マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2021年10月

少し早いかもしれませんが年賀状を準備する季節になりました。歳をとるにつれて亡くなる方や喪中の方、年賀状を出すことを諦める方、メール年賀状に変更する方が増え、現役時代と比べると枚数は激減です。確かに虚礼に近いので辞めたいとも思うのですが、年賀状でしか繋がっていない親戚や知り合いも多いので結局毎年書くことになります。しかし紋切り型の文章ではまさに虚礼になってしまうので、自分の近況、考えや抱負を記すことにしています。昔の仲間からは、あの長い年賀状と言われています。過去の物から数例を引っ張り出しました。



明けましておめでとうございます

お健やかに新年をお迎えのことと存じます。

日本中が閉塞感で覆われたまま一年が終わり、新しい年が始まりました。なんだか今年も同じような年になりそうな予感がします。

50歳以上が有権者に占める割合が半数を越える時を「終電が出る時刻」と言うそうです。諸々の給付を受ける側が過半数になると、次世代のことよりも既得権を守ること、自分たちの老後が関心事となり、政府が財政改革など大きな改革を実行することがが困難になります。先進国のほとんどがこれからの10年~20年でその時期を迎えるのに対し、日本は既に50%を大きく超えています。現在の閉塞感の原因の一端はこの辺にあるのかもしれません。

そう言う自分はもう終電に乗り込んでいます。学生時代になぜビートルズがこんな曲を、と思いながら聴いたWill you you still need me, will you still feed me, when I’m sixty-fourの年齢に今年なります。時の経つのが年々加速度的に速くなるのを感じますが、終電に乗り損ねた世代のことも忘れない団塊世代でありたいと思います。 

新しい年が皆様にとってよい年となりますように。

平成二十三年元旦

明けましておめでとうございます

お健やかに新年をお迎えのことと存じます。

一年が、未曾有の震災の一年が過ぎました。長くて短い激動の一年でした。

かつて「一日のなんと長く、一年のなんと短いことか!」と感じるようになったら要注意だ、と教わりました。停滞あるいは倦怠の兆候なのでしょうね。一年が短く感じられることに今も変わりはありませんが、引退老人の平々凡々の一日もあっという間に過ぎて行きます。時の流れは年々速くなります。昨年は特にそう感じました。

日本を覆っているこの淀んだ空気は今年も消えることはなさそうです。でも千年に一度と言われた震災の年より悪くはならないはずだと信じ、明るい方向に向かって歩くしかできることはありません。今年こそ新しい一年が皆様にとってよい年となりますようにお祈りいたしております。

この夏で65歳、『高齢者』の仲間入りです。今年の一日も短いといいなあ。
平成二十四年元旦 


明けましておめでとうございます。
お健やかに新年をお迎えのことと存じます。

英国の調査によると幸福度は40代を底にして上昇を始め、70歳近辺でピークを迎えるとのことです。引退して仕事がらみの不満やストレスが減少することがその理由だそうです。米国の調査でも同様なU字カーブを描いています。日本のデータを調べてみると、67歳を底にして79歳まで横ばいのL字型だ、とあります。阪大の調査では20代が最も幸福で加齢と共に下がり始め、60代が一番不幸とのこと。英国の調査とまったく逆ではないですか。すがる思いで最後にたどり着いたのがハーバード大学の10代男性を老年まで75年間追跡した幸福研究の結論。人を幸福にするのは、富でも名声でも無我夢中に働くことでもなく、良い人間関係、特に身近な人たちとの関係の質なのだ、と。ちょっと救われますね。

と言うことで皆様今年もよろしくお付き合いをお願いいたします。 

2017年が皆様にとってよい年となりますようにお祈り致しております。

平成二十九年元旦


ネタ探しもそれなりに大変なのですが(だから少し早めの準備が必要になります)、過ぎ去った一年を自分なりに振り返り、新年の抱負をまとめる良い機会になります。今年来た年賀状の中で一番面白かったよなどと言われたりすると、また来年も頑張って書こうという気になります。
さて、今年の年賀状はなにを書こうかなあ。

 




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少し寒くなってきた昨日、暖かいランチを食べたくて久しぶりに新宿中村屋の肉まんを買ってきました。夏の間は店頭で見ることが少なかったのですが、急に冷えてきたせいか駅前のスーパーにはいつもより大量に並べられ買っている客の数も多かった。家に帰り蒸し器の用意をして袋を開けてびっくり。一個づつ個包装されているではありませんか。
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今更という感じもするのですが、個包装化するには大袋に入れる前に個包装ラインを作らねばならないので製造ラインの変更が必要になるし、オペレーションも大変ではなかろうかとメーカーにいた人間は考えてしまいます。パッケージには誇らしげに「個包装のままレンジでふんわり」と書かれています。確か旧製品の裏には軽く水を振ってラップをゆるくかけてレンジに、とか書いてあったような気がします。私は面倒でも蒸し器を使います。この方が絶対おいしいからです。

それともうひとつ気づいたことが。5個入だったのが6個入になっている! 旧製品は基本5個入で時々プロモーションで+1個の6個入はあったのですが、個包装した上に6個入にしてお値段そのまま。中村屋さん、この小麦粉価格が高騰している時に大丈夫か、と心配してしまいます。(下の写真は旧製品)
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しかし個包装を開けた時に気づきました。小さくなっている。高さも径も以前よりひと廻り小ぶりだ。そうですよね、それでなければ採算悪化ですものね。でもいつも6個入で売られるのは大歓迎です。売価495円税込みで534円なら1個89円です。それに肉まんは賞味期限が短く、長いもので5日、私がいつも買う店のものはたいてい3日です。2日になると10%、その後は30%引きで売られることが多い。この値段で体が温まりお腹がいっぱいになるなんて。贅沢は言えません。
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金のなかった学生時代、現金封筒で仕送りがつくとすぐ元住吉商店街の中村屋に走り、蒸篭で蒸かしているのを買いました。たいていは5個、腹の減っている時は7個買います。食べる順番も決まっていて5個の時は、肉肉餡肉肉の順、7個の時は肉肉餡肉肉餡肉でした。今思うと至福の時でした。当時は1個25円でしたから5個で125円、7個買っても175円。学食のカツ丼が70円、商店街の洋食屋の定食が180~200円だったから肉まんの方が満足度が高かったかもしれません。でも今じゃとても7個は食べられない。
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でも味から言うと大阪にある551蓬莱の豚まんが一番でしょう。神戸で働き始めた時に元広告屋はまずTVCMに驚き(あきれたが正確か)食べて驚いた。横浜中華街のよりおいしくて安い。駅の売店や三宮そごうの地下で並んで買いました。横浜ではそごうが年に一回イベント時に招聘している時にしか買えない(通販では買えます)。先週名古屋からの帰りの新幹線でお土産の551の袋を見て羨ましかった。たいてい上りの車内に一人はいますね、お土産で買った人が。あ、いかん。腹が減ってきた。
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昔はガムと言えば板ガムのことだった。

WL社に入社して最初のアサインメントはブレス・フレッシュナーの新製品担当でした。アメリカではサーツやクロレッツがあり当時の社長はトライデントやホールズに次ぐ新製品として期待をしていました。その頃競合としては圧倒的シェア#1のグリーンガムがあり、かつ市場の7割は板ガムでした。なんとかしてグリーンに一泡吹かせたいと考えていました。

クロレッツ発売の一年前に2in1を出しています。2in1のもとはサーツですが、過去に二度の失敗があったため名前を変えました。2in1が先に発売されたのは、2in1の有効成分がレチンだけなのに対しクロレッツはレチンとクロロフィル(後にこのをコンビネーションをアクチゾルと命名)なのでクロレッツが先に発売されると後から来る2in1の効果が弱く見えるからです。過去のサーツ失敗がミントだったのでキャンディに変えて世に送られました。

ですからクロレッツにキャンディの可能性は殆どなかったのですが、ガム、ミント、キャンディの三種で開発を始めました。効能効果の面から見ると、食べてすぐ製品全部が胃の中に入るミントが一番高いのですが(口臭の原因の一番は口の中、次が胃だそうです)サーツの失敗とミント市場があまりに小さいので諦めました(数年後フリスクが成功したときは、やられた~と思いました)。二番目に効果の高いキャンディはガムが成功してから出すことにし、ガムにフォーカスすることにしたのです。

ガムには板、糖衣、ブロック(風船ガム)、スラブ(トライデント)などがありますが、効果の高いのは糖衣でした。ガムベースの中の有効成分は全部がガムの外に出るわけではありませんが、表面の糖衣部分は溶けて口の中から胃に届くからです。それに当時の工場には板ガムの製造設備はありませんでした。糖衣しか選択肢がなかったと言っていい状況でした。数台の銅製の釜(コーティング・パン)がありその中に成形したガムを入れ回転させながら時々工員さんが手で糖液をかけて熱風で乾かし懐かしのチクレットを作っていました。チクレットの売上げはずっと下降していて、工場に行くと「チクレットとダイナミンツの設備が遊んでるからこれでなんか新製品作ってよ」と言われたものです。
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糖衣に決めて試作を繰り返しなんとか満足できる製品ができたので、翌年のテスト・マーケティングの説明のために営業幹部会議に参加しました。プレゼン後あるマネジャーから「今頃糖衣ガム? 糖衣は戦後のガムだよ、ギブミー・チューインガム時代のガムだよ。チクレットを見れば分かるでしょ。売れるわけないだろ。今の世の中は板ガムなんだよ。なに考えてるの!」とボロクソに言われました。包装形態も最初はチクレットと同じ小箱入りで考えていたのですが、これも鉄道担当マネジャーに「包み紙がないガムは扱ってもらえない」と言われ鉄道売店を主力販路と考えていたので滅茶苦茶落ち込んで帰ったのを覚えています。


この悔しさがあったので包装形態をなんとかしたい、見返してやりたいと思うようになり、その頃森永から入社された製品開発部長とスティック包装、糖衣ガムの個包装の検討を始めました。効果感を強めるためにメントール含有を増やし、個包装工程で立てられた粒が倒れてしまう問題も工場サイドの尽力や包材をセロファンからアルミに変えることなどでなんとか解決し、多分世界初の個包装でスティック包装の糖衣ガムが誕生しました。包装機への投資も承認が取れテストマーケティングが始まりました。正式発売後は苦戦しましたが、テレビ広告がヒットしたこともあり品切れ状態が長く続くことになり、営業からは何故増産できないのだと苦情の毎日でした。高速糖衣機と包装機の追加もあり当初の目標の数倍の販売量を達成できました。その後競合社の同じサイズの糖衣ガムの発売が続き、ガム市場が一気に板から糖衣に大きく切り替わるなんで想像もしていませんでした。

久しぶりにクロレッツを買い、味わいながら昔のことを思いだしてつい書いてしまいました。老人の昔話でごめんなさい。




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