マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2022年10月

浜松には日本を代表する楽器メーカーが2社あります。ヤマハと河合楽器製造所です。ライバル会社であり兄弟会社のようでもあります。サントリーとニッカのような関係でしょうか。

竹鶴政孝が10年働いた寿屋(現サントリー)から独立して自分の考えるウィスキーを作るべく大日本果汁(現ニッカウヰスキー)を興したように、河合小市はヤマハ風琴製作所(現ヤマハ)に弟子入りし、3年後に打弦響板の開発に成功して日本初のピアノ製造に貢献し、19年勤務の後河合楽器研究所を設立しました。何よりもすごいのは弟子入りしたのがわずか11歳だったこと。いくら天才技術者と呼ばれようがそんな少年にピアノの基幹部分の開発を全面的に任せた山葉寅楠もすごかった。竹鶴がいなかったらサントリーウィスキーはなかったであろうし、小市がいなければヤマハピアノは生まれなかったでしょう。

日本のピアノのシェアはヤマハが6割、河合が4割で推移していると言われるが、企業の規模の差は大きい。ヤマハ(株)の売り上げは約4330億円(ヤマハ発動機分は含まれていない)。一方の河合楽器は約724億円。6倍の差です。ヤマハが世界展開に力を入れ世界一のピアノシェアを誇るのに対し、河合も世界二位のシェアを維持しています。河合の売り上げ720億の中でピアノは570億と8割近くを占めるが、ヤマハのピアノを含めた楽器売り上げは2775憶と6割強でありその中でピアノは2割を占めるに過ぎません。

この事業規模の差は販売方式(ヤマハは特約店、河合は直営店)の差もあるが事業の多角化の差が大きいと思われます。ヤマハはオルガンから始まった楽器製造をピアノ、ハモニカ、シロフォンと拡げ、その後弦楽器や打楽器へと展開しました。音楽教室も全国に設立し、ポプコン開催など底辺の開拓にも力を入れたし、エレクトーンなどの電子楽器の製造も開始した。学校のブラスバンド部の楽器にははたいていヤマハのロゴがついていますよね。その後今は撤退してしまったがテニスラケットやアーチェリーなどのスポーツ用品(ゴルフクラブだけは現存)やリビング事業、リゾート事業まで幅を広げました。一方の河合も音楽教室だけでなく、絵画、英語、体育教室と教育事業に力を入れ、ピアノ材を利用した玩具なども作り、一時はゴルフ場経営までしましたが現在はピアノへの回帰が目立ちます。

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上記はアンゾフの成長マトリクス図ですが、河合が更なる市場浸透、新素材を使ったピアノの新製品開発、海外市場開発に注力するのに対して、ヤマハはそれに加えて多角化を図っているのは明らかです。なんだかウィスキー等の酒類に執着するニッカと、酒類から発し清涼飲料、化粧品、医薬品、健康食品、レストラン事業にまで拡大するサントリーと似ています。現在の日本の人口減少、特に子供人口の減少を考えると国内での専業化は楽観できず多角化企業が有利な気もしますが、コロナ以降の海外市場拡大の困難さを考えるとこの先どうなるかは分かりません。

多角化はすればよいというものでもなく、最近では買収によって子会社を85まで増やしたRIZAPが赤字に苦しんでいるニュースがありましたね。もともとボディメイキング(ダイエット)、英会話、ゴルフスクールなど「三日坊主」になりがちなものを、個室に閉じ込めて専任トレーナが教え、かつスクール外でもスマホでチェックが入るという生徒を追い込むスタイルで成功したのですが、その後無謀と思える事業拡大で多角化に走りました。ジーンズメイト、サンケイリビング、イデアセンター、ぱど等の不振会社を買いまくったけれど「三日坊主」ビジネスで成功したビジネスモデルは通用せず、かつ人材が急拡大に追いつかず経営が行き詰まり外部から経営陣を招かざるを得なくなりました。

ヤマハやサントリーがその轍を踏むとも思えませんが、河合ならピアノ、ニッカならウィスキーという特化した専業メーカーが持つ強固なイメージ付けは持てないかもしれません。個人的にはそうした専業会社や製品を応援したくなります。そういえば昔我が家にあったピアノは河合だったし、娘が子供の頃に買った積木も河合でした。毎晩飲むウィスキーはニッカですし。

ちなみに河合楽器のピアノに記されているK.KAWAIのKは小市のKだそうです。



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子供のころから広告が好きだった (28)

定年退職後は買い物と昼食と夕食の調理の担当となっている。野菜を洗っていて気がついた。最近の野菜には時々虫食いはあるが虫そのものはいない。昔はホウレンソウや白菜の葉の間に時々小さな虫がいた。農薬が付着している可能性もあったので、キャベツも今のように丸ごと包丁を入れたりはできず、一枚ずつむいて洗わなくては恐ろしくて食べられなかった。それで我が家の台所にはいつもライポンFがあった。(写真は昭和37年の広告)
2022-10-14
そのライポンはもともとは衣料用の洗剤だった。昭和26年に日本初の鉱油系合成洗剤として発売され、山本富士子の「洗う労力半分で、布地の輝き三倍に」のCMと共に世に出た。しかし当時は第一工業製薬のモノゲンと昭和28年に発売された花王のワンダフルの競合製品が強く苦戦を強いられた。追い詰められたライポンがとった戦略は「ライポンの新しい用途をご存じですか?」と戦場を変えて、野菜などに付着している大腸菌や回虫の卵を駆除することを訴求するというものだった。これは当時の厚生省から寄生虫による健康被害対策として食器、野菜や果物用の洗剤開発の要請を受けたことも背景としてあった。

当時の製品はは粉末だったが大都市圏で30万軒にサンプル品を配布しアンケート調査をするなどの大々的なプロモーションを実施した。昭和31年には完全に食器、野菜、果物用の台所洗剤にリポジショニングして名前もライポンFに変更した。その後「野菜・果物は洗剤で洗いましょう」日本食品協会推奨品ライポンF、の新聞広告や、テレビ広告を打ち啓蒙活動に励んだ。その結果野菜を洗剤で洗う習慣が根付き始め昭和33年末には売れ始めたとのこと。翌34年には液体ライポンFを発売し、そのコピーは「水の17倍もきれいに洗えます」という挑戦的なものだった。

当然競合も黙っているはずはなく、花王は昭和33年に台所洗剤のワンダフルKを液体と粉末の2フォーマットで売り出した。ライオンも昭和41年に同じカテゴリーに二つ目のブランドであるママレモンを投入して対抗した。その後は製品差が付きにくくなり花王は手を守るファミリー、ライオンはチャーミーシリーズで香りや乾きやすさといったソフト面を強調するようになった。その後昭和50年代に入ると合成洗剤そのものが環境問題、水質汚染問題、誤飲問題などで悪者視されるようになり、メーカーは対応するため無リン化、石油系原料から植物系原料への転換などを余儀なくされ冬の時代に入った。また農薬使用量が減ったため野菜・果物を洗剤で洗う必要性が薄れ、ライポンFも昭和60年代に家庭用が終売となり、現在は業務用だけが売られている。
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農薬の乱用が問題になっている中国では中性洗剤で野菜を洗うのは常識らしいが、わが国では野菜を洗剤で洗う人は少なくなったものの、ハンバーガーチェーンなどでは野菜を洗剤で洗い、よくすすいでから提供しているようだ。最近は市場には野菜・果物専用の洗浄剤があり、その多くは貝殻を高温で焼いてできたカルシウムが主成分のものだ。水洗いだけでは落ちにくい農薬やワックスを洗い流してくれるのが売りで、「生で食べる野菜が水洗いだけでは心配だ」という人たちに重宝がられている。

家庭用の台所洗剤のいくつかには、用途の欄に「野菜・果物・食器・調理用具用」といまだに記されている。



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