マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2024年09月

結婚した当時住んでいたマンションの水はおいしくなかった。コーヒーや日本茶をおいしく飲もうと小瓶入りのミネラルウォーターを贅沢だと思いながら買っていた。1瓶500ccが50円位で、たしかサントリー製だった。バーで水割りを頼むとバーテンダーが運んでくるあの水だ。バーではいつも栓が空いたまま持ってくるので中身は水道水ではないかと疑っていた。

当時売られていた水は業務用製品だけで、用途は水割り用か乳児の粉ミルク用だった。ミネラルウォーターという名前もなかった。その数年前イザヤ・ベンダサンが「日本人とユダヤ人」の中で、「日本人は水と平和はタダで手に入ると思っている」と書いて衝撃を与えた。たしかに平和ボケの時代だったが、自衛隊や在日米軍のコストが税金で賄われていることくらいは皆知っていたので平和はタダとは思わなかったが、水はタダではないという感覚はなかった。状況は今でも変わらないが、喫茶店や蕎麦屋、レストランに入るると黙っていてもどこでもお茶または水が出てくるのは日本だけだ。それもタダで。

だから1982年に1リットル以上のPETボトルが清涼飲料用に認められ翌年ハウス食品から「六甲のおいしい水」が発売された時は、高品質の水が蛇口をひねれば出てくる国で誰が金を払って水を買うのかと思った。60年代に発売された缶コーヒーは徐々に浸透しつつあったが、80年代に市場に出たポッカの缶入りほうじ茶や伊藤園の缶入り煎茶は苦戦を強いられた。まだ「お茶はタダ」の時代だったのだ。しかし主力の茶葉事業が縮小している製茶メーカーの伊藤園は簡単に諦めるわけにはいかない。89年に「缶入り煎茶」を「お~いお茶」と名前を変え、ルートセールスの強みを生かして弁当と一緒に売る戦法で扱い店舗を増やし、売り上げを前年の3倍である40億円まで伸ばした。
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伊藤園が次に手掛けたのがペットボトルの緑茶飲料だ。缶と異なりリキャップできるメリットは大きい。しかし缶では気にならなかった沈殿物の存在は中身が見えるPETでは致命的だ。苦心の末茶殻をろ過する特許フィルターを開発し、1990年に1.5リットルの「お~いお茶」を発売した。その後飲料業界には追い風が吹き始める。90年代に入るとマンションの貯水タンクの水質問題が起き、安全な飲料への関心が高まった。96年にはそれまでゴミ散乱の懸念で禁止されていた1リットル未満のPET清涼飲料がリサイクル体制の確立で許可されるようになった。その頃私は飲料業界にいたが容器が足りず各社で500ミリPETボトルの争奪戦だった。そして2011年の東日本大震災。これ以降ミネラルウォーターをはじめとする飲料を災害時の飲料として備蓄する家庭が急増した。わが家にも6ケースのローリングストックが常時ある。
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伸び続ける緑茶市場にはキリン生茶(2000年)、サントリー伊右衛門(2004年)、コカ・コーラ綾鷹(2012年)と飲料大手が参入し緑茶戦争の様相を呈した。これらに対応するために伊藤園は2000年には他社に先駆けてホット対応のペットボトルの開発・販売をし10万店の販売店に専用ウォーマーを無償で提供した。2001年からは九州中心にお~いお茶専用畑を契約農家と作って原材料の調達を確保し、2004年には「お~いお茶濃い味」の発売、2012年以降はシンガポール、タイ、中国、ハワイに子会社を設立するなどトップブランドを守る施策を立て続けにとってきた。また2011年には大塚食品と、2019年にはアサヒ飲料と自販機の製品相互販売契約を結んでいる。大手と比べて少ない自販機経由の販売を強化するためだ。

経営としては自社農園も自社工場も持たないファブレス経営で開発力、機動力と提携先との協力関係がビジネスドライバーとなっている。ちなみに茶系飲料は金額ではコーヒー飲料の後塵を拝しているが、生産量では圧倒的一位で伊藤園はトップシェアを維持し続けている。

9月半ばになっても毎日暑い。人に会うたびに「いつまでも暑いですね」と挨拶し、老人たちは「この季節でこの暑さは体にこたえる」と返す。私の部屋は南西向きなので朝から夕方まで日差しが入り、毎日エアコンをつけっぱなしにしないと生きていけそうにない。昨夏も史上最高の暑さだったが、今年もほぼ同じ平均気温だった。
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窓には半透明フィルムを貼り、レースと遮光カーテンを使っているのだがそれでも暑い。エアコンを使わないと朝起きた時の室内温度が33度の時もあった。シーツと枕と掛布団は汗まみれ。マンションは密閉性と保温性に優れているとはいえ暑すぎる。YKKのデータによると夏の暑さの74%は窓から流入するのだという。冬の熱流出の50%も窓からだという。わが家でも夏暑く冬寒いので二重ガラス窓にしようかとか、内窓を設置しようかとか考えたがコストや見ばえを考えてまだ決断に至っていない。
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現在住んでいるマンションも築31年目に入り窓に関するクレームも多い。窓の密閉性が劣化してすき間風が入る、サッシの遮音性が悪い、強風時にガタガタ鳴る、サッシのゴムパッキンの劣化がひどい、などなど。現在来年の大規模修繕に向けて修繕案の策定中だが、サッシの修繕は一窓20万円位、交換となると40万円位がかかり400戸を超えるマンションではとんでもない金額となる。たぶん次の大規模修繕まで申し送りになるのだろう。

そもそも断熱性に問題があるとされるアルミサッシを日本ではなぜ使い続けているのだろう。かつてカナダ勤務の時数軒のマンションで暮らしたがアルミサッシは一つもなかった。ハンドルを廻して窓を外に押し出したり、観音開きの窓ばかりでフレームも鋳物か木製のものがほとんどだった。アメリカやヨーロッパでも同様だった。最近では樹脂サッシ窓が中心で冬の寒さの厳しいイギリスやドイツ、韓国やアメリカでは新築の窓の3分の2以上が樹脂窓で、韓国では8割を占めている。アメリカでは半分の州でアルミサッシが禁止されている。アルミは樹脂の1400倍の熱を通してしまうとも言われている。日本でも北海道などでは樹脂窓の普及率が高いということは断熱性が評価されているということだ。私は国内で15回引っ越しを経験し、そのうちの10回はマンション暮らしだったが、10軒のマンションはすべてアルミサッシだった。
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(町田昌弘氏の写真集より)
なぜこんなことになったのか。アルミサッシは3社の寡占状態で、加工もしやすく利益率のすこぶる高い製品だ。住宅ブームの時に各メーカーはアルミサッシの安価なことと耐久性を武器に住宅メーカーに働きかけ、ユーザーは窓のことなど気にせずに家やマンションを購入したということだ。住んでみると夏はアルミサッシは日差しを受けて熱くなり、冬は結露を招いてカビの発生を起こす。気づいた時は既に遅くマンションでは窓は共用部なので自分で取り替えることすらできない。おまけに夏の冷房代、冬の暖房費は跳ね上がる。樹脂窓と比べると室温が夏で2度高く、冬で4度低くなることが報告されている。ここを是正するだけどCO2の発生をかなり抑えられると思うのだが。

日本人は長い間自然に近いところで暮らし、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。」という徒然草の精神が少しは残っているのかもしれない。密閉性を嫌い、開放性を好むのは現在の都会生活では快適とは呼べない。硬質塩化ビニールの樹脂窓の普及と、遮音性と密封性で劣る引き戸でなく開き戸の普及を住宅メーカーと窓メーカーは真剣に考える時期に来ている。

毎年9月26日が近づくと伊勢湾台風を思い出す。昭和34年の15号台風。当時は名古屋市南区に住んでいて小学6年生だった。大型台風が来るというので窓が割れないように前日に自分の部屋の出窓に外から板を何枚も打ち付けた。強風で瓦が飛び窓に当たって割れると、そこから風が入り出口を求めて屋根を破って突き抜けるのが最大の被害だからだ。父親は勤めていた大同製鋼の名古屋港に面している築地工場に台風対策で泊まり込んでいて不在だった。
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夕方に史上最大の勢力で紀伊半島に上陸した15号台風は勢力を保ったまま速度を上げ、愛知県の北方を通過しようとしていた。台風は進路の右側のほうが風が強く危険と言われているうえに、この台風は中心気圧の低さだけでなく直径700キロという暴風域の広さと風速の強さが特徴だった。名古屋は台風に襲われることが多く、以前山崎川近くに住んでいた時には父親におぶわれて工場に何度も家族で避難したことがある。

当日はその父親がいない。マイペースの母親は停電になるかもしれないからと暴風域に入ったのに深夜に入浴を始めた。家の周りは風の音が鳴り響き、建物が揺れている。板は打ってあるものの窓ガラスが内側にしなって今にも割れるように思われた。必至で両手で窓ガラスを押さえ続けた。危険この上ない行為だったがこれしかその時は思いつかなかった。2~3時間押さえていたと思う。

翌朝外に出ると家の塀はすべて倒れ、庭の柳の木は折れ、納屋は飛ばされて前の道に倒れ収めてあった書物やSPレコードが散乱していた。天白川のほうに歩いていくと何軒もの家の屋根に大きな穴が開いていた。担任の山田先生の家もやられていた。いつも乗る鯛取通りのバス停は30センチほど水に浸かっていてバスは通れそうもなかった。小学校は3日間臨時休校となった。
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父親が帰ってきて惨状が明らかになった。高潮と重なって台風15号による浸水がひどく港区、中川区、南区や市の西側のゼロメートル地域は何日も水が引かなかった。わが家の2キロほど近くまで水が来ていた。堤防は崩れ2階まで水が来た地域も多く、市内でも相当数の死者が出た。流れている死体や戸板に乗ったまま流されている老婆、養殖場から流れた鯉や金魚も多く見たと父親は言っていた。名古屋港には貯木場が多く、高潮で海水と共に「暴走木材」と呼ばれた材木が大量に市街地に流れ込み住宅を破壊したことが被害を大きくした。最終的には死者・不明者数は全国で5098人となった。
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その夜我が家には奥さんを台風で亡くした父親の会社の部下の人が泊った。泥だらけだったので母親はなんども風呂のお湯を取り替えていた。次の日は家を流された知り合いの夫婦が寄宿した。飼っていた犬を助けられなかった無念さを一晩中語っていた。3日目からは違う一家が泊りに来た。同じ年頃の男の子がいたので少し遊んだ。あれだけの人が来て、ちいさな氷の冷蔵庫しかなく、商店は開いていなかったはずなのに母親はどうやって食事を作ったのだろうか、記憶にない。3日目位に支援食が届けられ生まれて初めてカンパンというものを食べた。白金カイロくらいの大きさでぼそぼそしていておいしいとは思えなかった。

あれから65年が経った。台風が接近するたびに、伊勢湾台風よりひどい台風は来ないだろうと楽観していたが、今住んでいるところは横浜港まで500メートルくらいの川沿いの埋め立て地だ。地球温暖化で海水温度が上がり続け、65年前と同様なスーパー台風が上陸すると、河川は氾濫し、電力は喪失し、地盤も場所によっては崩落するかもしれない。9月26日を前にして、そんなことを考えながら備忘のために書き留めました。

前回チェルシー、サイコロキャラメルとカールの販売中止(カールは販売地域限定)と復刻版発売について書いたが、昔働いていたガム業界にも復刻版があるので書き残しておこう。

チューインガムは他のカテゴリーに比べると製品の数が少ない。製造メーカーが少ないのと輸入品がほぼ無いことがその理由だ。日本チューインガム協会には20数社が参加していると記憶していたが、今調べたら16社に減っていた。戦後には200社がひしめいていたのだが。当然新製品の数も多くはなく、ロングセラー製品や一時代を築き上げたヒット商品が多い。ロングセラー商品としてはグリーンガム、クールミント、クロレッツ、キシリトールガムや子供向け商品のマルカワのオレンジガムやフィリックスガムなどがある。今は市場から消えてしまったがトライデント、キスミント、フラボノなども一時期市場をリードした。定期的にブームがやってくるフーセンガム市場ではプレイガムのコーラ味のように爆発的に売れて品切れを起こす製品も登場した。

ガムという製品は基本的にはガムベースに甘味料と香料などを加えるだけなので製品のバリエーションに乏しい。子供製品はおまけをつけた玩菓と呼ばれるカテゴリーもあるが、大人向けではユニークなフレーバーや剤型で差をつけるしかない。形状としては板ガム、糖衣ガム、ブロックガムが中心で、かつては粉状のガムやシュレッダー状のガムやキャンディガムも存在した。フレーバーは流行りがあるので数年で廃れてしまうことがある。何年か前にロッテが発売した復刻ガムはその種の製品だった。
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一番古いのはコーヒーガムで次がリグレーをコピーしたジューシィフレッシュだが、梅とブルーベリーも根強いファンを持っていて80年代にはどちらもトップ10にランクインしていた。特にブルーベリーのデビューは鮮烈で、山手線の車内で一人が噛んでいると車両全体にあの臭いが蔓延するくらいだった。ベリー系商品のはしりで私も担当していたキャンディにラズベリー味を追加した。

先月ロッテはイブという香水ガムとクイッククエンチガムの再販売を始めた。1978年発売のクイッククエンチは2年前に続く再復刻だ。イブは1972年の発売だが、ロッテはその前からピンクミントという香水ガムを持っていた。香水ガムは大きなセグメントにはなりそうにないと思ったが、その後もローラ、ロブ、ドナと製品ラインを強化した。どうも重光社長が号令を出したらしい。
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こうした復刻製品が続くということは昔それらの製品を愛用していた世代にはなつかしいし、知らない世代にとってはレトロ感あふれる製品で新鮮に映るのだろう。縮小一本槍だったガム市場が昨年から持ち直していることも背景としてはあるのかもしれない。ただ穿った見方をすれば他の菓子類より新製品開発の余地が少ないガム市場でマーケティングと開発の手詰まり感が見える。砂糖入りガムからシュガレスガムへ、板ガムから糖衣ガムに移行した市場で若いユーザーに一度板ガムの良さを知ってもらいたいとか、新奇素材やフレーバーが見当たらないのでかつてのヒット商品で一時しのぎをしようとしているようにも思われる。こういう時こそ企画や開発の腕の見せ所なんだけどね。
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個人的に復刻版を出してもらいたいと思う廃版製品は、当時一番アメリカのガムという雰囲気を持っていたデンティーンガム、それもシナモン味ですね。ちょっと硬くてニッキの味と香りがが強かった。それとあのパッケージ。懐かしいね。

つい半年前に販売中止を発表した明治のチェルシーが9月3日に北海道限定の土産用商品として復活したというニュースにびっくりした。北海道産の素材を使ったり食感を柔らかくするなどの変更点はあるようだが、半年前に「終売は残念だ」とブログを書いたばかりなので騙されたような気分だ。2024-09-08 (7)
しかしよく考えれば明治という会社はこういうことをする会社なのだ。2017年に50年の歴史を持つカールの東日本での販売を中止し、関西以西だけに商圏を縮小した。10億売れればヒットと言われる業界で、当時60億の売りがあった製品を関東以北だけとはいえ発売を辞めるというのは普通では考えられない。
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それだけではなくかつて販売中止にされたカールうすあじ、カレーがけの2種を2001年に復刻版として販売し、その後も廃版となったピザあじ、バターしょうゆ味、いそあげを再販売している。うすあじなどは3度も復刻された。それ以前にも2016年に90年の歴史を持つサイコロキャラメルを終売にした数か月後に北海道サイコロキャラメルとして北海道限定で販売を始めた。諦めが良い会社なのだか未練がましい会社なのだかよく分からない。
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だから半年前チェルシーの販売中止が発表された時に復刻がありうるのではと疑われ、広報担当は「販売終了は長い時間をかけた苦渋の決断であり、弊社としては今後も新たな価値ある商品を提供していきたい」と答えたのに、今日ニュースを読んで「またか」と思った。

しかし商売としてはおいしいのかもしれない。日本人は限定版に弱いし、お土産だと価格に鈍感になる。かつて100円で売られていたサイコロキャラメルは北海道で248円で売られているし、チェルシーは21粒入りで864円、カールは10袋単位ではあるがネットで200円強で販売されている。先日はカールの工場がある松山市がふるさと納税の返礼品にカールを加えたら、東日本からの申し込みが殺到し、予定数はすぐに捌け、再度再々度の追加もすぐに無くなったとの記事があった。こういうことをもし予測して終売にしたり復刻版を出しているとしたら明治という会社はたいしたものだと思うが。ま、そんなことはあるまいて。

7月の家計調査によると、2人以上世帯の実質消費支出は対前年比で+0.1%と3カ月ぶりのプラスだった。勤労者世帯は今春の賃上げで+5.5%の収入増のはずだから、思ったほど支出は増えてはいない。いろんなものの値段が上がっているから節約志向になることは理解できる。
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日経の記事によると、オリンピックがあったせいでテレビ購入費が+74%、パソコンが+44%、国内パック旅行が+47%と好調だったが、消費支出の3割を占める食料が-1.7%と減少した。牛肉や豚肉の消費が減り、値ごろ感のある鶏肉へのシフトなどが見られるという。これだけ物価が上がると賃上げ分は消えると考えた消費者が節約して将来のために貯蓄に走ったとしてもおかしくない。これでは賃上げで消費を拡大し、企業業績が上がって景気が良くなるという政府のシナリオに狂いが出る。

私は専業主夫なのでモノの値段は大体分かる。最近の食料品の値上がりは常軌を逸している。このひと月に買った生鮮食品以外で前回買った時と比べて値上がりしたものトップ5。
オリーブオイル(Jオイル250g)268円から437円 +63%
米(生協のつや姫5キロ)2538円から3218円 +27%
素麺(揖保乃糸300g)300円から367円 +22%
ボンカレー(レトルト)124円から147円 +19%
明治ミルクチョコレート 105円から122円 +16%

生鮮品も上がっているので、賃金が5.5%上がっても追いつかない。節約しなきゃ、と思うのが普通だ。高齢者の年金も2.8%上がったが、介護保険料、後期高齢者保険料、固定資産税も上がったので実質マイナスだ。節約するか働き続けるかの二択だ。65歳から74歳までの日本人の51.8%が働いていて、これはG7の国の中で最も高い。働き続けることは生きがいにもなるし、経験が人の役にも立つし、健康にも良い。しかし内閣府の調査では65歳以上の8割強が家計が苦しいと答えているので、年金では暮らせないので働かざるを得ないという実情が透けて見える。
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お金に働いてもらう(投資)という手もあるが、最近の株価と為替の激動を見ていると判断力の鈍りつつある高齢者は避けたほうが賢明かもしれない。結局節約しか残された手段はない。ただ節約ばかりしていると残された少ない年月が楽しくなくなる。必要なもの以外のモノは買わないが、せめて毎日食べるものと親しい友人たちとのゴルフだけはなんとか継続したい。

記憶に残っているテレビ番組(9)

子供のころから音楽は洋楽が好きだった。当時はラジオでしか聞くことができなかったが、1959年にフジテレビで「ザ・ヒットパレード」が始まった。アメリカで流行している曲を日本語に訳して日本人が歌うという番組だった。司会ははミッキー・カーチスでバックはスマイリー小原とスカイライナーズ。ザ・ピーナッツやナベプロ三人娘などが出演する渡辺プロダクション主導のテレビ初のヒットパレード番組だった。ナベプロが力を見せつけテレビ界を牛耳り始めた番組でもあった。
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その渡辺プロダクションの前に業界をリードしていたのはマナセプロダクションだ。日本最古のプロダクションで曲直瀬正雄と花子の夫婦が1948年に仙台で起業した。のちにアメリカで活躍するジャズ歌手のナンシー梅木を育て、水原弘や山下敬二郎などを擁していた。その後坂本九、森山加代子、ジェリー藤尾、渡辺トモ子、ダニー飯田とパラダイスキング、九重佑三子らの人気ポップス歌手を抱える最大のプロダクションになった。

ザ・ヒットパレードの後にも「森永スパークショー」など多くの番組を制作していた渡辺プロダクションほどの派手さはなかったが、「明治屋マイマイショー」や「ピアスナインショー」などでマナセプロ所属の歌手たちの活躍の場は多かった。ナベプロとは異なりテレビだけでなく地方でのコンサートも数多く開き、高校生の時に名古屋公会堂で坂本九、森山加代子、パラキン、九重佑三子などのステージを直に見ることができた。
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当時は単独提供番組が多く、番組名の前にスポンサー名が付いた。マイマイショーもオープニングから「明治屋 明治屋 食べ物なら何でも 明治屋 明治屋 飲み物なら何でも」のジングルで始まり、「いつでも一番いいものは 明治屋」で終わった。スタジオにはカウンターがあり番組名の元になっていたマイジュース、マイジャム、マイレモンなどが並んでいたと思う。司会は坂本九で歌有りコント有りの30分番組で2年弱続いた。

こう書くと渡辺プロダクションとマナセプロダクションは競合のようだが、曲直瀬正雄・花子夫妻の長女である美佐がジャズマンの渡辺晋と結婚し設立したのが渡辺プロダクションなのである。松下幸之助の義弟である井植歳男が三洋電機を興したのに何となく似ている。ナベプロの現在の会長と社長は渡辺美佐の長女と次女が務め、マナセプロの社長は美佐の妹である曲直瀬道枝であり、道枝の長男が同業のYU-Mエンターテインメントの代表を務めている。まるでファミリービジネスのようだ。

ナベプロには多くの批判もあったが、両プロダクションが戦後日本の芸能人の地位向上と待遇改善に貢献したことは間違いない。最近は新興勢力に押されて昔日の面影はないがナベプロはまだ多くのタレント、歌手、芸人を抱えて影響力を保持している。一方マナセプロは移籍や独立したタレントが多く、タレントリストで顔と名前が想起できたのは西田ひかるただ一人だった。

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