マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2020年06月

外資系企業を数社経験したのでいくつかの職務分掌を目にしました。その中で一番わかりやすくてよかろうと思われるものをご参考までに添付しておきます。カナダでのプロダクト・マネジャーの職務分掌です。ご参考になれば幸いです。



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子供のころから広告が好きだった(16)

小学生の頃、保守的な街で母親は当時としては珍しく活動的で、毎週カルチャーセンターのコーラスに参加したり、マチネだったと思うがコンサートにも出かけていた。帰ってくると、(当時NHK名古屋のアナウンサーだった)下重暁子がかわいかった、とか立川澄人は上手い、とか(当時モデルだった)岡田真澄はいい男だわとか呟いていた。家の中でも掃除をしながら、食事を作りながらいつでも練習中の歌を口ずさんでいた。

ある時コンサートのプログラムが置いてあったのでパラパラとめくっていたら、ヤマハ(だったと思う)の広告にその美少女が載っていた。ハーフなどほとんどいなかった時代、もちろん国民的美少女コンクールもなかった時代にこんな美しい少女がいるなんて。多分あの頃鰐淵晴子の写真を見た少年はみんな恋に落ちたと思う。そのくらいの衝撃だった。ネットでその広告を探したが見つからなかった。その頃の彼女の写真にはこんなものがある。

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隣にいるのは原節子。と言うことは初主演映画「ノンちゃん雲に乗る」からのカットだと思う。母の本棚にはこの原作本もあってそこにも彼女の写真が載っていた。幼い時から天才バイオリニストと呼ばれ、子役デビューしてからは姉妹で競わないようにとモデルもしていた妹の朗子がバイオリン、晴子が女優の道に進んだ。下の写真の左が晴子、右が朗子。
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その後「乙女の祈り」「伊豆の踊子」「あんみつ姫の武者修行」などの主演、トニー・ザイラーと共演の「銀嶺の王者」など多くの映画に出演したが大ヒットとまではいかなかった。二度の結婚を経て再度映画やテレビに出るようになったが役柄はがらりと変わった。若いころの美貌に凄みが増し「らしゃめん」「悪魔が来りて笛を吹く」「八つ墓村」などかつての清純派女優とは全く異なる妖艶な悪女役でその存在感を示した。

でも、そういう役もよかったのだけれど数十年前に胸躍らせた少年の脳裏にはあの頃の愛くるしく清楚な美少女鰐淵晴子の残像がいまだに留められているのです。

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子供のころから広告が好きだった(15)

今でこそビール飲料第一位を誇っているアサヒビールですが、1980年代中旬までは落日の「夕日ビール」と揶揄され、いつ後発のサントリーに抜かれて第四位に落ちてもおかしくないメーカーでした。1950年代初頭までは49年に集排法(独禁法)で分割された大日本麦酒から生まれた朝日麦酒、日本麦酒(サッポロビール)の二社とと麒麟麦酒の三つ巴だったのが、1954年に麒麟がトップに躍り出てからは他社を引き離し、70年代にはシェアは60%を超え65%を伺う勢いでした。

ビールメーカー国内シェア推移2018年
「日本には二種類のビールしかない。キリンビールと、その他のビールだ」。当時そんなことが言われていました。これ以上シェアが上がると大日本麦酒のように独禁法に抵触するかもしれないと考えられ、積極的な販促案や広告は実行されずにいました。その頃のキリンビールの広告の典型例が「どういうわけか、キリンビール」。流通対策上広告は打たなくてはいけないが、あまり派手にやると分割対象になるかもしれない。作り手のそんな気持ちがマーケターには感じられる作品でした。

(クリックすると「どういうわけか、キリンビール」のCMが見られます)
https://www.youtube.com/watch?v=n0TdiT24P54

しかしこの頃競合のサッポロも三船敏郎を使って「男は黙ってサッポロビール」のシリーズを流し、アサヒはずっと「アサヒビールはあなたのビールです」のコピーを使っていて各社製品差別化などあまり考えずブランドイメージだけで勝負をしていた時代でした。他の製品と比べると製品間の差が大きくないビール業界だからだったのかもしれません。

その後日本でもアメリカの後追いで缶ビールが伸長し市場には「キリンビール、その他のビール、缶ビール」の三種と言われるようにもなりました。缶ビールは50年代末に発売されたのですが当時はスティール缶で三角穴を二つ開けて飲むタイプでした。瓶よりも冷えやすいだけが売りでした。それが65年にプルトップ缶が出、71年にアルミ缶が世に出るとビール自販機の伸びと相まって一気に市場を創造しました。缶ビールの強みは大瓶と比べると飲み切りやすい内容量、瓶はケース買いが主流でしたが1缶は1本または6本で買えること、冷えやすさ、昼間に飲むときに栓抜きで栓を開け構えて飲む瓶とは違って後ろめたさが少ないことが挙げられました。1998年には缶がビール全体の5割に達し、現在では75%を占めると言われています。

ビール市場は70年代中旬は「生」合戦、80年代は「容器」合戦で波乱気味の様相でした。83年にアサヒのスーパードライが世に出てドライ戦争がはじまり90年代半ばまでは市場が伸び続けましたが、それ以降は発泡酒や第三のビールの導入にもかかわらずほぼ四半世紀のあいだ縮小を余儀なくされています。人口減、若者の酒離れ、圧倒的に高いビールの酒税などがその理由とされています。昨年10月の消費増税の影響や、2026年まで段階的に行われる予定の発泡性酒税の改正でビール市場がどうなるのか見守りたいと思います。



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非常事態宣言が解除されたので久しぶりにゴルフ。自粛生活が続いていたので体力が落ちていて後半が肉体的につらい。腰がぶれるので軸が定まらないし、当然球筋も定まらない。風呂場で脚が攣りそうになったし、ぎっくり腰にもなりそうな感じだった。この歳でぎっくり腰になるとけっこう大変なことになる。いままで三回やっている。


最初のぎっくり腰は忘れられない。カナダから帰国して半年白金のホテルで暮らし、この部屋に引っ越してきた夏の暑い日だった。寺田倉庫に預けていた家具が運び込まれ、ダンボール箱60個を開けて収納している時だった。大半が終わり残り数個の一つを持ち上げた時、突然電気が走り床に崩れ落ちた。痛みでまったく動けない。目の前のベッドに登ることもできない。7月の中旬。あの年は猛暑だった。オーダーしたカーテンはまだ届いていない。クーラーの据付は一週間後。部屋の中は40度にはなっていたと思う。暑い。西南に面した部屋には強い日差しが差し込み、手足をもがれたゴキブリのように床に伏したまま、こうして干からびて死んでいくのではなかろうかと思った。陽当たりが良さそうで自分で選んだ部屋を恨んだ。家族は海外にいるし、電話もまだ設置されていない。無論携帯なんてない時代でSOSすら発信できない。汗は床に滴り落ちる。


数時間そのままの格好で過ごした後、水分を補給せねば、トイレにも行かねばと移動を試みる。四つん這いのままスローモーションのイグアナのように痛みをこらえながら匍匐前進し、数分かけて台所に到着。据え付けたばかりの冷蔵庫には当然ながら何も入っていない。水を飲もうと流し台に手をかけても背中が痛くて立ち上がれない。何度か膝から崩れ落ちたあと、背を丸め左腕をシンクに乗せて体重を支えながら右手でハンドルを押してやっとのことで蛇口から水を飲む。生ぬるい水だったがおいしかった。その後トイレへ。この悪戦苦闘は書く気にもなれない。


翌日勇気を振り絞り治療院に向かう。普通に歩いても15分の距離だ。はじめて二足歩行をした人類もかくありなんという感じでときはに道にしゃがみこみ、ときには電柱やガードレールににすがりついてやっと到着。あれは一種の旅だった。なのに老先生は話を聞いた後たいした治療もせず、加齢ですね、自分で思うより筋力は落ちているんですよ、もう若くないんだから、と言ってコルセットを売りつけて治療終了。あ~あ、老化はあの頃から始まっていたんだ。



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