マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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2025年10月

消費財メーカーのマーケティング部門に転職してブランド担当となった時は自分のキャリアパスなんか考えていなかった。面白そうな仕事だと思っていたしそれまでの代理店での経験がある程度は使えるだろうくらいに考えていた。英語では苦労したが製造現場や営業活動など新鮮な発見がたくさんあった。

その頃は小さなマーケティング組織でマーケティング・ディレクターの下にプロマネは私を入れて4人だった。私以外の3人は全員アメリカの大学を卒業していて、かつ2人はMBAホルダーだった。後で気付くのだが彼らは明確なキャリアパスを持っているようだった。当時でも私費で留学すれば1000万円はかかったはずだ。帰国後にその投資を回収すべく給料の高い外資のマーケティングに職を得て上位のポジションに上がることを考えるのは当然だ。そのために転職を繰り返すこともいとわない。単純に仕事が面白そうだからと考えていた私とは将来設計が違った。

一般的にマーケティング職、特にブランド担当の職位は下から順番にあげると次のようになる。

アシスタント・プロダクトマネジャー
プロダクトマネジャー
シニア・プロダクトマネジャー
カテゴリー・マネジャー
マーケティング・ディレクター
事業部長
ゼネラル・マネジャー
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最初のアシスタント・PMはジュニア・PMと呼ぶ会社もある。私がいた会社はプロダクト・スーパーバイザーと呼んでいた。若い新人や営業から異動してきた社員は大抵ここから始める。小さなブランドを担当するか大ブランドのプロマネの補助をしながら経験を積んでPMになる。
MBA保有者はプロダクトマネジャーから始めることが多い。ケーススタディを数多くこなし知識と疑似体験が評価されるからだ。アメリカなどでは大学を出てアシスタントPMを経験してから大学院に行きMBAをとってプロマネとして働き始めるマーケターが多い。出身校によって待遇が変わることが多く、私がいた会社のひとつではMBAのトップ10校出身者は1000万、それ以外は800万と初任給に差をつけていた。

その上にはシニア・プロダクトマネジャー職を置く会社もあるが、多くの会社ではカテゴリー・マネジャーという商品群を束ねるポジションがある。その下に数人のプロダクトマネジャーが属する。
そして数人のカテゴリー・マネジャーを統括するのがマーケティング・ディレクターで日本語ではマーケティング部長と訳されることが多い。カテゴリー・マネジャーだけでなく調査部門や、新製品担当グループがある場合はそれらのグループもマーケティング・ディレクター傘下となることがほとんどだ。

その上には事業部長が位置し、マーケティングだけでなく営業部門、製造、品質管理、お客様相談室なども管轄範囲となる。取締役又は執行役員であることが多い。
そして最上位にはゼネラルマネージャー。CEOとか代表取締役社長のタイトルの会社も多い。マーケティング部門からだけ昇格するわけではないが、外資系ではマーケ出身者の比率が高い。いま思いつくくだけでもネスレ日本の高岡浩三氏、コカ・コーラと資生堂で社長だった魚谷正彦氏、ユニバーサルスタジオから刀の森岡毅氏、リーバイスとトリンプで社長を務めた土居健人氏などがいる。高岡氏はネスレ一筋だったが、他の3人は数社の転職を経て上まで上り詰めた。外資系では転職派が主流だが、どちらが良いのか今の私には分からない。

先日かつての直属上司の娘さんから上司が半年前に亡くなったと連絡が入った。驚きと悲しみに襲われたが、なぜ半年たってから知らせが届いたのかちょっと不思議だった。2年前に一緒にゴルフをしたのが最後だったが、その時は通常と変わらぬ様子に見えた。お世話になったので少なくとも告別式には参加したかった。

その後のメールでの連絡で半年もかかった理由が明らかになった。上司はゴルフ会の後に癌で入院したのだが自分のPCのパスワードを忘れてしまい、家族にも知らせることができないまま亡くなってしまった。メールアドレスも、住所情報(年賀状ソフト)もすべてパソコンに入っているので、本人のPCに入れないと連絡をとる術がない。入院中に連絡があった人には闘病中であることは知らせたが「口外無用に」と告げられたので亡くなったことも分からなかったらしい。たまたま娘さんの上司が私のかつての仕事仲間だったことが判明したため私に連絡が入り、ゴルフ仲間や同僚に知らせてほしい旨の依頼があった。

私も10年くらい前から終活に取り組んでいる。レコードやDVDは、書籍はオークションに出し、残しておきたい写真はデジタル化し、その他の写真や手紙は処分し、銀行口座やカードは最低限まで減らした。遺言ではないがエンディングノートも書き、私の死後に家内がしなければいけない手続きやパソコンのパスワードは書き留めてある。私の上司は私より完璧主義者だったのでそのくらいのことはしてあったと思う。しかし記憶力が衰えたり軽度でも認知症になったりすればパスワードを憶えるのは至難の業だ。かつ最近は情報漏洩を避けるためパスワードを使いまわすな、頻繁に変更しろとメッセージが届く。時々変更はするがそれを憶えておくのは老人には結構大変だ。一応メモは取ってあるが変えるたびにエンディングノートを書き換えるのはもっと面倒だ。

最近は高齢者でもほとんどがスマホを持ち、半数がPCを使っている。かつて紙で記録していたデータはPCやスマホの中にある。家族の誰かが亡くなると残された者は銀行口座の凍結対応やクレジットカードの処分や引き落とし口座の変更など時間のかかる面倒な作業が多い。でもそれらは銀行やクレジット会社のサポートが期待できる。しかし故人のパソコンやスマホに残されたデータや情報を取り出すのは誰も助けてくれない。本来パスワードは本人しか知らないものだ。本人がしっかり管理し、万一の時のために家族が分るようにしておかないと連絡しようにも何もできなくなる。ネット証券を利用している人は特に注意が必要だ。家族は利用していることを知らないかもしれないし、口座番号やパスワードが分からないと遺産相続にも影響する。
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まず高齢者がすべきことは家族が知っておいたほうが良いデータの一覧表を作る。それらが紙の上に残されているのか、PCまたはスマホに入っているのかを明示する。紙であれば保管場所、デジタルデータであればどのPCまたはスマホに入っているのか、その機器ごとののパスワード、PINコード、ロック解除パターンとなんという名前のファイルに保管されているかをプリントアウトして残すこと。銀行なら担当者の名前と使っているハンコも書いておくとよい。私もエンディングノートはワードで作っているので毎回パスワードを変えるたびにプリントアウトして自分の机の引き出しに入れる。ここなら見つけやすいだろうと思う。最後にちょっとした感謝の言葉が添えてあればなお良いね。

うすむらさきの藤棚の 下で歌った アベマリア
澄んだひとみが 美しく なぜか 心に残ってる
君はやさしい 君はやさしい 女学生

詰襟の学生服を着た歌手が歌っていた。高音で優しい歌い方だった。髪型も顔も自分にそっくりでちょっとびっくりした。安達明と言う歌手だった。
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安達明。1948年生まれだから私のひとつ下だ。1962年にTBSの「10人抜きのど自慢」で初代チャンピオンになりジャニー喜多川にスカウトされる。1964年にジュニア小説「潮風を待つ少女」のイメージソングである同名曲でデビュー。2曲目がこの「女学生」だった。所属する日本コロンビアは舟木一夫の弟分として位置付けて売り込みをかけた。舟木が「高校三年生」を学生服で歌ったように、安達もこの曲の時は学生服だった。「女学生」は大ヒットし当時の歌番組の常連歌手となった。性格もやさしそうで女学生の間でアイドル的な人気があった。

しかしヒットと呼べるのはこの一曲だけで、1967年までに13枚のシングルを発表したが、68年に突然引退を発表した。いわゆる一発屋に近いのかもしれない。ただほとんどの一発屋が次の一発が出ることに淡い期待をかけてしぶとく粘るのと違いあっさりしたきれいな引き際だった。私の世代にとっては記憶に残る一曲でブログに思い出を書く人もいれば、ラジオでリクエストをする人もいまだにいる。たいていのカラオケには「女学生」が入っている。

引退後は銀座のスナックなどで弾き語りを生業としていたというから歌うことが好きだったのだろうと思う。2011年に63歳で他界したことを埼玉でレストランを経営されているご子息がSNSで報告されると、多くのメッセージが寄せられいまだに人気があることが判明した。レストランにはファンが訪れ、イベントも開かれ、墓石には「女学生」の歌詞が刻まれた。熱心なファンによる安達明を偲ぶ懇親会が2度も開かれた。ネットでのファンとのやり取りを知った日本コロンビアは急遽追悼盤CD「安達明ゴールデン☆ベスト」の発売を決めた。
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その後もファンの間では3回忌、7回忌も執り行われ、毎年ファンの集いも開かれている。ヒットは一曲だったが数十年経っても、歌い手が亡くなって、もかつての聴き手の心に、記憶に長く残るのだから音楽の力はすごい。彼の場合は人柄の良さもそれらを補強しているんだろうなあ。そうだ、実家の庭には藤棚があったことを思い出した。合掌。

子供のころ聞いていたのはアメリカやイギリスのヒット曲を日本語でカバーするポップスばかりだった。テレビの歌番組でもニールセダカやポールアンカの曲を多くの日本人歌手が歌っていた。そんな頃(1962年)アメリカンポップスとは少し肌合いが異なる曲が流れてきた。全英で4週間ナンバーワンを記録したジョン・レイトンの「Johnny Remember Me」の日本語版だった。邦題は「霧の中のジョニー」。女性コーラスの"Johnny Remember Me"のフレーズが耳に残っている。歌っていたのは克美しげるだ。張りのある中低音で声量もあるうまい歌手だと思った。これは彼のデビュー曲で40万枚売れた。
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その時は歌手としてはそれほど印象には残らなかったが、半年後の3枚目のシングル「片目のジャック」が個人的には刺さった。カントリーっぽいメロディだった。当時の克美はスポーツ刈りでいかにも田舎から出てきましたという風情だった。その風貌には「霧の中のジョニー」より「片目のジャック」の方が曲調も歌詞も合っていたのだと思う。その後は「忘られぬジョニー」とか「霧の中のロンリー・シティー」と柳の下の二匹目を狙うようなタイトル曲を出していたが、1964年にテレビアニメの主題歌「エイトマン」と歌謡曲路線に転じた「さすらい」が大ヒットし2年連続で紅白歌合戦にも出場した。この2曲は彼の代表曲となり専属バンドを抱えるようにもなった。
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60年代後半は大ヒットには恵まれなかったが毎年シングルを4~8枚出す順調さだった。しかし70年代に入ると人気に陰りが出始める。レコードの発売ペースも落ち、それをなんとか盛り返そうと音楽関係者を接待するなどしたため巨額の借金ができた。その借金を付き合っていた銀座のホステスに貢がせて完済した。その後もギャンブルでの借金を愛人の金で清算するなどしていたが、克美が妻帯者だと知ったホステスに結婚を求められる。

その頃所属するレコード会社は克美を復活させる企画を立て克美は1976年に再デビューを果たす。レコードの売り上げも悪くなかったが、愛人が顛末をメディアに暴露し再デビューが不成功になることを恐れた克美は彼女を絞殺してしまう。この時は新聞で事件を知って「あの克実しげるが」と驚いたことをいまだに憶えている。

裁判で10年の実刑判決を受けたが模範囚だったので7年後に仮出所が認められた。出所後はカラオケ教室を開くなどして生計を立てていた。離婚と結婚を繰り返し、1996年に4度目の結婚をする。以後は時々はテレビ番組に出てかつてのヒット曲を歌ったり、2008年には30年ぶりにコンサートを行ったが、2013年に脳出血により他界。

激動の人生だった。テレビで見る限りは腰が低く朴訥で誠実そうな性格を持つ一面、自己中心で身勝手という弱さを持った人間だったのだろうと思う。出所後のライブではデビュー曲もきっと歌ったはずだ。最後のパートをどんな気持ちで歌ったのだろうか。「霧の中のジョニー」は確かこの歌詞で終わっていた。

僕は決して忘れはしない 死んだあの娘の 最期の言葉を
Johnny Remember Me

10月に入りやっと秋らしくなった。しかし今年の夏も記録的な暑さだった。過去最高だった2023年と2024年を上回る暑さだったと気象庁が発表した。6~8月の平均気温は平年(1991年から2020年までの30年間の平均)より2.36度高かったそうだ。ダブル高気圧が日本上空を覆っていたこと、梅雨明けが早かったこと、海水温度の上昇が主な原因らしい。暑いわけだ。これでは後期高齢者は夏バテするはずだ。

9月に入って多少涼しくなったものの真夏日を記録する日が多かった。6~9月の東京都心の真夏日数は88回で90回と最高だった2023年に次ぐ日数だった。わが家も契約電力会社からメールで送られてくる「明日の節電タイム」に協力しながら節電には務めたが、我慢できずにエアコンを入れたことが何度もあった。下のグラフでもわかるように最高気温も高かったが、最低気温が平年より高かったことが睡眠に影響して老人には辛かった。(下図は萩原雅之氏作成のものを借用)
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この夏は北海道でも39度を記録するなど全国的に異常な暑さで、8月5日には群馬県の伊勢崎市で日本最高値となる41.8度を記録した。小学校の時に習った日本の最高気温は1933年の山形の40.8度で、40度など想像もできないと当時は思った。その記録は2007年に岐阜の多治見で記録された40.9度に74年ぶりに破られたのだが、ここ数年間は毎年のように最高気温が更新されている。いったい日本の温度はどこまで上がり続けるのだろうか。
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今年の暑さはダブル高気圧や極端に早かった梅雨明けなど例年にない要素もあった。これらは日本だけの理由だ。しかし化石燃料使用による温室効果ガスの増加が起こす気温上昇、それによって北極海の氷面積が減り太陽光の反射量減少による気温上昇、海面温度の上昇が引き起こす気温上昇は世界的な現象で日本だけでは何もできない。政府はは2035年までに2013年比で60%削減するとの目標を国連に提出した。EUは2040年までに1990年比で温暖化ガスを90%削減すると提案したし、中国も2035年までに温暖化ガスの排出量をピークの7~10%削減すると先月発表した。

パリ協定では各国は2050年までに温室効果ガスをゼロにすることを表明している。目標は立派だがトランプ政権が消極的なのと、最大排出国の中国の目標が控えめすぎること、わが国の削減への具体策が見えないことは懸念材料だ。国連で25%削減を国際公約として発表し、3年後に(大震災があったとはいえ)撤回された鳩山イニシアティブの再現にならねば良いのだが。多分老人は死ぬまでこの夏の暑さにいじめられるのだろうなあ。

ヒット曲もあり、人気もあったのに事件を起こし消えてしまったり目に触れる機会が激減した歌手が何人もいる。まず思い出すのが荒木一郎だ。
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荒木一郎は新劇俳優として舞台で活躍した後1950年代から80年代まで多くの映画やテレビドラマに出演した荒木道子を母に持つ歌手であり俳優だ。俳優としてスタートしたが作詞作曲もこなし、1966年にDJを務めたラジオ番組「星に唄おう」のテーマ曲「空に星があるように」を作詞作曲し歌手デビューを果たす。

空に星があるように 浜辺に砂があるように 僕の心に たったひとつの 小さな夢がありました

抒情的なつぶやくように唄うバラードだった。豊かな感受性と繊細な感性を感じさせる曲だった。「星に唄おう」は当時住んでいた名古屋の東海ラジオの番組だったのでよくラジオで流れていたし、テレビの歌番組にも出演して唄っていた。その前年からグループサウンズブームが始まり、ザ・スパイダーズやブルーコメッツなどがヒットを飛ばし音楽番組はGS一色だったのでこうしたバラードはかえって目立ち、レコードは60万枚以上売れて同年のレコード大賞の新人賞を獲得した。この年には映画「893愚連隊」で新人男優賞も受賞している。
翌67年にはそれまでの曲調とは全く異なるグループサウンズ調の「いとしのマックス」が5枚目のシングルとしてリリースされた。アコースティックギターを抱えバックバンドのマグマックス・ファイブを率いて軽快に唄った。

真っ赤なドレスを君に 作ってあげたい君に 愛しているんだよ 素敵な君だけを
ヘイヘイ マックス Want you be my LOVE そして君と踊ろう

この曲はデビュー曲を上回る125万枚のミリオンセラーとなり同年の紅白歌合戦にも出演した。映画にも毎年数本出演し、この勢いで当分人気は上がり続けるだろうと誰もが思った。ところが1969年に女優希望の女子高生に対する猥褻行為で訴えられ、不起訴にはなったもののメディアに叩かれて謹慎生活に入り芸能活動は中断された。確か新聞記事ではカメラテストをすると自宅に招いて犯行に及んだと記憶している。その後は映画出演などは継続されていたが、今度は1977年にはクラブ歌手からレッスン中に性的ないたずらを受けたと訴えられた。損害賠償を請求され非を認めて謝罪をしたものの納得しない相手と婚約者が荒木に暴力をふるい、荒木が告訴して二人が暴力容疑で逮捕されるという事態に至った。

この事件の影響のせいか1980年代からは活動を大幅に減らしているがシンガーソングライターや文筆業の仕事は継続されている。沢田研二や原田芳雄などの歌手への歌詞や楽曲の提供や、桃井かおりのマネジャーを務めたこともある。マジック評論家としても活躍し著書も出している。自伝小説の執筆や2016年にはデビュー50周年コンサートの開催もした現在81歳のマルチタレントは表舞台から少し下がったところでその存在感をいまだに保持している。

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