今年の防災の日はその名の発祥となった関東大震災の100周年でもあった。9.11も3.11もそうだったが、一つの事件や出来事が社会を大きく変えることがある。関東大震災前後で変わったこと三題。(写真は震災後の日本橋付近)
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全国紙新聞
震災前の東京市内の新聞発行部数上位紙は、報知新聞(36万部)、東京日日新聞(30万部)、東京朝日新聞(28万部)、国民新聞(27万部)、時事新報(23万部)、都新聞(20万部)、万朝報(18万部)、読売新聞(15万部)などで群雄割拠状態だった。しかし関東大震災で東京の15の新聞社のうち13社が全焼し、残ったのは報知、東京日日、都新聞の3社だけだった。

東京日日(大阪毎日新聞傘下)、報知、国民新聞(現東京新聞)は地方版を有していたので早めに復興ができたし、東京朝日は大阪に本社を置いていたので震災当日から稼働が可能だった。しかし中小新聞社は読者を失い、輪転機や活字を焼失し、用紙の確保が困難になり、4割を超えていた広告収入を無くして苦境に陥った。震災翌年に正力松太郎が経営難の読売新聞を買収して社長となり、1942年には報知新聞を合併して後の読売大国の礎を築いた。こうして関東を地盤とした新聞は凋落し、朝日、毎日、読売の三大紙の時代が生まれ、震災前の業界とは大きく姿を変えてしまった。

マヨネーズ
マヨネーズは18世紀中頃にスペインで生まれたとされる(一説には同時期にフランスでとも言われる)。我が国でマヨネーズが登場するのは1925年にキューピー食品工業がキューピーマヨネーズを発売してからである。創業者である中島薫一郎が海外実習生として訪れたアメリカでシャケ缶と玉ねぎのみじん切りにマヨネーズを混ぜた料理と出会い、マヨネーズの美味しさと栄養価の高さに感銘を受け1916年の帰国後マヨネーズを発売しようとした。しかし当時は誰もマヨネーズを知らず、卵の価格が高かったためマヨネーズも高価となり、かつ日本人には今のように生の野菜を食する習慣がするがなかったため中島は機が熟するのをじっと待った。

その7年後に起きたのが関東大震災である。震災からの復興中に東京では下町から山の手への人口移動、耐震建築と不燃化への移行、町内会制度の整備などと並んで生活の洋風化が進行した。中島は「女性が洋服を着るようになった今ならいける」とマヨネーズの発売に踏み切った。当然苦戦は続くのだがマヨネーズの名前と味を覚えてもらうために試食会などのプロモーションを実行し、1941年には発売時の800倍にあたる500トンまで売りを伸ばした。その後第二次世界大戦で生産中止なども経験したが、戦後の食卓の洋風化を追い風に冷蔵庫の必需品となり、マヨラーという言葉も市民権を得るようになった。

ラジオの実用化
関東大震災直後に朝鮮人や中国人が日本人を襲うとか井戸に毒を投げ込んだなどの流言飛語が飛び交い、虐殺事件が多く発生した。警察は流言を諫めるビラを貼るなどしたが、当時は素早く正確な震災の情報を関東内外へ送るには無線以外にはなかった。このことが人々に「ラジオさえあれば流言飛語による人身の動揺を防ぐことができたのではないか」と思わせるようになり、放送事業開業の要望が高まりラジオの実用化が急速に進行した。

関東大震災の翌年には大阪朝日新聞による皇太子裕仁親王のご成婚奉祝式典や、大阪毎日新聞による第15回衆議院総選挙の開票中継などの試験的放送がなされた。翌年には逓信省が放送用無線電話規制を制定し、東京、大阪、名古屋で公益法人にラジオ放送事業を許可する方針を打ち出した。これを受けて1925年に社団法人東京放送局(JOAK 現在のNHK東京ラジオ第一放送)、大阪のJOBK、名古屋のJOCKも放送を開始し、1926年に三局は日本放送協会として統合された。その後ラジオの聴取契約者数は1931年に100万世帯、1939年には400万世帯、1943年には700万世帯を突破した。戦後には民間放送も始まりラジオは茶の間の主役の地位を保持し続けた、テレビにその座を奪われるまで。


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