子供のころ聞いていたのはアメリカやイギリスのヒット曲を日本語でカバーするポップスばかりだった。テレビの歌番組でもニールセダカやポールアンカの曲を多くの日本人歌手が歌っていた。そんな頃(1962年)アメリカンポップスとは少し肌合いが異なる曲が流れてきた。全英で4週間ナンバーワンを記録したジョン・レイトンの「Johnny Remember Me」の日本語版だった。邦題は「霧の中のジョニー」。女性コーラスの"Johnny Remember Me"のフレーズが耳に残っている。歌っていたのは克美しげるだ。張りのある中低音で声量もあるうまい歌手だと思った。これは彼のデビュー曲で40万枚売れた。

その時は歌手としてはそれほど印象には残らなかったが、半年後の3枚目のシングル「片目のジャック」が個人的には刺さった。カントリーっぽいメロディだった。当時の克美はスポーツ刈りでいかにも田舎から出てきましたという風情だった。その風貌には「霧の中のジョニー」より「片目のジャック」の方が曲調も歌詞も合っていたのだと思う。その後は「忘られぬジョニー」とか「霧の中のロンリー・シティー」と柳の下の二匹目を狙うようなタイトル曲を出していたが、1964年にテレビアニメの主題歌「エイトマン」と歌謡曲路線に転じた「さすらい」が大ヒットし2年連続で紅白歌合戦にも出場した。この2曲は彼の代表曲となり専属バンドを抱えるようにもなった。

60年代後半は大ヒットには恵まれなかったが毎年シングルを4~8枚出す順調さだった。しかし70年代に入ると人気に陰りが出始める。レコードの発売ペースも落ち、それをなんとか盛り返そうと音楽関係者を接待するなどしたため巨額の借金ができた。その借金を付き合っていた銀座のホステスに貢がせて完済した。その後もギャンブルでの借金を愛人の金で清算するなどしていたが、克美が妻帯者だと知ったホステスに結婚を求められる。
その頃所属するレコード会社は克美を復活させる企画を立て克美は1976年に再デビューを果たす。レコードの売り上げも悪くなかったが、愛人が顛末をメディアに暴露し再デビューが不成功になることを恐れた克美は彼女を絞殺してしまう。この時は新聞で事件を知って「あの克実しげるが」と驚いたことをいまだに憶えている。
裁判で10年の実刑判決を受けたが模範囚だったので7年後に仮出所が認められた。出所後はカラオケ教室を開くなどして生計を立てていた。離婚と結婚を繰り返し、1996年に4度目の結婚をする。以後は時々はテレビ番組に出てかつてのヒット曲を歌ったり、2008年には30年ぶりにコンサートを行ったが、2013年に脳出血により他界。
激動の人生だった。テレビで見る限りは腰が低く朴訥で誠実そうな性格を持つ一面、自己中心で身勝手という弱さを持った人間だったのだろうと思う。出所後のライブではデビュー曲もきっと歌ったはずだ。最後のパートをどんな気持ちで歌ったのだろうか。「霧の中のジョニー」は確かこの歌詞で終わっていた。
僕は決して忘れはしない 死んだあの娘の 最期の言葉を
Johnny Remember Me

その時は歌手としてはそれほど印象には残らなかったが、半年後の3枚目のシングル「片目のジャック」が個人的には刺さった。カントリーっぽいメロディだった。当時の克美はスポーツ刈りでいかにも田舎から出てきましたという風情だった。その風貌には「霧の中のジョニー」より「片目のジャック」の方が曲調も歌詞も合っていたのだと思う。その後は「忘られぬジョニー」とか「霧の中のロンリー・シティー」と柳の下の二匹目を狙うようなタイトル曲を出していたが、1964年にテレビアニメの主題歌「エイトマン」と歌謡曲路線に転じた「さすらい」が大ヒットし2年連続で紅白歌合戦にも出場した。この2曲は彼の代表曲となり専属バンドを抱えるようにもなった。

60年代後半は大ヒットには恵まれなかったが毎年シングルを4~8枚出す順調さだった。しかし70年代に入ると人気に陰りが出始める。レコードの発売ペースも落ち、それをなんとか盛り返そうと音楽関係者を接待するなどしたため巨額の借金ができた。その借金を付き合っていた銀座のホステスに貢がせて完済した。その後もギャンブルでの借金を愛人の金で清算するなどしていたが、克美が妻帯者だと知ったホステスに結婚を求められる。
その頃所属するレコード会社は克美を復活させる企画を立て克美は1976年に再デビューを果たす。レコードの売り上げも悪くなかったが、愛人が顛末をメディアに暴露し再デビューが不成功になることを恐れた克美は彼女を絞殺してしまう。この時は新聞で事件を知って「あの克実しげるが」と驚いたことをいまだに憶えている。
裁判で10年の実刑判決を受けたが模範囚だったので7年後に仮出所が認められた。出所後はカラオケ教室を開くなどして生計を立てていた。離婚と結婚を繰り返し、1996年に4度目の結婚をする。以後は時々はテレビ番組に出てかつてのヒット曲を歌ったり、2008年には30年ぶりにコンサートを行ったが、2013年に脳出血により他界。
激動の人生だった。テレビで見る限りは腰が低く朴訥で誠実そうな性格を持つ一面、自己中心で身勝手という弱さを持った人間だったのだろうと思う。出所後のライブではデビュー曲もきっと歌ったはずだ。最後のパートをどんな気持ちで歌ったのだろうか。「霧の中のジョニー」は確かこの歌詞で終わっていた。
僕は決して忘れはしない 死んだあの娘の 最期の言葉を
Johnny Remember Me
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