マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2022年07月

名前は知っているのだが食べたことがない。多分カンロ飴もその類の商品だと思う。子供の頃に食べた記憶はない。子供の口には大きすぎるのも理由の一つかもしれないし、子供から見ると「甘くておいしい」とは思えない味だ。先日40年ぶりくらいにスーパーで買ってきた。
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 スーパーでもワンフェイスを与えられているだけで、社名の基になった製品としては寂しい。近所の7-11では発見できなかった。かつては紅茶キャンディのカティーサーク、カンロ健康のど飴と並び同社の花形商品だったが最近はその座をピュレグミや金のミルクなどのグミ製品に奪われている。

大正時代に創業された山口県の宮本製菓所が1954年に発売した「カンロ玉」がその起源だ。当時は一個単位で売られていた。そうだった、あの頃多くの菓子はガラスのジャーに入れられてバラで売られていた。他の飴玉が一個一円だったのに対しカンロ玉は一個二円という強気の価格設定だった。創業者の宮本政一は戦後海外から流れ込んできたキャラメルやドロップとは一線を画した製品を作ろうと考え、差別化ポイントを「和」に求めた。煮詰めても焦げない醤油の開発に3年の年月を費やし、当時としては貴重だった高品質の砂糖を使用したりしたから二円の価格は妥当だったのかもしれない。
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この一粒8グラムの裸飴は二円の価格のせいで売れないだろうと言われながら、地元で好成績を残し、販路を九州や大阪へ拡げ、1957年には東京へも進出した。その間に日本で初と言われるセロハンのひねり個包装を採用し、その後包装を機械化し生産効率を向上させた。名前も「カンロ玉」から「カンロ飴」に変え発売から3年で山口の地飴は全国ブランドに成長した。これを機に社名も宮本製菓(株)からカンロ株式会社に変更し日本を代表するキャンディメーカーとなった。1980年代はキャンディ市場のトップシェアを誇り、特に中国地区と九州地区では20%以上のシェアを持つ断トツのメーカーだった。

久しぶりに食べてみると、確かにでかい。8グラムはないが約7グラムはある。昔ホールズというキャンディの担当をしていたが、当時一粒4.7グラムは大きすぎると思っていたが(今は小さくなっている)それより相当大きい。それに球形でいかにも昭和の飴という印象だ。その大きさと形状ゆえ噛み割ることさえできない。じっと舐め続けねばならない。かすかに醤油の味がして、でも飴だから甘い。たとえるならばみたらし団子の味とでも言えるのだろうか。

残念ながらカンロ飴も時代の変遷とともに売り上げは下がり、かつての勢いはない。しかし唯一の醤油味のキャンディとして、そして社名となったブランドとして会社はカンロ飴のテコ入れや再生計画を考え続けるだろう。諦めるわけにはいかない。カンロ株式会社のコーポレイト・スローガンは「Sweeten the Future」だもの。



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朝食のプレーンヨーグルトに甘さが欲しいのでジャムを加えている(昔は顆粒の砂糖が付いていたのにね)。最近のジャムは健康志向なので甘さが控えめで物足りない。それでソントンのジャムに切り替えたのだがその横に並んでいたピーナッツクリームが懐かしくてついでに買ってきた。アメリカのスーパーではこれでもかというくらいピーナッツバターが並んでいるけど、日本ではごくわずか。ソントンの製品もピーナッツバターではなくピーナッツクリームという名前だ。
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ピーナッツバターはピーナッツだけで作られるのが普通だが、ソントンのピーナッツクリームは原材料表示を見ると(重量順に)水飴、砂糖、ピーナッツバター、植物油脂、ブドウ糖、乳蛋白、寒天などとある。子供が食べやすいように甘みを加え舌触りがなめらかで食べやすい。それでいてピーナッツの香りがして栄養もある。

もともとソントンのピーナッツクリームは大正後期に宣教師のソーントン師が布教の傍ら、栄養状態が悪い日本人のために本国から機械を取り寄せて製造販売し教会の維持費に充てていたものだった。ソントン創業者で熱心な信者であった石川郁二郎は師から製造方法を譲り受け、名前を使用する承諾も得て1942年に製造を開始し、1948年にソントンの前身となる会社を興した。当初はピーナッツバターに糖蜜を加えて食べやすくしたものだったが1952年に現製品に近い製品が開発されピーナッツクリームと名付けられた。これが街のパン屋の目に留まり当時流行っていたコッペパンの間に塗った商品が飛ぶように売れたという。

その後研究を重ねて紙容器を開発し1960年にFカップ(ファミリーカップ)を導入し缶容器、セロ袋、ポリ袋から切り替えに成功した。現在ではポリエチレン、バリアーフィルム、ポリエチレン、紙、ポリエチレンという5層構造を採用し香り成分も逃げなくなった。Fカップシリーズにはチョコレートクリームやキャラメルクリーム、ジャム類ではイチゴジャム、オレンジマーマレード、ブルーベリージャムなどが追加され9種類のラインナップとなっている。
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ソントンのFカップシリーズは高級品ではない。ピーナッツバターは通常数百円するし、有機のジャムや輸入ものには1000円を超えるものも多い。それらは確かにおいしい。しかし毎朝子供が食パンにいっぱい塗るのには向いていない。ソントンも最近素材のこだわった瓶入りの上位製品であるSun & Tableシリーズを出したが(残念ながら我が家の近辺では見かけない)、Fカップシリーズは100円強で売られている。家計には優しい製品と言うことができる。

10代から50代までの男女1万人に好きな「パンのおとも」を聞いた調査によると、2位にピーナッツクリーム、6位にイチゴジャム、8位にチョコレートクリーム、14位にブルーベリージャムと15位以内にソントンのFカップシリースが4商品も入っている。隠れたヒットシリーズと言うことができるし、その中でも2位に入ったピーナツクリームはスプレッド類の中ではトップクラスだ。食品の値上げが相次ぐ中でこれからもソントン製品は存在感を増すに違いない。



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子供のころから広告が好きだった (27)

子供の頃わが家の木製の薬箱にいつも入っていたもの。脱脂綿、ガーゼ、包帯、三角巾、絆創膏、ハサミ、毛抜き、水銀体温計、赤チン、オキシフル、正露丸またはクレオソート丸、メンソレータム。時々入っていたもの、風邪薬(ルルが多かった)、頭痛薬(セデスだったかな)そしてオロナイン軟膏。多分父親が勤めている会社の健康組合が配ったものに母親が必要な薬を追加したのだと思う。一番お世話になったのは赤チンと絆創膏。いまでは赤チンもオキシフル(オキシドール)も見かけることはなくなった。
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これらの薬はテレビで広告されている製品ばかりだ。メンソレータムのリトルナースや「ラッパのマークの正露丸」は戦前から、ルルの「くしゃみ3回ルル3錠」は1951年の発売時から、セデスも1960年から広告をしている。広告をしている製品の方が安心だからなのか、メーカーが組合にアプローチしているなのか分からないが健康組合の薬箱には同じような商品が入っている。

オロナイン軟膏を製造している大塚製薬は1921年徳島県で誕生した。苦汁を使った製薬原料を作る小さな工場だったが医療用注射液の製造販売を始めて規模を拡大し、戦後三井物産から情報をもとにアメリカのオロナイトケミカル社が開発した殺菌消毒剤を使って完成させたのがオロナイン軟膏だった。

1953年に発売開始をしたが徳島の無名メーカーでは簡単には売れない。知名を上げるために販促活動に力を入れ始める。まず看護婦を対象としたミス・ナースコンテストを実施し、翌年からは宣伝カーを仕立てて全国を回り始める。社長自身も月に26日間出張し全国の主要病院を訪れたという。匂いが気になるとの意見を受けて製品改良をし、全国の幼稚園と小学校で2.5gの試供品を配布するという売り上げを上回る費用のサンプリングで不動の地位を獲得した。
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宣伝カーを使うのはチューインガムのロッテやカレーのオリエンタルでも見られた方法だが、全国の幼稚園と小学校でサンプリングというのは聞いたことのない規模だ。昔発売して間もないミロが実製品を配布したが幼稚園だけだった。大塚社長の「最高の宣伝は現物の使用。たった1回の使用でも10回の宣伝より効果がある」という一種の信念が売り上げ以上の資金を投じさせたのだろう。

サンプリングは現在でも有効な知名度と使用率アップの方法で製品に自信を持っている外資系企業などが多用する。私自身もホールズやクロレッツという菓子製品で首都圏で数百万個の配布の経験がある。剃刀メーカーはホルダーを無償配布し、替え刃を買ってもらうように仕向ける。大塚製薬も1980年にポカリスエットを発売後まったく売れず在庫をイベント会場などでのサンプリングに回して一気に在庫処理と知名拡大に成功した(私も当時関内ホールのコンサートでもらったことを思い出した)。40億円の費用がかかったとのことだが、社内では25年前のオロナイン軟膏の無償配布成功が語り継がれていたのだろうと思う。
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サンプリング以外にも大塚製薬は黎明期のテレビ広告を多用したことで有名だ。大村崑主演の「とんま天狗」と松山容子主演の「琴姫七変化」が特に記憶に残っている。「姓は尾呂内 名は南公」と丸薬を飲んだ崑ちゃんが見得を切る決め台詞。あの頃の一社提供番組はやりたい放題だった。最近では90歳になっても筋トレして元気そうな大村崑がライザップの広告で見られる。ちなみに浪花千栄子の本名は南口(なんこう)キクノで、それが縁で(軟膏効くの)オロナインの広告に出演が決まった。
松山容子の武士姿が凛々しい琴姫七変化はドキドキワクワクしながら見た。いまでも時々県域U局や日本映画専門チャンネルで見られる。美貌で品があり太刀裁きの見事な女優だった。1968年にボンカレーが発売された時は松山容子のパッケージだった。いまでも沖縄と大阪・横浜の一部で売られている。カナダに住んでいた時の日本食材店サンコーに置いてあったのも松山バージョンだった。今でも見かけたら必ず買ってしまう。
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最近いろいろなものが値上がりしているので今年1~6月の家計簿をまとめて前年と比べてみた。

我が家の2022年上半期の総支出は+6.5%。今の情勢だとこんなものかと思ったが、年金が0.2%減り日米の株価が暴落したので投信の分配金が激減し収入が前年の75%ほどになっている老人世帯にとってはけっこうダメージが大きい。そんなに贅沢をしているとは思わないのだが。

個別に見ていくと犯人が分かる。まず光熱費だ。電気が+36.6%、ガスが+22.6%、水道が+16.1%。光熱費合計で対前年+25.5%と増えている。老夫婦世帯で使用量は大きな変化がないので燃料費調整などが原油やLNG価格の上昇で上がり、単位当たりの価格が上がっているせいだ。そのうえ横浜市は昨年夏に水道料金を12%値上げした。光熱費が+6.5%増額分の三分の一を占める。
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つぎが食費だ。対前年比+13.2%とこれも結構大きい。パン、米穀、麺類は前年比で二桁マイナスだが、乳製品が+33.5%、肉類が+30.4%と増え、総菜類が+19.7%、冷凍食品が+18.6%と続いている。コロナで外出が減り、家庭内でプチ贅沢とまでは行かないがお取り寄せが増えたのと、こんな時期こそ老人だって体力をつけるため肉やチーズを食わねばと思ったところに円安による輸入牛肉などの値上がりが重なったことが響いている。加えて家庭内滞在時間が増えたのと最近の暑さで飲料消費が+42.2%と激増し食費と合わせて+17.4%でこれも増額分の三分の一の貢献度。
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残りの三分の一はゴルフ関連の出費増だ。家に閉じこもっている時間が増えると気持ちが沈み気味になり、ネットを見ているとついポチっと押してしまう。今年上半期は運動不足解消のためネットで見つけた女子プロとのコンペに二度参加し、先月は直進性が高いと評判のステルスドライバーを買ってしまった。今月後期高齢者となり健康寿命はあと数年だろうし、車の運転もゴルフもそのうち諦めねばならないからと自分を正当化させての出費だった。

消費者物価指数は4月5月と続けて2%を上回っているし、5月の企業物価指数は9%を超えた。原油価格は下がる気配を見せていないしロシアの出方によってはバレル150ドルを超えるかもしれない。円だってアメリカの更なる利上げで150円まで行くという論者もいる。輸送価格が上がればすべての物価に影響するし、円安と穀物価格の上昇で今月は食品だけでも約2000商品の値上げが予定されている。食料自給率37%、エネルギー自給率11%のこの国では円安と原油高で経済と国民生活が揺すぶられる。
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コロナによる制限を余儀なくされる生活が始まって2年半が経過した。それに加えてこの物価高だ。モノ不足が起きるかもしれないし、この状況は意外と長く続く可能性もある。年金生活の団塊世代は最後の食い逃げ世代と揶揄され現役の人に比べたら恵まれていると思う。しかし先が短いだけに「いつまでも我慢はできない」「忍耐も限界だ」とやけっぱち消費に走りたくもなる。そこをぐっと我慢して70年代の二度のオイルショック時の狂乱物価を経験した知恵を活かす時かもしれない。知恵があればの話だけど。



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記録があるなかで最も暑かった6月が終わりもっと暑いだろうと思われる7月が始まった。先月は地球温暖化を実感させられる暑さだった。6月で最高気温が40度を超えるなんて想像もしなかった。子供の頃住んでいた名古屋の夏も暑かったが、たまに33度になるとみんなが「暑い!」と叫んでいたような気がする。当時の日本の最高気温は1933年に記録された山形の40.8度だと新聞で読んで、33度でもこんなに暑いのに40度を超えたら人間は生きていけるのだろうかと思った。この最高気温記録は70年以上保持されたのだが、最近では毎年のように40度以上が記録されている。

政府は節電要請を発令し、テレビは毎日のようにできる限り外に出るな、熱中症に気を付けろ、クーラーを適切に使用しろ、水分の補給は忘れるなと言っている。老人は食料品の買い出し以外外に出ないし、前年より3割強値上がりした電気代を気にしながらクーラーを回し、冷えたペットボトルのお茶を飲む。それにしてもこの電気料金の上昇はひどいね。
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お茶ばかり飲んでいると飽きるので時々炭酸飲料も飲む。今日は三ツ矢サイダーを久しぶりに買ってきた。昔コーラなどの着色炭酸飲料の売りが下がったときに三ツ矢サイダー、キリンレモン、スプライト、7-UPなど透明飲料のブームがあったし、数年前にも小さなブームはあったが最近は無糖炭酸や強炭酸飲料に押されて影が薄い。適度の炭酸と甘さで老人にはちょうどいいのだけれど。
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三ツ矢サイダーは日本で最も古い清涼飲料だと言われる。1881年に英国人化学者ウィリアム・ガランが平野鉱泉(現在の兵庫県川西市)の水が理想的な鉱泉だと認め、その三年後(1884年)に民間の工場によって製造発売された「三ツ矢平野水」と「三ツ矢タンサン」がルーツとされる。ただ当時の製品は甘味料は入っておらずただの発泡水だった。色も透明ではなく黄色っぽかったという。1907年に帝国鉱泉(株)からサイダーフレーバーエッセンスを加えた「三ツ矢印の平野シャンペンサイダー」が発売され、1968年にはシャンペンの文字が消え現在の「三ツ矢サイダー」となった。製造元も大日本麦酒から朝日麦酒(株)へと変わったが1954年までは平野工場で製造されていた。
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三ツ矢サイダーの前身の「三ツ矢タンサン」が発売された1884年と言えば薬剤師ジョン・ペンバートンがコカコーラを発明した2年前のことだし、ドクターペッパーが発売された1985年の前年だ。1894年のペプシコーラの発売よりも10年も早い。世界最古の炭酸飲料と言われるシュウェップス(1783年創業)には及ばないが、こんな138年の歴史を持つ炭酸飲料が日本にあることを誇りに思いたい。戦後コカコーラが日本で製造販売されると決まったとき、もうサイダーやラムネはお終いだと言われたがどっこい生き残っている。ラムネはコロナでイベントが減り屋台での売りが壊滅的で大変らしいが、三ツ矢サイダーは健在だ。まだまだ頑張ってね。



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