マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2024年02月

寒い深夜には温かいスープが飲みたくなる。ただキャンベルの缶スープは牛乳と鍋が必要だし、中華スープは卵がないと作れないし深夜にはごま油が重く感じられる。老人にはあっさりしたリケンのわかめスープか永谷園の松茸の味お吸いものくらいがちょうど良い。だから今日も松茸のお吸いものだった。熱湯を注ぐだけですぐ飲める。ちょっとケミカルな香りがするが麩、海苔に乾燥葱と椎茸も入っている。
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松茸の季節にはちと早いが、国産の松茸はとても手が出ないのでたまに買うときはカナダ産か中国産を選ぶことになる。ちょっと大味で香りに欠けるような気がするけど。昔も安くはなかったが今ほど高根の花ではなかった。時々母親が竹かごに入った松茸を買ってきて松茸ご飯を作った。当時輸入ものはほとんどなかったので全部が国産だったと思う。そんな頃テレビで柳屋小さんの「松茸の味 お吸もの」のCMが流れ出した。小さんがつぶやく「これで一杯10円だって」のセリフが記憶に残っている。
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(左は発売当時の、右は現在のパッケージ)
製造元の永谷園はもともと宇治の製茶屋だった。江戸時代中期にそれまで赤黒くて味も香りの薄かった煎茶を現在のような薄緑色の煎茶を開発した永谷宗七郎をルーツとする。明治時代に分家が東京に進出し、煎茶に加えて昆布茶やアイスグリーンティなどを販売していた。戦後一時的に永谷園の看板を下ろしていたが、1952年に発売した「お茶づけ海苔」が大ヒットし、翌年永谷園本舗が設立された。「お茶づけ海苔」が唯一の製品だった。次の新製品は1958年のふりかけ「磯のふきよせ」まで待たねばならなかった。

1964年10月、まさに東京オリンピックと同じ時期に第三の新製品「松茸の味 お吸いもの」は世に出た。ただ関西ではお吸い物はある程度地盤を持っていたが、関東では味噌汁が強く苦戦を強いられた。そのためお吸い物単体ではなく、餅を加えてお雑煮ににするなどのアレンジメニュー提案でプロモーション活動をした。この路線は今でも続けられており、パッケージの裏面には和風パスタ、炊き込みご飯、茶わん蒸しなどのレシピが載せられている。

我が家では鰻丼やちらし寿司の時に出番が多いが、素麺のつゆにもなるし、アレンジレシピの中では炊き込みご飯が重宝されている。松茸の替わりにレシピではしめじを使っているがエリンギの方が見た目と食感が松茸に近い。貧乏人のなんちゃって松茸ご飯とでも呼ぼうか。和風パスタは好みではなかった。今度は電子レンジで茶碗蒸しにトライしてみよう。
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「これで一杯10円だって」は過去のものになり今では一杯30円だがその価値は十分にあると思う。ネットでは業務用50袋入りを600円台で売っていて、これだと一杯13円だ。アマゾンで取り寄せてみたが、通常品が3グラムに対しこれは2.3グラムしかなく、当然具の量も少なく、おまけに椎茸が入っていない。でも小腹が空いた時に飲んだり、出汁代わりに使ったり、お茶漬けにしたりと用途はいろいろある。

永谷園は新製品の少ない会社だ。通常食品会社は毎年春に数品、秋に数品の新製品を出すものだが、永谷園は平均すると年に一つの新製品かそれ以下だ。もう少し頑張ってもらわないとメインのユーザーである老人はこの世からいなくなっちゃうよ!
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三人娘と聞いてまず思い出すのは子供の頃に人気のあった美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人の歌手だ。三人とも歌唱力があり人気者だった。元祖三人娘と呼ばれている。その中で一番バタ臭い(死語だ)雪村いづみが好きで「スワニー」や「オーマイパパ」が記憶に残っている。口を大きく開けて声高らかに歌う歌手だった。江利チエミもそうだが、英語の発音も素晴らしいが彼女らが歌う日本語は発音が明晰で言葉として美しかった。三人は1937年生まれの同い年で現在は雪村いづみだけが存命で今でも歌手活動を続けている。何本かの映画に三人一緒に出演し、近所の映画館新郊劇場まで見にいったことがある。子供の入館料はたしか30円だった。
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ひばり、チエミ、いづみの三人娘の最初の映画「ジャンケン娘」(1955年)の前年に始まったNHKラジオの「ヤン坊ニン坊トン坊」で兄弟を演じた里見京子、横山道代、黒柳徹子を初代三人娘と呼ぶ説もあるようだが、当時熱心に電蓄にかじりついて毎回番組を聞いていた自分には彼女らが三人娘と呼ばれていた記憶はない。これは役どころが子供役かつ男の三兄弟役で娘とは呼びにくく、多分後年誰かがこじつけたものと思われる。

私の世代の三人娘と言えば中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりのナベプロ三人娘だ。ほぼ同世代だしデビュー時代をはっきり覚えている。当時のポップスはアメリカのヒット曲を日本語に訳したものがほとんどだった。中尾ミエはデビュー作であるコニー・フランシスの「可愛いベイビー」が大ヒットし、朝日新聞夕刊で「恐るべき16歳」の見出しで紹介された記事が目に残っている。伊東ゆかりはちょっとすっぱいような表情でジョニー・ホッジスの「恋の売り込み」やリトル・エヴァの「ロコモーション」を歌っていた。
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この三人娘は最初は1962年開始の「森永スパークショー」のなかでスパーク3人娘として登場したが、その時は中尾ミエ、伊東ゆかりと沢リリ子の3人だった。沢リリ子も人気が出かけた歌手で、多分テレビドラマの主題歌だったと思うが、「You You You, Funky Styleの She is wonderful 素敵なお嬢さん」とパンチのある声と歌は今でも憶えていて唄える。ただ事務所が渡辺プロではなかったので同じナベプロの園まりに入れ替わってしまった。

この頃の三人娘は中尾ミエの「可愛いベイビー」以外にヒットはない。伊東ゆかりが「小指の思い出」で大ヒットを出すのは5年後だし、園まりの「逢いたくて逢いたくて」は4年後だ。中尾ミエは「可愛いベイビー」のたった1曲のヒットでその後60年芸能界で生き延びている稀有な例だ。

その前後にも男性ではロカビリー三人男、御三家、新御三家、たのきんトリオ、女性では日活三人娘、花の中三トリオ、新三人娘など三人ひとくくりにして語られる役者や歌手が誕生した。よほど日本人は三人が好きなようだ。これは売り込みをかける事務所やタレントにとっても話題作りや、一人では期待できないが三人が醸成する相乗効果を産み出すという利点もあるのだろう。それにしても当時のナベプロ三人娘の若いこと!園まりが亡くなってしまったのは残念です。


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私の父親は85歳で他界した。医療が進歩しているので自分はそれよりは生きられるかもしれない。勝手に86歳までは生きると決めている。それでもあと10年しか残っていない。高校のサークルの同級生男子5人のうち2人はすでに亡くなっているし、大学時代のの友人もこの3年で2人が死去した。一緒に働いていた69歳の開発部長は心筋梗塞でアメリカで客死し、かつての上司は76歳で鬼門に入った。会社の元同僚も最近2人癌で亡くなった。72歳と64歳だった。年々一年が早くなっていることを考えると残されている時間はそんなに長くないのかもしれない。
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10年前から終活らしきものを始めた。まずは断捨離からと着なくなった衣類、手紙、写真やネガを処分しアルバムを整理した。娘の子供時代の写真数百枚はネガからデジタル化して残した。アルバムは分厚くて場所を取り見ることなどほとんどないが、作業中に家内が「私のと娘のには手を付けないで!」というので途中で頓挫した。次に書籍と雑誌、レコード、CD、ビデオ、レーザーディスクなどをオークションで売ることにした。これは結構大変で、写真を撮り楽オク(今はもうない)やヤフオク、アマゾンのサイトに3000近い商品の状態や販売価格を入力するのは面倒な作業だった。
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しかし意外にも本には買い手がついた。1万円以上で売れた詩集もあれば大学時代の専門書は8000円くらいで何冊も売れた。雑誌も100冊まとめて売れたものもあるしEPレコードに1万数千円の値が付いたこともある。でもそれらは例外で平均で見れば本は数百円、LPやCDは1000円前後だったと思う。レーザーディスクは貴重なのだがプレイヤーを持っている人が少なくてほとんど売れない。本やレコードなどで2000点は売れたので本箱はすっきりした。ただ主力のアマゾンで本が売れても、私のような小口出品者は基本成約料の100円とカテゴリー別成約料の80円に加えて販売価格(+配送料)の15%の販売手数料と消費税を払わねばならず、数百円の売価だとほとんど利益は出ない。おまけに送料は262円の固定なので厚くて重い本だと送料がかさんで足が出ることになる。もう読むことはないであろう本が新しい読者を得て再度日の目を見ることが喜びで、梱包して発送するときは娘を嫁に出すような気持になる。

最後に残されていたのが遺言状だ。自筆証書遺言や公正証書遺言は面倒だしそれだけのことをするほどの資産もない。実務能力をほとんど持っていない家内が困るのを最小限にするためのものだから自分でワードで打った。葬式は簡素でいい、から始まり死亡届の出し方、生命保険の請求方法、遺族年金の請求、私の銀行口座の凍結、公共料金の名義変更、証券会社口座の解約など多岐にわたる。それらには締切日があるので結構大変だと思う。親が亡くなった時にたいていは経験しているのだろうが、家内にはその経験もない。それらをまとめて書き、「私が死んだら」のタイトルを付け区役所が発行している簡便な手続き早わかりのコピーを添付して一応完成した。これを時々書き足しPCに収め、印刷したものを自分のデスクの引き出しに入れてある。
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役に立つかどうかは分からないが何も残さずにこの世から消えるよりは助けにはなるだろうと思う。その時に家内が呆けていなければよいのだが。



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