マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2025年09月

うちの近所のスーパーやコンビニではあまり扱いがないのだがタカキベーカリーのパンは好きなパンのひとつだ。最近のお気に入りは全粒粉入りの6切れフランスパンで、おいしくて妥当な値段(258円)だ。ヨーロッパの伝統的なパンを目標にしているみたいだ。石窯で焼いているらしく石窯パンとの表示がある。オーブントースターで焼くと皮はパリッ、なかはしっとりもちもちしている。
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タカキベーカリーの名を聞いたのは45年くらい前だった。広告代理店に勤務していた時に新規クライアントを獲得するための全社プロジェクトが開始され私にあてがわれたのはタカキベーカリーのチームだった。その時は社名も知らず「なんで広島のパン屋」を狙わなければならないのか分からなかった。

タカキベーカリーは被爆からちょうど3年目の1948年8月に広島市で誕生した。製パン業に加えて1967年にレストラン併設の広島アンデルセンを、1970年に青山アンデルセンを開店し、1972年には特許取得した冷凍パンの製法を利用してフランチャイズ店舗のリトルマーメイドの展開を開始した。2002年にはアンデルセングループを名乗り、タカキベーカリーは持ち株会社のひとつとなった。プロジェクトに参加した時には既に青山アンデルセンは開店しており私も大学生の時にデートで一度食事をしたことがあったのだが、タカキベーカリーが経営しているとは知らなかった。当時は知名率も低かったがいくらなんでも不勉強で、当然新規クライアントを獲得することはできなかった。
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社名のアンデルセンはデンマークの童話作家に由来する。創業者の高木俊介が1959年にコペンハーゲンで食べたデニッシュペストリーに感銘を受けて以来デンマークをお手本としてきた。デニッシュハートというデニッシュペストリーも発売しているし、リンゴやブドウなどを栽培する農場は「アンデルセンファーム」と名付けられている。それらの縁で1981年にデンマーク女王が来日した際に広島アンデルセンを訪問された。当時のメディアの反応は「なぜ広島に?」と言う感じだった。まだタカキベーカリーの認知は低かった。その後も1987年にはデンマーク皇太子が、2011年には第二王子が広島アンデルセンや青山アンデルセンを訪れている。高木俊介は1984年にデンマーク王国から騎士勲章を授けられ1986年には名誉領事に任命されている。

パンは良心的に作られていておいしく安心して食べられる。アンデルセンはデンマーク王国との関係だけでなく同国に出店もしているし(他に香港などにも)、冷凍パンの開発、「アンデルセンのメルヘン大賞」の設立など地方の私企業としては活発でユニークな事業展開をしている。また今では普通にみられるトングとプレート使用のパン屋のセルフチョイス方式を初めて採用したのも広島アンデルセンだ。関東ではアンデルセンやリトルマーメイドの名前は十分知られるようになったが、タカキベーカリーの浸透度はイマイチだ。先日近所のデパ地下のアンデルセンでバゲットを買った時に「ここは広島のタカキベーカリーですよね?」と言ったら、店員さんがすごくうれしそうな顔をしたのが印象的だった。

そんなに余裕があるとは言えないが何とか金銭的な心配が少ない年金生活を過ごせている。ただ財政的に逼迫状態だった時期は何度か経験した。歳をとってからの逼迫期は投資の失敗が理由なので反省・納得せざるを得ない。しんどかったのは社会人になった頃と結婚してからの数年だった。

私が社会に出たのは1974年だった。前年に第一次オイルショックが起き、経済成長率は5.1%から戦後初めてのマイナス成長に陥落し、トイレットペーパーの奪い合いがあった時期だった。消費者物価指数は24%も上昇し「狂乱物価」と呼ばれた。入社した広告代理店の仕事は面白かったが給料は安かった。忙しい部署で連日の残業で残業代が基本給に近づくことも時々あった。入社した年に従業員からこれでは物価上昇に追いつかず生活できないと不満が出て労働組合が結成された。翌年の春闘では30%を超える昇給を勝ち取った。これで暮らしていけると思った。

その年に結婚した。ボロアパートから高円寺の1DKのマンションに引っ越した。家賃は数倍になったので生活は楽ではなかった。それでも商売(倒産経験もある)をしていた家で育った家内は「毎月決まった額が決まった日に入るのは楽だわ」と気にする風もなかった。私が職場のマージャンで大負けして家に入れる額が減ったりすると大変だった。結婚した頃は自分の貯金を取り崩して料理学校に通ったり洒落た食材を買っていたが、だんだん貧乏サラリーマンの食卓になり、夕食のメニューがカレーとか大葉のパスタとかシンプルになった。帰りが遅いので深い時間に食べることが多かったし、独身時代に比べれば食事の質に問題などなかった。20年後くらいに「あの時はほんとにお金がなくて一番安くできるのがあのパスタだったのよ」と言われた。昼飯も下のパン屋でジャムパンを一個買って済ませていたようだ。

お嬢様育ちだったらしい家内は世間一般の社会常識や交渉能力に欠けているところがあった。あの頃は珍しくもなかったが、コンドームを売りに来る女性営業がいた。一種の押し売りだ。一度にグロス(12ダース)を1万数千円で売りつけるのだ。何度も断るのだが引き下がらない。最後に「今うちには2千円しかなくてこれであと2週間暮らさなくてはならないのです。どうしたらいいでしょうか」と言ったら呆れて帰って行ったそうだ。ある時は新聞の集金人が来たが「手持ちがない」と言っても納得しない。脅されたと恐怖を感じた家内は私のコレクションからオリンピック硬貨を引っ張り出してそれで払った。帰宅してその話を聞いてとんでもなく高い新聞料金に呆れ怒りもしたが終わったことは仕方ない。コイン収集はそこで止めた。

一番こたえたのは家に帰ったら「もうお米がありません」と言われた時だ。そんな台詞は戦後のドラマの中だけだろうと思っていたことが我が家で起きたのだ。あわてて親父からもらったロレックスを持って近所の質屋に駆け込んだ。学生時代から何度もこのロレックスには世話になった。結婚してからの数年間もけっこうな頻度で出番があった。後の返済が大変になるので借りるのはいつも1万円だった。そのロレックスは、もう時計など必要なくなった定年後に売り払った。

この程度の貧乏話は珍しくもないだろう。苦労したとあまり思わなかったのは、楽天家で金銭に関して拘泥しない家内に助けられた面もあるし、日本経済が右肩上がりで将来は明るいと皆が思っていた時期だったのも幸いした。現にその後の10年間は、転職したせいもあるが、給料が毎年二桁上がって生活は少しは楽になり子供を育てることもできた。今の若い人たちと比べることはできないが、時代に恵まれていたと本当に思う。競争相手が多い団塊世代に生まれ、損をしたと思ったこともあるが、今考えれば日本経済がまだ成長している時期に会社員としてのピーク時を迎えられたことは幸運だった。「団塊世代は最後の食い逃げ世代だ」とよく言われたが、今となってはその謗りを甘んじて受けたいと思う。

最近のゴールデンタイムはバラエティ番組だらけだが、昭和時代にはホームドラマが数多く放映されていた。テレビ放送開始後は「うちのママは世界一」や「パパは何でも知っている」などのアメリカの中産階級家庭を舞台にしたホームドラマが多かったが、その後は国産ホームドラマが盛隆となった。

その先駆けとなったのが「パパは何でも知っている」をモデルとした「ママちょっと来て」で1959年から4年間放映された。母親役は乙羽信子で、宝塚のお嬢様女優からしっかり者の母親へ見事に転身し、その後も「肝っ玉母さん(第3シリーズ)」など多くの母親役を演じた。当時は俳優というのは一種特殊な職業で今のように簡単にはなれなかったのと、五社協定があり他の映画会社だけでなくテレビ出演にも制約があったため、映画会社に所属しない宝塚出身者の出番は多かった。乙羽信子以外にも轟夕起子、淡島千景、八千草薫、月丘夢路、有馬稲子、新珠三千代などが宝塚出身でテレビで活躍していた。(左が乙羽信子、右が八千草薫)
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当時は多くのホームドラマが制作され、加藤治子、山岡久乃、京塚昌子、森光子は「日本のお母さん」女優と呼ばれていた。加藤治子は「七人の孫」や「寺内貫太郎一家」などでおっとりしているがテキパキと一家を仕切る品の良い母親を演じていた。山岡久乃はしっかり母さん的存在で「みんなで7人」「三男三女婿一匹」が代表作。京塚昌子は「ありがとう」「肝っ玉かあさん」で恰幅が良く割烹着が似合う母親役が記憶に残る。森光子は「時間ですよ」シリーズなどのチャキチャキ母さんが印象深い。(下は加藤治子と山岡久乃)
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あの頃は他にも沢村貞子、奈良岡朋子、荒木道子、池内淳子、杉村春子、三宅邦子、賀原夏子などの女優が母親役をよく演じていた。今思うと母親役には加藤治子、三宅邦子、荒木道子、轟夕起子などが演じるおっとり母さんと、森光子、沢村貞子、乙羽信子、奈良岡邦子などのキビキビ母さんの2種類がいた。

また母親の忙しさを強調するためだろうかやたら大家族が多かった。「七人の孫」「マンモス家族」「ただいま11人」「大家族」「三男三女婿一匹」などのタイトルを見るだけで大家族での母親の大変さが想像できる。確かに当時は大家族がまだ多かった時代だ。2025年現在ひと家族の構成人員は2.2人だが、1953年は5.0人だった。子供が5人いる世帯も珍しくはなく「七人の孫」のようにお手伝いさんがいる家庭も結構あった。

今では結婚しない単身者世帯も多く、老人の一人暮らしも激増している。昭和初期のような大家族とあの人間関係は若い人には受けないのだろう。ホームドラマはめっきり少なくなってしまった。それにここに名前を挙げた女優も有馬稲子一人を除いて全員他界してしまった。昭和は遠くなりにけり。

子供のころ住んでいた名古屋ではしょっちゅう赤福のコマーシャルが流れていた。「伊勢の名物赤福も~ちっ」と唄っていたのは藤田まことと記憶している。ただ赤福を食べる機会はそんなになかった。地元の人はお参りは熱田神宮に行くので伊勢まで出かける人は少なかったし、まだ名古屋駅の売店で売っていなかったような気がする。
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最初に食べたのがいつだったかは覚えていないが、あんこのまろやかさと品の良い甘さは印象的だった。ヘラですくって食べるのも気に入った。ひと箱全部食べたいくらいだったが家族で分けると一人3個くらいだった。翌日までとっておくと餅が堅くなって少し食感が変わるのが残念だった。

赤福は伊勢神宮の近所で売られ始めて300年以上が経つ伊勢を代表する銘菓、いや三重県を代表する名物かもしれない。創業は宝永4年(1707年)だから富士山が噴火して宝永山ができた年だ。赤福以外に三重の名産品には松阪牛と御木本真珠、桑名のしぐれ蛤くらいしか思い出せるものない。真珠と牛肉は高価なので手ごろなお土産としては貝新の志ぐれ煮か赤福餅しかないのではなかろうか。父親は出張で時々三重に行ったのだが、おみやげは赤福ではなく大抵は貝新のあさりの志ぐれ煮だった。個人的にはあさりよりしじみ煮の方が好きで今でも時々買う。貧乏性なんだろうな。
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東京に来てから赤福のことは忘れていた。赤福を買うようになったのは菓子の仕事をするようになってからだ。会社のチューインガム工場が名古屋にあり、キャンディの製造を依頼していた名糖産業もその近所だったので、当時担当していたホールズや開発中だったクロレッツの打ち合わせのため毎月のように名古屋出張があった。たまにはお土産をと思って駅の売店を覗くのだが昔から知っている納屋橋饅頭やきよめ餅は存在感がなくなって見知らぬ菓子ばかりになっていた。ただ赤福だけがいつも一等席に陳列されていた。名古屋名物ではないけどおいしくて安いので懐かしくて手に取った。8個入りが500円か600円だったと思う。

その頃には新幹線の他の駅でも売られていたし、社内販売でも扱われていたように記憶している。赤福は1960年代から積極的な拡大政策をとっていたし、1975年にフジテレビが「赤福のれん」という9代目主人の浜田ますをモデルにした連続ドラマを十朱幸代主演でオンエアし人気を博したことも影響していたのかもしれない。

しかしこの拡大政策が裏目に出て大量生産された赤福餅を賞味期限内に売りきることが困難になる。2000年代に入ると製造日と消費期限の偽造、冷凍製品の販売、売れ残り製品の再利用問題が発覚し、駅売店や百貨店での販売自粛や本店の臨時休業などが発生した。その後も元社長が経営する関連企業が暴力団との関係を報じられるなど不祥事が相次いだ。

最近やっと落ち着いた感じの赤福だが、8個入りの価格も2004年に720円に上げてから、760円(2016年)、800円(2022年)、900円(2023年)とこの10年で3回の価格改定だ。ヘラも木製から紙製へと変更するなど昔からのファンが失望しているのかもしれない。ネット上ではサイズが小さくなった、あんが甘くなった、食べるたびに味が違うなどのコメントが目立つ。可愛さ余って憎さ百倍的状態かもしれない。
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赤福は企業として売り上げ的にはほぼ単品経営なのだが、季節商品をいくつか持っている。今月は夏季限定の「赤福水ようかん」が企画販売されたので高島屋で予約して手に入れた。初めて食べたのだがなんとなく赤福のあんこを感じるし寒天分が少なめで食感はともかく餡の味が前面に出るのは好ましいい。ただ水ようかんの製造はデリケートでちょっとでも配合を誤ると固まらなかったり、硬くて水ようかんぽくなかったりする。赤福の水ようかんもまだ改良の余地は十分にある。でもその前に赤福餅の品質の安定化が先ではないかと思っている。

1971年7月20日三越の銀座通りに面した一角にマクドナルドの上陸第一号店がオープンした。その2か月前に大学を処分された私は銀座まで出かける元気もなかったが、テレビニュースでその騒動を見ていた。ハンバーガーを買うために長蛇の列ができ、メディアも多数集まり、周辺ではピエロが開店チラシを配っていた。
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ハンバーガーがどんなものかはみんなうっすら知ってはいたが、味にうるさい日本人の口に合うのかと訝しがる人も多かった。しかし一号店が日本の中心地である銀座のど真ん中だったこと、前年から銀座で歩行者天国が開始されていたこと、日本経済が高度成長期の真っ最中で沸き立っていたこと、などが重なり連日の大混雑だった。

当時の値段はハンバーガー1個が80円だった。マックフライは70円とちょっと割高で、コーヒー/コーラ/ファンタは50円だった。学食のカツ丼やカレーライスが70円、近所の洋食屋の定食が200円だった頃だ。私には値段よりも店内の見えるところでパテを焼き、ポテトを揚げてすぐその場で客に出すという見せるプロセスが新鮮だった。32秒で焼き上げるスピードもそうだが、売れ残ったハンバーガーは10分で、ポテトは7分で廃棄処分するというのが驚きだった。アメリカ式のマニュアル通りと言えばそうなのだが、「え、捨てちゃうの、もったいない」と皆が思った。

子供たちは給食でパンに慣れていてハンバーガーに抵抗がなかったこと、喫茶店入店を禁止する中学・高校は多かったがハンバーガーショップは禁止対象でなかったこと、外食と言えば寿司屋やレストラン中心で亭主がいないと行きにくかったがマクドナルドなら主婦も入りやすかったためハンバーガーは広い客層に受け入れられ一気に外食市場に入り込んだ。200円でおつりがくる値段も魅力だった。一号店には客席がなかったため、路上でハンバーガーを食べる若者が溢れ、それまでの立って食べる、歩きながら食べるというタブーをもいとも簡単に打ち砕いてしまった。

2年後の1973年からはテレビ広告を開始した。「味なことやるマクドナルド」のCMソングが首都圏に大量に流され、知名度が急上昇した。東京の後は京都、大阪、地方都市にチェーン店を展開し5年後の1976年には100店を突破した。その後1993年に1000店を、1996年に2000店を、1999年に3000店を記録した後現在もその数を維持している。
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昨年末に従業員101人以上の企業に対し女性管理職比率の公表を義務付ける方針が発表された。厚労省のデータによると我が国の管理職(課長職以上)に占める女性比率は11.6%だとのこと。管理職8人に一人が女性だということだ。これは多いのか少ないのか。企業労働者の44.7%が女性であることは世界平均と大差はないので、フィリピンの53%、スウェーデンの43%など多くの国で女性管理職が30%を超えている事実と比べると我が国の11.6%は最低クラスである。なぜ日本はこんなに低いのか。
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この11.6%は全産業の平均値で、医療や福祉や教育、金融保険業界ではそれより高い。看護師やケアマネジャー、教師や保険業には女性が多いから管理職が多くても当然だろう。逆に拠点を地方に持つことが多い製造メーカーでは一般的に女性管理職が少ない。メーカーでも資生堂やロレアルのように5割を超える比率の会社もあり、化粧品のように女性社員の多い会社が女性管理職の比率が高い(資生堂は80%、ロレアルは60%が女性社員)。でもこれは他の国に比べて低い理由の説明にはならない。

同じく厚労省のデータを見ると課長以上の管理職がいる企業は2023年時点で54.2%で(赤の点線)ほぼ横ばいで推移している。言い換えると約46%の会社には課長以上の女性はいないということだ。これが日本の女性管理職比率を押し下げている要因だろう。
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ではなぜ半数近くの会社には女性管理職がいないのか。パーソル総合研究所の調査データによると女性の活躍推進を阻害している課題として①女性の昇進意欲がない②十分な経験を持った女性が不足している③登用要件を満たせる女性が少ない④優秀な女性が十分に採用できない⑤企業全体の風土が男性中心になっているが挙げられている。冗談ではない。800人の回答者は経営層と人事担当層が各400とあるが、彼らは自分たちの責任を全く感じていない。明記されてはいなかったが多分800人のほとんどは男性だと思われる。五つの理由はすべて会社の責任であり女性社員の責任ではない。
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優秀な女性を採用できないから才能に相応しい経験を十分に積ませる機会が少なくなるし、登用要件を満たせる人材が生まれにくい。男性中心の会社だから「ガラスの天井」が意識され女性の昇進意欲が上がらない。これらは会社の組織として解決すべき大問題である。経営層や人事部がこんなことにも気が付かずに女性社員のキャリアを考えているとしたらそんな会社に未来はない。世の中には男性社員と女性社員しかいないのだ。

私が新卒で入社した会社の配属先の部長は女性だった。14人の部で14の机が長い島を作っていた。一番向こうに手動のタイプライターを叩いている中年の女性がいた。どこの会社にもこういう定年間際の女性がいるんだな、と思っていたら直属上司から「あそこにいるのが部長だ」と言われてびっくりした。(今思うと彼女はまだ30代だった。大人に見えた)。役員の秘書として採用され仕事を憶えていくうちに、上司が長期出張で不在中でも業務を滞らせることなく処理するようになり、秘書ではもったいないと会社の花形部門の長に選ばれたらしい。
父親が商船会社勤務で世界中を転々とし確か大学も正式には卒業はしていないと聞いた。判断力と決断力に優れ、人の長所を伸ばすことに長けていた。新入社員の自分が電話で得意先の依頼に困惑していると、「その依頼断りなさい。何か言ってきたら部長の承認を貰っていますと伝えなさい」とすぐアドバイスが飛んでくる。毎晩遅くまで全員が働く部署だったが、みんな自分たちがこの会社を廻しているという気概で働いていた。そういうふうに思わせる雰囲気を作り出すのも彼女の才能の一つだった。時々は彼女も含めた残業後の飲み会もあった。転職を繰り返し何人もの上司に出会ったが、最上のボスだったし自分の管理職像のロールモデルになった人だった。

だから私はその後の会社勤務でも男だからとか、女だからという発想はしないようになった。人はみな強みと弱みを持っている。それを見極め強いところをさらに強化するような業務や仕事のしかたをさせることが良い上司の条件だと思う。弱点を矯正するのは時間と痛みを伴う。褒めて育てる。そういうふうにしていると男とか女だからなんて気にしなくなるのだけれどね。

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