1971年7月20日三越の銀座通りに面した一角にマクドナルドの上陸第一号店がオープンした。その2か月前に大学を処分された私は銀座まで出かける元気もなかったが、テレビニュースでその騒動を見ていた。ハンバーガーを買うために長蛇の列ができ、メディアも多数集まり、周辺ではピエロが開店チラシを配っていた。

ハンバーガーがどんなものかはみんなうっすら知ってはいたが、味にうるさい日本人の口に合うのかと訝しがる人も多かった。しかし一号店が日本の中心地である銀座のど真ん中だったこと、前年から銀座で歩行者天国が開始されていたこと、日本経済が高度成長期の真っ最中で沸き立っていたこと、などが重なり連日の大混雑だった。
当時の値段はハンバーガー1個が80円だった。マックフライは70円とちょっと割高で、コーヒー/コーラ/ファンタは50円だった。学食のカツ丼やカレーライスが70円、近所の洋食屋の定食が200円だった頃だ。私には値段よりも店内の見えるところでパテを焼き、ポテトを揚げてすぐその場で客に出すという見せるプロセスが新鮮だった。32秒で焼き上げるスピードもそうだが、売れ残ったハンバーガーは10分で、ポテトは7分で廃棄処分するというのが驚きだった。アメリカ式のマニュアル通りと言えばそうなのだが、「え、捨てちゃうの、もったいない」と皆が思った。
子供たちは給食でパンに慣れていてハンバーガーに抵抗がなかったこと、喫茶店入店を禁止する中学・高校は多かったがハンバーガーショップは禁止対象でなかったこと、外食と言えば寿司屋やレストラン中心で亭主がいないと行きにくかったがマクドナルドなら主婦も入りやすかったためハンバーガーは広い客層に受け入れられ一気に外食市場に入り込んだ。200円でおつりがくる値段も魅力だった。一号店には客席がなかったため、路上でハンバーガーを食べる若者が溢れ、それまでの立って食べる、歩きながら食べるというタブーをもいとも簡単に打ち砕いてしまった。
2年後の1973年からはテレビ広告を開始した。「味なことやるマクドナルド」のCMソングが首都圏に大量に流され、知名度が急上昇した。東京の後は京都、大阪、地方都市にチェーン店を展開し5年後の1976年には100店を突破した。その後1993年に1000店を、1996年に2000店を、1999年に3000店を記録した後現在もその数を維持している。


ハンバーガーがどんなものかはみんなうっすら知ってはいたが、味にうるさい日本人の口に合うのかと訝しがる人も多かった。しかし一号店が日本の中心地である銀座のど真ん中だったこと、前年から銀座で歩行者天国が開始されていたこと、日本経済が高度成長期の真っ最中で沸き立っていたこと、などが重なり連日の大混雑だった。
当時の値段はハンバーガー1個が80円だった。マックフライは70円とちょっと割高で、コーヒー/コーラ/ファンタは50円だった。学食のカツ丼やカレーライスが70円、近所の洋食屋の定食が200円だった頃だ。私には値段よりも店内の見えるところでパテを焼き、ポテトを揚げてすぐその場で客に出すという見せるプロセスが新鮮だった。32秒で焼き上げるスピードもそうだが、売れ残ったハンバーガーは10分で、ポテトは7分で廃棄処分するというのが驚きだった。アメリカ式のマニュアル通りと言えばそうなのだが、「え、捨てちゃうの、もったいない」と皆が思った。
子供たちは給食でパンに慣れていてハンバーガーに抵抗がなかったこと、喫茶店入店を禁止する中学・高校は多かったがハンバーガーショップは禁止対象でなかったこと、外食と言えば寿司屋やレストラン中心で亭主がいないと行きにくかったがマクドナルドなら主婦も入りやすかったためハンバーガーは広い客層に受け入れられ一気に外食市場に入り込んだ。200円でおつりがくる値段も魅力だった。一号店には客席がなかったため、路上でハンバーガーを食べる若者が溢れ、それまでの立って食べる、歩きながら食べるというタブーをもいとも簡単に打ち砕いてしまった。
2年後の1973年からはテレビ広告を開始した。「味なことやるマクドナルド」のCMソングが首都圏に大量に流され、知名度が急上昇した。東京の後は京都、大阪、地方都市にチェーン店を展開し5年後の1976年には100店を突破した。その後1993年に1000店を、1996年に2000店を、1999年に3000店を記録した後現在もその数を維持している。

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