そんなに余裕があるとは言えないが何とか金銭的な心配が少ない年金生活を過ごせている。ただ財政的に逼迫状態だった時期は何度か経験した。歳をとってからの逼迫期は投資の失敗が理由なので反省・納得せざるを得ない。しんどかったのは社会人になった頃と結婚してからの数年だった。
私が社会に出たのは1974年だった。前年に第一次オイルショックが起き、経済成長率は5.1%から戦後初めてのマイナス成長に陥落し、トイレットペーパーの奪い合いがあった時期だった。消費者物価指数は24%も上昇し「狂乱物価」と呼ばれた。入社した広告代理店の仕事は面白かったが給料は安かった。忙しい部署で連日の残業で残業代が基本給に近づくことも時々あった。入社した年に従業員からこれでは物価上昇に追いつかず生活できないと不満が出て労働組合が結成された。翌年の春闘では30%を超える昇給を勝ち取った。これで暮らしていけると思った。
その年に結婚した。ボロアパートから高円寺の1DKのマンションに引っ越した。家賃は数倍になったので生活は楽ではなかった。それでも商売(倒産経験もある)をしていた家で育った家内は「毎月決まった額が決まった日に入るのは楽だわ」と気にする風もなかった。私が職場のマージャンで大負けして家に入れる額が減ったりすると大変だった。結婚した頃は自分の貯金を取り崩して料理学校に通ったり洒落た食材を買っていたが、だんだん貧乏サラリーマンの食卓になり、夕食のメニューがカレーとか大葉のパスタとかシンプルになった。帰りが遅いので深い時間に食べることが多かったし、独身時代に比べれば食事の質に問題などなかった。20年後くらいに「あの時はほんとにお金がなくて一番安くできるのがあのパスタだったのよ」と言われた。昼飯も下のパン屋でジャムパンを一個買って済ませていたようだ。
お嬢様育ちだったらしい家内は世間一般の社会常識や交渉能力に欠けているところがあった。あの頃は珍しくもなかったが、コンドームを売りに来る女性営業がいた。一種の押し売りだ。一度にグロス(12ダース)を1万数千円で売りつけるのだ。何度も断るのだが引き下がらない。最後に「今うちには2千円しかなくてこれであと2週間暮らさなくてはならないのです。どうしたらいいでしょうか」と言ったら呆れて帰って行ったそうだ。ある時は新聞の集金人が来たが「手持ちがない」と言っても納得しない。脅されたと恐怖を感じた家内は私のコレクションからオリンピック硬貨を引っ張り出してそれで払った。帰宅してその話を聞いてとんでもなく高い新聞料金に呆れ怒りもしたが終わったことは仕方ない。コイン収集はそこで止めた。
一番こたえたのは家に帰ったら「もうお米がありません」と言われた時だ。そんな台詞は戦後のドラマの中だけだろうと思っていたことが我が家で起きたのだ。あわてて親父からもらったロレックスを持って近所の質屋に駆け込んだ。学生時代から何度もこのロレックスには世話になった。結婚してからの数年間もけっこうな頻度で出番があった。後の返済が大変になるので借りるのはいつも1万円だった。そのロレックスは、もう時計など必要なくなった定年後に売り払った。
この程度の貧乏話は珍しくもないだろう。苦労したとあまり思わなかったのは、楽天家で金銭に関して拘泥しない家内に助けられた面もあるし、日本経済が右肩上がりで将来は明るいと皆が思っていた時期だったのも幸いした。現にその後の10年間は、転職したせいもあるが、給料が毎年二桁上がって生活は少しは楽になり子供を育てることもできた。今の若い人たちと比べることはできないが、時代に恵まれていたと本当に思う。競争相手が多い団塊世代に生まれ、損をしたと思ったこともあるが、今考えれば日本経済がまだ成長している時期に会社員としてのピーク時を迎えられたことは幸運だった。「団塊世代は最後の食い逃げ世代だ」とよく言われたが、今となってはその謗りを甘んじて受けたいと思う。
私が社会に出たのは1974年だった。前年に第一次オイルショックが起き、経済成長率は5.1%から戦後初めてのマイナス成長に陥落し、トイレットペーパーの奪い合いがあった時期だった。消費者物価指数は24%も上昇し「狂乱物価」と呼ばれた。入社した広告代理店の仕事は面白かったが給料は安かった。忙しい部署で連日の残業で残業代が基本給に近づくことも時々あった。入社した年に従業員からこれでは物価上昇に追いつかず生活できないと不満が出て労働組合が結成された。翌年の春闘では30%を超える昇給を勝ち取った。これで暮らしていけると思った。
その年に結婚した。ボロアパートから高円寺の1DKのマンションに引っ越した。家賃は数倍になったので生活は楽ではなかった。それでも商売(倒産経験もある)をしていた家で育った家内は「毎月決まった額が決まった日に入るのは楽だわ」と気にする風もなかった。私が職場のマージャンで大負けして家に入れる額が減ったりすると大変だった。結婚した頃は自分の貯金を取り崩して料理学校に通ったり洒落た食材を買っていたが、だんだん貧乏サラリーマンの食卓になり、夕食のメニューがカレーとか大葉のパスタとかシンプルになった。帰りが遅いので深い時間に食べることが多かったし、独身時代に比べれば食事の質に問題などなかった。20年後くらいに「あの時はほんとにお金がなくて一番安くできるのがあのパスタだったのよ」と言われた。昼飯も下のパン屋でジャムパンを一個買って済ませていたようだ。
お嬢様育ちだったらしい家内は世間一般の社会常識や交渉能力に欠けているところがあった。あの頃は珍しくもなかったが、コンドームを売りに来る女性営業がいた。一種の押し売りだ。一度にグロス(12ダース)を1万数千円で売りつけるのだ。何度も断るのだが引き下がらない。最後に「今うちには2千円しかなくてこれであと2週間暮らさなくてはならないのです。どうしたらいいでしょうか」と言ったら呆れて帰って行ったそうだ。ある時は新聞の集金人が来たが「手持ちがない」と言っても納得しない。脅されたと恐怖を感じた家内は私のコレクションからオリンピック硬貨を引っ張り出してそれで払った。帰宅してその話を聞いてとんでもなく高い新聞料金に呆れ怒りもしたが終わったことは仕方ない。コイン収集はそこで止めた。
一番こたえたのは家に帰ったら「もうお米がありません」と言われた時だ。そんな台詞は戦後のドラマの中だけだろうと思っていたことが我が家で起きたのだ。あわてて親父からもらったロレックスを持って近所の質屋に駆け込んだ。学生時代から何度もこのロレックスには世話になった。結婚してからの数年間もけっこうな頻度で出番があった。後の返済が大変になるので借りるのはいつも1万円だった。そのロレックスは、もう時計など必要なくなった定年後に売り払った。
この程度の貧乏話は珍しくもないだろう。苦労したとあまり思わなかったのは、楽天家で金銭に関して拘泥しない家内に助けられた面もあるし、日本経済が右肩上がりで将来は明るいと皆が思っていた時期だったのも幸いした。現にその後の10年間は、転職したせいもあるが、給料が毎年二桁上がって生活は少しは楽になり子供を育てることもできた。今の若い人たちと比べることはできないが、時代に恵まれていたと本当に思う。競争相手が多い団塊世代に生まれ、損をしたと思ったこともあるが、今考えれば日本経済がまだ成長している時期に会社員としてのピーク時を迎えられたことは幸運だった。「団塊世代は最後の食い逃げ世代だ」とよく言われたが、今となってはその謗りを甘んじて受けたいと思う。
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