった。その粋人がガウン姿で「夜の銀座より、朝のトマトジュースの方がいいや」と言いながら飲むトマトジュースは大人だけを対象にしたちょっと変わった飲料だった。大学生時代映画を見に行くとシネアドには必ずこのCMが入った。時々紀伊国屋で本を買っていたし、彼が慶応出ということは知っていたのでその大学を退学処分され他の大学に編入したばかりの自分はちょっと複雑な心境で遊び人社長の広告を見ていた。
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このシリーズ広告は5年続き、そのあと渡哲也の「しみるなあ、風呂あがりの一杯」に替わる。後ろ向きの二日酔い対策から積極的な健康管理に舵を切ったのだ。競合のデルモンテは慌ただしい朝の食卓にトマトジュースを加えることを訴求し、昭和51年にはキリンも参入し「赤い戦争」が始まった。3社で8割を超えるシェアを持つ寡占状態がしばらく続いた。
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最近は下降が止まらない野菜ジュースを尻目にトマトジュース市場は伸び続けている。スーパーマーケットでは前年比+50%というところも昨年あった。アスタキサンチンと並ぶ抗酸化成分であるリコピンが注目されていること、リコピンにGABAを加えたコレステロールや高血圧対策の機能性表示製品が市場を引っ張っている。トマトが値上がりしていることもあって料理用に無塩のトマトジュースが使われることも一因らしい。

市場の5割強を押さえるカゴメの強さは変わらないが、デルモンテと紙パック、缶、PETを揃えた伊藤園が20%前後のシェアで2位の座を争っている。3社で9割占拠だ。デルモンテは7月に米本社が破産法の申請をしたが、日本ではキッコーマンが1989年に事業を買収した日本デルモンテが製造販売をしているので大きな変化は起こらないかもしれない。カゴメはジュースだけでなくスーパーの高リコピンの生トマトの販売や、ネット通販で機能性表示食品の販売に力を入れている。私も先日ネット広告を見てケース買いをしてしまった。
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正確にいうと、米が買えないわけではない。望んでいるコメが望んでいる価格で買えないだけだ。買えない理由は下記の3点。
①今まで米は安すぎたと思う。しかし年金生活者は銘柄米に1キロ800円以上は払いたくない。
②この春に車を廃車にしたのでスーパーで安い5キロ米を買って車で家まで運べなくなった。
③頼みの綱の生協の宅配も値段が上がり、かつ数量限定で抽選制になった。

二カ月前に「コメの価格は下がらない?」でも書いたが、ずっと食べていた「こしひかり」や「つや姫」は5キロで2300円位だった。それが昨年秋には4000円台になり、今では4500円近い。2300円は安すぎだとは思うが、2倍は高すぎる。これ以上値上がると更なるコメ離れが起きるし、価格決定権を流通側に与え続けてはいけない。それを防ぐためにもキロ800円以上払ってはいけない。

近所で米が一番安いのはオーケーストアだが(それでも最近はキロ800円を超えるものが多い)、車を諦めたのでこの夏の酷暑の中を5キロの荷物を徒歩で15分運ぶのは後期高齢者には地獄だ。2キロなら他の荷物と一緒になんとか運べるが2キロの銘柄米だと選択肢がすこぶる限られる。
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それで生協の宅配となるのだが、最近は値段が近所のスーパーより高いことも多く、かつ数量限定で抽選に当たらないと買えない。まるで戦時中の米配給制のようだ。何万人の会員がいるのか知らないが限定数800ではまず当たらない。応募が少ないと思われる2キロを申し込むのだがこちらは供給数がさらに少ない。5キロは続けて落選したので最近は2キロ狙いだ。先週やっと当たった。コメを買うのにこんなに苦労するとは。下のヒノヒカリはオーケーで2キロ1599円、金芽米は生協で2.5キロで1990円で共にキロ800円未満。
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ニュースでは新米が流通されれば価格は下がると言っていたが、売られ始めた新米は予想より高い。JAが農家に前払いする概算金が前年より約3割高いからこれは当然で5キロで4500円前後、前年より1500円位高い価格で店頭に並ぶという。早場米でも高いものは5キロ5500円の値がついているものもあり、この夏の米どころの猛暑と渇水を考慮すると大きく下がることは期待できそうにない。
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消費者の弱みを見透かすようにネットではブランド米10キロ3990円(配送費込み)などの詐欺広告が頻繁に表れる。農家が消費者に直接売るサイトもあるが妥当な価格の米はすべて売り切れの表示が。おいしい米を妥当な価格で求める高齢者の米探しの旅は今日も続く。

私が生まれたのは昭和22年、戦争が終わって2年近くが経っていた。戦争の記憶はもちろんない。しかし上空を飛ぶ双胴の米軍輸送機はよく見かけたし、残されていた防空壕の記憶もある。当時住んでいた名古屋の中心部には進駐軍の駐留宿舎があり、たくさんの米兵がいた。下の写真は終戦直後の名古屋の中心部。中ほどの大和生命ビルに司令部がおかれた。司令部の前には「日本人は米国を尊敬すべし。日本人の軍馬は米軍を追い越すべからず。違反者は射殺する事あるべし」との進駐軍の警告文があったとのことだ。
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幼い頃家族で栄町に出かけると、道を歩く兵隊と出会った。セーラー服だったから海軍だったと思う。長躯で長い脚で大股で3人横に並んで楽しそうに歩いていた。米兵を見るのは初めてだったし、それまで見たこともないピカピカの革靴に目を奪われた。じっと見ていると母親が「いつまでも見ていちゃ駄目。殺されるよ」と言った。まだそんな雰囲気が残っていた。名古屋駅前や栄にはまだ白衣の傷痍軍人が何人もいた時代だ。戦争の痕跡はあちこちに残っていた。

数年前まで敵だったアメリカの文化は日本中に入り込み、ラジオからは毎日ドリス・デイの「センチメンタルジャーニー」やパティ・ペイジの「テネシーワルツ」が流れていた。いまだに私のカラオケのレパートリーだ。エンジニアだったため徴兵されなかった父親はアメリカのことを良くも悪くも言わなかった。私が赤子だった時に頭に腫瘍ができ病院でもう駄目だと言われたらしい。ただ米軍にはペニシリンという薬があり入手できれば助かるかもと助言され、父親はあちこちに手を廻して調達し私は一命をとりとめた。ペニシリン1本が当時の父親の月給2か月分だったと後年聞いた。

小学生高学年の時米軍は名古屋から去っていった。その時に軍の家具などのセールがあり、母親は私と妹にベッドを買ってきた。2メートルのサイズの小学生には大きすぎるベッドでスプリングのよく効いたマットレスがついていた。初めてのベッドでうれしくてよくマットレスの上でジャンプをした。天井に頭がつきそうなくらいジャンプできた。

そんな子供時代を過ごしたせいか身近にアメリカが、アメリカの音楽や小説があった気がする。大学を出たあと英語は得意ではなかったがアメリカの会社7社で35年勤務するというサラリーマン生活だった。卒業が遅れたので日本の大会社は入社試験さえ受けられず外資か中小企業しか選択肢がなかったのが現実だった。広告代理店でコカコーラの担当となり、その後転職してチューインガム、風邪薬、ペプシコーラ、抗癌剤、頭痛薬とアメリカの製品・ブランドの開発や企画に携わってきた。今では日本の製品の数多くがグローバル展開しているが、まだまだチャンスはあると思う。若い人には内向きにならず外に目を向けてもらいたい。と言いながら最近はアメリカが内向きになって扉を閉ざし気味になっているのが残念なのだが。

消費財メーカーでマーケティングを担当しているとテレビ局との関係が生じる。私が在籍していた会社には広告宣伝部がなかったので、局の人は広告代理店経由か直接プロマネにコンタクトをとってくる。大クライアントではなかったのでTBSや日テレには無視され、顔を出すのはフジテレビ、テレ朝、テレ東の3局だった。フジには広告費の半分くらいを出向していたので当然だが、当時は力のなかったテレ朝とテレ東は少しでも多く広告を取ろうとしていた。その割にはその2局の担当は親会社の新聞社出身(朝日新聞と日経新聞)で商売っ気が薄かった。その後両局は営業に力を入れ始め新しい担当が来るようになった。テレ東の担当はベテランでやたらゴルフの話を持ってきた。テレ朝の担当は新卒に毛が生えたような新人で熱心さが目立つ若者だった。

その頃は外資でも会社への入館規制は厳しくなく、ゲートもなかったし受付を経由しないで事務所に入ることが可能だった。デスクで仕事をしていて顔を上げるとそこにテレ朝のT君がいることがよくあった。「あ、すみません。8月は何GRP打つ予定ですか?御社のために枠をとっておきますので」とか話しかけてくる。スポット広告はGRP(延視聴率)単位で発注をする。彼が聞いているのは8月の関東地区での私が担当する製品の広告投下予定量のことだ。総量が分ればテレ朝へ出稿比率を推測して、その分のCM枠を押さえておこうというわけだ。通常は広告代理店に聞くのだが担当AEが情報を持っていないこともあるので広告主に直に聞いたほうがはやいと考えたのだろう。

スポットだけでなく番組の売り込みも熱心だった。突然やってきて「バレーボールが売れないんです。枠が残っているので買ってもらえませんか?」「駄目だよ。俺の担当製品とターゲットが違うし、CPMだって良くないよ」と断る。CPMとはCost per Milleの略で到達千人当たりのコストのことで広告効率を測るひとつの物差しだ。「でもそこをなんとか」彼はこういうメリットがあるとか、私の担当製品とのイメージの近似性とか、そんなことは一切言わない。「買ってください!」の一本槍なのだ。

数日後他局のゴルフ接待から帰ってくるとマンションの玄関にT君がいた。引っ越したばかりで住所を知っている人は少ないのだが、じっと私の帰りを待っていたらしい。仕方がなく家に入れお茶を出した。「バレーボールまだ売れていないんです。なんとかなりませんか?」体育会出身だけあって体力と熱意はすごい。結局買わなかったが彼の熱意には感心した。営業マンは製品を売り込む前に自分を売り込め、とよく言われるがこの点で彼は成功していた。

その後私は関西の会社に転職し他の業界に移った。広告を打たない業界だったのでテレビ局やラジオ局の人たちはもう用がないと私のところには全く来なくなったし連絡も途絶えた。ただT君ひとりが毎年年賀状を送ってきて、肉筆で「今年もEXをよろしく」とか「SNSいつも楽しみに読んでいます」とかのメッセージが書き添えられていた。

10年近く経った後、私はひょんなことから東京に戻りまた広告を担当する立場になった。入社して二カ月後に父親が亡くなった。急いで半田(愛知県)で葬儀の準備をし喪主として御礼の挨拶をした。挨拶をしながら数十人の弔客を眺めると最後列の端っこに喪服のT君を見つけた。どこで情報を得たのか知らないが、ずっと年賀状だけの関係だったのに電車を何本も乗り継がねばならない不便な半田の片田舎まで弔問に来てくれたと思うと広告主とメディアの関係以上の心持がした。

その数年後広告代理店とテレ朝が新しく始まる番組の売り込みに来た。ココリコがゴールデンで初めて持つ冠番組「いきなり!黄金伝説。」だった。裏も強いし数字を取りそうになかったので断った。翌月テレ朝の担当がまた来た。隣に部長となっていたT君がいた。今回も「お願いします!」だった。値段もそうとう下げて持ってきたので効率的にも問題はなくスポンサーの一社になった。放送開始後予想以上に人気番組となり視聴率も上がった。翌年テレ朝の営業が来て、数字が良いこと、他社と比べて料金が破格に低いことを挙げて他社並みの料金改定の提案をしてきた。T君の顔は十分立てたので一年でスポンサーから降りた。その後T君は系列局の社長となって九州に赴任した。

T君は私が35年働いた中で最も親しかったメディア側の人だが、彼とは一度も酒を飲んだり、ご飯を食べたり、ゴルフをしたりしたことがない。彼がそのような仕事のしかたをしなかったことと、私も彼と彼の熱意を信じて接してきたし、買えないものは買えないと正直に言ってきた。仕事の話しかした覚えがない。クライアントと営業というより仲間とか戦友という感じだった。先月SNSでT君が9年の九州生活を終え東京に戻ったと知った。また会えたら初めて仕事以外の話ができるかもしれない。

先日仲間うちのゴルフコンペに参加した。16人のうち100以上打ったのは5人で、私はその一人だった。4番ホールのティショットを打った時腰に電気が走った。あ、ぎっくり腰かなと思ったが何とかプレイは続けられた。しかし9番でまた痛くなった。なんとか40台で終えて昼食休憩で回復できるかもと期待したが、一時間近く座っていたらひどくなった。

午後は棄権も考えたが久しぶりのコンペなので恐る恐る続けた。腰が痛いので手打ちになり球は左に飛ぶ。スコアはボロボロになりやっと終えることができた。以前にも腰痛があってもプレイすることはあったがここまで痛むことはなかった。腰をかばうばかりにいつもとは違う筋肉痛が翌日以降も続いた。
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10年くらい前まで地元のゴルフサークルの幹事をしていたことがある。引退した老人数十人のグループで、車の運転をしなくなった高齢者には送迎のバスつきゴルフは楽ちんだった。ただ段々「18ホール廻るのが辛くなったのでもう案内状を送っていただかなくて結構です」という老人が何人か出た。よく考えると自分がその年齢になっている。その老人たちを最近見かけることがないし、亡くなった方も多い。自分も先月78回目の誕生日を迎えた。若いつもりでいたがスコアと体の痛みは正直だ。

もともと運動神経がある方ではないし、体力もない。付き合いで始めたゴルフだし、80台で廻ったこともあるが若い時でもせいぜい90台の半ばで回るへなちょこゴルファーだった。最近は100を切ることが難しくなった。飛距離も体力も落ちた。先日のコンペも初心者中心の会だからと誘われて参加したのだが、回を重ねるたびに若い人のスコアは縮まり、老人のスコアは悪化の一途だ。最近は上級者も加わり両ハーフとも30台で回る人もいる。迷惑をかけているのではと思うとプレイそのものが楽しくなくなる。変なプライドもあってゴールドティから廻る気にはなれない。

こうなると残されたのは段階的撤退の道だ。まず大きなコンペには参加しない。昔の仲間とか親しいゴルフ仲間とスコアを気にせず半日楽しむだけでよいではないか。3か月前に車も廃車にしたしピックアップしてくれるゴルフ仲間も多くはない。うまくもない自分に声を掛けてもらえるだけ幸せではなかろうか。お声がかからなくなった時がゴルフを辞めるタイミングだろう。ゴルフ業界では私の属する団塊世代がゴルフを離れる時が業界としての危機だと言っている。一人ではできない趣味だし、体力もそれなりに必要だ。いつかは諦めなければならない。そういえばシングルプレイヤーだった父親もそうやってゴルフから離れたことを思い出した。

Old soldiers never die. They just fade away.
老兵は死なず。ただ消え去るのみ。

一昨年記録的な暑さにうんざりして「今年の夏は暑かった」(https://mktrojin.livedoor.blog/archives/21472070.html)」とこのブログに書いた。昨年はさらに暑かったが書く気力がなかった。今年の夏は始まったばかりだが、書かずにはいられない。暑い!
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毎日がほぼ猛暑日で午後2時には34~35度近くになる。その日数は上図のように年を追うごとに増えている。暑くなる前に買い出しに行くのだが、帰ってくるとシャツは汗だくになって着替えることになる。本当は駅近の総合スーパーまで行って買い物したいけど暑いので近所のミニスーパーで間に合わせる。肉や野菜を中心に買うのだがアイスの購入量が増えて今日もレジのおばさんに「暑いものねえ、アイスがここ数日すごく出るのよ」と同情された。

ここ何日かは北海道で40度に迫る予報が出ていて驚く。フェーン現象もあるのだろうがテレビの天気予報ではフェーン現象にはほとんど触れない。北海道周辺の海水気温が平年より約4度上昇していることが主たる原因らしい。とすると北海道の暑さはしばらく続くと考えれれる。昨年からのコメ価格の高騰でわが家は「こしひかり」「つや姫」から北海道産の「ゆめぴりか」や「ななつぼし」に切り替えたので収穫前の高温とくに夜間の高温が続くと作柄に影響が出るのではないかと心配だ。

コメだけでなく気温が上がると家畜も食欲が落ちる。鶏は卵を産まなくなり、豚も痩せ、乳牛は乳の出が悪くなる。すると鶏卵、豚肉、牛乳やバターの価格が上がる。葉物野菜も高温にやられている。それでなくても食費の値上がりに恐々としている年金生活者が次に痩せる番だろう。

下図のウェザーニュースがまとめたデータによると日本の平均気温はこの120年間上がり続けている。この25年間、特に最近の5年間の上昇は異常だ。私の部屋は南に面した角部屋だが、今朝と言っても9時過ぎだが、起きた時に(エアコンはタイマーで夜中に切れているので)室内温度は31.8度あった。また7月なんだぜ、と独り言を言いながら朝風呂に入るのが習慣になった。
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風呂から上がるとエアコンのスイッチを入れる。熱中症で倒れたくないからね。もうエアコン老人にとってはAir Conditionerなどではなく、「生命維持装置」と呼んだ方がいいのかもしれない。

若いころは座右の銘とかモットーとは無縁だった。行動の指針になるようなものなど必要ない、その時々の状況に合致するようにアクションをとれば良いと思っていた。

しかし社会に出ると会社にはMission、Vision、Valueなるものが存在することを知る。Missionは「使命」と訳されるが「存在理由」の方が分かりやすい。Visionは「将来になりたい姿」、Valueは「行動指針」と訳されることが多い。簡単にまとめると、その会社は何故存在し、将来の目標をどうやって実現するのか、となる。その三つをWhy?、What?、How?を置き換えると分かりやすい。日本の企業には社訓とか社是と呼ばれるものが存在するが、グローバル企業は世界中に事務所を持ち国籍も従業員の背景も文化も異なるので、全員が同じ方向を向くためにこうしたものが必要になる。

最近は抽象的な概念を含むことが多いMissionやVisionよりも具体的な行動指針に結びつきやすいValueを重要視する会社が多い。会社によってはValueを行動規範と呼んだりクレド(Credo)という語を使ったりする会社もある。Credoとは信条や志を意味するラテン語で私がいた会社ではクリードと呼ばれていた。

クレドは1943年に米J&Jが「我が信条」として初めて考案されたが、有名になったのは1982年にそのJ&J製品に何者かによる毒物混入製品が発生した「タイラノール事件」の時だった。J&Jは「我が信条」の冒頭に「我々の第一の責任は、すべての顧客に対するものである」と明記された通り、このクレドに基づいて迅速に製品回収をして事態収拾を図り、消費者の信頼を勝ち取ったことでJ&Jの信用とクレドの効用が全米に知られることとなった。今ではクレドに従った行動をとることが上司の指示より優先されることもあるし、リッツカールトンのようにクレドを実行するために従業員に一日上限2千ドルを自由に使うことができる決裁権を与える例もあるくらいだ。

私が在籍していた製薬会社にもValueがあり、人の尊重、誠実性、卓越性の三つが挙げられていた。管理職として入社しその翌年数十人規模のグループを率いることとなった時、自分なりのValueというかモットーを提示しなければいけないと感じた。部下になる人のほとんどは私のことを知らないし、他の業界から来たよそ者が突然ボスになることに対する不安もあると思った。それで、それまでも時々使っていた「Fair, Share, Care」を思い出し最初の会議の日のプレゼンの最後に全員の前で発表した。

Fair - 誰に対しても差別することなく公平に接する。
Share - 自分が持っている知識や情報は誰にでも分け与え共有する。
Care - 他人に対して常に関心を払い、深入りしない程度に面倒を見る。

これなら会社のValueである、人の尊重、誠実性、卓越性と大きな矛盾もないし、韻を踏んでいて覚えやすいという利点もある。少なくとも「人には優しく」というメッセージは伝わったと思うし、上司の外人からも「俺のモットーよりわかりやすい」とのコメントももらった。それ以降仕事の時だけに限らず何かあったら「Fair, Share, Care」と呟きながら解決策を探ることにしている。

子供のころから広告が好きだった(39)

何十年も前に見ていた広告、聞いていたジングルをいまだに憶えている。テレビを見始めたころはNHKだけだったし、一日に数時間しか放送はなかった。翌年民放(CBC)が開局し、その二年後にTHKが放送を開始したので広告に接する機会は多くはなかった。

当時の広告は番組内で流れるものが中心で、30秒や60秒CM、時には3分の生CMも流れた。大メーカーはごぞってテレビ番組のスポンサーとなり、番組の多くは一社単独提供だった。その番組も映画や記録映画、「兼高かおる世界の旅」などの番組以外はドラマもクイズ番組も全部生放送だった。1958年にテレビに危機感を持った主要6映画会社がテレビ局への作品販売や所属俳優の派遣を停止したために各局は代替としてアメリカ製のテレビ映画を輸入し放映を始めた。やがて「うちのママは世界一」「パパは何でも知っている」「名犬ラッシー」「ララミー牧場」などは人気番組となった。

会社名に対する信頼が強い時代で、広告は今のようにブランド訴求するものは多くなく、会社名がまず前面に出て、その後にその会社の製品であることを訴える傾向が強かった。「ヤマハエレクトーン」「大正漢方胃腸薬」「カンロ健康のど飴」のように我が国のブランディングは社名+製品名の二階建てブランディングが中心で、ブランド売買が一般的なアメリカとは異なる面を持っていた(ブランド売買時に社名と密接にリンクしていると売却しにくい)。テレビ広告も社名を知らしめる目的が強く、社名の連呼や社名と製品群をまとめて訴えるものが多かった。

特に家電や医薬品など製品の機能や効能効果、アフターサービス(死語?最近聞かない)などを重要視されるカテゴリーではこの傾向が強かった。すべての提供番組の冒頭に入るナショナル(現パナソニック)のCMソングはこんなだった。

明るいナショナル 明るいナショナル
ラジオ テレビ なんでもナショナル
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もう片方の家電の雄である東芝の広告。

光る 光る 東芝 まわる まわる 東芝
走る 走る 東芝 歌う 歌う 東芝
輝くひかり ひかり 強いちから ちから
みんな みんな 東芝 東芝のマーク
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極めつけは武田薬品のジングルだろう。なにせ社名だけしか出てこないのだ。

タケダ タケダ タケダ
タケダ タケダ タケダ
タケダ ターケーダー
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このシンプルさが記憶に残る原因かもしれない。いまのCMやジングルは昔より秒数が短くなっているのにいろんなものを盛り込みすぎているような気がする。

(武田薬品のジングルは下記のサイトで聴くことができます)
https://www.youtube.com/watch?v=EGc0_0DG4Zg

今日フジテレビが「検証 フジテレビ問題 反省と再生・改革」と銘打った2時間番組を放送していた。局アナ二人が司会をして社長がゲスト2名の質問を受けて答えると言う珍しい構成だったので思わず見てしまった。
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内容としてはこれまで報道されたものと大きく変わるものではないが、フジテレビの組織としての脆弱さ、女子アナをキャバ嬢のような接待要員にしてしまうモラルの劣化、人的資源の貧弱さ、権力を持つ者の独裁者化とそれを正せない体質などまるで旧体質の大個人商店のようだ。以前ニュースで前社長を見てこの社長で大丈夫かと思ったが、ヒットした番組を制作した人が経営能力資質に関係なく管理職から役員に抜擢されているという印象だった。

新卒で広告代理店に入社し、それ以降は広告主として35年にわたってフジテレビと付き合いがあった。70年代はテレビ局は2強2弱1番外地と言われ、TBSとNTVが2強、テレ朝(当時はNET)とフジが2弱、テレ東(当時は東京12チャンネル)が番外地だった。フジには「サザエさん」以外に視聴率を取れる番組がなく河田町の本社も活気に乏しかった。営業部員も他局と比べて切れ味に掛け、低姿勢で販促や接待に力を入れているように見えた。

70年代半ばに「欽ドン」第一弾が始まり、80年代に入るとそれまでの「母と子のフジテレビ」から「楽しくなければテレビじゃない」にキャッチフレーズを変え「ひょうきん族」「笑っていいとも」など高視聴率番組が生まれた。若者にターゲットを絞ったのが成功し、ティーン向けの菓子製品を扱う仕事をしていたのでテレビ向け予算の半分近くをフジテレビに割いていた。「オールナイトフジ」も「夕やけニャンニャン」も開始時からのスポンサーだった。営業成績が上がってくると放っておいても広告枠は埋まるのでこの辺りから驕りが始まったのだと思う。同時に広告主に対する面倒見も悪くなった。ある時フジテレビの会議で関東の広告出稿の上位10社に私がいた会社の名前を見つけた社長が「それは何の会社だ」と言ったと営業部員から聞いた。トライデント、ホールズ、クロレッツ、メントスなどの菓子類とカミソリのシック製品、洗口液のリステリンなどが広告を打っていたが社名を前面に出さないので知らなかったのだろうが、クライアントに目を配っていれば知っていて当然だし、事前に説明しなかった営業部も手抜きだと思った。

80年代後半に視聴率で三冠王となり一度は日テレにその地位奪われたが、96年には「スマスマ」が始まり翌97年にはお台場に移転するなどの話題もあり2004年には三冠王を奪還した。しかしその後は過去の成功体験に囚われ改革が遅れ、視聴率的にはまた二弱に戻ってしまい今ではテレ東に追いつかれそうな状態だ。今日の番組では反省だけでなく改革案を提示していたが、企業のカルチャーや風土を変えるのは組織を変えるのと比べて困難なことが多いし時間も必要だ。今日の番組では社長が反省の言葉を並べたが、もっと社員レベルの意見や改革案を示すべきだった。またテレビ局は公器でもあるのでこうした反省と改革の進展を定期的に視聴者に提示する必要もあると思う。今のテレビ局は同業他社との競争だけでなく動きの速いネットとの争いでもある。今までのような改革ペースでは広告主の信頼を再獲得し、じり貧から抜け出すことは容易ではない。

東京都区部の6月の消費者物価指数が発表された。生鮮品を除くと対前年比で+3.1%の上昇だった。ただこれには東京都で6月から実施された水道料金の基本料金の無償化のインパクト(-34.6%)が含まれているし、5月末から再開されたガソリンの定額補助も入っている。都民でもなく3月に車を廃車処分した自分には関係がないし体感としてはその何倍にも感じられる。
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生鮮品を除いた食料は+7.2%と伸びが続いている。生鮮品に属するコメは+90.6%と相変わらずの高騰だし、ブラジルの鳥インフルで輸入が止まり国産鶏肉が値上がりして+10.5%と二けたアップとなった。毎日スーパーで買い物をしている専業主夫としてはこの諸物価の値上げはいつまで続くのだろうかと心配になる。大企業のサラリーマンは今年5%強の昇給があったが、年金は1.9%の増額でとても物価の上昇には追いついていない。

それで例によって今年1ー6月の家計簿をまとめてみた。食費は月平均78000円で、対前年比+9.9%とやっと一桁で収まった。支出額が増えたのは米と麺類、野菜でそれぞれ前年比で約1万円増えている。パーセントにすると+41%、+61%、+21になる。コメが高くなったので麺類の出番が増えたことがよくわかる。野菜の値上がりも結構なインパクトだったし、額は大きくないがたまごは+50%、魚類は+31%と老人の蛋白源支出も激増した。後期高齢者夫婦なので食べる量は前年と変わっていない。食品の単価が上がっているのだ。

今年上半期に値上げされた食品は6650品目と相変わらずの多さだ。その平均値上げ率も15%とけっこうな上げ幅だ。6月だけでもコメの値上がりを受けてサトウのごはんは11-14%、味の素のおかゆも10-11%、不漁の海苔製品は11-31%と値上げされた。海苔の値上げの大きさはコンビニ店頭の海苔なしのおにぎりの数が増えたことでも想像がつく。菓子ではチョコの値上げが目立つ。数年前まで110円で買えた明治の板チョコが147円に上がったと思っていたら今日は180円だった。店頭価格が変わっていない森永かロッテを買うしかない。
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ぶつぶつ文句を言っても食べなければ死んじゃうので、高値でも買わざるを得ない。老人は食べることだけが楽しみだからね。もう一度家計簿を見直して食費で上がった数万円をどこで帳尻合わせをしたのか調べたら、私のゴルフだった。回数もコストも半減していた。ちょっと悲しい。

米はずっと魚沼産のコシヒカリを食べていた。2023年の作柄が良くなくて味が落ちた気がしたのでつや姫に変えた。名前の通りつやがあるし好みの典型的なSticky Riceだ。生協で買うと5キロで2300円位だった、2023年末までは。それから価格は上昇をはじめ2500円から2800円台へあがり、昨年夏には3500円に、そして10月には4082円と最高値となり今年の3月には4427円と記録を更新した。確かに今まで米は安すぎたのかもしれないが、いくらなんでも高すぎるので少し安いゆめぴりかに切り替えた。

しかし銘柄米の値段はさらに上昇し5キロ4700円から5000円が普通になった。老夫婦二人で米を炊くのは夕食だけなので5キロあればひと月は持つ。育ち盛りの子供を持つ家庭と比べると負担は少ないが理由が明確でないまま値上がりするものを買い続けるのも腹が立つ。多少味を犠牲にして5月は北海道産のななつぼしを、6月には茨木産コシヒカリを購入した。ななつぼしは4190円、コシヒカリは4319円だった。

そんななか農水大臣が更迭され小泉新大臣が就任した。矢継ぎ早に備蓄米を放出し近所のスーパーでも時々目にするようになった。しかしこれは抜本的解決にはならない。90万トンあった在庫は10万トンになりこれ以上の出荷はできない。秋の収穫も例年通りかそれ以下と予測されている。下図で分かるように日本の人口が増え続けていた2008年以前でもコメ離れが起きていて総需要量は下降トレンドだった。需要減に合わせるように価格維持のための減反政策をとってきたのだから生販のバランスはとれていると言ってもよい。新米の収穫が予想通りなら値段が下がる要素はまずない。
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このトレンドを信じるならば昨年度は多少需要が上回っているもののパニックが起きるほどのことではない。米を切らすことができない外食産業が在庫を積み増していることはありうるし、それによる「不足感」が市場を混乱させているとも考えられる。政府は入札で販売した備蓄米30万トンが投機筋が抱え込んでいるとか、流通が目詰まりを起こしているとか、インバウンドで需要が増えたとか説明していたが、投機筋が抱えている量はさほど多くはなく、かつこれは高値になったことで起きた結果であり原因ではない。大手流通会社は目詰まりなどありえないと言っているし、インバウンド消費で悪者視された中国人は南部の中国人は米を食べるが北部の人は小麦粉で作る麺やマントウ(蒸し饅頭)が主食なのでそんなに米は消費していないと言う。

もうひとつ考えられるのは上記グラフの生産量の信憑性だ。生産量は玄米ベースで発表されるが、通常精米されるときに1割ほど胚芽部分が減る。前年は作柄が良くなく精米時に割れなどにより2割減ったという農家の報告もある。つまり生産量(玄米)と消費量(精米)の乖離が前年の作柄によって拡がったことが原因のひとつだ。また作柄が悪く精米したコメが小さくなると主食用ではなく外食用にまわされ、さらに小さいものは煎餅などの菓子用に使われることになり米不足の一要因にはなりうるらしい。

一部ではいまだ米は特別な主食と捉えられているが、家計調査を見ても米の購入金額は年2万7196円で、パンの3万4609円より21%も低く麺類(2万2114円)を加えた小麦製品の半分にも満たない。その小麦粉もキロ当たり352円と41%も値上がりし、パンだっていつも買っている超熟は168円から243円と45%も上がっている。それを全く問題視せず米の価格ばかり取り上げているメディアも少しは反省してもらいたい。ま、小泉大臣はメディア受けするキャッチーな発言をするし、テレビ局はスポンサーとして米屋よりパン屋を忖度する気持ちも分からないではないけどね。
 

マンションの管理組合の理事を1年してこの1年は理事長として過ごした。なりたかったわけではないがなんだか知らぬうちになってしまった。理事の時とは全く違う仕事量とプレッシャーだった。築後30年が過ぎ2回目の大規模修繕とエレベーターの更新工事準備がほぼ同時にはじまり、約10億の金額が動くのでプレッシャーがあって当然なのだが。おまけに来年度は管理会社が3年ぶりに管理委託費の値上げを求めてきているのでこれも紛糾の種だった。

私が住むマンションは400戸を超えるマンションで、十数人の旧地主の地権者、100戸近くを所有するUR、私のような普通の組合員、それに十数件の店舗からなるので関心も地元への愛着も様々だ。理事長として最初で最後の総会なので結構緊張することになる。30年以上経っているので過去に理事長や理事をやった80代の爺さん婆さんがたくさんの質問をしてくるのは予想できる。彼らは過去の細かいいきさつや、管理規約に則っているかなどの子細な点を突っつくばかりで大きなビジョンを描くことは不得手のようだ。そこを攻めると「その頃まで生きていない」と逃げを打つ。

議題も8件あり3時間の予定では終わらないかもしれない、と不安を抱えて総会が始まった。例年議題に関係ない意見を延々と述べる老人がいるので、冒頭にそのような発言を続けると発言中止、それでも辞めないと発言禁止、それでも駄目なら退場もありうると通常よりも強いメッセージを送った。1号議案は事もなく承認され、給排水管工事に関する2号議案も可決された。3号議案はエレベーター関連で諮問委員会がうまく説明してくれたのでなんとか終了。残された議案のうち管理規約の改定を含む特別決議が必要な役員数変更議案あたりから細かい質問が増え始め予定の3時間を超えた。

一番揉めそうな管理委託契約(委託費の値上げ)はまず管理会社が簡単に背景を説明した。これ以上続けると値上げする側の説明でマッチポンプになるので私が引き取って数字を使って説明した。まず近隣30のマンションの平米当たりの管理費の比較。過去からの管理費の増減。次に国交省発表の全国のマンション管理費との比較。住民アンケートによる管理会社の評価結果。最後に合い見積もりをとるまでの経過(結局どこも人手不足で新規に大規模マンションは担当できないと辞退)、値上げを受けた場合の管理費のキャッシュフロー予測、まで進んだところで元理事長の一人から説明が長すぎる、そんなことは知っているとクレームがつく。反論しようと思ったがここでもめるとさらに時間をとるのでぐっと我慢する。予想したように清掃の回数がおかしいとか管理の質の劣化が進んでいるとか旧理事長たちから質問が続出。管理会社に答えてもらってなんとか採決&承認。やっと5時間強の総会が終わる。

予想したように質問のほとんどは旧地主、元理事や理事長経験者の高齢者のみ。養老院の会議はこのようなものだろうという気がするくらいだ。初めて総会に出た若い人は多分次からは出席しないかもしれないし、役員になろうとは思わないだろうと思う。老人たちのほとんどは過去の資料を保管していて、管理組合に異議を唱えるのを趣味にしているようだ。関心を持つのは良いことなので文句を言う気はないが、将来を見据えた考察や提言があったらありがたいとは思う。総会終了後に理事会メンバーから感謝はされたがどっと疲労が出た。

部屋に戻って保管していた管理組合関連の資料をすべて処分し、個人情報を含む資料は管理事務所に持ち込んでシュレッダーにかけてもらった。もう組合活動にかかわることは二度とないだろう。仕事をしたという充実感もあったが、疲れることの方がはるかに多かった。理事長を経験したばかりにそれまでリーダーシップがあると思っていた人がそうでもなかったり、愛想のいい老人と思っていた住人が実は何度も「訴えてやる」と叫ぶモンスター・クレイマーだったりと知らなかった方が良いことも多々あった。これからは毎朝メールボックスを開くたびに管理室からの「新しい意見書が届けられました」とか「xx様からクレームが来ました」というタイトルのメールが来ているのではないかとビクビクしなくてもよいことが一番うれしい。

先日2024年に生まれた日本人が68万6千人だったと発表された。70万人を下回るのは初めてだ。2019年に90万人を切り、3年後の2022年には80万を割った。その2年後に70万を下回るとは下落のペースが速すぎる。2年前にこのブログで「日本が消える?」(https://mktrojin.livedoor.blog/archives/17475172.html)を書いた時にはワーストシナリオで2040年に年70万人を切ると予測されていた。それよりも16年も早い。政府の予測はいつも楽観的過ぎるし、それを基に算出する将来の年金額も甘めに出ることになる。

下のグラフを見ると新生児の数は1973年から下がり続けている。同時に発表された昨年の死亡者数160万5千人を考慮すると一年で90万人以上の人口減である。これでは日本の人口が減るわけだ。私は1947年生まれだからグラフの一番左の年に生まれた。団塊の世代の最初の年で268万人が生まれた年だ。昨年の出生数より200万人多い。1947年時点の日本の総人口は7800万人だったが、そこから増え続け2008年に1億2800万人でピークを迎えたあと、同じ勢いで縮小に転じた。現在の人口1億2380万人は私が生まれた頃より4500万人多いのだが、人口構成がまったく異なる。かつて子供だらけだった街はいまは老人ばかりが目立つ。このままだと2070年には人口はまた7800万人に戻り、さらに減り続ける。
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人口減少は超高齢化社会になるだけでなく、国内市場が縮小し企業経営も困難な状況に直面する。海外市場で事業展開できない企業は販売が伸びずじり貧となり、海外からの労働力移入のハードルが高いままだと人手不足はさらに深刻化する。国際社会での影響力も喪失され、税収が下がれば社会的インフラの維持は困難となり、限界集落の増加、生活サービスの崩壊が現実のものとなる。若年層が高齢者を支えることができなくなり、医療費や介護費の膨張は国家の財政的危機を産み出す。社会保険料の負担が増える現役世代は手取りが減り消費意欲が低下し経済はデススパイラルに陥る。まさに「静かなる消滅」にこの国は向かっている。最悪のシナリオはこんなものではなかろうか。

何か打つ手はないのか。国が亡びるかもしれない問題だし先が読める事案なのだから政府の最重要課題となっても良いくらいだがなにも有効な手が打たれていない。安倍政権下の「新三本の矢」では合計特殊出生率を2014年の1.42から2020年には1.8に回復させると謳っていたが、2024年はさらに下がって未曽有の1.15だった。自公政権は「異次元の少子化対策」や「こども家庭庁」で対策をしているというが残念ながら今のところ目に見える結果はでていない。調査では子供を持たない理由としては、子育てや育児に金がかかりすぎる(56%)、高年齢で生むのがいや(40%)、欲しいけれどもできない(24%)、これ以上育児の心理的・肉体的負担に耐えられない(18%)、健康上の理由(16%)、自分の仕事に差し支える(15%)、家が狭い(11%)、などが挙げられている。

児童手当の拡充や出産手当、不妊治療費の援助、教育・医療の無償化のような経済的サポートだけでは子供を持つ気にはならないのかもしれない。安価な保育所や託児所の増設、企業サイドの産休や育休の充実による仕事と子育ての両立、家族手当の増額、最低賃金の引上げなどが考えられるが、ちょっとの増額では状況は変わらないだろう。「えっ、こんなに!」と驚くような出産手当、育児手当を奮発するに値する案件だと思うのだが。政府は2030年が人口再生のラストチャンスだと言っているが、残された時間は少ない。早く手を打たないと手遅れになる。おまけに来年は丙午だ。100万人以上の人口減になるのは確実で、その後も団塊世代が80歳代に突入するので更なる減少が予測される。急がねば。

女子ゴルフのテレビ中継を見ていると「XX世代」という言葉が何度も出てくる。1998年生まれの「黄金世代」には小祝さくら、勝みなみ、渋野日向子、畑岡奈紗、原英莉花、大里桃子、河本結、新垣比奈が、2000年生まれの「プラチナ世代」には吉田優利、古江彩佳、西村優菜、安田祐香が、2003年生まれの「ダイヤモンド世代」には竹田麗央、神谷そら、櫻井心那、尾崎彩美悠、桑木志花、川崎春花などがいて皆優勝経験があり、数人は国外の試合でも勝っている。これらの世代以外にも岩井姉妹、西郷真央、笹生優香、山下美夢有など2000年以降生まれの選手が国内外で活躍している。
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今までにも樋口久子、大迫たつ子、涂阿玉岡本綾子などが活躍した時代にも強豪選手はいたが、これだけ同世代で競い合って強くなり世界で戦えるゴルファーが多く輩出された時代はなかった。同年齢で競い合って強くなったのか、たまたま能力の高い選手が同時期に現れたのか分からないが、そんなことを考えていたら学生時代の東京六大学野球を思い出した。

私が大学に入ったのは1968年だった。大学にも授業にも溶け込めずに数か月がたった。することもないので一度くらいは早慶戦でも見ようかと神宮球場に向かった。慶応サイドには応援団やチアガールがいて、グループで応援に来ている学生たち、女子高、幼稚舎の席があり「福沢諭吉ここにあり」など塾歌や若き血以外の聞いたこともない歌を唄っていた。前年に甲子園で活躍し1年からレギュラーになった選手が同じクラスにいてその選手しか知っている選手はいなかった。その後サークルに入ったので仲間と何回か応援に行くことになった。

当時は法政大学の全盛期で法政三羽烏と呼ばれた田淵幸一、山本浩二、富田勝と後年プロで活躍した選手がいたし一年後には長崎慶一も加わった。早稲田には谷沢健一、荒川尭が、明治には星野仙一、高田繁が、慶応にはプロには行かなかったがスラッガー松下勝美、サイドスローの上岡誠二、少し遅れて山下大輔が在籍した。立教と東大の選手は申し訳ないが記憶にない。今思い出してもすごいメンバーとしか言えない。まさに黄金世代だった。安い学生チケットで外野の芝生席で見た光景は60年近く経ってもいまだに記憶に残っている。JLPGAの黄金世代も素晴らしいが、学生野球の「黄金世代」も光り輝いていた、今じゃみんな恰幅の良い爺さんになってしまったけど。スクリーンショット (13)

好奇心の強さが数少ない自分の強みだと思っていた。大学を出て就職した広告代理店で上司から「ベストセラーは目を通せ、流行っている歌は聞いておけ、ヒット商品は試してみろ、人が集まる店には顔を出せ、自分で買い物をしてモノの値段を知っておけ」と言われたことを守ってきたことが影響しているのかもしれない。今何が売れていてその理由は何なのかを情報として仕入れるのではなく、自分で調べろということだった。

だから家じゅう本やビデオだらけになったし、自分の考え方や思考方法を変えるかもしれないと思って1980年に軽乗用車が買えるくらいの金額で出始めたばかりのPC(当時はマイコンと呼んでいた)を手に入れてプログラミングを憶えたし、その数年後には個人用に売られ始めたワープロも手に入れた(これは使い物にならなかった)。映画館にも毎週のように通ったし、コンサートにも行った。代理店時代もその後のメーカーでのマーケティング部も無料で手に入るチケットが貰えたので財政的に助けられた面も多かった。

しかし歳をとるにつれて好奇心が失せてきた。コンサートに行っても感動することが少なくなった。感性が鈍磨されたのだと思う。感情移入の度合いが減ってきたのだ。老眼が進んで本を読むのが面倒になる。テレビはニュース以外は見なくなった。最近のタレント、歌手や芸人の名前はほとんど分からない。映画は定期的に見ていたが近所のシネコンがなくなってからは遠くまで見に行く気力がない。流行りの場所に行くことも激減した。

そんなことを考えていたら博報堂生活総合研究所のデータを基にした「生活寿命」の記事が目に付いた。これは歳をとると大盛を頼めなくなる(42歳)、行列してまでラーメンを食べたくなくなる(43歳)、焼肉がヘビーに感じられ食べたくなくなる(51歳)、料理を作る気力がなくなる(56歳)などの食に関連する「寿命」と同様に「消費」に関しても寿命や定年があるのではないかという発想だ。新製品や新規開店に惹かれるのは何歳くらいまでなのか。食欲とはちがって気力や好奇心は何歳くらいで失せるのだろうかと興味を持った。
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新製品に興味を持つのは平均で41歳までだ。自分は菓子や飲料の新製品開発の仕事もしていたので人よりは新製品に関心を持っていると思うが、60歳で引退してからは興味は失せ気味だ。新規開店の店や商業施設に行こうと思わなくなるのは52歳。これも当たっている。今住んでいるところは徒歩圏内にショッピングモールがいくつかあるが最近はご無沙汰だ。歩いて5分の場所に最近イケアがオープンしたが訪れたのは開店後ひと月後でそれも買い物のついでに寄っただけだ。かつては良く買い物に行っていたアウトレットモールが数年前にリニューアルオープンしたが出かけたのは2か月前だった。腰が重くなっている。これは同調査で示されているモール寿命(55歳)や人ごみ寿命(49歳)も同様で、体力、気力、忍耐力、好奇心が落ちている証拠だろう。

長く生きていると耐久消費財も新たに買うことが少なくなり、保守的にもなるので消費財も今まで使っていたものと異なるものに興味を持たなくなるという一面もある。子供が同居している頃は子供と一緒に買い物や飲食をすることが多かったが、彼らが独立して家を出るとそうした機会も減る。ともに体力気力が衰えた老夫婦は限られた生活空間で新鮮味に欠ける消費生活をすることになる。でもそれらは長い間の取捨選択で残ったものばかりなのだから、それでも良いのではないかとは思う。


昔広告の仕事をしている時習ったものの中に「AIDMA」というものがありました。広告接触から購買に至るまでの過程を示したものです。Attention(注目)Interest(興味)Desire(欲求)Memory(記憶)Action(行動)の頭文字をとったもので、広告を見て興味を持ち欲しくなって製品名を憶えて購入するという順番で購買行動は起きるというもので広告マンはよく使っていました。ただいくら注目を惹く広告でも興味がなければ惹きつける力はありません。全15段の全面広告や長尺TV広告を打ってもマンションに興味のない戸建て既購入者や電気カミソリに関心のない主婦に広告を注目させる効果はほとんどありません。逆にスペースは小さくても仕事を探している人は求人広告を熱心に熟読します。Interestの方がAttentionより先にあるのではないか、という議論をしていたことを思い出しました。
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時代も移りメディア状況も変化し一世紀を経たAIDMAも修正を加えねばならなくなりました。インターネットやSNSの発達で購買行動にも変化が生まれました。その変化をとらえて電通が発表したのが「AISAS」です。AttentionとInterestまでは同じなのですが、その次がSearch(ネットで調べる)、Actionで、最後がShare(購入したものの感想や評価をネット上で共有する)の流れになりました。eコマースの隆盛でDesire(欲求)とMemory(記憶)が消えてしまったのはすごいですね。興味を持ったら調べて比較する。納得したらポチッとして、購入後には製品が良くても悪くても自分なりの評価を書きこむ。自分の購買行動を振り返ってもその通りですものね。コミュニケーションが双方向になって口コミの力が増強され、消費者にとってはありがたく、メーカーにとってはうかうかできない状況になりました。

このシリーズも3回目なので3にかかわるテーマを選びました。

Three Hit Theory(スリーヒット理論)
ずいぶん昔ですが広告の仕事をしている時にちょっと流行った理論です。Ad Ageにも特集されたことがありました。曰く、広告は3回目から効く。消費者は広告に複数回接触することで段階的に態度変容を起こし、最終的には購買に至るというのがその主旨でした。こんな流れになります。

1st Hit:認知
最初の接触は消費者に商品の存在を認知してもらうことです。注意を引き、記憶に残ることが目的になります。そのために刺激的なクリエイティブ、キャッチーなコピー、ユニークな表現などで消費者の注意をひきつけます。「なに?この商品」と思わせる工夫ですね。

2nd Hit:理解・興味
2回目の接触では商品をより深く理解してもらい、興味を持ってもらうことが目的です。どんな価値がその商品にはあるのか、使うことによる自分にとってのメリットは何なのかを伝えるのです。広告のなかの機能の説明、使用シーン、問題解決シーンなどが有効です。「面白そう」「役に立つかも」と思わせれば成功です。

3rd Hit:行動喚起
3回目の接触では購買意欲を高め、行動を喚起することが目的です。購入を促すような直截的なメッセージがあるといいですね。たとえば新発売キャンペーンの情報、どこで売っているかの案内などで購買の後押しをするわけです。クーポンの案内とか、自社のECサイトに誘導してより詳細な製品説明も有効です。

この3つの目的を同じ広告でカバーするの困難です。複数回、異なる角度からの情報提供が必要となります。新聞広告等なら可能かもしれません。伝統的メディアだけでなく、店頭POP、オンライン広告などを組み合わせれば比較的安価に実行できるかもしれません。Web広告を使えば一度サイトを訪れたユーザーに2度目3度目の広告メッセージを効果的に提供できます。
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この理論に触発されたのかどうかは分かりませんが、そのころ3+リーチを重要視するメディアプランが台頭してきました。広告効果を評価するには到達率と接触回数が良く用いられますが、通常は1回以上接触した率をリーチと呼び、接触者の平均視聴回数を平均フリークエンシィと呼びます。80%のターゲットに平均3回メッセージを届けた、とか言います。ただ平均3回接触には1回だけの人もいれば20回接触する人もいます。1回や2回では効果が薄いので3回以上、しかしあまり多く接触すると飽きられるしコスト効率も悪くなるので10回まで、つまり3回から10回接触する人を最大化するメディアミックスやメディアプランを苦労して作ったものでした。いまならデータも多いし、ネットなら双方向なので接触データがとりやすいから楽にできそうですね。

マーケターは物事を数字でとらえたり数字でくくったりするのが好きですね。マーケターが使う数字でくくったフレーズや語呂合わせをいくつか紹介します。
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3C
自社を取り巻く利害関係者を分析するときに使われます。Customer、Competitor、Companyの3つです。顧客は誰なのか、どんなニーズを持っていて更なるセグメンテーションは可能なのか。競合会社は誰か、どんな強みと弱みを持っているのか、彼らの特徴・経営資源・差別化ポイントは何なのか。それらの顧客と競合に対応するために自社はどんな強みと弱みを持っているのか、自社の経営資源は、技術やブランド力は、などを分析して市場機会と脅威を把握し戦略を練ります。マーケティング戦略立案のスタートポイントとして有効です。一番大事なCは、もちろんCustomerです。

4P
マーケティングの教科書に最初に出てくるのは4Pであることが多いですね。古いと言われながらまだ生き延びているマーケティングの4P。Product、Price、Place、Promotionの4つのPで始まる要素を組み合わせれば売れる仕組みができるというE.マッカーシーが考案したものです。顧客が望む価値を持つ製品、競合的な価格、製品を効率的に配荷する流通、購買意欲を高める販促活動の4つです。初心者にマーケティングとは何かを説明するには便利な道具ですが、消費者の視点に欠けているのが弱みです。

4C
4Pが売り手の観点から見たマーケティングとすると4Cは買い手サイドから見たマーケティングです。R.ラウターボーンが提唱したCustomer Value、Customer Cost、Convenience、Communicationの4つで4Pの4要素に対応しています。顧客は何(価値)を買いたいのか、いくら(金銭や情報収集時間など)支払うのか、どこでどのように買いたいのか、どうやって顧客との(一方的な情報発信でなく)対話をするのか、と言い換えることができます。4Pと合わせて使うとより立体的な戦略が構築できます。

7S
マッキンゼーが提唱した組織の有効性を高めるための7つの要素です。3つのハードと4つのソフトからなります。ハードの3SとはStrategy、Structure、Systemでソフトの4SはShared Value、Skills、Staff、Styleです。簡単にまとめるとまず自社の戦略を見直し、組織構造を変え、システムを整備します。次に共通の価値観を社員間に浸透させ、組織および個人のスキルを高め、人材の育成をします。そしてそれらが完成されることによって企業の文化(Style)が変わるというわけです。この7要素はそれぞれ独立しているのではなく相互に影響しあっているので、これらの要素全体を整合性のある状態に持っていくことが重要です。ハードの3Sは比較的簡単にコントロールしやすいのですが、ソフトの4Sは組織文化や人材に係わるのでコントロールが容易ではなく、時間をかけて醸成することが必要になります。

根拠がはっきりしないものもあるが、マーケティングの世界には数字がらみの法則がいくつかあります。覚えておくと参考になるかもしれないのでいくつか紹介しましょう。
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1対5の法則
新規に顧客を獲得するためにかかるコストは既存顧客を維持するコストの5倍かかる。
既存客は既に製品を購入しているためブランド認知があり、製品特徴や他社製品との差も理解しているので再購入の可能性が高い。新規顧客獲得よりも既存客の維持の方に力を入れたほうが賢明という考え方です。(成熟市場では有効なことが多い。しかし新規客も狙わないと長期的にはじり貧になる)

5対25の法則
顧客離れを5%改善すれば、利益は最低でも25%改善される。
1対5の法則にあるように既存客は新規顧客ほど日常的には手がかからないので利益率が高い。そんなに手をかけなくても再購入してくれる確率が高いので、既存客を失うとその数倍以上の営業利益が消えてしまう。リピータは大事です。ロイヤルティが利益に大きく貢献するということですね。

1人の不満足は66人に伝播する
製品やサービスに満足した消費者は平均7人にそのことを話すが、不満を感じた消費者はその不満を11人に話す。その11人がそれぞれ5人に話すとされ、合計66人に不満が伝わる。その根拠はよく分からないが、満足より不満を訴えたいという心情は理解できます。最近はネットの口コミでネガティブコメントをよく見かけますが、ネットの広範囲・急速な拡散性を考えると66人以上に伝播することは十分に考えられます。

20:80の法則(パレートの法則)
ABC分析をすると上位20%の顧客が80%の売り上げを占めることがよくあります。同様に2割の販売員が全社の8割の売り上げを担っている事例もあるし、2割の製品が会社の利益の8割を産み出すこともあります。クレームの80%は特定の問題や少数の顧客から発生することも多くあります。ウェブサイトの80%のトラフィックは20%のページに集中する。もちろんすべてには当てはまらないがビジネス戦略を立案するときにABC分析をすると注力すべき対象が明確になることが多い。

プロスペクト理論
これは数字は付いていないが有名な理論で、人間は同じ価値でも得することよりも損することに対してより敏感に反応する「損失回避性」と呼ばれる心理傾向を持ちます。同じ金額の利益を得た時の喜びよりも、同額の損失を出した時の悲しみの方が大きいと感じます。100円引きの商品を買って「得した」と思うのより、買った翌日に100円値下げされているのを見る方が同じ100円でもショックや落胆が大きいのですね。

いくつかの消費財メーカーでマーケティングを担当していたし、広告の仕事をしていたこともあるのでコピーやキャッチフレーズはいまだに気になる。このブログでも書いたことがあるが、「私はこれで会社を辞めました」や「おしりだって、洗ってほしい」「アンネの日」などは会社存亡の危機を救ったり、新しい市場カテゴリーを開拓するのに多大な貢献があったコピーでありキャッチフレーズだった。

当時は「おいしい生活」とか「モーレツからビューティフルへ」など時代を代表するようなコピーもあったが、メーカーでモノを企画製造する立場だった人間としては製品やそのベネフィットに直接リンクするようなコピーに惹かれる。そんなことを考えていて頭に浮かんだのはグリコの「一粒300メートル」だった。
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グリコは子供のころから食べていてグリコーゲンという言葉もなんとなく聞いていた。理由は分からなかったが、一粒食べれば300メートル走れそうな気がした。グリコというキャラメルは創業者である江崎利一が牡蠣の煮汁から得たグリコーゲンを加えた栄養菓子で1922年に発売された。ブランド名も社名もそれに因っている。グリコは戦前は栄養菓子に力を入れたようで1933年にはビスコを発売した。ビスコは酵母入りのビスケットで5枚に1億個の乳酸菌が入っているという。当時は子供の栄養状態が良くなかったのでそれを改善したいと考えたのだろう。それに栄養菓子という位置づけにすれば親も他の菓子より子供に与えやすくなる。そのうえ発売5年後にグリコにおまけを付けるようになって販売量が大幅に増加した。日本初の食玩と言われている。(下の写真は発売時のパッケージ)
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一粒300メートルはそれなりの根拠がある。グリコの一粒は16.75kカロリーがあり、平均的な成人男子が100メートルを35.5秒のペースで走ると16.75kカロリーで300メートルを走ることができるのだという。江崎利一という人はアイデアマンのようで、このキャッチフレーズもゴールインマークも彼が考えたらしい。その後発売されたアーモンドグリコの「一粒で二度おいしい」も彼のアイデアだ。ただ発売時のパッケージのランナーの顔が怖いと言う女学生が多くて書き直しをして笑顔のゴールインランナーとなり、その後も笑顔が引き継がれている。
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「一粒300メートル」が秀逸なのは、短く簡潔に商品の特徴を表して記憶しやすいところだろう。ちょっと残念なのは、今のグリコは粒がハート型になっていて昔子供のころに食べたのと異なっている一点である。

大学に入学してしばらくたってからサークルに入った。文学部でまわりは女子ばかりだったし、友達もすぐにはできそうになかった。一人で早慶戦を見に行っても楽しくもなかった。サークルにでも入ろうかと選んだのが邦楽サークルだった。

浪人生の時に毎晩聴いていたCBCの深夜放送で、尺八演奏家の山本邦山がシャープス&フラッツとニューポートジャズフェスティバルで演奏した「みだれ」が流れた。ベースと尺八だけだったが感動の一曲だった。尺八の音色と息遣いが想定外だった。これはやらねばと思った。翌日栄のオリエンタル中村に出かけ楽器売り場で一本だけ置いてあった尺八を買った。2000円だった。家に帰って吹いてみたが全く音は出ない。図書館に行って奏法を読んでも駄目で、譜面などは全くのちんぷんかんぷんだった。

その尺八を持ってサークルの部室に行ったら、上級生から「こんなものは尺八ではない」と言われた。師範にお願いして一本調達した。3万5千円だった。当時の仕送りが3万だったから相当の値段だった。週一回の師範の稽古と、部室での練習で段々音が出るようになって面白くなってきた。日に何時間も吹き授業もすっぽかして練習するようになった。ただ一年後に師範が交代して相性が悪くなり、師範の教える古典でなくジャズやポピュラーや新曲を吹くようになった。
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尺八は器用な楽器ではないが単音での表現力に優れている。音色に宗教性や哲学性を感じる人もいる。顎を動かして音の高低を出せるし、ムラ息という音楽で使う楽音とは呼べない雑音まで取り入れてしまう。西洋の管楽器が息のほとんどを楽音にすることができるのに対し、尺八は吐いた息の半分くらいしか音にならない。効率の悪い楽器だ。他の楽器と合奏したり伴奏をするためにはG管だE管など長さの異なる何本もの尺八を揃えねばならないのもやっかいだ。面倒な楽器だから逆に愛着が湧く。

学生の頃は山手線の中で吹いたり、飲み屋で吹いたりした。若気の至りだ。深夜の新宿で何人かで演奏し写真週刊誌に載ったりもした。大学近くの居酒屋で客の演歌の伴奏をして、「あの学生さんにビール5本あげといて」と言われたり、店の人から「演歌居酒屋にするから働かないか」などと言われたこともあった。ただ尺八に時間をとりすぎて大学を退学処分された。

今ではほとんど吹くことはない。鍵盤楽器や弦楽器を比べると管楽器は体力が必要で老人にはしんどい趣味になってしまった。毎日吹いていれば違うのだろうが、そこまではできない。大学時代の仲間がで一人だけ尺八を吹き続け、今でも名古屋駅前で虚無僧をしている仲間がいる。駅前で見かけたら立ち止まって聞いてあげてください。日本でただ一人の慶応ボーイの虚無僧です。
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どんな種類の製品でもブランド名はマーケティングの重要なファクターだ。ブランドイメージ形成の中心的存在であり、競合製品と差別化する手段でもある。医薬品の場合はその性格上効能効果がありそうな名前が要求される。ただ医療用医薬品の場合は製品名の混同による投薬ミスを最小限に抑えるために安全策が講じられ規制も多い。おまけにこの業界は歴史的にブランドより成分名で製品を訴求してきた過去を持つ。

子供のころよく聞いたペニシリン、ストレプトマイシン、バンコマイシンなどの抗生物質は物質名でありブランド名ではない。医療用医薬品でブランド名が前面に出たのは、切らずに胃潰瘍を治す画期的な薬剤だったシメチジンのスミスクライン社のブランド名である「タガメット」ではなかっただろうか。
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その点OTC薬品は医療用ほど規制もなくネーミングもかなり自由に決められる。それでも効能効果や有効成分にこだわることが多い。たとえばJ&J社が開発したTylenol(タイレノール)という名前は成分であるアセトアミノフェンの化学名N-acetyl-para-aminophenolから取られているが、知っているユーザーはほとんどいないだろうし、気にする人もいない。
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世界で最も多く服用されている医薬品と言われるアスピリンはアセチルサリチル酸製剤のバイエル社の登録商標だが、これはアセチル基の「ア」とサリチル酸がスピル酸とも呼ばれていてその「スピル」を結合させてアスピリンと名付けられた。

同じアセチルサリチル酸を主成分とするバファリンはバイエルの商標であるアスピリンを名乗ることができない。しかしアセチルサリチル酸が胃を荒らすのでダイバッファーという緩衝材を加えて胃粘膜を保護する処方を開発した。それを英語ではBuffered Aspirinと呼び、縮めてBufferinのブランド名が誕生したのだ。
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同じ鎮痛薬であるエキセドリンはそのアセチルサリチル酸(アスピリン)とタイレノールの主成分であるアセトアミノフェンとの合剤である。強い痛みに速く効くことを訴求して、Exceed Aspirin(アスピリンを凌駕する)の製品コンセプトを作り、それを簡略化してExcedrinと名付けられた。

医薬品は世界中で売られることが多いのでこういう成分がらみの英語ネーミングが多いのかもしれない。同じ鎮痛剤でも即効性を謳う国産の「ケロリン」や「ジキニン」は日本人には効能効果が分かりやすいが、日本人以外には?でしょうね。

相変わらずモノの値段が上がり続けている。3月の東京の消費者物価指数は予想を上回り、生鮮品を除くコアCPI は+2.4%だった。生鮮品除きの食料は+5.6%で、米類(生鮮品扱い)はなんと+89.6%という異常さだった。育ち盛りの子供を複数持つ家庭はやりくりに苦労しているだろう。
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エネルギー関連は政府の補助金で抑えられたがまだ+6.1%上昇し、生鮮とエネルギーを除外したコアコアCPIは+2.2%だった。昨春の賃上げは+5.4%と高かったが社会保険料と物価の上昇でほぼ消えると言われている。5.4%もの賃上げがなかった中小企業や年金生活者の生活はどうなっているのか。年金生活者であるわが家の1~3月の家計簿をチェックしてみた。

3か月間の食費は240,085円でひと月当たりでは約8万円。対前年比で+12.7%と結構な増加だった。一番増えたのは魚類の+84.5%だが肉類が-21.8%なので蛋白質源としては+24%で、肉から魚へシフトという老人らしい嗜好の変化と考えられる。次が麺類の+82.5%。これは昼飯を作るのが簡単なパスタ、うどん、そばなどに決め込んだためだ。三番目が外食費で+69.8%。先が短い老人は昔の仲間と会食したり飲んだりする機会が増えるので交際上の必要経費。そのあとには米類の+59.6%、卵の+53.6%と巷で話題になった最近の爆上がりの二品が入った。特にコメはいつも買う「つや姫5キロ」が前年の2800円から4400円強になったのが効いている。その他では菓子が+21.4%、野菜が+12.8%、果物が+12.7%と二けたの上昇だった。

食費の月8万円は2024年の家計調査の65歳以上の無職夫婦世帯平均の76,352円と比べても多くはないし、2025年版が出れば数パーセントは上がっていると思うので世帯平均に近いと考えられる。つまり食の細くなった老人世帯でも月8万の食費は必要なのだ。そもそも老人は耐久財などを買い替えることも少なくなり、旅行や食べることくらいしか興味がなくなりかけているのだから。今年年金は2.7%増えたのだが、このまま物価が上がるようだと他の支出を削るか貯蓄を取り崩すかしか選択肢は残っていない。おまけに4月は飲料など4000品以上の値上げが予定されている。

夏の参議院選挙前に与党は選挙対策として米やガソリン、電力などの物価高対策を打つと思うが、抜本的な改革は期待できず一時的な補助金かバラマキになると思われる。選挙が終われば補助は打ち切られるか削減されるだろう。今年も5%前後の賃上げが予測されているが、賃上げが企業製品の値上げを招き実質賃金はさほど上がらないループになるのだろう。それにしても上のグラフを見ていてもなんだか悪意の意図が感じられて納得できない。政府はいつまで生鮮品除きやエネルギー除外の指数を出し続けるのか。国民はその生鮮品やエネルギー費の上昇で苦しんでいるというのに。

免許を取得して40年間車を保有してきたが、最後の車を今日廃車処分にした。廃車の引き取り業者がレッカー車で19年乗ったエアウェイブを牽引して去る時はちょっとウルッとした。ドナドナの気分だった。
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この夏で78歳になるが、まだ運転はできる。廃車前日もアウトレットまでドライブした。ただニュースでペダルの踏み間違いや逆走など高齢者の事故に接するたびに自分にも起こりうるかもしれないとは思っていた。車の処分を決めたのは、運転がだんだん億劫になってきたのと、乗る機会が減ってきたからだ。もともと運転機会は多くはなかったが、最近はめっきり減った。

免許は1985年に取得した。ゴルフを始め数年間は会社の仲間が自宅まで迎えに来てくれた。その彼が静岡に転勤になり、自分でゴルフ場までの足を確保する必要が生じ、38歳の時に勤務後に自動車教習所に通った。免許取得後中古のマツダ車を買いドライバーとなった。その後日産のエクサ、そしてホンダのエアウェイブの3台とカナダ勤務時代の会社から貸与されたGM車の4台に乗った。ゴルフ用と言っても良い利用だったが、かつてのボスが主催する年に3回のゴルフ会が高齢により中止となり、地元住民のゴルフ会はバスや乗合になり自分で運転することがほぼなくなった。昨年末いつも通っていた練習場が閉鎖になり、それ以降は月に1~2度OKストアに飲料のケース買いに使うくらいだった。(下の写真はエクサ)
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よく考えると老夫婦二人で、かつターミナル駅まで歩いて6分の住居に車は不要なのかもしれない。ほとんどの買い物は徒歩圏内で済む。立地が良いということは駐車場も高いということだ。ここに住んで30年強。毎月2万円強の駐車場料金を払ったので累計約800万円。3台の車の購入費より高いのだ。駐車場と管理費を考えるとマンションより一戸建ての方が良かったかもと何度も思った。でももうそんなことを考えることもないだろう。

次は免許の返納とゴルフ引退だろう。車がないことで多少不便を感じることがあるかもしれないが、自分が事故を起こすのではという心配もなくなる。駐車場代や車検、JAF、自動車保険代で浮く月3万で美味しいものでも食べて残された短い年月を楽しもう。

地元愛知県の会社だということもあり酢やめんつゆは半田のミツカン製品を使ってきた。ただ何年か前からミツカンのお家騒動がありミツカンはもういいか、の気分になった。最近はヤマサ製品に切り替えた。
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ミツカンは半田だけでなく愛知県を代表する企業の一つである。酢だけでなく最近は調味料や納豆、スープ、ふりかけ、炊き込みご飯の素など幅広い製品群を持つようになった。代々社長は中埜又左衛門を名乗る同族会社であり、家系を維持するために同郷の盛田家から何人もの養子縁組をしてきた経緯がある。
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問題となったお家騒動は八代目の社長には娘が二人で男子がいなかったことが発端だ。後継者確保のため婿探しが開始され、香港で外資系金融機関に勤めていて中埜家の資産運用を担当していた男性に白羽の矢が立った。2013年に次女と見合い結婚し、翌2014年にイギリスに移住し一族待望の男子が誕生した。ここまでは多少の問題はあったがハッピーストーリーだった。問題はその後に起きた。

男子誕生の4日後に社長がイギリスに来て生まれたばかりの子供の養子縁組を要求したというのだ。入婿も代々の中埜家が養子縁組で維持されてきたことは知っていたとは思うのだが、それが4日目に起きるとは予想していなかったのだろう。署名を逡巡していると八代目の激怒を招き、以降入婿を中埜一族から追放する動きが起き始めた。中埜家側からも次女に離婚勧告が始まり、入婿にも義父から次の就職先を探すようにとの要請があったらしい。翌2015年にイギリスから関西の物流センターへの転勤が命ぜられ、離婚に応じないでいると2017年には離婚訴訟にまで発展した。

ミツカン側は裁判に日本一の法律事務所を採用し2019年に離婚が成立した。その頃からメディアがこの件を取り上げ始め「種馬騒動」と話題になった。元婿は息子との絆を切りたくないと今でも中埜姓を名乗り、ミツカン本社前で会社に対する反対運動を継続し、「X」でもその報告をしている。
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ミツカン側はこの件についてコメントをしていないので元婿サイドの情報が多く、メディアは面白おかしく書く傾向があるのでどこまで記事が正確かは分からない。ただミツカン本社前でビラを配っていて警備員に排除されるのを目撃した人は「あれは気の毒だ」と言っていたし、半田で乗ったタクシーの運転手さんは「ミツカンは税金の支払い額が少なくて地元に貢献していない」と不満を述べていたので地元でも巨大企業に対する好感度はさほど高くないようだが、この事件でさらに悪化するのではなかろうかと危惧される。

毎朝の朝食はパンだ。コーヒーと果物、ヨーグルトにパンで50年続いている。小麦粉の値上がり以降パンの価格もそれなりに上がったのに味が落ちた製品も多く、サイズも小さくなったような気がする。小麦粉の含有量を減らしているのかもしれない。特にロールパンは小さくなったと思うので一番おいしい超熟の山型食パンを買うのだが毎日だとそれにも飽きてくる。それで近所のスーパーでおいしいパン探しを始めた。
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最初に東急ストアにタカキベーカリーの石窯フランスパンがあることを思い出した。広島のパンメーカーでデニッシュペストリーで知られる。デンマーク女王が来日した時に広島工場を見学され、東京の記者たちが「なぜ広島に」と驚いた話は有名だ。アンデルセンやリトルマーメイドという店名のほうが分かりやすいかもしれない。ここのパンはリーズナブルな値段で美味しい。近所のそごうの地下にもアンデルセンがあるが石窯パンは置いていない。

値段も加味して選ぶならオーケーストア。ちょっと大味な感じはするがフランスパンは1本168円だし、ミニクロワッサンは5個で150円だ。ここはパンもピザも価格を考えれば大満足。ランチタイムにはピザを買うサラリーマンで一杯だ。一番安いのは4分の1カットが129円。2枚食べるとちゃんとした昼食になる。クロワッサンもバターリッチでほかの店の大一個300円の半額だから毎日のパンにはもってこい。ピカールのフランス直送の冷凍クロワッサンは1個約120円でおいしいが、オーブンを温めて20分強焼いてクリスピーになるまで待つと30分はかかってしまう。忙しい朝にはちょっと不向きかもしれない。

結局よく買うのは地元横浜のポンパドウルに落ち着く。ここも値段は高い。1969年の創業当時から他店の菓子パン15円に対し50円の値付けで高級・高品質を訴求して差別化してきたからだ。元町本店は宮殿風の店構えと赤い買い物袋といつでも焼き立て(一日に8回焼く)が売り物だったが、ポリ袋有料化以降はあの赤い袋がなくて寂しい。製品開発に熱心で毎月12日には新製品が発売されるし、今月3月は1日と12日の2回も新製品が出る。いずれも400円前後とちょっとお高いけど。毎年新年には干支にちなんだパンを作るという遊び心もある。下の写真は酉年の干支パン、「おいしさトリプル」のダジャレ付きだった。
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こんな努力が実を結んでいるのだろう。創業から56年を迎えても客を飽きさせず惹きつけている。先日も元町に行ったら店の前は人で一杯だった。店内には焼きたてを強調する「一店舗一工房」のパネルが誇らしげに掲げられている。店も手を加えてモダンになっている。宮殿風とはいかないが窓や開口部を大きくして商品を見やすくし店内へ誘導するのを容易にしている。その下の1969年の創業時の写真と比べると違いが分かりますね。
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4月からプラごみの出し方が変わると横浜市からの案内が来た。去年から市内の9区で試行したものを全市に展開するという。そのあとに市の広報誌でも告知をするくらいだから市としても力を入れているのだろう。「ヨコハマ プラ5.3計画」というスローガンが掲げられ、燃やすごみに含まれるプラスティックを年間で市民一人当たり5.3kg削減するのが目的だという。
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年間一人当たり5.3kgだと二人世帯では10.6kg。一日当たり29グラムのプラごみを減らすのは毎日ごみを分別して捨てている老人世帯にとってはかなりアグレッシブな目標に思える。17年も専業主夫をやっているが、毎日買い物をすれば肉や魚だけでなく何種類かの野菜は石油由来の包装紙に包まれているし、調味料はほとんどがプラ容器だ。プラスティック資源をリサイクルして再生させようというのは理解できるが、これだけ多岐にわたって利用されているとアルミ缶のように97%再生というわけにはいかないだろう。

ごみの分別にも時間を使わねばならない。横浜市の場合はガイドラインが時々変わるのだ。昔引っ越してきたころは市の焼却炉は強力だから何でも燃やせると言われ、細かい分別は要求されなかった。プラが適当に混ざっている方が焼却温度が上がって燃費節約にもつながると聞いた。そのうち細かく分別指示が出て、それが時々変更される。食品ラップ、タッパー、食品保存袋やプラスティックのスプーンなどはリサイクルできるゴミだと思っていたら2022年のガイドラインでは燃えるゴミに分類されていた。今年の4月からはラップ、ポリ袋、チャック付き保存袋はプラスティック資源に分類し直されている。つまり燃えるゴミではなく再生されるプラごみになるのだ。
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これでは毎回ゴミを捨てるたびにマニュアルを読まねばならない。多くの人は今まで通りの分類をするだろう。マンションのゴミ置き場では毎回回収前に清掃員のおじさんが全部のプラごみの袋を開けて確認作業をしている。先月ごみ収集業者が管理不適切とされて市から業務改善命令を受けたらしく新しい業者に変わった。市が業者に管理の徹底を求め、管理業者がマンションの管理組合・清掃員に更なる徹底を依頼したための作業だと思う。他人のゴミをチェックさせるのは気の毒だと思う。

マイクロプラスチックが問題となりプラ製品やPETを避ける消費者も増えている。こんな水際作戦をとるより元を規制したほうが効率的なのではなかろうか。ポリ袋をやめてマイバッグに切り替えた人も多いのだから、プラスティック・トレーでなく経木を使うとか、プラボトルでなく再利用が簡単なガラスボトルに変えるなどを行政がリードして徹底すればプラゴミの量は減るのではなかろうか。私の世代は昔そうやって暮らしていたのだからできないことではないと思うのだが。

去年喜寿になったから先はそんなに長くはない。でも何かあっても少しでも生き永らえたいと思う老人の諦めの悪さ。今年は大災害が起こるのではないか、などという噂だか予言に踊らされ、半額セールの一言に乗せられてポータブル電源(蓄電池)とソーラーパネルのセットを買ってしまった。
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当初はテレビ通販のセットを買おうと思った。3万円位で安かったし小さいながらソーラーパネルも付いていた。しかし充電できるのはスマホ、PCに扇風機や電気スタンドのような小型家電に限られるし使用可能時間も長くはない。ならば同じメーカーの大容量の方が使う機会が増えるのではないのか、と考えていたら一週間のセールの広告が目に入った。45%オフでも10万円位になるが、1500ワットの出力があるので停電時に小型家電はもちろん電子レンジや洗濯機も使えるし、水道さえ止まらなければトイレも使用が可能になる。最近のトイレや電話は電気が止まると使えないのだ。

ネットで注文して3日後に届いた。ずっしり思い。10キロ強。取っ手がついているので家の中で移動したり、車に乗せる分には問題ない。電池残量が26%だったのでACにつないで充電すること約1時間半でフル充電となった。思ったより早い。試しに消費電力500ワットの布団乾燥機につないでみたらAC電源と同じように稼働した。4000回の充電に耐えると言うから毎日充電しても11年は使えることになる。1年1万円弱で安心が買えるのであれば高くはないだろう。日差しの強い時にソーラーパネルで充電すれば節電にもなる。ゼロからフル充電には半日くらいかかるが、7~8割からフルまでなら冬の朝の陽ざしでも3時間くらいで99%までチャージできる。
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かなり前から終活の一環として断捨離を始めた。書物、レコード、DVDやCDなどの処分を始めて身軽になろうとしている一方でこういうものを買ってしまう一種の矛盾。家の中には震災用に備えた非常食、携帯ガスコンロ、非常用トイレセット、LEDランタン数個。水は常に数ケースをローリングストックしている。富士山噴火に備えてゴーグルと防塵マスク、コードレス高圧洗浄機などなど。その上に今回のポータブル電源とソーラーパネルだ。火山学者はマグマは溜まっているのでいつ噴火してもおかしくないと煽り、地震学者は先日南海トラフの今後30年での発生確率を80%に引き上げた。研究費を得るために数字を上げているに違いないのだが、老人にこういう心配をさせてはいけないよねえ。

今日の日経の記事に懐かしい言葉を見つけた。エンゲル係数。小学校で習ったような気がするが、その後見聞きすることはほとんどなかった。記事の見出しは「個人消費、食料高が重荷 エンゲル係数43年ぶり高水準」だ。

記事の内容は、光熱費や食料の高騰で節約志向が強まり2024年の消費支出は実質で対前年比で1.1%減少した。食料は野菜、海藻、果物などの生鮮食品の減少が目立ち、対前年で0.4%のマイナスだった。消費支出が下がったことにより二人以上世帯のエンゲル係数は28.3%と1981年以来43年ぶりの高水準となった。
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エンゲル係数は日本では通常23から25くらいだと昔読んだ記憶があるが、28%とはちょっと高い。マーケティング爺としては我が家のエンゲル係数はどのくらいののだろうか確認せねばなるまい。後期高齢者世帯だから、あまり参考にはならないだろうが。

我が家の昨2024年の総支出から非消費支出を除いた消費支出は306万円だった。食費は年計で90万円だからエンゲル係数は29.4%になる(一昨年は24.8%だった)。二人以上世帯の28.3%より少し高い。所得が低いほど生活に必要な食費に割く割合が高くなるので、エンゲル係数が高いほど生活水準が低いと言われるが本当にそうなのだろうか。

エンゲル係数は食費割る消費支出で計算されるから、食費が増えるか消費支出が減ると数値は上がる。高齢者の場合は食費が急に増えるこことはあまり考えられないので、収入または消費支出が減るとエンゲル係数が上昇する。引退して年金生活に入れば収入は通常下がり食費の比率は高くなる。または他の出費が減ればエンゲル係数は上がる。例えば歳をとって住宅ローンや、子供の教育費、車の諸経費、耐久消費財への支出が減れば相対的に食費の比率は高くなりエンゲル係数が上がる。昨年の場合は消費支出が下がり食材費が上がるというダブル作用でエンゲル係数が上昇した。

逆に恒常的に他の出費が必要となるとエンゲル係数は下がる。下の国際比較でもわかるように医療費や家賃が高いアメリカでは、他の国と比べてエンゲル係数が低い。ただどの国もこの10年以上はエンゲル係数は右肩上がりだ。高齢者とそれに伴う無職世帯が増えていることがエンゲル係数の上昇につながるのは各国共通の問題なのかもしれない。
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先日こんな記事が配信されていた。都心のタワマンでの宅配業者の配達・集荷業務を調査したら一棟で4時間15分もかかっていた。その中で最も時間をとられていたのはエレベーターの待ち時間と移動で合計なんと1時間27分だったという。いくら50階建てで総戸数1000戸の大タワーマンションとはいえこれはひどすぎる。

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上記は極端な例かもしれない。我が家は築30年を超えた32階建て約300戸のマンションで、入退館の管理は最近のタワマンほど厳しくはない。しかし宅配業者の滞在時間は長いようで、エントランスには複数の宅配業者の荷物台が置いてあるのを見かけるし、同業者がインターフォンの順番待ちをしている時もある。インターフォンでオートドアを解錠しても我が家に荷物が届くのは20分後のことも時々ある。時間指定をしないと再配達を避けるために朝8時台に配達があって起こされたり、不在者も多いので午前中は宅配ボックスが満杯のことも多い。

最近の高級タワマンには宅配業者に対して独自のルールを設けることがある。壁や床を傷つける恐れがるので台車の禁止、時には台車だけでなく配達用の籠やバッグの禁止、マンションによってはセキュリティ上の理由で置き配ができない、エレベーターを使う時は事前に防災センターで解錠カードを借りる、などなど。台車や籠が使えなければ手で運ばざるを得ず効率は落ちる。防災センターで申請しカードを受け取るまでに10分かかることもある。それからインターフォンですべての受取人に連絡し在宅かどうかを確認する。その後エレベーターまでのロックを解除し、エレベーターホールでエレベーターの到着を待つ。数分待つこともある。この待ち時間は配達階ごとに必要だ。住民用と貨物用エレベーターがあり、貨物用しか使えないマンションもある。超高層タワマンでは階によってエレベーターが異なり途中で乗り換えなければならないことも。エレベーターが一番の問題だ。

これらの問題を解決するためにはいくつかの方法があろう。マンションで受け取らずに駅やコンビニで受け取るルートの増設。マンションの宅配ボックス数を増やす。置き配規制の緩和。コンシェルジュが荷物を預かり住人に届ける。宅配業者はマンションに届けるまでとし、その先の館内配送は他の専用業者に任せる。再配送をなくすため全ての配送に受取指定時間帯を記入させる。既にコンシェルジュサービスや、宅配ボックスやコンビニでの受け取りにはポイントがつくなどの取り組みは始まっているがまだ十分ではない。宅配ボックスもそれほど数は増やせないしサイズの大きい荷物や冷凍品などには使えないため制約がある。

これらすべてを実現しても現状を変革するには不十分かもしれない。しかし既存マンションのエレベーター台数を増やすわけにもいかないし、高速化も限界まで来ている。私が住むマンションも今エレベーターの更新を予定しているが3基で約3億円が必要となる。エレベーターだけが理由ではないだろうが、多くの業者がタワマンは採算に合わないと言っているので、放っておくとタワマンには配達しないという業者が出るかもしれないし、割増料金の設定も十分にありうる。EC市場が25兆円を超え宅配が日常生活に必須のものとなっているので居住者にとって荷物が届かないと生活の質にも影響を及ぼす(特に外出困難な年配者に)。

マンション側ができることは宅配業者用の駐車スペースを用意し、同時にその隣接する場所に荷捌きスペースも確保する。これらを推し進めると武蔵小杉や横浜北仲などのタワマン内に設けられた敷地内物流センターに近いものになる。スペースの制約があって全てのタワマンには無理だろうが、現在のようにタワマン側が上から目線で配送業者を見て規制をするより、業者側に寄り添って対策をとらないと配送難民を生んでしまう。配達業者がインターフォンを独占しないようにセンタースタッフの携帯と各戸のインターフォンとの接続システムの確立、配送センターとスタッフの費用は管理費から捻出することになろうが利便性のためにはコスト増にも耐えねばならない。それがバベルの塔に住む住民の宿命だと諦めて。

この一か月キャベツの価格が激しく動いた。都内ほどは高くはならなかったが最近は498円から398円、そして今日は298円だった。ブロッコリーとほうれん草は398円だった。以前は野菜類の値段は248円とか138円の中間値もあったのだが、最近は100円単位で上下している気がする。しかし、どうしてみんな末尾が98円で終わるのだろうか。
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これは端数価格戦略と呼ばれる、敢えて切りの悪い価格を提示することによって大台を意識させないでお得感、値ごろ感を演出する手法だ。「大台割れ価格」と呼ばれるだけあって本来は1000円でなく998円とか980円、10万円でなく9万9800円とかで用いられてきたが、それが低価格帯にも適用されるようになった。同じ20円引きでも600円を580円に値引きするより、値引き率は低いが1000円を980円に値引いたほうが桁数が変わって心理的インパクトが大きいからだ。

昔は端数などは使わなかった。個人商店などの小売店から見れば計算して小銭でお釣りを出すのは手間だからだ。レジもなかったしね。肉屋に行けば「100匁200円」の手書きの値札があった(古っ!)。端数価格の浸透ははスーパーマーケットとキャッシュレジスターの成長とともにあったと言っても過言ではないだろう。

またこの端数価格戦略には、仮にスーパーで100グラム100円の肉と98グラム98円の肉が並んでいたら同じグラム単価でも98円の方を選んでしまう人が多いであろうという心理的マジックもある。端数効果だ。ただ8で終わるのは八が末広がりの意味を持つ日本だけのことかもしれない。アメリカなどではほとんどが9とか.99(99セント)が用いられる。
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以前電鉄系のスーパーで表示価格を98円ではなく97円にしたらどうなるかという実験をした記事を読んだことがある。たしかそこそこの効果はあったというのが結論だったが、その後広まる気配がなかったのは日本人の末広がり信仰のせいなのだろうか。

ただこの末端価格は消費税抜きの価格であることがほとんどなので、内税表示では大台を超えてしまって意味をなさない。これがスーパーなどでいまだに税抜きの本体価格を大きく表示して、税込み価格をおまけのように小さく付け加える値札に固執する背景になっている。

崎陽軒のシウマイ弁当は好きな弁当なのだけど値段が弁当の割には少し高い。街の弁当屋やコンビニ弁当と比べる気はないが、一日に2万7千も売れる日本一の弁当ならもう少しコスト削減できるのではなかろうかと考えるのは外資でコストを削れと言われ続けてきた習い性かもしれない。つい最近来月から1000円越えへ値上げとの発表があり、値上げ前に食べねばと買ってきた。
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現在は950円だが来月からは1070円になる。米がこれだけ上がっているから仕方ないかもしれないが、強気の120円の値上げ、パーセントにしたら13%アップ。1980年代に横浜に引っ越してきた時は600円だった。それから25年経っても710円だった。ハマのソウルフードだと思って毎月のように食べていた。蒸かしているからご飯が冷めてもおいしいし量もたっぷりある。2008年に値上げして780円になったが、2010年には30円値下げして750円となった。いいところがあるじゃないかと思ったが、その後は2014年に二回の値上げ、2016年と2018年にも値上げして860円となり、2022年には900円に2023年には950円と価格改定した。原材料や人件費が多少上がったのかもしれないが、2000年からのデフレが20年間続いた世の中で5回の値上げはちょっと許しがたい。努力が足りなかったんじゃないの。その間にJAS法違反もあったし。

それで過去の値上げを調べると、1954年に100円で発売してから次が18回目の値上げだ。プラス1回の値下げ。4年に一回の値上げが多いのかどうかは判断できない。ただ消費者物価指数の伸びと比較して作表してみるとこんな感じになる。
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上の黒点付きの黄色の線がシウマイ弁当の値段の移り変わりで、下の青の線が消費者物価指数。両方とも1953年をゼロの起点としている。70年代以降シウマイ弁当の価格はCPIをコンスタントに若干上回るくらいで推移していたが、乖離が目立ち始めるのは2008年以降かな。そこからは一般的な物価の値上げを下に見るように上昇している。一時は全国展開も考えた崎陽軒だったが、ヨコハマ再集中でブランド力を強化したものの、地元民と出張客だけでは更なる売り上げ拡大は困難とみて値上げに踏み切ったのだろうか。客を甘く見るとやけどをすると思うのだが。

そう思うのも2022年に頼りなさそうに見える慶応出の四代目が社長になり、就任して数か月後にシウマイ弁当からマグロの照り焼きを外し代わりに鮭の塩焼きを入れたことから始まる。その理由がコロナ禍の世界的なサプライチェーンの混乱でマグロの必要量を確保できなくなった、という信じられないものだった。近所の中央卸売市場やスーパーにはいつもと同じようにマグロは並んでいる。買い負けたなんて社長が言ってはいけない。そう思っていたら一週間後にマグロに戻した。サプライチェーンは一週間では急変したりはしないものだ。一週間後に手に入るのだったらその前の週にも手配できただろうと思う。頑張ってマグロを提供し続けるのが経営責任じゃなかったのか。パッケージまで鮭のものに変えたのに、それをまた戻すなんて節度がない。それに鮭が気の毒だ。その数日後こんどは翌月からシウマイ弁当を40円値上げして900円にするとの発表があった。とんでもないドタバタがあったのだ。

穿った見方をすればこの40円の値上げを正当化するためにマグロを出しにして原材料の高騰を訴え、一週間だけ鮭にお勤めをしていただき、やっぱり鮭では務まらないから高価なマグロにもどしますから値上げの方ををよろしくね、とあのボンクラ社長が言っているような気がした。購買者のことなんか全く考えていないみたいだ。若社長が専務時代に出たNHKの崎陽軒のドキュメンタリーでその頼りなさ、心もとなさを晒しだし「えっ!これが次期社長?崎陽軒危うし!」と思ったが、その気持ちはいまだ変わっていない。1000円という心理的な閾値を超えた今度の値上げは崎陽軒にとっては要注意ですよ。

今年は2025年。「2025年問題」の年だ。私もその一員である団塊世代全員が今年75歳以上の後期高齢者になるので、社会保障費の増大、医療や介護体制維持の困難化、労働力不足という日本経済や社会に深刻な問題を及ぼすのだと言う。今年時点の後期高齢者数は2154万人。超高齢化社会だ。その背景にあるのは少子高齢化だが、2025年に3人に1人が65歳以上に、5人に1人が後期高齢者になることは何十年も前から予測できたことで、今問題にするのは政府の無策を晒すだけだと思う。それに何か危惧することがあるたびに団塊の世代がその要因であると言うのは勘弁してもらいたい。
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18年前には「2007年問題」というのがあった。団塊世代が一斉に定年退職を迎えるので労働力不足や、蓄積された技術や経験が喪失されるのではないかとの懸念があった。しかしその前年に改正高齢者雇用安定法が施行され企業は、定年廃止か定年延長か再雇用かの選択を迫られ、多くの企業が再雇用に走ったため逆に高齢労働者数は増え、大きな問題は起きなかった。
同時に「2007年問題」にはもう一つ期待されていた面があった。団塊世代の退職金が投資市場に流れ込んで市場を活性化するのではと思われたが、退職金はほとんど貯蓄に回され投資市場にはさほど流入しなかった。意外と団塊世代はカタいのだ。

その後定年を65歳に延長する会社が増え、団塊世代が65歳で定年退職になる「2012年問題」が話題となった。この時も技能継承が問題視されたが、5年前と同様に雇用延長や再雇用によって何とか乗り切った。しかし再雇用で賃金が下がるため、エンジニアの中には報酬の高い中国、韓国、台湾などの企業に技術を伝授するために再就職した人も多かった。裏切者、という声もあった。

「2015年問題」というものも存在した。団塊世代のすべてが65歳以上となり、労働人口の減少だけでなく年金をフルに受け取れる年金給付人口の急増で年金財政が悪化するのではないかとの心配が起きた。予想されたように年金財政は圧迫され、支給年齢の引き上げや現役世代の負担増が引き起こされた。団塊世代は「最後の食い逃げ世代」と呼ばれた。

そして現在の「2025年問題」だ。確かに医療費では迷惑をかけている。後期高齢者は平均で年97万円と75歳以下の人の約4倍の医療費を使う。膨張する47兆円の医療費の4割を後期高齢者が占めるのだ、それもその多くが1割負担で。申し訳ないと思う。でも望んで長生きをしているわけではない。スパゲッティ状態になってまで長生きしたいとは思わない。わが家は夫婦二人で年間30万円の後期高齢者健保を払い、昨年の医療費は二人で4万円弱だった。多少は貢献してるんだけどね。

この先には「2040年問題」という大問題が待っている。団塊ジュニア世代が高齢者になるのだ。2040年には65歳以上の高齢者が全人口の35%を占めるようになる。世界のどの国も経験したことのない超超高齢化社会だ。生きていれば私は93歳だが、多分この世にはいない。街には高齢者があふれるだろう。車いすやシニアカーだらけになるだろう。病院や介護施設も老人で一杯でケアをする人たちも老人であろう。医療費や現役世代の負担がどうなるかなんて想像もつかない。他の国も日本に遅れて同じ状態になると思われるので、この国の対応策がよいお手本になれるといいのけど。それはひとえに日本がこの2025年問題をどう乗り切って、何を学ぶかにかかっていると思うのだが。

マンションの管理人さんがひとり辞めた。年配の方だったので不思議にも思わなかったが、管理会社は少し焦っているように見えた。大手ディベロッパーだからすぐに後任は見つかるだろうと思ったが、そうはいかないようだ。すぐ採用面接にとりかかると言っていた。

そういえばマンションの管理組合の理事をしているゴルフ仲間が、昨年1年で管理人が3人辞めてしまい、突然の退職で引継ぎが十分にできないため総会が開けないと言っていた。中小の管理会社だったが、多分口うるさいクレーマーがいたのだろう、最後の一人はノイローゼのようになって辞めたらしい。思った以上に大変な仕事なのだ。
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マンション関連では建物そのものの高齢化、住人の高齢化、理事会役員の高齢化とならんで管理会社の管理人の高齢化が問題となっている。もともとマンション管理員は年配者の転職先として人気があったが、企業の定年延長や再雇用で応募者が激減している。だから欠員が生じて募集をかけても応募者が少ない。中小の管理会社は恒常的に人員不足らしいが、大手でも人手が足りず既存マンションの欠員の補充ができていないし、新規受託の依頼があっても管理員の応募が見込めないため受託できない。かつ人員不足が管理員の人件費高騰を招き、多くの管理会社が管理委託費の値上げを要求している。値上げが認められない場合は時短など仕様変更をせざるを得ないし、組合としてもそれを受けざるを得ないことが多い。最悪の場合は「もう続けられられません」と管理会社の撤退もありうる。

管理員の仕事は高齢者に向いているように思われるが3K要素が強く、その割には求められるスキルが多く対人関係対応能力も必要だ。過激な要求をされることも多く離職率が高いことも応募の減少の理由だ。どのマンションでも見られそうだが、特に高級住宅地エリアで顕著だそうだ。

理事長を半年やっていると管理スタッフ問題だけでなく今まで見えなかったこと、気づかなかったことが沢山ある。それらを解決しようとすると理事長は管理会社寄りだ、管理会社に丸め込まれている、という老人が多い。大抵彼らは理事や理事長の経験のある引退した老人なので時間だけはあり、趣味のように注文を付けてくる。管理人室にやってきて忙しいのに一時間も話し込んだ、ということはよくある。どこにもクレーマーはいるのだが、本人はクレーマーだという意識は全くなく、マンションの役に立っていると信じ込んでいるのが一番質が悪い。過去の事例や手続きなどの細かいことには執心するが、将来を見据えた提案などはほとんどしない。「そんなに長くは生きていない」と言うのが常套句だ。

私の住むマンションも来期は大規模修繕工事やエレベーター更新を控え、おまけに管理会社からは管理委託費の値上げを要求されている。はやく新しい管理人が見つかり仕事に慣れてもらいたい。理事のなりてもなく輪番でも理由を付けて断る人ばかりだ。次の総会は荒れそうな気もするが、クレーマー対策もしながら資産価値の維持や居住性向上のための先を見据えた提案をしなければと思う。あと半年何とか乗り切ろう。

速報ではあるが2024年の東京都区部の消費者物価指数が発表された。総合指数が対前年比+2.3%、生鮮食品除きでは+2.1%、生鮮を除いた食品が+3.7%となっている。これで3年連続で物価上昇率は2%を超えたことになる。
2024-12-27
しかし年間で物価上昇はたったの2.3%、食品(生鮮品除き)が3.7%しか上がっていないというのは毎日買い物をする専業主夫としては納得できない。生鮮では野菜が26%、果物が17%上がったと言う報道はあるが、非生鮮品でも加工食品や飲料が大きく値上がりしている。コメも27%アップと言う記録的な数字だが、今調べたら米は精米したものでも生鮮食品に入るのだそうだ。知らなかった。その他にも小麦粉や油脂やミルクを使った商品は二けたの値上げをしているし、今年値上げされた食品12500品目の平均値上げ率が17%とされているので総合の2.3%と生鮮除きの食品の+3.7%はどう見ても低い。
2024-12-21
もちろん値段が上がっていない製品もたくさんあるのだが、購買者は上がったものばかりに目が向くものだ。いつも買うコーヒー豆やオリーブオイルなどは前年の二倍になっているし、生協が配達してくれる「つや姫」は5キロで夏には2538円だったが先月は4082円と61%も上がっていた。

そんなことを考えながら、今年の買い物がすべて終了したので我が家のエクセル家計簿で値上げ率を検証してみた。

2024年の食費は90万円でひと月当たりにすると75000円、65歳以上の無職夫婦二人世帯の2023年平均(72930円)より2000円多いだけだ。確か75歳以上世帯の平均はは60000円位だったと記憶している。平均値も今年はもうすこし上がっていると思はうけど。対前年比は+4.4%、生鮮三品を除くと+9.5%で、ほら+3.7%では収まっていない。
わが家の食費の中で一番の支出は菓子類で月平均で約10000円、食費の12%を占める。いくら昔菓子の仕事をしていたとしても少し多すぎるかも。その次が野菜と総菜類で月に約9000円。菓子類の対前年伸び率は4.9%、野菜は13.7%増えたが総菜類は-9.2%と縮んだ。野菜は毎日10品くらいとっているので今年の値上がりを考えたら仕方ないかもしれない。

食費の中で野菜に続くのは魚類、冷凍食品、飲料、果物、パン、外食だ。この中で伸び率が大きかったのは冷凍食品の56%、パンの29%と外食の14%。冷凍食品はお取り寄せと手抜き料理が増えたためで、パンは小麦粉の値上がりとちょっとおいしいパンをとグレードを上げたのが理由だ。外食は同窓会がいくつかあったので仕方ない。

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値上げの要因としては上の図で分かるように全部の要素が上がった。原材料も人件費も物流費も上がれば値上げは仕方ないか。前年と比べると人件費理由が3倍となり、円安要因が2.5倍となっている。つまり円安で石油が上がり、それが輸入原材料と包装資材と輸送費を押し上げ、物価が上がったために賃金を上げざるを得なかったという構造が見て取れる。この構造はあと数年は続くだろう。政府が望んだ形ではなくデフレが終わりインフレが始まるということだ。

食費以外では雑貨・日用品が10%増えた。紙製品や洗剤の値上げが大きかった。月2ペースで行ったゴルフ代も10%増えた。それらを帳消しにしてくれたのが光熱費だ。電気代が-5.8%、ガス代+給湯費が-9.6%、水道代が-4.3%と政府の補助金もあって下がったため光熱費合計でも-7.4%となり、月4万円台だった光熱費が3年ぶりに3万円台まで落ちた。加えて今年は車検がなかったことで16万ほど浮いた。

生鮮食品の野菜と果物は支出が増えたが、肉類と魚類は-18%、-23%と激減した。値上がりのせいもあるが歳のせいか肉を食べようという意欲が落ちたし、魚は前年にサブスクをやめたことが効いている。今年は何とか消費支出を前年以下に抑えられたが、これ以上インフレと戦うのは無理じゃないかと思う。残された短い人生あまり節約ばかりでは楽しくないし、食事と趣味をケチったら何のための人生かわからなくなる。健康なうちが花ですものね。

衝動買いした都内のマンションが住みづらかったので、元町に店を持っていた義父の勧めもあって建ったばかりのパークシティ本牧に部屋を借りた。1987年だった。浜っ子の家内は本牧の米軍宿舎をフェンス越しに覗いていたことをを憶えているので、あこがれの街に住めると喜んでいるようだった。ただ駅からは遠くJRなら石川町、東急線なら桜木町からバスを使わなければならなかった。数年後には地下鉄が延伸されるという話だった。広い平らな原っぱにタイル張りの新築マンションが9棟建っていた。本牧原という住所名にピッタリの風景だった。
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小3の娘は毎日片道2キロの道を草をかき分けながら間門まで通学しなければならなかったが、そのおかげで喘息が治った。買い物も便利とは言えず、週末には車で元町ユニオンに出かけた。不動産屋は駐車場なんかいりませんよ、原っぱにとめておけばいいんですと言ったが、そうもいかず原っぱの一角の7千円の駐車場を借りた。

数か月後に状況が変わった。89年春の開業を目指すマイカル本牧の工事が始まったのだ。そんなことは聞いていなかった。まわりの草は刈られて整地され、目隠しのフェンスが建てられそこにアーティストたちが思い思いの絵を描いた。白地バックに鮮やかな色で描かれたポップな絵画は夏の太陽に映えて、日本ではないような光景だった。
騒音と埃には悩まされたが予定通りにマイカル本牧は完成した。高級ブティックやブランド店も嬉しかったが、スーパーと映画館や劇場が併設されているのが一番ありがたかった。すぐマイカルカードを作った。
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出来上がった建物は壁はごく薄いベージュがかった黄色、屋根は三角でオレンジ色というスペインを想起させる配色で全10棟。わが家の前の道は「イスパニア通り」と名付けられていた。コンセプトはアーバンリゾートで、180ものショップやレストラン、スポーツ施設などが入っていた。前宣伝も派手だったので開店時から大変な混雑となった。もともとバス便しかない場所なのでバスはいつも満員、車で来る人も多く駐車場待ちの車が道路をふさぐので週末は車に乗る気がしなくなった。おまけに地主が強気になって7千円の駐車場は一気に2万円に跳ね上がった。マイカル本牧は大規模な流通実験として全国的にも注目され観光バスの目的地にもなったので店も道も混んだ。初年度はディズニーランドを超える1500万人が訪れたという。

食品や日用品はサティで買い、時々は5番街のブティックで買い物をし、夕食後に毎週のようにシネコンで映画を見た。足の便が悪いせいか最終回は我々夫婦二人だけのことがほとんどだった。家から1分で行けるのは楽だった。家内はスポーツジムに通い、見たい演目があるとアポロシアターにも足を運んだ。オフィサーズクラブにも飲みに行った。食事を作るのが面倒な時は走って行ってピザやハンバーガーが買えた。なんとなく生活が彩を帯びたような気がした。

しかしオープンから2年もしないうちにバブルが弾けた。電車の便がない本牧は寂れはじめると一気に下降が始まる。売り上げが下がると高い賃料が足かせになる。閉店後にプティックの店員が「今日はブレスレットが1個売れただけだった」と話しているのを聞いたことがある。5番街のカステルバジャック、アクアスキュータム、ベネトンなどはさっさと撤退した。アポロシアターも客が来なくなり、マンションのポストに週末の公演の無料券が何回も入っていた。客が少ないと演者にすまないと思ったのだろう。しかしクラシックバレエやクラシックコンサートの公演の時は初めて見る客が多いようで拍手をしてはいけないところで大きな拍手が起きたりした。レストランも閉店が続きマイカルが目指した未来都市、小粋なアーバンリゾート構想はガラガラと崩れ始めた。

結局地下鉄が延伸することもなく陸の孤島のようなってしまったマイカル本牧。バブルの崩壊だけでなく、93年にはランドマークタワーが完成したみなとみらい21地区に客を奪われるようになると業績はさらに悪化した。経営再建のため大半の建物を売却したが状況は変わらず、2011年にイオンに吸収合併される形でマイカルそのものが消滅してしまった。マイカル本牧、22年の短い生涯だった。

子供のころからアメリカのポップスが好きでラジオでニール・セダカやポール・アンカを聞いていた。英語はよくわからなかった。やがてフジテレビが「ザ・ヒットパレード」を放映しはじめ、その後も「明治屋マイマイショー」や「森永スパークショー」と続いた。それらの番組で歌われたほとんどの曲は洋楽のカバー曲でアメリカで流行っているポップスを和訳したものだった。

当時アメリカンポップスを唄っていたのは飯田久彦、ミッキーカーチス、ザ・ピーナッツ、森山加代子などでグループで歌っていたのは伊藤素道とリリオリズムエアーズくらいだった。そんなときにパラキンが現れた。最初のヒット曲はグループを抜けた水原弘の後釜で加入した坂本九が歌った「悲しき六十才」だった。その2か月後には「ビキニスタイルのお嬢さん(石川進)」と「ステキなタイミング(坂本九)」のカップリングでヒットを飛ばし、その後も1ヶ月か2ヶ月間隔で新曲を出すという、今では信じられないペースだった。翌1961年には11枚ものシングルを出した後、「上を向いて歩こう」のヒットを出した坂本九が独立した。62年にはキューピーの愛称でグループ1の人気者だった石川進も独立し、代わりに九重佑三子が加入した。
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翌年フォーシ―ズンズのカバー曲「シェリー」がヒットし、7枚のシングルが発売された。この頃がグループの最盛期だったような気がする。紅白歌合戦にも出場したし、「明治屋マイマイショー」やNHKの「若い季節」「夢で逢いましょう」に毎週のように出演していた。翌64年には九重も独立し、毎年のようにボーカリストが変わり昔のファンが離れていった。メンバーの入れ替わりが激しいグループではあったが、それだけスターを産み出したということだと思う。ボーカルは変わったがスティールギターのダニー飯田、ギターとボーカルの佐野修、同じく上野保夫、ベースの石田智、ボーカルとウクレレの増田多夢は当時の不動のメンバーだった。私がコンサートに行った時のドラムスは後にジャズドラマーとして活躍するジョージ大塚だった。

60年代後半からはヒットにも恵まれず、東芝からクラウンレコードに変わってからはポップスから歌謡曲路線に切り替わった。メンバーの離脱も進みオリジナルメンバーはダニー飯田と佐野修だけになり、かつての人気グループも存在感は希薄になった。離脱した増田多夢は91年に亡くなり、リーダーだったダニー飯田が1999年に亡くなってパラダイスキングは解散となった。

中学から高校の時期にレコードを集めて聞いていたパラキンだったが、在籍していた水原弘、坂本九、ダニー飯田、石川進、増田多夢、ジョージ大塚、みんな鬼籍に入ってしまった。あれから60年年経っているのだから仕方がないのだけどね。人気グループではあったが今思うと全員が素人っぽくて、ガツガツしていなくて、懐かしき良き時代の歌手たちだったのだと思う。

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