子供のころから広告が好きだった(22)
歌も楽しや 東京キッド いきで おしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チューインガム
空を見たけりゃ ビルの屋根 もぐりたくなりゃ マンホール
戦争の傷跡がまだ残っていた1950年に発売された美空ひばりの「東京キッド」の歌詞です。同年に映画化もされ13歳の彼女が主演でした。チューインガムが夢と同等に扱われています。物資欠乏時代のチューインガムは食料の代用品であり数少ない甘味を味わえる食材であった。後年野坂昭如は「チューインガム・ブルース」でこう歌っていた。
あの頃俺は十一で DDTまみれの浮浪児
進駐軍の顔見れば ハングリー ハングリー ハングリーと つきまっとてた
チューインガム チューインガム チューインガム・ブルース
最初は怖かった進駐軍兵士にだんだん近づいていきチューインガムやチョコレートをねだった子供がたくさんいたらしい。それを大人は多分苦々しく見ていたのだろう。少年たちが手にしたのはリグレーガムだったと思う。当時リグレーにはビッグスリーとでも言うべきスペアミント、ジューシイフルーツ、ダブルミントの三ブランドがあった。
やがて日本製のガムも市場に出回るようになった。我が国最初のチューインガムはフエキ糊がゴムの技術を生かして「白龍」というリグレーを模した板ガムを明治42年(1909年)に6枚5銭で出したが甘味料不足で撤退している。大正5年(1916年)にはリグレー製品が輸入され広告も打たれた。その後森永や明治も製造を開始し、昭和に入ってもマサキガムや新高製菓が製造販売を始めたが売れ行きは芳しくなかった。第二次大戦が始まると統制経済のため航空機搭乗員用以外のガムは製造禁止となった。

日本人の食生活に合わないとか人前で口を動かすのは品がないと言われて浸透しなかったチューインガムだが、戦後状況は一変した。ガムは手軽でかっこいいアメリカンファッションになった。たいした宣伝をしなくても市場は拡大の一途だった。雨後の筍のように400近くのメーカーが見よう見まねでガムを作り始めた。粗悪品も多かった。結局生き残ったのは大手数社と子供用ガムに特化した数社だけだった(現在ガム恊メンバーは18社)。

1955年当時はハリスが約40%のシェを持つトップメーカーで、酢酸ビニールを使ったガムベースは白かった。当時の広告ではその白さを強調して富士山の写真にかぶせて「山は富士、ガムはハリスの白いガム」と謳っていた。50年代は「東のロッテ 西のハリス」と言われていたが、54年に初の天然チクル配合のバーブミントガムを発売してロッテの反撃が始まる。それまでテレビ広告はスケートをしている少年のアニメ(だったと思う)バックにのんびりした「ロッテ ロッテ ロ~ッテ ロ~ッテのチューインガム、どなたも どなたも ロッテのチューンガム チューインガム(少しうろ覚え)」だったのが、パンチの効いた「天然チクルのロッテガム~」に変った。同年にスペアミント、57年にグリーン、59年にジューシイミント、60年にクールミントとヒット商品を世に送り、その間関西菓子卸を買収し西日本を強化し、61年には翌年に景品表示法を制定する原因となった1000万円懸賞(現在の1億円以上)を実施して遂にハリスを抜いて日本一のガムメーカーになった。


その他のメーカーでは森永がチクルの本場メキシコ出身のトリオ・ロス・パンチョスをCMに使い「チクレ モリナ~ガ チクレ モリナ~ガ ア~イヤイヤイヤイ チクレ モリナ~ガ」とコーヒーガムなど3品の広告を打っていた。グリコや明治もガムを発売していたし、私が所属していたWLアダムスも61年にチクレット、67年にデンティーンを発売した。デンティーンの新宿西口に乗り付けたトラックから若者たちが降りてきてエレキギターを弾きながら「アメリカ生まれのデンティーンガム」とロック調で歌った広告は今でも覚えている。
ガム市場が縮みはじめて20年近くたち、ピーク時より6割も落ちてしまった。盛り返すのは困難かもしれないが、最近歯科医師や歯科医院が行っている「歯周病を予防するにはチューインガムは有効だ、40代50代はガムを噛んで!」というキャンペーンに期待しましょうか。

ランキング参加中です。クリックしていただけると励みになります。
歌も楽しや 東京キッド いきで おしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チューインガム
空を見たけりゃ ビルの屋根 もぐりたくなりゃ マンホール
戦争の傷跡がまだ残っていた1950年に発売された美空ひばりの「東京キッド」の歌詞です。同年に映画化もされ13歳の彼女が主演でした。チューインガムが夢と同等に扱われています。物資欠乏時代のチューインガムは食料の代用品であり数少ない甘味を味わえる食材であった。後年野坂昭如は「チューインガム・ブルース」でこう歌っていた。
あの頃俺は十一で DDTまみれの浮浪児
進駐軍の顔見れば ハングリー ハングリー ハングリーと つきまっとてた
チューインガム チューインガム チューインガム・ブルース
最初は怖かった進駐軍兵士にだんだん近づいていきチューインガムやチョコレートをねだった子供がたくさんいたらしい。それを大人は多分苦々しく見ていたのだろう。少年たちが手にしたのはリグレーガムだったと思う。当時リグレーにはビッグスリーとでも言うべきスペアミント、ジューシイフルーツ、ダブルミントの三ブランドがあった。

やがて日本製のガムも市場に出回るようになった。我が国最初のチューインガムはフエキ糊がゴムの技術を生かして「白龍」というリグレーを模した板ガムを明治42年(1909年)に6枚5銭で出したが甘味料不足で撤退している。大正5年(1916年)にはリグレー製品が輸入され広告も打たれた。その後森永や明治も製造を開始し、昭和に入ってもマサキガムや新高製菓が製造販売を始めたが売れ行きは芳しくなかった。第二次大戦が始まると統制経済のため航空機搭乗員用以外のガムは製造禁止となった。

日本人の食生活に合わないとか人前で口を動かすのは品がないと言われて浸透しなかったチューインガムだが、戦後状況は一変した。ガムは手軽でかっこいいアメリカンファッションになった。たいした宣伝をしなくても市場は拡大の一途だった。雨後の筍のように400近くのメーカーが見よう見まねでガムを作り始めた。粗悪品も多かった。結局生き残ったのは大手数社と子供用ガムに特化した数社だけだった(現在ガム恊メンバーは18社)。

1955年当時はハリスが約40%のシェを持つトップメーカーで、酢酸ビニールを使ったガムベースは白かった。当時の広告ではその白さを強調して富士山の写真にかぶせて「山は富士、ガムはハリスの白いガム」と謳っていた。50年代は「東のロッテ 西のハリス」と言われていたが、54年に初の天然チクル配合のバーブミントガムを発売してロッテの反撃が始まる。それまでテレビ広告はスケートをしている少年のアニメ(だったと思う)バックにのんびりした「ロッテ ロッテ ロ~ッテ ロ~ッテのチューインガム、どなたも どなたも ロッテのチューンガム チューインガム(少しうろ覚え)」だったのが、パンチの効いた「天然チクルのロッテガム~」に変った。同年にスペアミント、57年にグリーン、59年にジューシイミント、60年にクールミントとヒット商品を世に送り、その間関西菓子卸を買収し西日本を強化し、61年には翌年に景品表示法を制定する原因となった1000万円懸賞(現在の1億円以上)を実施して遂にハリスを抜いて日本一のガムメーカーになった。


その他のメーカーでは森永がチクルの本場メキシコ出身のトリオ・ロス・パンチョスをCMに使い「チクレ モリナ~ガ チクレ モリナ~ガ ア~イヤイヤイヤイ チクレ モリナ~ガ」とコーヒーガムなど3品の広告を打っていた。グリコや明治もガムを発売していたし、私が所属していたWLアダムスも61年にチクレット、67年にデンティーンを発売した。デンティーンの新宿西口に乗り付けたトラックから若者たちが降りてきてエレキギターを弾きながら「アメリカ生まれのデンティーンガム」とロック調で歌った広告は今でも覚えている。
ガム市場が縮みはじめて20年近くたち、ピーク時より6割も落ちてしまった。盛り返すのは困難かもしれないが、最近歯科医師や歯科医院が行っている「歯周病を予防するにはチューインガムは有効だ、40代50代はガムを噛んで!」というキャンペーンに期待しましょうか。
ランキング参加中です。クリックしていただけると励みになります。














