マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2023年09月

子供の頃夕食に刺身やおでんが出されるとき、母親はいつも小さな缶から粉からしや粉ワサビを小皿にとり、水で溶いて人差し指で捏ねていた。子供だったので当時はからしやワサビを使うことはほとんどなかったが、母親が台所で捏ねている情景ははっきり覚えている。
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やがてパウダータイプの香辛料はだんだん姿を消し、1970年にはチューブに入った香辛料がスーパーの棚に並ぶようになった。35円の粉タイプと比べると100円は高かったが、その簡便さとおいしさで家庭に浸透していった。特に粉ではあのツンとくる刺激に欠けた練りわさびが好評だった。生の本わさびは今でも高価だが、チューブ入りなら刺激も十分だし日持ちもする。1970年にSB食品が創った市場は1974年にハウス食品が参入することによってさらに拡大した。

初期の頃はアルミ製のチューブだったがプラスティックチューブに変わり、わさび、からしに加えておろししょうが、おろしにんにくがラインに追加された。1987年には本わさびを使用した本生おろしわさびと粒入りマスタードの上位品を発売し「本生シリーズ」が誕生した。我が家の冷蔵庫のポケットにもSB、ハウス、トップバリュのチューブ香辛料が常備されている。特に夏は昼食がざるそば、そうめん、ざるうどんのローテーションなのでチューブのわさびは必需品である。
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ワサビは日本固有の植物で山葵と書く。江戸時代に静岡などで自生していたワサビの栽培が始まったらしい。それが寿司の流行で急速に広まったという。子供の頃の寿司はワサビ抜きだったが、だんだんワサビを使うようになった。静岡生まれの父親は出張のたびに田丸屋の樽入りのわさび漬けをお土産として買ってきたのでワサビの味に慣れてきた。会社員時代は勤務先の近所に「そじ坊」があり、ざるそばには(本わさびではないが)わさび一本がおろし金と一緒に付いていて、すりおろすのが楽しかった。残った分は小さなビニール袋に入れて持ち帰ることができた。持ち帰っても使うことはなかったんだけどね。
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今やワサビは国際的になり、特に日本に来て寿司を堪能した外人はチューブ入りわさびをお土産にする人も多いし、アメリカやヨーロッパではちょっと高いが店で売られている。Wasabi mustardはShiitake mushroomと同じくらい通用する日本語になった。最近ではイギリス、ニュージーランド、台湾、中国、韓国などでも栽培されていて、SBの本生ワサビはベトナム産だしハウスのはインドネシアと中国産との表示がある。わさびが世界中に広まるのはうれしいのだが、その前に外国の寿司屋(日本人がやっている高級店は除く)の寿司本体のクオリティをもう少し上げてもらいたいなあ。


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今年の防災の日はその名の発祥となった関東大震災の100周年でもあった。9.11も3.11もそうだったが、一つの事件や出来事が社会を大きく変えることがある。関東大震災前後で変わったこと三題。(写真は震災後の日本橋付近)
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全国紙新聞
震災前の東京市内の新聞発行部数上位紙は、報知新聞(36万部)、東京日日新聞(30万部)、東京朝日新聞(28万部)、国民新聞(27万部)、時事新報(23万部)、都新聞(20万部)、万朝報(18万部)、読売新聞(15万部)などで群雄割拠状態だった。しかし関東大震災で東京の15の新聞社のうち13社が全焼し、残ったのは報知、東京日日、都新聞の3社だけだった。

東京日日(大阪毎日新聞傘下)、報知、国民新聞(現東京新聞)は地方版を有していたので早めに復興ができたし、東京朝日は大阪に本社を置いていたので震災当日から稼働が可能だった。しかし中小新聞社は読者を失い、輪転機や活字を焼失し、用紙の確保が困難になり、4割を超えていた広告収入を無くして苦境に陥った。震災翌年に正力松太郎が経営難の読売新聞を買収して社長となり、1942年には報知新聞を合併して後の読売大国の礎を築いた。こうして関東を地盤とした新聞は凋落し、朝日、毎日、読売の三大紙の時代が生まれ、震災前の業界とは大きく姿を変えてしまった。

マヨネーズ
マヨネーズは18世紀中頃にスペインで生まれたとされる(一説には同時期にフランスでとも言われる)。我が国でマヨネーズが登場するのは1925年にキューピー食品工業がキューピーマヨネーズを発売してからである。創業者である中島薫一郎が海外実習生として訪れたアメリカでシャケ缶と玉ねぎのみじん切りにマヨネーズを混ぜた料理と出会い、マヨネーズの美味しさと栄養価の高さに感銘を受け1916年の帰国後マヨネーズを発売しようとした。しかし当時は誰もマヨネーズを知らず、卵の価格が高かったためマヨネーズも高価となり、かつ日本人には今のように生の野菜を食する習慣がするがなかったため中島は機が熟するのをじっと待った。

その7年後に起きたのが関東大震災である。震災からの復興中に東京では下町から山の手への人口移動、耐震建築と不燃化への移行、町内会制度の整備などと並んで生活の洋風化が進行した。中島は「女性が洋服を着るようになった今ならいける」とマヨネーズの発売に踏み切った。当然苦戦は続くのだがマヨネーズの名前と味を覚えてもらうために試食会などのプロモーションを実行し、1941年には発売時の800倍にあたる500トンまで売りを伸ばした。その後第二次世界大戦で生産中止なども経験したが、戦後の食卓の洋風化を追い風に冷蔵庫の必需品となり、マヨラーという言葉も市民権を得るようになった。

ラジオの実用化
関東大震災直後に朝鮮人や中国人が日本人を襲うとか井戸に毒を投げ込んだなどの流言飛語が飛び交い、虐殺事件が多く発生した。警察は流言を諫めるビラを貼るなどしたが、当時は素早く正確な震災の情報を関東内外へ送るには無線以外にはなかった。このことが人々に「ラジオさえあれば流言飛語による人身の動揺を防ぐことができたのではないか」と思わせるようになり、放送事業開業の要望が高まりラジオの実用化が急速に進行した。

関東大震災の翌年には大阪朝日新聞による皇太子裕仁親王のご成婚奉祝式典や、大阪毎日新聞による第15回衆議院総選挙の開票中継などの試験的放送がなされた。翌年には逓信省が放送用無線電話規制を制定し、東京、大阪、名古屋で公益法人にラジオ放送事業を許可する方針を打ち出した。これを受けて1925年に社団法人東京放送局(JOAK 現在のNHK東京ラジオ第一放送)、大阪のJOBK、名古屋のJOCKも放送を開始し、1926年に三局は日本放送協会として統合された。その後ラジオの聴取契約者数は1931年に100万世帯、1939年には400万世帯、1943年には700万世帯を突破した。戦後には民間放送も始まりラジオは茶の間の主役の地位を保持し続けた、テレビにその座を奪われるまで。


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会社勤めから引退して16年。専業主夫というか、買い物と夕食調理担当になって16年。毎日買い物に行くがこの数週間の野菜の値上がりがすごい。

最初に気づいたのが三つ葉だった。いつも小さな束が98円で売られていたが、買ってきたらレシートには198円とあった。根っこにスポンジが付いているから水栽培だと思うのだが、天候に影響される露地栽培でない野菜が突然2倍の値段にになっていた。

そのうちキュウリや人参、レタスやキャベツなどの葉物が倍近くに値上がりし、つい最近はそれまで158円から198円で売られていたブロッコリーが398円になり、近所のスーパーでは数日前からブロッコリーの姿は売り場から完全に消えた。ニュースを見ていたら最近の主要産地の北海道での高温でブロッコリーの生育が悪くなり、小さかったり緑色にならないものが増えて市場に出る量が激減し価格が高騰したらしい。
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私は菜食主義者ではないが野菜が大好きで、夕食には必ずサラダを作る。それもトマト、キュウリ、人参、レタス、セロリ、ブロッコリー、カイワレにポテトサラダを加えて少なくとも8種の野菜で、厚労省が推奨する一日350グラムの野菜を夕食だけで摂るようにしている。野菜の購入金額はそれでなくても肉や魚を上まわっているので最近の値上がりは痛い。先日はいつも158円、高くても178円だったほうれん草が新年直前のような価格(298円)で、それも束が小さくなって売られていて驚いた。ほうれん草はすこし安い小松菜で代替もできるが、サラダの素材は代替品が限られる。

ナスも強い日差しで変色したり割れたりして通常198円だったものが298円になった。ネギも不作で価格が上がり、いつもは3本の束で買うのだが最近は1本購入に変えた。人参や大根も猛暑で土の中で溶けるものが増え、それを避けるために早めに収穫をするのでサイズの小さいものが高値で売られている。一本100円くらいで売られていた大根は小ぶりのサイズで300円、人参も細くなって値段は上がっている。
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いつも買い物をするスーパーは価格志向なのでそんなに値段は高くはない。それでもこの値段だ。だからOKストアに行く回数が増えた。でもOKでも野菜はそんなに安くはなっていない。店側も必死なのだろう。高く見えないように内容量を変えている。いつもは3本入りだったキュウリは2本パックに、4個入りだったトマトは2個入りになって、かつ値段は以前と同じだ。トマトなどは毎日食べるので値段が上がっても買わざるを得ない。いつも買っている箱入りで498円だった箱入りのトマト、今日は同じものが980円の値札が付いていた。
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これから鍋の季節になるがこのままの高値が続くと鍋料理も楽しめなくなるかもしれない。今年は地域によっては高温だけでなく夏の大雨で葉物やネギが打撃を受け、米どころでは水不足で米も不作らしい。新潟では通常であれば8割から9割が一等米と評価されるがが、今年は1割くらいしか一等米にならないらしい。地球温暖化や異常気象は今のところ止めようがないので毎年同じことが起きるに違いない。値段も上がり、品質も悪くなる野菜や穀物しか食べられなくなるなんて、食べることしか楽しみがなくなった老人には住みにくい世の中になったものだ、と嘆くしかないのか。


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みどりのおばさん、ニッセイのおばさん、そしてヤクルトおばさんを日本の三大おばさんと言うらしい。かつてはヤクルト婦人販売員と呼ばれ、最近のヤクルトのHPではヤクルトレディと呼ばれている。今でこそヤクルトを始めとする乳酸菌飲料は市民権を得ているが、ここまで来るには大変な苦労があったらしい。
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ヤクルトの創業者代田稔が腸内の悪い菌を退治する特殊乳酸桿菌の培養に成功したのは1930年だった。これをLカゼイ・シロタ株と名付け、後にヤクルト菌と呼ばれるようになった。ヤクルトとはエスペラント語でヨーグルトを意味するヤフルトを語源としている。代田は1935年に代田保護菌研究所を福岡に設立し乳酸菌飲料の製造と販売を始めたが、それは普及活動のための普及会経由の細々とした販売で、ヤクルト本社が東京にできるのは20年後の1955年まで待たねばならなかった。

私は名古屋で生まれ育ったが、名古屋では同じ1955年に発売されたエルビーの方が有名だった。ヤクルトを見た記憶が全くない。当時は乳酸菌など馴染みはないしビフィズス菌などは聞いたこともなかった。お腹の中に菌を取り込む飲料などほとんどの人は「菌を飲むなんて」と拒絶反応を示した。全国に販売組織を整備したヤクルトが力を入れたのが啓蒙のための広告活動と婦人販売員チームの設立だった。

1963年に導入された婦人販売員は自転車や手押し車に製品を乗せて自宅近くの顧客に届ける配達部隊だった。そのほとんどが当時は外で働くことが珍しかった主婦だった。やがて全国に広がり誕生して20年後には5万6千人のヤクルトおばさんを擁するようになった。その後競合も増え、宅配以外にスーパーなどでの販売も始まったこともあり、2006年には5万人に減り、現在は3万3千人のヤクルトレディが個人宅や会社のオフィスに毎日ヤクルトを配達している。

もちろんヤクルト躍進の原因は婦人部隊だけでなく、ジョア、ミルミルや最近では入手困難だったヤクルト1000などの絶え間ない新製品導入と、1968年に採用されたプラボトルの採用がある。特にプラボトルはそれまでの回収に手間のかかる重い瓶から婦人部隊を解放し、えぐれた中央部は飲みやすさと製造ラインでの安定をもたらした。
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啓蒙活動は国内にとどまらず海外でも行われている。海外での世界水上選手権のテレビ中継でヤクルトのビッグボトルが必ず映される。効果があるのだろうかと疑問に思っていたが、試飲イベントや啓蒙活動を継続していくうちに海外での販売国数は40か国まで増えたという。ヤクルトレディもアジアを中心に8万人に上り、海外で販売されている日本の飲料としてはナンバーワンとなった。main96
通常のヤクルトは65mlで物足りないと思っていたが、フィリピンには1リットル入りのヤクルトがあるらしい。飲みごたえはありそうだが、このシール蓋では開けたら飲み切らなくてはならないし、ヤクルトレディが運ぶには大きすぎるし重すぎる。でもこの発想は好きだし、これを許すヤクルト本社もなかなかのものだ。

昔チューインガムの仕事をしている時に競合会社からビフィズス菌入りのガムが発売された。米国本社の人間に説明をしたら、ビフィズス菌などは全く知らず、乳酸菌(lactic acid bacteria)の話をしたら「お前たちはバクテリアを食べるのか」と言われそれ以上説明する気は失せた。その頃のことを思い出すと現在「アメリカヤクルト株式会社」が存在するなんて時代が変わったと痛感させられる。

ちなみにヤクルトレディは店売りの2倍の数を販売しているとのことだ。


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