マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2024年06月

先週住んでいるマンションの管理組合総会があり、その後の理事会で理事長になってしまった。嫌な予感はしていたのだが追いこまれるようにしてなってしまった。

理事は12人いて1年ごとに6人が入れ替わる。私も昨年から理事を輪番で引き受けて2年目になる。理事長は通例として2年目の6人の中から選出される。理事長はどの組合でも理事の互選で選ばれるが、なりたくない人は理事長を決める前に監事とか広報とか大規模修繕委員とか防災委員に立候補してうまく抜ける。気が付けば2年目で残っているのは2~3人だけで、彼らもなんのかんのと理由を付けて敬遠するので仕方なく引き受けてしまった。

私が住むマンションも建築後30年となり住民も高齢化している。理事のなり手はなく輪番で指名されるのだが、高齢、体調、親の介護、子供や孫の送迎などを理由に断る人が多い。月に1回の理事会も3時間くらいかかるのが普通だし、何かの担当になれば理事会以外にも月に1~2回は会合に出席しなければならない。理事の負担は軽くはない。

マンションも古くなってくると大規模修繕、エレベーターの更新、給排水管の取り換えなど金のかかるプロジェクトがまとめて出てくる。物理的、機能的劣化だけでなく社会的劣化にも対応しなくてはならない。400戸を超す集合住宅の意見をまとめるのは簡単ではなさそうだ。おまけに我がマンションは私のように部屋を買ったサラリーマンだけでなく相当数の旧地主である地権者、多くの賃貸用の部屋を持つURと立場の異なる所有者がいて、かつ部屋自体も住居だけでなく商店、医院、美容院、事務所、保育所、レストランに用いられていて所有者の管理や資産に対しての考え方も様々だ。かつURの賃貸住居を除いても賃貸に出している住戸保有者は4割を超える。賃貸居住者は一般的に管理に対して関心は薄い。

そのうえどこの管理組合にもいるように理事長経験者の御意見番的老人が必ずいる。総会には必ず出席し、最前列に座って質問をする。80代が多く経験には富むのだが将来のビジョンとかには関心がないらしく子細な点への質問が多く、最終的には私がやっていた時代には…と過去の成功体験で話が終わる。こういう人たちともうまくやらなくてはいけない。などと考えると頭が痛くなってきた。

来週には新理事長としての抱負や新年度に取り組む事業や課題を発表しなくてはならない。望んでなったわけではないのでたいした抱負はないのだがある程度の格好は付けなければならない。取り組むプロジェクトとそのプライオリティづけ、理事会の運営方法、なり手のない理事に立候補してもらうための方策、管理費や修繕積立金の値上げに対する考えなどをまとめておこう。幸いに外資でプロジェクトをまとめたりプライオリティとつけたりすることは十分学んだし、引っ越しを15回して10のマンションで暮らした経験もあるのでそれだけを頼りに考えをまとめることにしよう。

スーパーの棚でパウチ入りのシーチキンを見つけた。以前からあるのかもしれないが初めて見た。数年前にノザキのコンビーフがねじ巻き缶からパッ缶に変わった時も驚いたが、このシーチキンのパッ缶からパウチへの変身にもビックリした。
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しかしこれは望ましい変身なのではなかろうか。ごみの量が減るし保管しておくスペースも軽減される。割高な1缶売りを敬遠して3缶パックや4缶パックを買っていたが、このパウチなら場所はとらないし、1個で買っても缶より安い。賞味期限こそ缶の37カ月に対し25カ月と多少短いが全く問題はない。

シーチキンは1931年清水の後藤缶詰所が試作したマグロの油漬け缶詰めに端を発する。もとはアメリカ向けの輸出用商品だったが、1969年に地元の三保の松原の羽衣伝説からはごろも缶詰め株式会社に社名変更した。シーチキンの商標は1958年に登録している。当時はミカンの缶詰との二本立て経営だった。私の父親は清水の生まれで当時実家は鶏の缶詰を作っていた。清水には缶詰工場がいくつかあった。子供のころ親戚から毎年お中元とお歳暮にはごろものミカン缶詰が贈られてきた。たぶん親戚のだれかが働いていたと思われる。

売れ行きがいまいちだったシーチキンだが、二代目社長が始めた特約店づくりと1967年に開始したメニュー提案型のテレビCMが功を奏し、開始前の3万箱から10年後には250万箱まで販売を伸ばした。食事の欧風化の追い風もあったが、他に先駆けて1982年にイージーオープン缶(パッ缶)の採用、ローファット、ローカロリー化へのかじ取りが早かったことも成長の要因となった。いまでもシーチキンははごろもフーズの売り上げの半分を稼ぎ出し、ツナ缶市場のシェアは5割を超える。清水にはツナ缶御三家と呼ばれる缶詰め会社があり、全国の97%を静岡県で生産している。
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もともと缶詰は1811年に英国で発明された。この発明により製品の保護、輸送そしてラベルを貼ることによりブランド名、成分、製法、用途、宣伝文句などを明確に伝達できるようになり、パッケージ化が可能となった。パッケージ化が可能になると、それまで量り売りなどで売られていた製品のブランディング化が可能になった。こうしてスープや保存食、フルーツ缶など多く生産されるようになった。ツナのオイル詰め缶はぴったりだったわけだ。
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しかし重い、錆びるなどののデメリットもありアルミ缶やイージーオープン缶などが誕生した。アルミ缶は軽いが「電気の缶詰」と呼ばれるほど高価であり、アルミのプルトップは開缶時に微小量のアルミが缶内に落下するとされ、これが脳内に蓄積されてアルツハイマーの一因となると一時話題になったことがある。清水にあったアルミのただ一つの精錬工場も原油と電力料金の上昇で10年前に撤退し、精錬したアルミを輸入している日本は円安で輸入価格も高騰し缶からパウチへの転換はさらに進むんだろうなあ。

子供のころから広告が好きだった(33)

グリコグリコ アーモンドグリコ 一粒で二度おいしい 一粒で二度おいしい
グリコグリコ アーモンドグリコ しゃぶったら変わったよ ミルクの味のアーモンド

小学生の頃テレビから流れてきたCMソングだ。コンガを叩く音にリズミカルに乗ったラテンの旋律をバックに紙人形が踊るというコマーシャルだった。まだアーモンドというものをほとんどの人が知らない時代だったので、二度おいしいアーモンドとは何なのだろうかと思った。
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それまでにグリコは食べたことがあったが、アーモンド見たさに買ってみた。確か8粒入りで十円と、16粒入りで20円の二種類だった。口の中に入れるとミルク味にナッツの香りがプラスされている。嚙むと小さく粉砕されたナッツがつぶれてアーモンドの味が強くなる。これがアーモンドなのか。ナッツと言えばピーナッツしかなかった時代だから新鮮に感じた。

グリコ創業者の江崎利一は1930年にアメリカ産業視察団の一員として渡米し、ナッツ専門店で一番高いが一番おいしいアーモンドに出会った。25年間温めておいたアイデアを大人向けのグリコを開発するときに隠し玉として使ったというわけだ。ホエーのミルク感に噛むとアーモンドの香ばしさが加わって独特の食感と味が生まれた。「一粒で二度おいしい」というコピーも利一が考え出した。未知のナッツだったアーモンドは一気に知られるところとなり、アーモンドグリコはヒット商品となった。円が1ドル360円だったこともあってアーモンドの輸入価格は高く、製造原価だけが問題だった。

その3年後にはアーモンドを一粒丸ごと入れたアーモンドチョコレートを発売しチョコレート市場に参入した。チョコレートの2倍のグラム単価のアーモンドを使ったため小売価格は割高になったが、活発な広告活動もあり成功を収め総合菓子メーカーへと脱皮することができた。江崎グリコは広告の量も多いが、製品の開発時に他社との差別化を明確にして開発すること、それを分かりやすく憶えやすいコピーする巧みさがある。グリコの「一粒300メートル」も、アーモンドグリコの「一粒で二度おいしい」も子供のころすり込まれたら一生忘れない。

しかし、あれだけのヒット作だったのにキャラメル市場の停滞もあってアーモンドグリコに過去の面影はない。今日も近所のスーパー3店、セブンイレブン、ダイソー、デパートで探したが見つからず、最後にキオスクでやっと買うことができた。久しぶりに味わったアーモンドグリコはなんだか懐かしい味がした。子供のころ16粒で20円だったのが18粒で170円になっていたのが時の流れを感じさせた。

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