マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2023年04月

子供のころから広告が好きだった (32)

大学入学のため上京して生まれて初めて牛丼というものを食べた。当時新橋駅前(現ラ・ピスタ新橋)にあった吉野家としては2店目の店で値段は確か200円だったと思う。輸入自由化の前で牛肉は高価で年に何回かのすき焼きくらいでしか食べられなかった時代に、その金額で牛肉が食べられることとおいしかったことに驚いた。かつ丼や天丼が300~400円の時代だった。(写真は昭和50年代の新橋店)
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昭和50年に300円に、55年に350円に値上げされたがそれでも学生やサラリーマンにとって安価でおいしいご馳走だった。女性客はほとんどいなかった。現在のキャッチフレーズは「うまい、やすい、はやい」だが当時は「早い、うまい、安い」でファストフード的な利点を強調していた。昭和46年に日本上陸を果たし急成長中だったマクドナルドを意識していたのかもしれない。

もともと吉野家は明治32年(1899年)に日本橋に誕生した魚河岸で働く人たちむけの牛丼屋だった。関東大震災後に築地に、昭和10年に中央卸売市場が開設された後は市場内に移転した。新橋店は昭和43年にできた2店目でチェーン化を目指しはじめた頃だ。110席の大型店だったがいつも混んでいた。昭和47年には24時間営業となった。
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店舗数が増え広告活動も活発になった。一番記憶に残るのは「やったねパパ 明日はホームランだ」の野球少年の声と西川峰子の「ここは吉野家 味の吉野家 牛丼ひとすじ80年」のジングルだ。皮肉なことに創業80年の前年に店舗数が200を超えると輸入枠もあって輸入牛肉の調達が困難になり、フリーズドライ牛肉を使うなどして品質の低下を招いた。そのうえ急速な店舗展開による資金繰りの悪化も重なり、昭和55年会社更生法の適用を受け倒産した。

この時「学生時代にあれだけお世話になった牛丼屋をつぶしてなるのもか」と若いサラリーマンたちが、まだ開けている店を探しては、わざわざ食べに出かけるという運動が起きた。この世代に属する私もいくら値段が安いからといって他のチェーンで牛丼を食べる気にはならない。牛丼を食べるのは年に一度か二度になってしまったが、毎回吉野家まで足を運ぶ。

BSE騒動による販売停止を乗り越え再起に成功した吉野家は店舗数も1650を超え、コロナで売り上げは低下したものの直近ではほぼ二桁成長を示している。ただ原材料費や光熱費の高騰で値上げをしたものの利益率低下に苦しんでいる。コロナが落ち着き始めたことで時短協力金の減少も利益率悪化に拍車をかけている。しかし、残念ながら「つぶしてなるものか」と出かける回数を増やす気力も体力も(昔は若いサラリーマンだった)老人にはもうない。



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40代半ばの時に上司から海外赴任の打診を受けた。マーケティング部員の多くがアメリカの大学やビジネススクール出身者で、外資系企業で幹部候補生になるためには海外経験が必須と考えたのだろうと思う。当時私はアメリカ本土に行ったことすらなかった。最初の提案はマーケティングディレクターのポジションでタイのバンコック勤務だった。家に帰って家内に話すと「一人で行ってください」とつれない反応だった。上司に話すと単身ではなく家族で行った方がいい、広い一軒家でプールもあるしメイドも何人か付くと再度説得されたが、家内を説得できなかった。

数か月後にカナダ勤務の話が来た。上司本人も米国本社勤務の経験があり、世界中から人を集め少しギスギスしたアメリカ本社より、忍耐強い国民性のカナダの方がよいだろうとの判断だった。新婚旅行でカナダに行ったことがあったので今度は家内も簡単にOKを出した。その後カナダの人事の人が面接に来たり、事前に夫婦でトロントを訪れ秘書の助けを得て住居や現地の学校を決めたり急に忙しくなった。帰国して娘の中学の休学手続きやベルリッツでの英語特訓を受けさせたりしたあと、親子3人でトロントに旅立った。初の海外勤務にしては歳をとりすぎているし英語が得意でないので不安だったが社長の「お前はTechnical Competenceがあるから大丈夫だ」の一言を信じての決断だった。
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カナダではDentyneというガム(日本でもニッキ味のガムとして知られていた)のプロマネのポジションでアシスタントが一人ついた。実務は彼がほとんど仕切っていたのでお飾りのような上司だったが、十数人のマーケティング部員のほとんどが20代でマーケティングの経験に乏しかったのでコーチのような立場だった。当然英語では苦労した。1対1で話すときはゆっくり話してくれるが、会議で議論が白熱すると耳がついていかず会議中に同時に2か所で話が始まると(これがまたよく起こるのだ)もうお手上げだった。菓子部門は200人くらいの規模だったが全員の顔と名前を一致させるのに苦労した。ファーストネームと苗字の両方覚えなければならないからだ。
Dentyne
3か月くらいたった時に上司の女性が突然米国本社勤務となり、代わりに私がカテゴリーマネジャーになってしまった。Dentyneの他にTrident、Bubblicious、Cinnaburst、Chicletsなどの製品群でカナダのチューインガム市場の6割を持ち、世界でも数少ない世界一のリグレー社を上まわるシェアを誇る部門だ。当然なぜ自分のボスが日本人なのだという不満が出たらしい。上司のディレクターがカナダにとってPacific Rimは重要な地域で将来転職するときに日本人のボスの下で働いた経験は有利になる、と説得したとのことだ。以降他の部署との会議が増え、採用のために名門クィーンズ大学やWオンタリオ大学に人寄せパンダで(東洋人でもこのポジションに就ける!の意)出かけたりした。

カナダはアメリカ以上の多国籍人種国で、娘の高校のクラスには25の国籍があったし、会社にも北米、中米、アジアなど人種の坩堝だった。こういう事情を反映してか広告で大勢の人数が出るときはカナダの母集団に近い人種構成にしなくてはいけなかったし、社員の構成も同様だった。採用担当が「政府の要請にこたえるためにはイヌイットが一人足りないんだ。一人営業用に採用しに行かなくちゃならない」と言ったときは少し驚いた。

毎日英語疲れでぐったりして帰り、時にはスーツのままでベッドに倒れこんだりした。最初の頃は毎晩深夜まで予習していて苦労したはずの娘はだんだんカナダに慣れ、「この国のほうが授業が面白い」と言い出した。暗記するのではなく自分の頭で考えたことを皆の前で発表し、質問や議論が始まる。MBAのケーススタディのようなことを子供のころからやっているのだから日本人は敵わないだろうと思う。日本人は彼女一人の高校では香港からの移民グループに溶け込んでたくましくなった。家内も日本ではできなかった楽器の個人レッスンやトロント大学での聴講などしっかり街に馴染んだ。任期を終えて私は帰国したがその後家内は7年、娘は10年をカナダで過ごすことになった。仕送りだけが私の仕事になった。



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菓子を扱う会社のマーケティング部に転職してプロダクトマネジャーとして最初に担当したのが発売されて間もないホールズというキャンディだった。その前に働いていた広告代理店でヴィックスの仕事もしていたので知らない領域ではなかったが、代理店とメーカーでは仕事の範囲が大きく異なる。代理店でメディアや調査は経験したが広告制作は未経験だったし、製品の企画や開発はメーカーでなければタッチできない。ちょっと不安だった。

数か月後に次のクリエイティブを作ることになった。外資系ではテレビ広告は世界中で用いられているフォーマットにのっとることが多く、当時スペインやメキシコで使われていた、空気のきれいではない場所でせき込む、ホールズをなめる、のどと気分が軽快になって空中に舞い上がって海岸や花畑などに着陸する、という流れだった。海外でも10年以上使われているパターンで本社もこれをなぞることを強く要請する。他の国の成功例を踏襲できるのは外資の強みでもあるのだが、その国の独自性を無視することもある。
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そもそもホールズの導入自体がそれに近かった。米国人社長が発売を勧め社員が舐めてみたが不味い。飴は甘くておいしいのが普通で、こんなおいしくない飴は売れないと皆が言った。消費者テストの結果もそれを裏付けた。それでも社長はテスト販売をしろと命じ、山梨でのテストマーケティングが始まった。1年間を予定したテスト販売は計画をはるかに上回る実績を示し、テストは短縮され即販売エリアが拡大され短期間でトップブランドに躍り出た。その時社長はこう言った。「日本人の嗜好は独特だから他国で売れたからといって売れるとは限らない、と皆が言った。どこの国に行っても同じようなことを言われたが、他の国で成功を収めたのにはそれなりの理由があるからだ。結局売って見なければ分からないということだよ」。

そんな背景があったので広告に関しても本社の要望を断ることは困難だった。ホールズの広告は新発売時の高速道路の料金所から始まり、会議室や駅のホームなど当時はたばこの煙まみれだった場所に変わりながら、同じ流れが維持された。同じパターンで制作していると空中に舞い上がるシーンが有名になって、「ああ、あの飛び上がる広告の商品ね」と記憶されるようになった。
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ワンパターン広告の大量投下で事業部最大の製品となったが、もともとは英国のコフドロップが前身である。アメリカでも医薬品として売られているので本社は効果を前面に出した表現を求め、こちらは薬事法で効果表現には制約があると答える。製品情報が広告の中心となる米国と、視聴者が広告にエンターテインメント性を求める我が国との違いの狭間でゆらゆらしているうちに、数種ののど飴が発売されホールズは勢いを失った。「のどスッキリ」表現よりも「健康のど飴」のネーミングの方が訴求力が強いのだ。この時はやられた!と感じた。
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今ではコンビニで売られているキャンディの三分の一くらいが「のど飴」を謳っている。ホールズのど飴を販売したこともあったがヒットはしなかった。FMCG(Fast Moving Consumer Goods)とはよく言ったもので消費財の怖さを経験させられた製品でもあった。




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子供のころから広告が好きだった (31)

わが家には電気洗濯機が発売されて間もないころに攪拌式の洗濯機があった。母親はそれまでの洗濯板と固形石鹸の洗濯の重労働から解放された。合成洗剤など存在しない時代だったので洗濯機に使っていたのは粉せっけんだった。大きな箱の粉せっけんを買ってきてそれをバケツに移し替えて使っていた。

日本初の合成洗剤は第一工業製薬のモノゲンで誕生は1937年だ。1964年に改良されて名前もモノゲンユニになり洗濯機が普及しつつあった一般家庭に浸透した。このころの第一工業は他にもナンバーワンやアルコなどの洗剤も販売していた。うっすら憶えている広告がある。アヒルのような鳥のキャラクターだったと思うが、アニメーションのCMだった。
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明日は楽しい日曜日 雨が降らなきゃいい天気 アルコ慌ててお洗濯 (一部失念)泡だらけ 泡だらけ モノゲンで泡だらけ

記憶だけで書いているが、メロディとアルコ鳥が忙し気に洗濯をして干している絵を鮮明に覚えている。しかしわが家でモノゲンを使っていた記憶はない。記憶にあるのは花王のワンダフルとニュービーズだ。当時の洗剤はみんな結構大きな箱入りだった。重さも4‐5キロはあっただろう。箱の上には取っ手が付いていて買った後はぶら下げて持ち帰った。一回の使用量もコップ一杯くらいだったと思う。
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ニュービーズの広告はたいてい母親と娘の洗濯か取り込みシーンがあり、最後に洗濯物の匂いを嗅ぎながら「白さと香りのニュービ~ズ」で終わっていた。一方ワンダフルは子供が汚した服をきれいに洗いあげて、水でもきれいに落ちる「低温パワーのワンダフル」のコピーを強調していた。ワンダフルは白さを訴えていた時期もあるが、1973年に発売されたP&Gの全温度チアーが「水でも お湯でも ぬるま湯でも」のコピーで1977年にシェアを二桁台に乗せたことに対する対抗策でもあった。そのワンダフルも1979年に11.9%のシェアを獲得した後は同社のザブやニュービーズに押されて80年代後半に終売となった。下の写真は当時のワンダフルのCMから。箱の大きさがすごい。
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それ以前の洗剤の広告ではなんといっても「金銀パールプレゼント」キャンペーンで有名なライオン油脂のブルーダイヤだ。「うれしい白ですブルーダイヤ」の直後に挿入された金銀パールプレゼントのサウンドロゴは今でも覚えている。洗濯や洗剤に興味などなかった子供が記憶しているくらいだから相当量の広告を投下したのだろう。このキャンペーンが始まった1966年3月には競合であるモノゲンも「金の指輪プレゼント」を牟田悌三、大村崑を使ったCMで流していたのだがこちらは全く記憶に残っていない。広告量の問題か、サウンドロゴの問題かどうかは今となっては分からない。
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記憶に残っているテレビ番組 (7)

今は時間や天気予報をスマホで確認する人が多いが、ふた昔前までは時報と天気予報はテレビの必須番組だった。NHKは毎時の時報と天気予報を放映し、どの民放も精工舎の時報と天気予報番組をオンエアしていた。その中で最も記憶に残る天気予報番組と言えば、ヤンマーディーゼル提供の「ヤン坊マー坊天気予報」だろう。なにせ単独提供で55年も続いたのだ。
2023-04-03
オープニングの唄は今でも歌うことができる。

僕の名前はヤン坊 僕の名前はマー坊 二人合わせてヤンマーだ 君と僕とでヤンマーだ
農家の動力 みなヤンマー 漁船のエンジン みなヤンマー
ディーゼル発電 ディーゼルポンプ 動力工事もみなヤンマー
小さなものから 大きなものまで 動かす力だ ヤンマーディーゼル

1959年の気象の日(6月1日)スタートから季節に合わせてアニメーションを多少変えたり、メロディや歌詞に手を加えたりしたものの、2014年3月31日まで半世紀以上も続いた最長寿番組でもあった。しかし予報技術の進化により詳細な情報が求められるようになり、アニメ中心の天気予報番組では対応できなくなったことで放映局数が減り番組終了を迎えることとなった。個人的には「みなヤンマー」の表現が誇大誇張表現とみられたのかもしれない(途中からみなヤンマーを省いたものに変えられてはいたが)と思う。「みなヤンマー」を毎日流されたのでは同じスポンサーである井関農機やヤマハ発動機などは面白くないもの。
2023-04-05
ヤン坊が兄でマー坊が弟という設定で、当時としてはめずらしかったアニメを使ったので(鉄腕アトムのテレビ放映開始はその4年後)一気に人気がでた。番組名に社名を想起させる細工を施し、親しみやすいジングルを使用することで、農機、建機、発動機という普通の人にはなじみのない製品を作る会社の知名を上げた功績は大きかった。後の単独提供の短編番組づくりのベースともなった番組でもあった。



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