若いころはそこそこの読書青年だった。浪人時代に、受験勉強からの逃げだったかもしれないが、本を読み始めて好きな作家が何人かできた。彼らが青年時代に読んだ本や薦める書籍を片っ端から読んだ。小説類だけでなく、旧制高校生の三大愛読書が「善の研究」「三太郎の日記」「愛と認識その出発」と聞けば理解できないままに目を通し、亀井勝一郎の人生論や青春論を夢中になって読んだ。体系だった読書ではなく手当たり次第だった。
当時は小遣いも少なかったので岩波文庫に助けられた。その頃の岩波文庫は他の文庫のような表紙カバーはなく、定価は★で表示されていて、★ひとつが50円だった。「茶の本」や「桜の園」「共産党宣言」のような薄い文庫は50円で、いつも買った後喫茶店で読み終えた。コーヒー代も50円だったので100円で何時間か楽しむことができた。

大学も文学部に入り下宿の四畳半は本であふれていた。週に2~3冊の本を読み、読後ノートも付けていた。しかし留年ののち退学処分を受け、一年後に他の大学に編入学してからは専門書を読むことに集中せざるを得なかった。就職後は仕事がらみの本を読むことが増えた。結婚して住んだ部屋の六畳間の天井まで壁一面の本棚に本をを並べていたら、遊びに来た友人に「寝ている時に地震がきたら死ぬぞ」と脅かされた。問題は家内が私の何倍かの読書家で一日中本を読んでいる。最高は一日に13冊読んだと言っていた。二人とも図書館には行かないので本は増え続け、そのころ蔵書数を数えたら4000を少し超えるくらいだった。
歳をとりはじめると、つまり老眼が始まるとだんだん読書と縁遠くなる。新しい知識への欲求が弱くなるのもあるが、読書が苦痛になるのだ。昔買った岩波文庫や古典の全集は活字が小さい。少し読んでいると目が疲れてくる、もしくはピントが合いずらくなる。そのうち老眼鏡の数だけが増えてきて、どれがどの度なのか分からなくなる。

もう活字の小さい本は読めない。10年くらい前から終活の一環としてレコードやCD、VHSテープと並んで書物もヤフオクやアマゾンで処分し始めた。既に2000冊くらいは捌けたと思う。売れるたびに本を梱包しながら、買った時のことやうろ覚えの内容を思い出しながら娘を嫁に出すような気持になる。しかし持っていても読むことはもうないのだ。本箱の空きスペースは年々広がり、そこに家内が本やいろんなものを並べるようになった。気が付けばドア横に通販家具で作った隠し戸棚のような扉付きの書棚も、まだ読書意欲が私ほどは落ちていない家内の新書や文庫本、洋書に侵食されてしまった。

昔読んだ円地文子の「めがねの悲しみ」というエッセイは見えすぎてしまう悲しみを綴っていたが、両目とも眼内レンズのお世話になっている後期高齢者は、眼鏡をしても年々衰えていく視力をボヤくばかりである。
当時は小遣いも少なかったので岩波文庫に助けられた。その頃の岩波文庫は他の文庫のような表紙カバーはなく、定価は★で表示されていて、★ひとつが50円だった。「茶の本」や「桜の園」「共産党宣言」のような薄い文庫は50円で、いつも買った後喫茶店で読み終えた。コーヒー代も50円だったので100円で何時間か楽しむことができた。

大学も文学部に入り下宿の四畳半は本であふれていた。週に2~3冊の本を読み、読後ノートも付けていた。しかし留年ののち退学処分を受け、一年後に他の大学に編入学してからは専門書を読むことに集中せざるを得なかった。就職後は仕事がらみの本を読むことが増えた。結婚して住んだ部屋の六畳間の天井まで壁一面の本棚に本をを並べていたら、遊びに来た友人に「寝ている時に地震がきたら死ぬぞ」と脅かされた。問題は家内が私の何倍かの読書家で一日中本を読んでいる。最高は一日に13冊読んだと言っていた。二人とも図書館には行かないので本は増え続け、そのころ蔵書数を数えたら4000を少し超えるくらいだった。
歳をとりはじめると、つまり老眼が始まるとだんだん読書と縁遠くなる。新しい知識への欲求が弱くなるのもあるが、読書が苦痛になるのだ。昔買った岩波文庫や古典の全集は活字が小さい。少し読んでいると目が疲れてくる、もしくはピントが合いずらくなる。そのうち老眼鏡の数だけが増えてきて、どれがどの度なのか分からなくなる。

もう活字の小さい本は読めない。10年くらい前から終活の一環としてレコードやCD、VHSテープと並んで書物もヤフオクやアマゾンで処分し始めた。既に2000冊くらいは捌けたと思う。売れるたびに本を梱包しながら、買った時のことやうろ覚えの内容を思い出しながら娘を嫁に出すような気持になる。しかし持っていても読むことはもうないのだ。本箱の空きスペースは年々広がり、そこに家内が本やいろんなものを並べるようになった。気が付けばドア横に通販家具で作った隠し戸棚のような扉付きの書棚も、まだ読書意欲が私ほどは落ちていない家内の新書や文庫本、洋書に侵食されてしまった。

昔読んだ円地文子の「めがねの悲しみ」というエッセイは見えすぎてしまう悲しみを綴っていたが、両目とも眼内レンズのお世話になっている後期高齢者は、眼鏡をしても年々衰えていく視力をボヤくばかりである。
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