マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2024年08月

子供のころから広告が好きだった(38)

たいていの消費財商品は使用者が自分で購入することが多い。しかし亭主に頼まれて下着やカミソリの替え刃を主婦が買うとか、おじいちゃんの入歯洗浄剤を頼まれるということもあるだろう。この使用者と購入者が一致しない最大の製品群は子供が食べたり使ったりする商品だ。子供の服や文房具などはその典型であるが、子供が食べる食品・菓子類や飲料もその種の製品だ。

子供が母親に買ってくれとねだる場合もあれば、母親が子供のために買い与える製品もある。支払いをするのは母親なので企業は母親をターゲットとする。両者が満足する商品ならば問題ないが、そんな商品は多くはない。今日もスーパーで子供がアンパンマンアイスだかガリガリ君だかを買ってくれとねだり、母親が駄目と言っているのを見た。昔はコーラが飲みたいのに「骨が溶けるよ」と訳の分からぬ理由でノーと言われた子供が多かった。

そんななかで子供と母親の両方をうまく説得した広告の一つがかっぱえびせんではなかろうか。
2024-08-30 (1)
やめられない とまらない かっぱえびせん。このCMソングは60年近く流されている。アメリカには「この世で最も勇気のある者はピーナッツを一粒食べてそこで止められる男だ」という格言があるが、エビ好きの日本人はかっぱえびせんもひとつでは止められない。かっぱえびせんは製品と広告の秀逸さであっという間にスナック菓子のトップブランドになり、カルビーの名を知らせしめ、その後のサッポロポテト、ポテトチップス、じゃがりこなどの同社製品開発・発売の財政基盤を作った。同時にかっぱえびせんは日本を代表するロングセラー菓子となった。

ただおいしいだけの菓子ではない。当時の菓子はせんべいやあられ以外は甘いものばかりだった。すこし塩味の効いたエビの風味の軽いスナック。養殖魚のエサにしか使われていなかった小エビを丸ごと使っているので子供の成長に必要なカルシウムに富む。それを直接的に訴求するのでなく、CMソングを「かしこい母さん かっぱえびせん」で締めることで子供のために製品を選択した母親の心をくすぐった。かしこい母さん かっぱえびせん。うまい表現だった。栄養価の高い未利用資源の有効活用を社是とするカルビーの面目躍如だ。

そう思うのは昔の経験から来ている。日本人に恒常的に不足している栄養素はカルシウムだけだったので、カルシウム含有の子供向けの菓子を作って販売したことがある。ターゲットを子供だけにしたことが間違いだった。子供はカルシウムの必要性なんか気にしない。母親を巻き込むべきだったのだ。
その前にはシュガレスガムを「これならママもOKさ」というキャッチコピーで広告を打っていた。製品としては成功した部類だったが、今思うと子供はもっと甘くて量のある砂糖入りのガムを噛みたかっただろうし、母親はシュガレスでもガムは噛ませたくなかったのではなかろうか。違う表現があってもしかるべきだった。

カルシウムにしろシュガレスガムの例にしろとかく外資は頭でっかちになりがちで、コンセプトだけで物が売れると考えるのが弱みかもしれない。マーケティングの教科書に「コンセプトで牛を川辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」とあった。C(コンセプト)+P(プロダクトパフォーマンス)のバランスが大事なのだ。それと、この国では機能的ベネフィットだけではなく情緒的ベネフィットも付加すべきだった、というのが40年経ったあとの反省だ。遅すぎる。

子供のころから広告が好きだった(37)

たった一本のテレビCMが製品だけでなく会社の業績を大きく変えることがある。無名の会社が突然有名になったり、地方の会社が一夜で全国区になったりする。広告の麻薬的な効果である。その確率はとんでもなく低いが。

まず思いつくのが「禁煙パイポ」だ。マルマンの系列会社だったアルマンが、製品がまったく売れず最後の賭けで銀行から借金をしてテレビ広告を制作した。当たらなければ倒産必至で、出演タレントも交通費と弁当だけが支給されたとのことだ。普通に何本かを撮影したあと、市川準監督は製作費がないということはオンエア量も少ないと判断し印象に残るカットを最後に収めた。それが小指を立てて「わたしはこれで会社を辞めました」の台詞だった。この広告で禁煙パイポは一気に有名になり7億円の売り上げは40億円まで跳ね上がった。一本のCMが会社を救った例だ。
2024-08-27 (2)
地方のメーカーが広告でナショナルブランドになることもある。味噌という商品はもともと地場産業で地域の大豆や米などで作られ、もっぱら地元中心に流通していた。私は名古屋生まれだが、地元の赤みそや八丁味噌で育った。イチビキ、サンビシ、マルサンなどのメーカーが有名だったが、関東に出てきた時にそれらのメーカーの赤だし味噌が売られていなくてびっくりした。いまではコンビニやスーパーに一つか二つは置いてある。

地場の味噌メーカーで最初に全国展開したのはマルコメだ。各地に販売会社を設立したり自立式容器ドイパックの導入もあったが、少年を坊主にしてのマルコメ坊やのCMの力も絶大だった。「マルコメ、マルコメ、マルコ~メ味噌」のジングルが耳に焼き付いている。1977年からマルコメ君のCMを放映しはじめ、翌78年には全国トップの味噌メーカーに上り詰めた。その後も日本初のだし入りの「だし入り味噌 料亭の味」などのヒット製品を出してその地位を確保している。
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全国的な広告を打つ会社がなかったこともマルコメには幸いしたが、それを追いかけた同じ長野県の味噌メーカーであるハナマルキはもっと大変だったと思われる。マルコメが日本一になった6年後、社名をハナマルキに変え、生産設備を更新し、テレビ広告を大量投入し始めた。タレントには当時は駆け出しのモデルだった今井美樹を使って「一日一杯のハナマルキで 大人になりました」「味噌は天才」とマルコメの少年と差別化する方向をとった。その後は現在も使われている「おみそな~ら ハナマルキ」のジングルを採用し知名度のアップを狙った。
2024-08-27
そのかいあってハナマルキはナンバー2の味噌メーカーとなった。3位にも長野県のひかり味噌が入り、味噌市場上位は長野勢の独占である。

今井美樹もこのCM以降ドラマ出演が増え1986年には歌手デビューもしている 。彼女はかつてハナマルキのCMがデビュー作だと時々話していたが、その前に彼女はクロレッツの最初のCMに出演している。WL社の受付嬢の役で、当時これはというタレントがいなかったが広告代理店がいいモデルがいますということで出演してもらった。背の高い笑うと口の大きい女性、というのが第一印象だった。山梨県でのテスト販売時にオンエアしたが全国展開の時は同時に撮ったコミカルな方を一本を流したので今井バージョンはほとんど人目には触れなかった。そのCMは思ったほど当たらず、次に半ばヤケで制作した岡本麗の「いかがでしょう~か」の物売りCMがヒットしてクロレッツは離陸できた。予想外だった。事程左様に広告というのは先が読めないものなのだ。

子供のころから広告が好きだった(36)

バブル期とは1986年12月から1991年2月までの4年強の期間に起きた好景気、資産の過度の高騰、よく言えば経済の拡大期とされる。今思うと狂っていた時代とも考えられるし、人によってはもう一度戻りたい懐かしの時代でもある。私にとっては40歳前後の働き盛りで仕事は面白く、会社の業績も5年で2倍に成長した時代だった。

現在の落ち目の日本からは想像もできないが、その象徴が企業の時価総額ランキングだろう。
2024-08-20
上位20社中なんと日本企業が13社と過半数を占める。かつトップ5は全部日本の会社だ。この間の為替レートはそれ以前よりは強かったが121円から159円のレンジだったので、円が強くてドル換算の恩恵で膨らんだわけでもない。そのころ読んだE.ボーゲルの「ジャパン アズ ナンバーワン」やR.クリストファーの「日本で勝てれば世界で勝てる」の時代が来たと本気で考えていた。

そんな時代の空気は当然広告にも影響する。まず思い出されるのがリゲインの「24時間戦えますか」シリーズだ。サラリーマンに扮した時任三郎が世界中を駆け回りながら「24時間戦えますか」と唄いながら働き倒すというCMだ。ジャパンマネーが世界を席巻していた時代だったし、企業戦士という言葉も定着した。今思えばブラックの最たるものだが当時は人気のCMで流行語となった。
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ただこうした熱血広告一辺倒ではなく、経済成長の恩恵を受けて余裕も生まれてきた時代でもあったのでゆとりのある広告も存在した。リゲインの対極を行くグロンサンは高田純次の「5時から男」で終業後の充実を訴求したし、バブル真っ最中の87年に流されたコカ・コーラのCMは高揚感や将来への希望が見えるあの時代の雰囲気を良く表していると思う。
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金余りの時代でもあったので広告主はギャラにこだわらずに外国タレントを多用した時期でもあった。毎日のようにCMでシュワルツェネッガー、マイケル・J・フォックス、マドンナ、マイケル・ジャクソン、マライア・キャリー、ジーン・ハックマン、ハリソン・フォード、グレグ・ノーマン、トム・ハンクス、ショーン・コネリーなどの顔を見ることができた。本国では決して出演を受けないであろう車、煙草やアルコール飲料の広告の仕事も日本だけでのオンエア契約と高額ギャラで押し切ったような感じだった。
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上記はダイアン・レインの宝石店の広告だが、この時期の深夜帯はこの手の広告ばかりだった。カメリアダイアモンドを販売していたじょわいゆ・くちゅーるマキや武富士、ハウスのCMが5分に一回は流れていた。いわゆる「青天井」と呼ばれる販売方法で、空いている時間にお任せで挿入CMをすることにより、TV局は売りにくい深夜ゾーンのスポット広告枠が捌け、広告主はリーチは限定されるものの安価にスポットが購入できるというメリットがあった。いまではこんな予算を無視するような販売方式はないんだろうなあ。

ともあれ、そんな時代だったのです、バブル期は。
注:時価増額ランキングの東洋銀行は東海銀行だとおもいます

子供のころから広告が好きだった(35)

1964年の東京オリンピックの頃だった。まだ我が家のテレビは白黒だった。軽快なリズムに乗ってアニメーションの広告が流れてきた。当時のアニメーションCMといえばカッパの黄桜CMかクリクリ三角のヴィックスかアンクルトリスくらいだったが、それらとは全くテイストが異なるCMだった。それに唄っているのが当時の世界的ヒット「アイドルを探せ」を出したばかりのシルヴィ・ヴァルタンだった。
2024-08-12 (3)
ドライブウエイに春がくりゃ イエイエイエイエイエ~イ イエイエイエ
プールサイドに夏がくりゃ イエイエイエイエイエ~イ イエイエイエ
C'est bien  (セ ビヤ~ン)
レ~ナウン レナウン レナウン レナウン娘が
お洒落でシックなレナウン娘が ワンサカサッサ ワンサカサッサ
イエイエイエイエイエ~イ イエイエイエ
2024-08-12 (1)
あのハスキーな声で人気の美人シンガーがイエイエイエとかワンサカサッサと唄うのだから記憶に残るのが当然のCMだった。作詞作曲は当時は無名だった小林亜星。あの頃外国の歌手や俳優をCMで使うということは殆どなかったから余計に目立った。当時のレナウンは若い女性向けのウェアしかなかったと思うが、若い男性やおじさんの間にもレナウンの名前は浸透した。

その後もイエイエのCMシリーズがヒットし、投入したアーノルドパーマーブランドや紳士服のダーバン、アクアスキュータムの買収などで製品群を拡げ一時は世界最大のアパレルメーカーとなった。私も学生時代はJUNの服を着ていたが、サラリーマンになってからはアウトレットでアランドロンが宣伝するダーバンのスーツを買い、ゴルフを始めてからはアーノルドパーマーのウェアを着るようになった。

しかしバブル期の大規模投資が裏目に出て採算が悪化すると同時に急成長するファストファッションに市場を奪われるようになり、百貨店をメインの販路としていたレナウンはバブル崩壊後に経営難に陥る。2010年には中国企業の傘下に入ったが事業は好転せず、その10年後には民事再生法を申請し、今年の8月に破産手続きが完了し122年続いた歴史に幕が下ろされてしまった。

子供のころから広告が好きだった(34)

東芝がCO2削減のために白熱電球の製造を終了してから10年以上が経つ。電球は会社発祥事業の一つであり120年間作り続けてきた看板製品だった。わが家もほとんど使わないふたつのダウンライト以外は全部LED電球に変わった。電気代は激減したが時々あの温かみのある光りが懐かしくなることがある。

子供のころ我が家の電球は東芝製だった。乳白色電球と透明電球が混在していた。蛍光灯などというものは高価でまだ一般的ではなかった。ただ当時の電球はよく切れて、そのたびに電気屋に買いに行かされた。あの頃の電気屋はメーカーによって系列化され、ナショナル、東芝、日立、サンヨーなどそのメーカーの製品しか置いてなかった。60Wの電球は65円か70円だった。
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東芝は電球では我が国最古参で市場のリーダーでもあった。ちなみに蛍光灯も東芝が日本で最初に開発し発売した。家電製品ではナショナル、日立と並ぶ大手で大広告主でもあり、当時単独提供していた東芝日曜劇場(TBS)や東芝土曜劇場(CX)をはじめ数多くの提供番組を持っていた。それらの番組の冒頭にいつも流れるCMソングがあった。

街のランプがお花になった マツダランプだ明るく咲いた
とんとん東芝遠太鼓 たのしいお祭りもう近い

藤山一郎が朗々と歌う「マツダランプの唄」で当時のCMソングとは少し異なるトーンだった。私もこの広告は憶えていたが、なぜ東芝なのにマツダランプなのだろうと思っていた。後年マツダは二神教で知られるゾロアスター教の光の神であるマツダから来ていると知った。商標そのものは米国のGEが持っていて提携企業にも使用を許可していたとのことだ。そういえば東芝の電気店にはこんな看板がかかっていた。
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そんな名門であった東芝も業績の悪化や不祥事が重なり、分社化を進めると同時にテレビはハイセンスに、洗濯機などの白物家電は美的集団に委譲されるなどして、2023年には上場停止にまで追い込まれてしまった。わが家にある東芝製品はテレビのレグザとLED電球だけになってしまったが、さっき調べたらどちらもMade in Chinaとあった。


参考までに「マツダランプの唄」は下記で聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=ZsxfP8GmaXE

だんだん老人以外はテレビを見なくなっている。博報堂発表の2024年の年代別メディア接触時間は下記のグラフのようになっている。紺色がテレビの一日当たりの視聴時間で、10代と60代では2.5倍の違いがある。かつ時系列でみると10代は2006年に2時間46分あった視聴時間が2024年には半分以下の1時間14分に激減だ。一方60代は3時間15分が18年間で3分縮んだけで3時間12分となっている。
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もうテレビは爺と婆のメディアと呼んでもいいだろう。ここ数年視聴率や広告収入が落ち目のテレビ業界は、それまでの世帯視聴率ではなく13歳から49歳までのコア視聴率を上げるべく番組作りをしてきた。それなのにコア層からも見放されテレビの前にいるのは老人ばかり。いつからこんなことになってしまったのか。

私はテレビはニュースとゴルフ番組しか見なくなったがたまには他の番組も見る。見ていていら立つのがCMの入り方だ。ここが要という直前にCMが入る。CMを見させる手法なのだろうが、私は大抵ここでチャンネルを変えるかスイッチを切る。どうせCM明けにはさっきまでの復習場面が入るのだろう。この方法が嫌われていることを制作側は気が付かないのだろうか。

自分が歳をとったせいかもしれないが最近のタレントの顔と名前が分らない。わかるのは彼らがつまらないことくらいか。昔はチャンネルを見なくともどこの局か分かった。局の特徴は消え同じような顔ばかりになった。予算の制限が強化されギャラの高い大物の出番は減り、ギャラの安い小物ばかりを大勢出すので特徴が出ないのだ。売れないタレントは数少ない機会を利用してなんとか目立とうとする。その典型的な例がワイプというものだ。バラエティ番組で多用される画面の隅の小窓に出演者の顔が映るあれである。
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これは日本のテレビだけの手法で他の国では見たことがない。1990年頃から使われ始め今では多用されている。多分制作側が「ここは泣くところだぞ」とか「はい、ここで笑って」とカンペ代わりに使ったりする感情の押し売り道具だ。当然小窓の芸人はここを先途と大きくうなずいたり、笑ったり、泣いたりとオーバーなリアクションをとる。視聴者からすると見たい画面に集中できないし、何もしていない芸人のアップの表情など見たくもない。最近は韓国のテレビがこれを真似しているらしいが、こんなものを輸出してもしょうがないんだけどね。

他にも安直なグルメ番組、金をかけない近場の旅番組、内容のないコメントしかできないコメンテイター、早く辞めてほしいMC、字幕の多さなど不満はいっぱいある。地上波だけでなくBS放送も昔の時代劇、ドラマの再放送、韓国ドラマ、通販番組ばかりだ。でも直らないだろうな。しょうがない、テレビを見ないことしか選択肢はない。老人にとってもテレビが「最も安価な暇つぶし」だった時代は終わったような気がする。







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