マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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カテゴリ: 広告

1971年7月20日三越の銀座通りに面した一角にマクドナルドの上陸第一号店がオープンした。その2か月前に大学を処分された私は銀座まで出かける元気もなかったが、テレビニュースでその騒動を見ていた。ハンバーガーを買うために長蛇の列ができ、メディアも多数集まり、周辺ではピエロが開店チラシを配っていた。
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ハンバーガーがどんなものかはみんなうっすら知ってはいたが、味にうるさい日本人の口に合うのかと訝しがる人も多かった。しかし一号店が日本の中心地である銀座のど真ん中だったこと、前年から銀座で歩行者天国が開始されていたこと、日本経済が高度成長期の真っ最中で沸き立っていたこと、などが重なり連日の大混雑だった。

当時の値段はハンバーガー1個が80円だった。マックフライは70円とちょっと割高で、コーヒー/コーラ/ファンタは50円だった。学食のカツ丼やカレーライスが70円、近所の洋食屋の定食が200円だった頃だ。私には値段よりも店内の見えるところでパテを焼き、ポテトを揚げてすぐその場で客に出すという見せるプロセスが新鮮だった。32秒で焼き上げるスピードもそうだが、売れ残ったハンバーガーは10分で、ポテトは7分で廃棄処分するというのが驚きだった。アメリカ式のマニュアル通りと言えばそうなのだが、「え、捨てちゃうの、もったいない」と皆が思った。

子供たちは給食でパンに慣れていてハンバーガーに抵抗がなかったこと、喫茶店入店を禁止する中学・高校は多かったがハンバーガーショップは禁止対象でなかったこと、外食と言えば寿司屋やレストラン中心で亭主がいないと行きにくかったがマクドナルドなら主婦も入りやすかったためハンバーガーは広い客層に受け入れられ一気に外食市場に入り込んだ。200円でおつりがくる値段も魅力だった。一号店には客席がなかったため、路上でハンバーガーを食べる若者が溢れ、それまでの立って食べる、歩きながら食べるというタブーをもいとも簡単に打ち砕いてしまった。

2年後の1973年からはテレビ広告を開始した。「味なことやるマクドナルド」のCMソングが首都圏に大量に流され、知名度が急上昇した。東京の後は京都、大阪、地方都市にチェーン店を展開し5年後の1976年には100店を突破した。その後1993年に1000店を、1996年に2000店を、1999年に3000店を記録した後現在もその数を維持している。
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子供のころから広告が好きだった(40)

生まれてから幼稚園まで住んでいた社宅の玄関横にはトマトが植えてあった。夏になるとそれをおやつ代わりに食べた。塩をかけて食べたのだがそんなに好きではなかった。野菜でもない、果物でもない蝙蝠の様な食べ物だと子供心に思っていた。

トマトジュースもドロッとした食感が嫌いだった。それにトマトジュースはポピュラーではなかった。我が国では昭和8年にカゴメ(当時の社名はは愛知トマトソース製造)が製造を開始し瓶入りの高級品だった。戦争で中断の後、昭和24年に製造を再開し30年代に缶入りにしてから需要が伸び、昭和38年にはデルモンテが参入して市場が拡大した。高度経済成長のひずみとして食品公害が表面化し、消費者の天然・自然・健康志向が高まったことも成長の後押しをした。

昭和47年にカゴメがテレビ広告を大々的に展開し始めた。「お酒を飲んだ翌朝は」のキャンペーンだ。九里洋二、太地喜和子、黒柳徹子、ちあきなおみと毎年酒豪タレントを起用したがやはり初年度の田辺茂一の印象が一番強い。紀伊国屋書店の創業者社長で「粋人」「日本一働かない社長」「夜の市長」などと呼ばれ、夜な夜な銀座で飲み歩くことで有名だった。その粋人がガウン姿で「夜の銀座より、朝のトマトジュースの方がいいや」と言いながら飲むトマトジュースは大人だけを対象にしたちょっと変わった飲料だった。大学生時代映画を見に行くとシネアドには必ずこのCMが入った。時々紀伊国屋で本を買っていたし、彼が慶応出ということは知っていたのでその大学を退学処分され他の大学に編入したばかりの自分はちょっと複雑な心境で遊び人社長の広告を見ていた。
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このシリーズ広告は5年続き、そのあと渡哲也の「しみるなあ、風呂あがりの一杯」に替わる。後ろ向きの二日酔い対策から積極的な健康管理に舵を切ったのだ。競合のデルモンテは慌ただしい朝の食卓にトマトジュースを加えることを訴求し、昭和51年にはキリンも参入し「赤い戦争」が始まった。3社で8割を超えるシェアを持つ寡占状態がしばらく続いた。
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最近は下降が止まらない野菜ジュースを尻目にトマトジュース市場は伸び続けている。スーパーマーケットでは前年比+50%というところも昨年あった。アスタキサンチンと並ぶ抗酸化成分であるリコピンが注目されていること、リコピンにGABAを加えたコレステロールや高血圧対策の機能性表示製品が市場を引っ張っている。トマトが値上がりしていることもあって料理用に無塩のトマトジュースが使われることも一因らしい。

市場の5割強を押さえるカゴメの強さは変わらないが、デルモンテと紙パック、缶、PETを揃えた伊藤園が20%前後のシェアで2位の座を争っている。3社で9割占拠だ。デルモンテは7月に米本社が破産法の申請をしたが、日本ではキッコーマンが1989年に事業を買収した日本デルモンテが製造販売をしているので大きな変化は起こらないかもしれない。カゴメはジュースだけでなくスーパーの高リコピンの生トマトの販売や、ネット通販で機能性表示食品の販売に力を入れている。私も先日ネット広告を見てケース買いをしてしまった。
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消費財メーカーでマーケティングを担当しているとテレビ局との関係が生じる。私が在籍していた会社には広告宣伝部がなかったので、局の人は広告代理店経由か直接プロマネにコンタクトをとってくる。大クライアントではなかったのでTBSや日テレには無視され、顔を出すのはフジテレビ、テレ朝、テレ東の3局だった。フジには広告費の半分くらいを出向していたので当然だが、当時は力のなかったテレ朝とテレ東は少しでも多く広告を取ろうとしていた。その割にはその2局の担当は親会社の新聞社出身(朝日新聞と日経新聞)で商売っ気が薄かった。その後両局は営業に力を入れ始め新しい担当が来るようになった。テレ東の担当はベテランでやたらゴルフの話を持ってきた。テレ朝の担当は新卒に毛が生えたような新人で熱心さが目立つ若者だった。

その頃は外資でも会社への入館規制は厳しくなく、ゲートもなかったし受付を経由しないで事務所に入ることが可能だった。デスクで仕事をしていて顔を上げるとそこにテレ朝のT君がいることがよくあった。「あ、すみません。8月は何GRP打つ予定ですか?御社のために枠をとっておきますので」とか話しかけてくる。スポット広告はGRP(延視聴率)単位で発注をする。彼が聞いているのは8月の関東地区での私が担当する製品の広告投下予定量のことだ。総量が分ればテレ朝へ出稿比率を推測して、その分のCM枠を押さえておこうというわけだ。通常は広告代理店に聞くのだが担当AEが情報を持っていないこともあるので広告主に直に聞いたほうがはやいと考えたのだろう。

スポットだけでなく番組の売り込みも熱心だった。突然やってきて「バレーボールが売れないんです。枠が残っているので買ってもらえませんか?」「駄目だよ。俺の担当製品とターゲットが違うし、CPMだって良くないよ」と断る。CPMとはCost per Milleの略で到達千人当たりのコストのことで広告効率を測るひとつの物差しだ。「でもそこをなんとか」彼はこういうメリットがあるとか、私の担当製品とのイメージの近似性とか、そんなことは一切言わない。「買ってください!」の一本槍なのだ。

数日後他局のゴルフ接待から帰ってくるとマンションの玄関にT君がいた。引っ越したばかりで住所を知っている人は少ないのだが、じっと私の帰りを待っていたらしい。仕方がなく家に入れお茶を出した。「バレーボールまだ売れていないんです。なんとかなりませんか?」体育会出身だけあって体力と熱意はすごい。結局買わなかったが彼の熱意には感心した。営業マンは製品を売り込む前に自分を売り込め、とよく言われるがこの点で彼は成功していた。

その後私は関西の会社に転職し他の業界に移った。広告を打たない業界だったのでテレビ局やラジオ局の人たちはもう用がないと私のところには全く来なくなったし連絡も途絶えた。ただT君ひとりが毎年年賀状を送ってきて、肉筆で「今年もEXをよろしく」とか「SNSいつも楽しみに読んでいます」とかのメッセージが書き添えられていた。

10年近く経った後、私はひょんなことから東京に戻りまた広告を担当する立場になった。入社して二カ月後に父親が亡くなった。急いで半田(愛知県)で葬儀の準備をし喪主として御礼の挨拶をした。挨拶をしながら数十人の弔客を眺めると最後列の端っこに喪服のT君を見つけた。どこで情報を得たのか知らないが、ずっと年賀状だけの関係だったのに電車を何本も乗り継がねばならない不便な半田の片田舎まで弔問に来てくれたと思うと広告主とメディアの関係以上の心持がした。

その数年後広告代理店とテレ朝が新しく始まる番組の売り込みに来た。ココリコがゴールデンで初めて持つ冠番組「いきなり!黄金伝説。」だった。裏も強いし数字を取りそうになかったので断った。翌月テレ朝の担当がまた来た。隣に部長となっていたT君がいた。今回も「お願いします!」だった。値段もそうとう下げて持ってきたので効率的にも問題はなくスポンサーの一社になった。放送開始後予想以上に人気番組となり視聴率も上がった。翌年テレ朝の営業が来て、数字が良いこと、他社と比べて料金が破格に低いことを挙げて他社並みの料金改定の提案をしてきた。T君の顔は十分立てたので一年でスポンサーから降りた。その後T君は系列局の社長となって九州に赴任した。

T君は私が35年働いた中で最も親しかったメディア側の人だが、彼とは一度も酒を飲んだり、ご飯を食べたり、ゴルフをしたりしたことがない。彼がそのような仕事のしかたをしなかったことと、私も彼と彼の熱意を信じて接してきたし、買えないものは買えないと正直に言ってきた。仕事の話しかした覚えがない。クライアントと営業というより仲間とか戦友という感じだった。先月SNSでT君が9年の九州生活を終え東京に戻ったと知った。また会えたら初めて仕事以外の話ができるかもしれない。

子供のころから広告が好きだった(39)

何十年も前に見ていた広告、聞いていたジングルをいまだに憶えている。テレビを見始めたころはNHKだけだったし、一日に数時間しか放送はなかった。翌年民放(CBC)が開局し、その二年後にTHKが放送を開始したので広告に接する機会は多くはなかった。

当時の広告は番組内で流れるものが中心で、30秒や60秒CM、時には3分の生CMも流れた。大メーカーはごぞってテレビ番組のスポンサーとなり、番組の多くは一社単独提供だった。その番組も映画や記録映画、「兼高かおる世界の旅」などの番組以外はドラマもクイズ番組も全部生放送だった。1958年にテレビに危機感を持った主要6映画会社がテレビ局への作品販売や所属俳優の派遣を停止したために各局は代替としてアメリカ製のテレビ映画を輸入し放映を始めた。やがて「うちのママは世界一」「パパは何でも知っている」「名犬ラッシー」「ララミー牧場」などは人気番組となった。

会社名に対する信頼が強い時代で、広告は今のようにブランド訴求するものは多くなく、会社名がまず前面に出て、その後にその会社の製品であることを訴える傾向が強かった。「ヤマハエレクトーン」「大正漢方胃腸薬」「カンロ健康のど飴」のように我が国のブランディングは社名+製品名の二階建てブランディングが中心で、ブランド売買が一般的なアメリカとは異なる面を持っていた(ブランド売買時に社名と密接にリンクしていると売却しにくい)。テレビ広告も社名を知らしめる目的が強く、社名の連呼や社名と製品群をまとめて訴えるものが多かった。

特に家電や医薬品など製品の機能や効能効果、アフターサービス(死語?最近聞かない)などを重要視されるカテゴリーではこの傾向が強かった。すべての提供番組の冒頭に入るナショナル(現パナソニック)のCMソングはこんなだった。

明るいナショナル 明るいナショナル
ラジオ テレビ なんでもナショナル
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もう片方の家電の雄である東芝の広告。

光る 光る 東芝 まわる まわる 東芝
走る 走る 東芝 歌う 歌う 東芝
輝くひかり ひかり 強いちから ちから
みんな みんな 東芝 東芝のマーク
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極めつけは武田薬品のジングルだろう。なにせ社名だけしか出てこないのだ。

タケダ タケダ タケダ
タケダ タケダ タケダ
タケダ ターケーダー
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このシンプルさが記憶に残る原因かもしれない。いまのCMやジングルは昔より秒数が短くなっているのにいろんなものを盛り込みすぎているような気がする。

(武田薬品のジングルは下記のサイトで聴くことができます)
https://www.youtube.com/watch?v=EGc0_0DG4Zg

昔広告の仕事をしている時習ったものの中に「AIDMA」というものがありました。広告接触から購買に至るまでの過程を示したものです。Attention(注目)Interest(興味)Desire(欲求)Memory(記憶)Action(行動)の頭文字をとったもので、広告を見て興味を持ち欲しくなって製品名を憶えて購入するという順番で購買行動は起きるというもので広告マンはよく使っていました。ただいくら注目を惹く広告でも興味がなければ惹きつける力はありません。全15段の全面広告や長尺TV広告を打ってもマンションに興味のない戸建て既購入者や電気カミソリに関心のない主婦に広告を注目させる効果はほとんどありません。逆にスペースは小さくても仕事を探している人は求人広告を熱心に熟読します。Interestの方がAttentionより先にあるのではないか、という議論をしていたことを思い出しました。
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時代も移りメディア状況も変化し一世紀を経たAIDMAも修正を加えねばならなくなりました。インターネットやSNSの発達で購買行動にも変化が生まれました。その変化をとらえて電通が発表したのが「AISAS」です。AttentionとInterestまでは同じなのですが、その次がSearch(ネットで調べる)、Actionで、最後がShare(購入したものの感想や評価をネット上で共有する)の流れになりました。eコマースの隆盛でDesire(欲求)とMemory(記憶)が消えてしまったのはすごいですね。興味を持ったら調べて比較する。納得したらポチッとして、購入後には製品が良くても悪くても自分なりの評価を書きこむ。自分の購買行動を振り返ってもその通りですものね。コミュニケーションが双方向になって口コミの力が増強され、消費者にとってはありがたく、メーカーにとってはうかうかできない状況になりました。

子供のころから広告が好きだった(37)

たった一本のテレビCMが製品だけでなく会社の業績を大きく変えることがある。無名の会社が突然有名になったり、地方の会社が一夜で全国区になったりする。広告の麻薬的な効果である。その確率はとんでもなく低いが。

まず思いつくのが「禁煙パイポ」だ。マルマンの系列会社だったアルマンが、製品がまったく売れず最後の賭けで銀行から借金をしてテレビ広告を制作した。当たらなければ倒産必至で、出演タレントも交通費と弁当だけが支給されたとのことだ。普通に何本かを撮影したあと、市川準監督は製作費がないということはオンエア量も少ないと判断し印象に残るカットを最後に収めた。それが小指を立てて「わたしはこれで会社を辞めました」の台詞だった。この広告で禁煙パイポは一気に有名になり7億円の売り上げは40億円まで跳ね上がった。一本のCMが会社を救った例だ。
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地方のメーカーが広告でナショナルブランドになることもある。味噌という商品はもともと地場産業で地域の大豆や米などで作られ、もっぱら地元中心に流通していた。私は名古屋生まれだが、地元の赤みそや八丁味噌で育った。イチビキ、サンビシ、マルサンなどのメーカーが有名だったが、関東に出てきた時にそれらのメーカーの赤だし味噌が売られていなくてびっくりした。いまではコンビニやスーパーに一つか二つは置いてある。

地場の味噌メーカーで最初に全国展開したのはマルコメだ。各地に販売会社を設立したり自立式容器ドイパックの導入もあったが、少年を坊主にしてのマルコメ坊やのCMの力も絶大だった。「マルコメ、マルコメ、マルコ~メ味噌」のジングルが耳に焼き付いている。1977年からマルコメ君のCMを放映しはじめ、翌78年には全国トップの味噌メーカーに上り詰めた。その後も日本初のだし入りの「だし入り味噌 料亭の味」などのヒット製品を出してその地位を確保している。
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全国的な広告を打つ会社がなかったこともマルコメには幸いしたが、それを追いかけた同じ長野県の味噌メーカーであるハナマルキはもっと大変だったと思われる。マルコメが日本一になった6年後、社名をハナマルキに変え、生産設備を更新し、テレビ広告を大量投入し始めた。タレントには当時は駆け出しのモデルだった今井美樹を使って「一日一杯のハナマルキで 大人になりました」「味噌は天才」とマルコメの少年と差別化する方向をとった。その後は現在も使われている「おみそな~ら ハナマルキ」のジングルを採用し知名度のアップを狙った。
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そのかいあってハナマルキはナンバー2の味噌メーカーとなった。3位にも長野県のひかり味噌が入り、味噌市場上位は長野勢の独占である。

今井美樹もこのCM以降ドラマ出演が増え1986年には歌手デビューもしている 。彼女はかつてハナマルキのCMがデビュー作だと時々話していたが、その前に彼女はクロレッツの最初のCMに出演している。WL社の受付嬢の役で、当時これはというタレントがいなかったが広告代理店がいいモデルがいますということで出演してもらった。背の高い笑うと口の大きい女性、というのが第一印象だった。山梨県でのテスト販売時にオンエアしたが全国展開の時は同時に撮ったコミカルな方を一本を流したので今井バージョンはほとんど人目には触れなかった。そのCMは思ったほど当たらず、次に半ばヤケで制作した岡本麗の「いかがでしょう~か」の物売りCMがヒットしてクロレッツは離陸できた。予想外だった。事程左様に広告というのは先が読めないものなのだ。

子供のころから広告が好きだった(36)

バブル期とは1986年12月から1991年2月までの4年強の期間に起きた好景気、資産の過度の高騰、よく言えば経済の拡大期とされる。今思うと狂っていた時代とも考えられるし、人によってはもう一度戻りたい懐かしの時代でもある。私にとっては40歳前後の働き盛りで仕事は面白く、会社の業績も5年で2倍に成長した時代だった。

現在の落ち目の日本からは想像もできないが、その象徴が企業の時価総額ランキングだろう。
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上位20社中なんと日本企業が13社と過半数を占める。かつトップ5は全部日本の会社だ。この間の為替レートはそれ以前よりは強かったが121円から159円のレンジだったので、円が強くてドル換算の恩恵で膨らんだわけでもない。そのころ読んだE.ボーゲルの「ジャパン アズ ナンバーワン」やR.クリストファーの「日本で勝てれば世界で勝てる」の時代が来たと本気で考えていた。

そんな時代の空気は当然広告にも影響する。まず思い出されるのがリゲインの「24時間戦えますか」シリーズだ。サラリーマンに扮した時任三郎が世界中を駆け回りながら「24時間戦えますか」と唄いながら働き倒すというCMだ。ジャパンマネーが世界を席巻していた時代だったし、企業戦士という言葉も定着した。今思えばブラックの最たるものだが当時は人気のCMで流行語となった。
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ただこうした熱血広告一辺倒ではなく、経済成長の恩恵を受けて余裕も生まれてきた時代でもあったのでゆとりのある広告も存在した。リゲインの対極を行くグロンサンは高田純次の「5時から男」で終業後の充実を訴求したし、バブル真っ最中の87年に流されたコカ・コーラのCMは高揚感や将来への希望が見えるあの時代の雰囲気を良く表していると思う。
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金余りの時代でもあったので広告主はギャラにこだわらずに外国タレントを多用した時期でもあった。毎日のようにCMでシュワルツェネッガー、マイケル・J・フォックス、マドンナ、マイケル・ジャクソン、マライア・キャリー、ジーン・ハックマン、ハリソン・フォード、グレグ・ノーマン、トム・ハンクス、ショーン・コネリーなどの顔を見ることができた。本国では決して出演を受けないであろう車、煙草やアルコール飲料の広告の仕事も日本だけでのオンエア契約と高額ギャラで押し切ったような感じだった。
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上記はダイアン・レインの宝石店の広告だが、この時期の深夜帯はこの手の広告ばかりだった。カメリアダイアモンドを販売していたじょわいゆ・くちゅーるマキや武富士、ハウスのCMが5分に一回は流れていた。いわゆる「青天井」と呼ばれる販売方法で、空いている時間にお任せで挿入CMをすることにより、TV局は売りにくい深夜ゾーンのスポット広告枠が捌け、広告主はリーチは限定されるものの安価にスポットが購入できるというメリットがあった。いまではこんな予算を無視するような販売方式はないんだろうなあ。

ともあれ、そんな時代だったのです、バブル期は。
注:時価増額ランキングの東洋銀行は東海銀行だとおもいます

2023年度の在京キー局の決算は全局増収だった。日テレが1.9%、フジとテレ東が2.0%、テレ朝が2.1%、TBSが2.8%成長だった。ただ経常利益はTBSとテレ東がプラスだったものの残りの3局はマイナスそれも二けたマイナスだった。テレビ広告費はネット広告に抜かれてもう何年にもなる。売りはつくったものの高コスト体質は変わらず、かつコロナ禍で動画配信利用者が急増しテレビの視聴率が下がり続け広告収入が減っているのが大きな理由だ。
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テレビの広告枠は肉屋で「牛肉300グラム!」とグラム単価で買うのと同じように視聴率300%でいくらと視聴率ベースの単価で売られる。視聴率が下がれば単価も下がり当然その分売り上げ金額は下がる。売る枠を増やそうにも総放送時間の18%と上限が決められている。昨年のキー局合計の広告収入は7623億円で前年比-4.7%、フジテレビなどは-8.1%だった。ゴールデンタイムのPUT(Persons Using Television 総個人視聴率)も31.1%と未曽有の低さだ。たしかに見たくなるような番組は少ない。

今のところは広告収入の減少分をTVerなどの配給収入で補っているようだが、これだっていつまで続くのか保証はない。中身のある、見ごたえのある番組を作らないと地上波の将来はないと思うのだが。局別の世帯視聴率の推移を見ると下のグラフのようになる。この3年の下降は注目に値する。全局下がっているがフジの下落がひどい。2011年の8%が2023年には半減の4%だ。過去の成功に囚われて視聴者の変化についていけていないようだ。
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半世紀近く前に広告代理店でテレビの仕事をしている時に在京5局は2強2弱1番外地と言われた。TBSと日テレが2強、フジとテレ朝(当時はNET)が2弱、テレ東(当時は東京12チャンネル)が番外地だ。2強には水戸黄門、8時だョ!全員集合、太陽にほえろなどのお化け番組があったが、他の3局にはなかった。フジとテレ朝がトレンディドラマや欽ちゃんで視聴率を稼ぐのはその数年後からだ。日テレはバラエティ番組で数字を稼いでいるが、TBSとフジはかつての勢いを失い、今ではかつての2弱テレ朝が世帯視聴率の三冠王となってしまった。テレ朝が上昇したのではなく他局より下降の度合いが少なかったからではあるが。フジは万年最下位のテレ東に追いつかれそうになっている。時代は変わるのだ、視聴者が変わるのだから。

子供のころから広告が好きだった(21)


電気洗濯機。なんだか懐かしい呼び方です。日本初の電気洗濯機は1930年に芝浦製作所が発売したSolarです。その数年前から東京電機がアメリカから電気洗濯機を輸入をしていました。この二社が1939年に合併し東京芝浦電気が誕生し、1984年に愛称を社名とする東芝が誕生しました。Solarの価格は370円。銀行員の初任給が70円の時代ですから今の金額だと100万円強でしょうね。当然のことながら一般家庭に浸透はしませんでした。
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戦後洗濯機の発売は再開されましたが高額(5万3千円)であったこともあり昭和27年(1953年)の販売台数はわずか1万5千台でした。その後電気洗濯機は電気冷蔵庫と白黒テレビと並んで「三種の神器」と呼ばれるようになると普及期に入り価格も3万円を切るようになりました。噴流式も出始めていたが当時の主流は大きな三枚羽根で水をかき回す攪拌式でした。新しもの好きのエンジニアの父親が買ったのか、洗濯板の洗濯はしたくないと母親が言い出したのかは不明ですが、我が家には私が小学生の頃憧れの電気洗濯機が来ました。1950年代の中旬だから相当早かったですね。三菱の丸型で下の広告は絞り器が付いているけどうちのにはなかったと思うのでこれの前の型だったのでしょう。今の家のように防水バンや排水溝がないので風呂場の洗い場に鎮座していました。本体下部に車輪があり移動が可能でした。
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タイマーなどはないので水を入れて洗濯ものと洗剤を加えてスィッチを入れます。大きな音を立てて羽が動き始めます。左に回ると次は右、と一回ごとに回り泡が立ちます。適当なところで止めて排水をし、再度水を入れてすすぎを二度ほど繰り返す。今から考えれば面倒なのですが毎日何時間も洗濯に時間をとられ手の荒れた主婦にとっては本当の神器だったと思います。メーカーも最も過酷な家事から解放できることを広告で訴求していました(下記広告)。少し後の広告コピーには「最近、腰のまがったおばあさんをみかけなくなりました」というのがあり電気洗濯機が主婦を重労働から解放した自負を感じさせるようなコピーでした。
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その後洗濯機は噴流型が主流になり、形は角形に変り、ローラーでまわす絞り器が付きどんどん進化していきました。我が家の導入も早かったと思ったのですが小学校5年の時に同級生の栄ちゃんの家にお邪魔したときに見た洗濯機が忘れられません。ドラムが回転し洗濯物が上から落ちてまた回転し、というドラム式洗濯機だったのです。なんだこれは、と思いました。今では普通のドラム式ですが当時は見たこともなくアメリカ製だろうかと思いました。ところが調べてみると当時でも国産のドラム式があったのです。
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自動車部品メーカーのデンソーが1950年に発売した日本初の回転式で1回で550匁(約2キロ)洗えることと水切りができることが売りでした。さすが後年QRコードを発明した会社ですね。テレビCMも流し、一時は売上トップを記録したらしいのですが、自動車市場が拡大するにつれ本業に集中することになり家電から撤退したとのことです。CMは下記で見られます。
https://www.facebook.com/watch/?v=1698219026911397

小学生の時国語の教科書でアメリカの洗濯機に関する文章がありました。アメリカでは洗濯物を入れると自動で水が注がれ、洗剤も入れられ、洗濯が始まって、すすぎに移り、終わるとブザーが鳴って終了を知らせる洗濯機がある、というものでした。夢のような洗濯機だとその時思いました。でも今はそれを上回る洗濯乾燥機が日本でも普通に売られています。家電の進化はすごいし、数多い家電の中でも主婦の労働を軽減したという点では洗濯機はだんとつのナンバーワン家電でしょうね。



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PCやスマホでインターネットを見ていると毎日不快な広告に遭遇する。テレビ、新聞、雑誌などでは見かけることがない誇大広告、詐欺広告、差別的広告、性的広告、不快感を抱かせる広告など挙げればきりがない。詐欺広告などは無視すれば済むが、気持ち悪い画像広告はちょっと見ただけでも不愉快になる。よく現れるのが黒ずんだ角栓を強調した汚い鼻の画像(ここに載せる気にもならない)。毛穴の汚れがごっそり取れるとかノーベル賞受賞成分のコスメと謳っていた。こういう広告をVisual Scandalと呼ぶと昔広告代理店のクリエイターから聞いた。最初に見るものにショックを与えて興味を惹こうというあざとい戦術だ。
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上記も誇大広告。クリームを塗ってこすると一瞬でイボがとれるというもの。いかにもインチキ動画で、これが本当ならちゃんとしたニュースで取り上げられるはずだ。騙されて何千円かを使う人が多いに違いない。他のメディアでは決して掲載されないこのような広告がなぜ流され続けるのか。

テレビ局などには考査部という組織があり、入稿された広告素材を放送倫理、法令、放送基準の観点から全部チェックしている。現役の頃広告表現に不安があると代理店に草稿を一番厳しいと言われていたTBSに持って行きチェックしてもらった。通常下記のような広告物は放映を許されない。

規定の音量を超える広告、過度の点滅、サブリミナル広告。
虚偽・誇大広告。
根拠を示すことができない最大級表現。
差別的表現。
薬機法(旧薬事法)に抵触するもの。
暴力的、性的な表現。
他社製品の中傷・誹謗。など

これに比べるとネット広告には業界に適用される広告出稿基準がなく、考査のシステムも確立されていない。また広告主に新興、弱小企業も多く広告物制作時に法的なチェックを行わない、または法的規制に精通していない企業も多い。つまり今のとことろ野放し状態でやったもの勝ちに近い。消費者はJARO(日本広告審査機構)くらいしか泣きつくところはないが、そのJAROへの苦情も急増中でインターネット関連の苦情はテレビへの苦情を大きく上回るようになった。JAROも上記のような広告には厳重警告を発してはいるが、法的な強制力はない。
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最近では有名人の肖像を勝手に使って投資サイトに誘導する詐欺広告が増えた。上の写真は前澤氏、孫氏、ホリエモンだが、ほかにも経済評論家、ニュースキャスターを無許可利用しているものがある。問題はそれらの広告がフェイスブックなどに掲載されていることだ。フェイスブックはノーチェックでこういう違法広告を掲載しているようだ。怒った前澤氏はFacebook Japanに削除要請をしたが不正広告は全く減らず、かつ日本サイドでは何もできないので本国のMeta社に言ってくれとの返事をもらって怒りはさらに増し、現在アメリカ本社に問い合わせをしているとのこと。
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これには驚いたがフェイスブックですらこの程度ならば他のサイトは推して知るべしだ。このままだと広告主やサイトだけでなくインターネットそのものの信頼が揺らぐことになる。ネット広告費は一昨年マス4媒体合計(テレビ、ラジオ、新聞、雑誌)を追い抜いて最大のセグメントになったばかりなのに、放っておくとただデカいだけの媒体に成り下がってしまう。国が規制する前にどこか大手が旗を振って業界を横断する倫理基準や広告基準を作らないとネット広告に未来はないかもしれない。


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ブランド名を前面に出して販売している製品ではブランド認知は生命線と呼んでい良いくらい重要です。ブランド認知がないということは製品特徴も理解されないし、指名買いも期待できません。最初から購入の選択肢からが外れることを意味します。

特に後発商品、卸や小売りのマージンが競合より低い製品、取扱店率が低い製品はブランド知名率を上げて指名買いを狙う方法が一般的です。

ヴィックスドロップが日本で発売された時に日本初の集中TVスポットキャンペーンを打ちました。楠トシエの「クリクリ三角ちいさなドロップ」のCMソングで一気に知名を上げ、低い配荷率、薄い小売マージンにもかかわらず指名買いで一気にトップブランドに駆け上がりました。

昔担当していたコンタック600もバファリンも競合と比べてマージンが劣ります。小売店は売りたがりません。推奨販売はほぼゼロですからTV広告で知名を上げ指名買いを促進するしかなかったのです。両ブランドとも指名買い率は70%でした。

ブランドの認知があるということは消費者に親しみ、好意、安心感、確信を与えます。高いブランド認知商品は、メーカーが長期間製造・販売しているという安心感、大量の広告でサポートをしているヒット商品で、多くの人がその製品を使っているという親近感を与えるからです。認知率と売り上げには強い相関があります。現在は安価ですぐ結果の分かるネット調査がありますから定期的に認知率の調査をすると良いでしょう。
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ブランド認知率には上記の三種類があります。トップ・オブ・マインド(第一想起率)は「コーラ飲料でご存じの銘柄は何ですか」の問いに最初に答えたブランドです。二番目以降で答えられたブランドが非助成想起ブランドになります。ブランド名が出なくなった後で「ではxxxというブランドはご存じですか」と提示されたブランドを知っている場合が助成想起銘柄になります。

当然非助成想起で答えられたブランドの方が助成想起より強く、現在使用中またはこれから使いたいブランドであることが多く、助成想起で答えられたブランドは過去使っていた又は名前だけは知っているブランドであることが多いと言われています。


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子供のころから広告が好きだった (32)

大学入学のため上京して生まれて初めて牛丼というものを食べた。当時新橋駅前(現ラ・ピスタ新橋)にあった吉野家としては2店目の店で値段は確か200円だったと思う。輸入自由化の前で牛肉は高価で年に何回かのすき焼きくらいでしか食べられなかった時代に、その金額で牛肉が食べられることとおいしかったことに驚いた。かつ丼や天丼が300~400円の時代だった。(写真は昭和50年代の新橋店)
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昭和50年に300円に、55年に350円に値上げされたがそれでも学生やサラリーマンにとって安価でおいしいご馳走だった。女性客はほとんどいなかった。現在のキャッチフレーズは「うまい、やすい、はやい」だが当時は「早い、うまい、安い」でファストフード的な利点を強調していた。昭和46年に日本上陸を果たし急成長中だったマクドナルドを意識していたのかもしれない。

もともと吉野家は明治32年(1899年)に日本橋に誕生した魚河岸で働く人たちむけの牛丼屋だった。関東大震災後に築地に、昭和10年に中央卸売市場が開設された後は市場内に移転した。新橋店は昭和43年にできた2店目でチェーン化を目指しはじめた頃だ。110席の大型店だったがいつも混んでいた。昭和47年には24時間営業となった。
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店舗数が増え広告活動も活発になった。一番記憶に残るのは「やったねパパ 明日はホームランだ」の野球少年の声と西川峰子の「ここは吉野家 味の吉野家 牛丼ひとすじ80年」のジングルだ。皮肉なことに創業80年の前年に店舗数が200を超えると輸入枠もあって輸入牛肉の調達が困難になり、フリーズドライ牛肉を使うなどして品質の低下を招いた。そのうえ急速な店舗展開による資金繰りの悪化も重なり、昭和55年会社更生法の適用を受け倒産した。

この時「学生時代にあれだけお世話になった牛丼屋をつぶしてなるのもか」と若いサラリーマンたちが、まだ開けている店を探しては、わざわざ食べに出かけるという運動が起きた。この世代に属する私もいくら値段が安いからといって他のチェーンで牛丼を食べる気にはならない。牛丼を食べるのは年に一度か二度になってしまったが、毎回吉野家まで足を運ぶ。

BSE騒動による販売停止を乗り越え再起に成功した吉野家は店舗数も1650を超え、コロナで売り上げは低下したものの直近ではほぼ二桁成長を示している。ただ原材料費や光熱費の高騰で値上げをしたものの利益率低下に苦しんでいる。コロナが落ち着き始めたことで時短協力金の減少も利益率悪化に拍車をかけている。しかし、残念ながら「つぶしてなるものか」と出かける回数を増やす気力も体力も(昔は若いサラリーマンだった)老人にはもうない。



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菓子を扱う会社のマーケティング部に転職してプロダクトマネジャーとして最初に担当したのが発売されて間もないホールズというキャンディだった。その前に働いていた広告代理店でヴィックスの仕事もしていたので知らない領域ではなかったが、代理店とメーカーでは仕事の範囲が大きく異なる。代理店でメディアや調査は経験したが広告制作は未経験だったし、製品の企画や開発はメーカーでなければタッチできない。ちょっと不安だった。

数か月後に次のクリエイティブを作ることになった。外資系ではテレビ広告は世界中で用いられているフォーマットにのっとることが多く、当時スペインやメキシコで使われていた、空気のきれいではない場所でせき込む、ホールズをなめる、のどと気分が軽快になって空中に舞い上がって海岸や花畑などに着陸する、という流れだった。海外でも10年以上使われているパターンで本社もこれをなぞることを強く要請する。他の国の成功例を踏襲できるのは外資の強みでもあるのだが、その国の独自性を無視することもある。
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そもそもホールズの導入自体がそれに近かった。米国人社長が発売を勧め社員が舐めてみたが不味い。飴は甘くておいしいのが普通で、こんなおいしくない飴は売れないと皆が言った。消費者テストの結果もそれを裏付けた。それでも社長はテスト販売をしろと命じ、山梨でのテストマーケティングが始まった。1年間を予定したテスト販売は計画をはるかに上回る実績を示し、テストは短縮され即販売エリアが拡大され短期間でトップブランドに躍り出た。その時社長はこう言った。「日本人の嗜好は独特だから他国で売れたからといって売れるとは限らない、と皆が言った。どこの国に行っても同じようなことを言われたが、他の国で成功を収めたのにはそれなりの理由があるからだ。結局売って見なければ分からないということだよ」。

そんな背景があったので広告に関しても本社の要望を断ることは困難だった。ホールズの広告は新発売時の高速道路の料金所から始まり、会議室や駅のホームなど当時はたばこの煙まみれだった場所に変わりながら、同じ流れが維持された。同じパターンで制作していると空中に舞い上がるシーンが有名になって、「ああ、あの飛び上がる広告の商品ね」と記憶されるようになった。
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ワンパターン広告の大量投下で事業部最大の製品となったが、もともとは英国のコフドロップが前身である。アメリカでも医薬品として売られているので本社は効果を前面に出した表現を求め、こちらは薬事法で効果表現には制約があると答える。製品情報が広告の中心となる米国と、視聴者が広告にエンターテインメント性を求める我が国との違いの狭間でゆらゆらしているうちに、数種ののど飴が発売されホールズは勢いを失った。「のどスッキリ」表現よりも「健康のど飴」のネーミングの方が訴求力が強いのだ。この時はやられた!と感じた。
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今ではコンビニで売られているキャンディの三分の一くらいが「のど飴」を謳っている。ホールズのど飴を販売したこともあったがヒットはしなかった。FMCG(Fast Moving Consumer Goods)とはよく言ったもので消費財の怖さを経験させられた製品でもあった。




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子供のころから広告が好きだった (31)

わが家には電気洗濯機が発売されて間もないころに攪拌式の洗濯機があった。母親はそれまでの洗濯板と固形石鹸の洗濯の重労働から解放された。合成洗剤など存在しない時代だったので洗濯機に使っていたのは粉せっけんだった。大きな箱の粉せっけんを買ってきてそれをバケツに移し替えて使っていた。

日本初の合成洗剤は第一工業製薬のモノゲンで誕生は1937年だ。1964年に改良されて名前もモノゲンユニになり洗濯機が普及しつつあった一般家庭に浸透した。このころの第一工業は他にもナンバーワンやアルコなどの洗剤も販売していた。うっすら憶えている広告がある。アヒルのような鳥のキャラクターだったと思うが、アニメーションのCMだった。
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明日は楽しい日曜日 雨が降らなきゃいい天気 アルコ慌ててお洗濯 (一部失念)泡だらけ 泡だらけ モノゲンで泡だらけ

記憶だけで書いているが、メロディとアルコ鳥が忙し気に洗濯をして干している絵を鮮明に覚えている。しかしわが家でモノゲンを使っていた記憶はない。記憶にあるのは花王のワンダフルとニュービーズだ。当時の洗剤はみんな結構大きな箱入りだった。重さも4‐5キロはあっただろう。箱の上には取っ手が付いていて買った後はぶら下げて持ち帰った。一回の使用量もコップ一杯くらいだったと思う。
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ニュービーズの広告はたいてい母親と娘の洗濯か取り込みシーンがあり、最後に洗濯物の匂いを嗅ぎながら「白さと香りのニュービ~ズ」で終わっていた。一方ワンダフルは子供が汚した服をきれいに洗いあげて、水でもきれいに落ちる「低温パワーのワンダフル」のコピーを強調していた。ワンダフルは白さを訴えていた時期もあるが、1973年に発売されたP&Gの全温度チアーが「水でも お湯でも ぬるま湯でも」のコピーで1977年にシェアを二桁台に乗せたことに対する対抗策でもあった。そのワンダフルも1979年に11.9%のシェアを獲得した後は同社のザブやニュービーズに押されて80年代後半に終売となった。下の写真は当時のワンダフルのCMから。箱の大きさがすごい。
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それ以前の洗剤の広告ではなんといっても「金銀パールプレゼント」キャンペーンで有名なライオン油脂のブルーダイヤだ。「うれしい白ですブルーダイヤ」の直後に挿入された金銀パールプレゼントのサウンドロゴは今でも覚えている。洗濯や洗剤に興味などなかった子供が記憶しているくらいだから相当量の広告を投下したのだろう。このキャンペーンが始まった1966年3月には競合であるモノゲンも「金の指輪プレゼント」を牟田悌三、大村崑を使ったCMで流していたのだがこちらは全く記憶に残っていない。広告量の問題か、サウンドロゴの問題かどうかは今となっては分からない。
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専業主夫になって15年。毎日台所に立つ。台所で毎日使うものの一つがサランラップだ。ブロッコリーを水にくぐらせた後ラップに包んでチンしてサラダに加えるのと、残った食材を保存するときに使う。他のラップも何種類か使ったが、サランラップに勝るものはなかった。保存性が高いし、カットしやすく、しなやかなのに強度もある。冗談だとは思うが「アルミホイールはどのメーカーでも構わんが、ラップはサランラップしか使うな」と遺言を残したという話を昔読んだことがある。
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サランラップの品質は抜きんでている。しかし圧倒的なリーディングブランドのサランラップは日本最初のラップではない。呉羽化学がクレラップを市場導入した二か月後に発売された。二番手商品である。かつサランラップはもともとアメリカのダウ・ケミカルが軍事用に開発したもので、登録商標も日本ではダウ・ケミカルと旭化成の共有である。ちなみにブランド名は食品用ラップとして販売された時の開発者二人の妻の名前であるサラ(Sarah)とアン(Ann)から由来している。

サランラップの発売は昭和36年8月だった。大卒の初任給が1万2千円の時代に7メートル巻き(現在は主に20メートル)で100円の高価格だったので苦戦が続き、浸透するまで5年かかった。追い風となったのは電気冷蔵庫の普及である。発売時には1割に届かなかった冷蔵庫の普及率は昭和43年には8割を超えた。便利なゆえに何でも冷蔵庫に放り込んでいた主婦は庫内が意外に乾燥していることに気づく。新発売時の広告コピーは「夏だ。スイカだ。サランラップだ。」だったが、「おいしさを保てる」から「みずみずしさを保てる」に路線変更して主婦に訴えた。旭化成が単独提供していたフジテレビの人気番組「スター千一夜」でのCM投入も浸透を後押しした。

同時に、揺籃期であったスーパーマーケットへのアプローチもサランラップの伸長に勢いをつけた。スーパーで生鮮品がサランラップでくるまれて売られるようになり、主婦はラップの便利さに目覚めた。当然スーパーでの販売増を生み、デパートや雑貨店が販路の中心だったクレラップを一気に追い抜いた。

最近では冷蔵庫・冷凍庫での保存だけでなく、電子レンジを使うときや、おにぎりを握るときにも必須のものとなり、その存在感は増すばかりだ。



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子供のころから広告が好きだった (30)

最初の大学は哲学科美学美術史学専攻だったので、卒業したら美術館は無理だろうから画廊で働くのだろうかと思っていた。しかし退学処分を喰らってしまい、翌年もぐり込んだ大学は文学部新聞学科だったが年齢や能力的に新聞社や雑誌社、
通信社は駄目だろうと考えていた。広告コピースクールに通っていたし書くことが好きだったので広告の仕事に就こうと決めた。

コピーライターになりたいと何社かの入社試験を受けたが、最初からコピーライター希望は駄目という会社もあったし、面接で落とされた会社もあった。最終的には外資系の会社に採用されたが配属されたのは媒体局だった。広告代理店は制作と営業だけだと思っていたので、電話で媒体局配属と聞いても漢字が思い浮かばなかった。だからコピー以外は全く知らずに広告の仕事を始めたことになる。

文学部だったのでマーケティングも統計も経済も分からずにスタートし、おまけにテレコだのCCだのHHだのPTだの業務用語が分からずに苦労した。広告用語辞典を買って知らない言葉はすぐ調べた。そんなころ広告批評という雑誌が創刊され、創刊号から買い始めた。伊丹十三、なだいなだ、開高健など知った論客が広告論を戦わせ、クリエイティブ中心だが論文の転載や時事ネタ、昔の名広告、流行っている広告の分析などもあった。編集長は天野祐吉で権威に対して批判的な姿勢が気持ちよく、これは次の編集長の島森路子にも引き継がれた。
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世の中には多くの広告賞があるがたいていは業界の内輪での選定だったり、出稿量が大きな会社の広告が選ばれたりだが、広告批評のランキングは独自の視点で選ばれ、マイナーな広告主や地方の広告にも光が与えられた。代理店からメーカーのプロマネに転職した後も購読し続けた。当時の外資系としてはめずらしいユーモア広告やナンセンス広告(米国本社や社内でも叩かれた)も好意的にコメントをしてくれてずいぶん助けられた。トライデントガムの泉谷しげる、上田馬之助と美保純のシリーズや初期のクロレッツのCM(岡本麗と尾身としのり)は広告批評のおかげで長続きしたと言っても過言ではない。

日本の広告だけでなく、海外の広告にも目が向けられていた。同じ社内で隣のグループだったリステリンのアメリカでの広告も「おどし広告の原点」として取り上げられたことがある。
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そんな広告批評だったがマスメディアからネットへの移行という時代の波には逆らえず、2009年に休刊されてしまった。そのご
天野祐吉と島森路子の二人の編集長はともに2013年に他界されたので復刊はほぼないだろう。サラリーマン引退後に若い人に読んでもらえたらと創刊号からの100余冊をオークションに出したらすぐ買い手が付いた。
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買い手の方からこの本で広告の勉強をしますとメールが来てうれしくなった。新しい読み手もきっと楽しんでくれるでしょう。記憶に残る雑誌でした。



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子供のころから広告が好きだった (29)

広告の仕事をしていた時に「サブリミナル広告」という言葉を聞いた。サブリミナル? 聞いたことがない言葉だった。調べるとサブリミナルは潜在意識下の意味で、サブリミナル広告とは知覚できない程度の長さの広告を流して気が付かないうちに広告メッセージを視聴者に刷り込ませる手法だ。かつてアメリカで実施された有名な実験があった。1957年にニュージャージー州の映画館で上映中の映画に「コカ・コーラを飲もう」「ポップコーンを食べよう」という3000分の1秒のメッセージを5分間隔で挿入したところ、館内の売店の売り上げがコカ・コーラが18%、ポップコーンが58%上がったという。当時コカ・コーラの仕事をしていたのだがちょっと信じられない結果だと思った。

その後同じグループや他のグループが同様な追加実験をしたが効果は認められなかった。映画館の話は作り話だとか、記事や論文は多くあるが効果を実証したデータは存在しないとされた。しかしこうしたサブリミナル広告は、無意識のうちに人を操作しようとする、洗脳する、公共の利益に反するとされ、1970年代にアメリカやカナダで禁止された。我が国でも1995年にNHKが、1999年に民放連がサブリミナル的な表現方法を禁じることとなった。

サブリミナル広告に興味津々だった広告人やテレビ業界人はCMの1秒24コマの1コマに関連のない画像やメッセージを挿入したり、番組の中でも同様の実験をしたらしい。そういう一種の遊びが許されている時代であったが、24分の1秒では気づかれてしまい非難や抗議を受けて、90年代の規制でそれらも消えた。

サブリミナル広告にちょっと似た調査手法にタキストスコープというものがある。専用の機器で24分の1秒よりは長いが一瞬だけ画像や文字を見せ、再認できるかどうかを調べる調査である。パッケージデザインやブランドロゴを開発してどれが一番認識しやすいかを調べるために何度か使用した。役には立ったが色などが目立つものが優位になるので、ブランドイメージとの一致とかを調べるために伝統的なシェルフテストに戻った記憶がある。

広告メッセージを刷り込ませるためにはサブリミナルよりも反復の方が有効ではなかろうか。広告業界には広告は同一視聴者に3度見せないと効かないというThree Hit Theoryというものがあり、メディアプランナー時代はどうやって安価に幅広い視聴者に3回以上見せる媒体計画を作るかを考えていた。3+リーチというやつですね。あまり多い回数に接すると広告効率は落ち、うるさいと反感を買うこともあるのでいまでも重要な指標なのではなかろうか。

結婚したとき1年ほど新高円寺に住んでいた。数十メートルくらいの距離に眼鏡屋があり、今ではとても許されないだろうが四六時中CMソングを大音声で流していた。50年近くたっても憶えている。
「あらお嬢さん 素敵なメガネ スッキリくっきりメガネ ツバメヤのメガネ」
今は高円寺純情商店街に引っ越したらしいが、当時はマンションの窓ガラス越しに聞こえてくるCMソングにうんざりしていた。そんなにセンスの良い歌でもなかったし。誰も文句を言わないのだろうかと思っていた。しかしあるときその店にフラフラと入って行きメガネを作ってしまった。刷り込まれてしまったのだ。そう、ことほどさように反復広告は効くのである。



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ネットの時代と言われて久しい。老人はネットも利用するが使う範囲が限られていて、いまだにテレビがメディア接触の中で最も長い。博報堂の2022年データでも60代の男性は毎日2時間14分、女性は2時間37分テレビを見ている。4媒体にPCやスマホなどを加えたメディア接触時間の約半分がテレビに費やされている。最も安価な娯楽、手っ取り早い暇つぶしの代表格テレビの面目躍如である。(ここでも70才代は無視されているが今は文句は言わない)2022-08-24
日本人の平均メディア接触時間は451分で15年前より33%、1時間10分も伸びている。今週電通が2022年の総広告費を発表したが、7兆1千億円を超え史上最高額となった。かつて2007年に一度だけ7兆越えをしたがその後リーマンショックで激減し、回復しかけたらコロナでまた大きく下がった。史上最高とはいえ15年かけてやっと2007年レベルに戻ったということだ。その15年間でメディア接触時間が33%も伸びているにもかかわらずだ。広告は景気に敏感だからこれを見るだけでも日本経済の最近の不振ぶりが分かる。
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市場規模は回復したのだが、中身は15年前と大きく異なっている。15年前は市場の1割にも及ばなかったインターネット広告が、一昨年マス4媒体(TV、ラジオ、新聞、雑誌)を初めて抜き、昨年は14%伸長してその差をさらに拡げた。構成比で43.5対33.8と約10ポイントの差をつけている。一方の伝統メディアはラジオは対前年比で+2%伸びたが、新聞が‐3%、雑誌が‐7%と減少し、マス4媒体の75%を占めるTVが‐2%と縮んだことが差を拡げられた原因だ。老人はテレビ中心だが若者はスマホ中心でテレビ離れが顕著である。
2023-02-26 (1)
新卒で広告代理店で働き始めたとき広告費はGDP(当時はGNPを使っていたが)の1%だった。同様に1%だったものに防衛費とパチンコ産業があった。50年前は同じ規模だったが防衛費は6兆1千億円(2021年度)、広告費は7兆1千億円と伸び、GDP比1.1%と1.3%となっている。伸びているというのは正確ではないかも知れない。GDPが伸び悩んでいるが正解かも。その一方でパチンコ産業は衰退傾向とは言え14兆6千億円(2022年)と増加しGDP比でも2.6%まで上昇している。IT化とパチスロという新カテゴリーが加わったことも大きいが、広告だって日本経済が成長していれば50年間でこのくらい伸びていてもおかしくはないのだけれど。

インターネットは情報収集や調べ物には至極便利なのだが、広告が勝手に飛び込んできてうるさい(特にリスティング広告)。昔テレビはInvasive Media(勝手に広告が侵入してくるメディア)と言われたが、YouTubeやゲームでも冒頭部や途中で広告に中断されてイラっとさせられる。個人情報も勝手に収集されているようで気分もよくない。ま、先の短い老人の情報を抜いても使い道は老人ホームか墓地か葬儀場くらいなんだけどね。



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子供のころから広告が好きだった(7)

昭和30年代の中ごろお年玉や小遣いを貯めてテープレコーダーを買った。周りにテープレコーダーを持っている家はなかったと思う。確か1万数千円したので子供ながら清水の舞台から飛び降りる決断だった。ソニーは1951年に一般用製品を売り出し、裁判所や小学校を皮切りに浸透させ、本格的に家庭に売り込みをかけたころだった。
夕方に電器屋のおじさんが配達してくれて茶の間で使い方の説明が始まった。デモテープが一巻ついていて廻すと音楽が流れだした。

とっても可愛い坊やだな
どこから来たのと聞いたらば
僕は空の子朝日の子
光と一緒に飛んできた
ソニーソニーソニー
S-O-N-Y SONY
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マスコットのソニー坊やのテーマ曲だ。おじさんは次に録音の仕方を説明し、なにか話せと石鹸箱サイズのマイクを私に向けた。なにを話せばいいのか分からないのと声を撮られるのが恥ずかしいので黙っていると、突然父親が夕刊を音読し始めた。再生すると確かに父親の声だったが、本人はちょっと違うという顔をしていた。最初のIt's my SONYだった。当時トランジスタラジオが大ヒットし、テープコーダーという名称で家庭用テープレコーダーを本格発売し始めたソニーは日の出の勢いだった。

その後も学生時代の4畳半の下宿には父親から奪い取ったマイクロテレビがあったし、会社員になってからは5年の勤続表彰でもらったウォークマンで音楽を聴く毎日だった。日本を代表する家電メーカーで、高品質の自負からかテレビや音響製品など大抵競合品より値段が高かった。でも、あの頃身の回りにはいつもソニー製品があった。
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最近はソニーが軸足を他の領域に移したせいもありSONYの4文字にお目にかかることが少なくなった。うちの中を探してみたら大枚をはたいて買ったテープレコーダで録音したテレビの音楽番組や「夢で逢いましょう」、ラジオドラマ吉永小百合の「お父さん!大好き」などのテープと、カナダ時代に会議の内容を確認するために使っていたマイクロカセットコーダー、飛行機の中で音楽を聴くときに使っていた初期のノイズキャンセリング・ヘッドフォンくらいしか見当たらなかった。

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かつて日本の首相がフランスを訪れた時、当時のド・ゴール大統領が「日本からトランジスタのセールマンがやって来た」と言ったことがあった。ソニーはその頃の日本の勢いを象徴する会社であり製品だった。日本が元気のない最近、ソニーのような会社、井深さんや盛田さんのような起業家、技術者や経営者がまた出てこないだろうかと老人は期待しているのですが。



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子供のころから広告が好きだった(22)


歌も楽しや 東京キッド いきで おしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チューインガム
空を見たけりゃ ビルの屋根 もぐりたくなりゃ マンホール

戦争の傷跡がまだ残っていた1950年に発売された美空ひばりの「東京キッド」の歌詞です。同年に映画化もされ13歳の彼女が主演でした。チューインガムが夢と同等に扱われています。物資欠乏時代のチューインガムは食料の代用品であり数少ない甘味を味わえる食材であった。後年野坂昭如は「チューインガム・ブルース」でこう歌っていた。

あの頃俺は十一で DDTまみれの浮浪児
進駐軍の顔見れば ハングリー ハングリー ハングリーと つきまっとてた
チューインガム チューインガム チューインガム・ブルース

最初は怖かった進駐軍兵士にだんだん近づいていきチューインガムやチョコレートをねだった子供がたくさんいたらしい。それを大人は多分苦々しく見ていたのだろう。少年たちが手にしたのはリグレーガムだったと思う。当時リグレーにはビッグスリーとでも言うべきスペアミント、ジューシイフルーツ、ダブルミントの三ブランドがあった。DAjMgdxXsAAkpJK
やがて日本製のガムも市場に出回るようになった。我が国最初のチューインガムはフエキ糊がゴムの技術を生かして「白龍」というリグレーを模した板ガムを明治42年(1909年)に6枚5銭で出したが甘味料不足で撤退している。大正5年(1916年)にはリグレー製品が輸入され広告も打たれた。その後森永や明治も製造を開始し、昭和に入ってもマサキガムや新高製菓が製造販売を始めたが売れ行きは芳しくなかった。第二次大戦が始まると統制経済のため航空機搭乗員用以外のガムは製造禁止となった。
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日本人の食生活に合わないとか人前で口を動かすのは品がないと言われて浸透しなかったチューインガムだが、戦後状況は一変した。ガムは手軽でかっこいいアメリカンファッションになった。たいした宣伝をしなくても市場は拡大の一途だった。雨後の筍のように400近くのメーカーが見よう見まねでガムを作り始めた。粗悪品も多かった。結局生き残ったのは大手数社と子供用ガムに特化した数社だけだった(現在ガム恊メンバーは18社)。
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1955年当時はハリスが約40%のシェを持つトップメーカーで、酢酸ビニールを使ったガムベースは白かった。当時の広告ではその白さを強調して富士山の写真にかぶせて「山は富士、ガムはハリスの白いガム」と謳っていた。50年代は「東のロッテ 西のハリス」と言われていたが、54年に初の天然チクル配合のバーブミントガムを発売してロッテの反撃が始まる。それまでテレビ広告はスケートをしている少年のアニメ(だったと思う)バックにのんびりした「ロッテ ロッテ ロ~ッテ ロ~ッテのチューインガム、どなたも どなたも ロッテのチューンガム チューインガム(少しうろ覚え)」だったのが、パンチの効いた「天然チクルのロッテガム~」に変った。同年にスペアミント、57年にグリーン、59年にジューシイミント、60年にクールミントとヒット商品を世に送り、その間関西菓子卸を買収し西日本を強化し、61年には翌年に景品表示法を制定する原因となった1000万円懸賞(現在の1億円以上)を実施して遂にハリスを抜いて日本一のガムメーカーになった。
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その他のメーカーでは森永がチクルの本場メキシコ出身のトリオ・ロス・パンチョスをCMに使い「チクレ モリナ~ガ チクレ モリナ~ガ ア~イヤイヤイヤイ チクレ モリナ~ガ」とコーヒーガムなど3品の広告を打っていた。グリコや明治もガムを発売していたし、私が所属していたWLアダムスも61年にチクレット、67年にデンティーンを発売した。デンティーンの新宿西口に乗り付けたトラックから若者たちが降りてきてエレキギターを弾きながら「アメリカ生まれのデンティーンガム」とロック調で歌った広告は今でも覚えている。

ガム市場が縮みはじめて20年近くたち、ピーク時より6割も落ちてしまった。盛り返すのは困難かもしれないが、最近歯科医師や歯科医院が行っている「歯周病を予防するにはチューインガムは有効だ、40代50代はガムを噛んで!」というキャンペーンに期待しましょうか。



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子供のころから広告が好きだった(20)


子供のころ母親はポーラの化粧品を使っていた。まだポーラが訪問販売の頃だ。あのころはポーラだけでなく鎌倉ハムも扱っていた肉屋さん、御前崎から海産物を売りに来ていたおばさんなども訪問販売で来ていた。ポーラの製品は値段も結構高く、母親はクリームや化粧水の裏側に購入日と値段を書いたちいさな紙を貼っていた。

化粧品市場は資生堂やカネボウなどの制度品メーカー、ポーラやノエビアのような訪問販売を主体にするメーカー、通信販売メーカーのファンケルやオルビス、そして製品レンジは広くないが単品を息長く売るキスミー、ウテナなどの一般品メーカーがある。資生堂やカネボウはその頃からテレビや主婦向け雑誌で大量の広告を打っていたし、資生堂は農協の「家の光」という当時日本一の発行部数を誇った雑誌と並ぶ部数を持つ「花椿」という月刊PR誌まで発行していた。しかし私の記憶に残っているのはそうした大メーカー品ではなくどちらかと言えば小規模の一般品・専業メーカーの製品だ。
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子供心に変な名前、こんなんで効くのだろうかと思ったのはヘチマコロン。ご近所の庭に生えているのを見たこともあるし、風呂でタオルやスポンジ代わりに使っていたへちま。発売は大正4年だしへちまを並べたようなカタカナのロゴ、竹久夢二の絵と詩を使った広告は昭和ではなく大正の香りがする。先月発売時のガラスボトルの復刻版を発売した。いまだに根強いファンがいるらしい。
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桃谷順天館の明色アストリンゼント美顔水も妙に記憶に残っている製品だ。アストリンゼントは収斂を意味するらしく毛穴を引き締め化粧崩れを防げると謳っていた。ラジオ広告の「美人は夜つくられる」というコピーはうっすらと覚えている。これも母親の化粧台にあったような気がする。後年アルカリイオン整水器が副産物でできる弱酸性水をアストリンゼンとして使えると広告していたのも記憶に残っている。胡散臭いと思ったらマルチ商法のようだった。美顔水は創業者の桃谷政次郎が妻のニキビのために作った化粧水が評判になり製品化された。最近では男性用の美顔水まで売り出されている。大容量の美顔水もあり、このボトルもヘチマコロンの復刻ボトルもノスタルジックで素晴らしいデザインだと思う。
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洗顔剤ではなんといってもロゼット洗顔パスタ。テレビや新聞広告で黒子さん白子さんのシリーズがずっと流れていた。今じゃNGでとても無理だろうな。これも「硫黄温泉に入ると肌がすべすべする、白くなる」と聞いた創業者が硫黄を使った洗顔料、それも固形でなく軟膏状の開発を始めた。販路がなかったため突き出し広告を打ち、価格分の切手を送ると製品を発送するという通販の原点ような商法で土台を作った。戦後ロゼットに名前を変え、容器も変更して再スタートを切った。内蓋を押すと製品が出てくる他にはないユニークなパッケージだ。ふたを開けると軽い硫黄のにおいがする。280円という当時としては超高級品だった。我が家では家内がずっとこれを使っている。
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最後はマダムジュジュ。発売されたのは戦後5年目の1950年。発売当初から若い女性ではなく奥様をターゲットにした点がほかの化粧品と少し違った。まあマダムといっても当時の女性初婚年齢は23歳だったので(現在は29.6歳)今より若い奥様ターゲットを狙ったのでしょうね。初期の広告には「25才以下の方はお使いになってはいけません」という刺激的なコピーが使われている。製品に卵黄リポイドエキスが入っており、それが若い人には栄養が強すぎるというのが理由らしい。そう言いながらそのあとには「25才以下でも奥様ならお使いになれます」とよくわからない説明が続く。しかし「結婚したらマダムジュジュ」が定着し母から娘へ受け継がれて主婦層に根強いファンを持っている。
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製品はなんだか懐かしいかつての母親の化粧台の匂いがする。ただ45グラムと今どきの化粧品よりこじんまりしていて、推奨している「マダムパック」をすると10回くらいでなくなりそうだ。現在でも「25才はお肌の曲がり角」というフレーズはよく使われるが、これは60年前のマダムジュジュの広告に発するものだ。そしてその後はマダムジュジュのメインコピーとなった。消費者団体からは、根拠もないのに25才が曲がり角とはなにごとだ、とクレームがついたらしい。昭和30年あたりに販売はピークを迎えたがその後盛り返すことはできなかったようで、ジュジュ化粧品は2020年9月に小林製薬に吸収合併されてしまった。
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子供のころから広告が好きだった(5)

毎日のようにけたたましい歌がテレビから流れてきた。歌っているのは楠トシエだった。

クリクリ三角小さなドロップ ヴィックスヴィックス しゃれた味
ドレミファお喉が エッエッエッ お~やおやおや どうしたの
一粒クチュクチュなめてごらん ヴィックスヴィックス いい気持ち
あなたも私もチュッチュッチュッ ほ~らほらほら スッキリね

日本で最初の集中スポット広告キャンペーンだと言われている。それまで日本の広告主は番組を一社提供し、その中で長尺(60秒、時には3分)の広告を流すことが多かったのに対し、一定期間その地域民放全局のステブレ(番組と番組の間の時間)を買いまくり認知を一気に上げようというキャンペーンだった。外資の製薬会社は日本の会社と比べて営業マンの数も少ないしリベートなどの条件も良くないので、卸店や小売店はなかなか取扱ってくれない。広告を大量に流して消費者に名前を覚えてもらい、日に何人もの客が店頭で「あのクリクリ三角」のドロップくださいと言えば、いつもは利益率の高い薬を推奨販売している薬局も利幅が低い製品を置かざるを得なくなる。こうして高い指名買い率を武器にヴィックスは短期間でトップブランドになった。
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歌っていた楠トシエ(現在93歳でご存命です)は実力派の歌手であり「お笑い三人組」などにも出演していた女優でもあったが、コマソンの女王と呼ばれていた。当時CMソングのほとんどは女性歌手が歌っていたが、個人的な印象ではコマソンの6割くらいは彼女だったような気がする。発売時のハウスバーモントカレー「とろりとけてるリンゴとはちみつ」も「カッパッパ~」の黄桜も「シチズンCちゃん」も「とんとんトマトまっかっかのカゴメ」も「カーンカーン鐘紡」も彼女だった。のちに楠の後をスリー・グレイセス、遅れて天地総子が続いた。天地総子は楠トシエの倍くらいの2000曲のCMソングを歌ったが存在感は楠の方が圧倒的だった。広告総量が少ない時代だったので目立ったこととCMソングが長かったので記憶に残りやすかったのがその理由だと思われる。


学校にお菓子を持っていくのは禁じられていたが、先生に咎められても「これ薬です」と言い逃れたことが何回かあった。甘いオレンジ味が好みだった。まさか20年後にヴィックスの仕事に関わるとは夢にも思っていなかった。


クリックするとCMの動画が見られます。
https://www.youtube.com/watch?v=TPKdeHULc38&fbclid=IwAR0NsT289wzM5B5Odh9FtGcISPYzGRUA0K-UOolY8Vk7mnzKki4vTBMFv_Y




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子供のころから広告が好きだった (18)
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洗口液のリステリンが生まれたのは1879年です。誕生から141年間処方を変えていないと言われる稀有な製品です。外科医のリスター博士が手術時の消毒用に開発したものをランバート製薬が外科手術の消毒薬として世に出しました。一時期床掃除クリーナーや淋病薬として売られたこともあったのですが、その後口腔内の殺菌効果があることが判明し、1914年に一般向けのマウスウォッシュとしての発売が始まりました。同時に雑誌や新聞で広告を打ち始め、いわゆる「脅迫広告」で成功を収めわずか7年で11万5千ドルの売り上げを8百万ドルまで増加させたとのことです。その広告は「付添人ばかりで花嫁になれない」のキャッチコピーを使い、口臭故に結婚できない女性を悲劇のヒロインにして30年以上続けられました。初期の広告では通常使われるbad breathではなく医薬用語のhalitosisを使用したことも脅迫効果を高め成功の一因と言われました。このシリーズは廃刊となった雑誌「広告批評」でも「おどし広告」「ネガティブ広告」の原点として紹介されています。
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しかしこの成功の後リステリンは迷走をし始めます。マウスウォッシュの他に、傷にも、風邪にも、のどの痛みにも効くと広告で言い始めたのです。なんにでも効くは下手をするとなんにも効かないととられるリスクがあるのですがね。このあたりはひび・あかぎれ、擦り傷、にきび、やけどから水虫、たむしと拡がり浪花千栄子の「痔にも効くんですよ」のCMまで流したオロナイン軟膏を思い出させます。ダウンロード (2)
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その後1930年頃の広告では髭剃り後に、とかフケにも有効だというものまで出始めました。
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こうした効能追加でどのくらい売り上げが上がったかは分かりませんが、製品の輪郭が呆けたことは確かだと思います。1976年に恐れていたことが起こります。FTC(米国連邦取引委員会)が風邪やのどの痛みに効くという表現は誤解を招くだけでなく予防や緩和する点に関して効果はないと裁定したのです。製造販売元のワーナー・ランバート(WL)社はこれらの広告表現を中止するだけでなく以降の広告で「リステリンは風邪やのどの痛みを予防することも軽減することもありません」の文言を加えることを要求されました。

しかしその後はマウスウォッシュとして順調に伸び、アメリカではほとんどの家庭の常備品となり、スーパーでは何間ものスペースをあてがわれる製品となりました。1999年にはWL社買収によりファイザー社の製品となり、2007年にはジョンソン・アンド・ジョンソン社の傘下に入って現在に至っています。

日本では1985年にテスト販売が始まったのですが、私がWL社に入社した時は発売前のリステリンはプロダクトマネジャーとセールスマネージャーのたった二人の事業部でした。何年も製品を出せずにいたプロマネのTさんはいつも暇そうで時々私の部屋にやってきて「何度製品テストをしても購入意向率が低くて経営陣がOKをくれない。それにテストをしても多くの対象者が刺激が強すぎて製品を30秒口の中に含んでいられなくて吐き出すからテストにならない」とぼやき、セールスマネージャーのFさんはアメリカンドラッグで輸入品を買った消費者から「パッケージにフケに効くと書いてあるからずっと使っているが全く効かない」とクレームを貰ったと呆れていました。(口に含むのではなく頭皮にかけてマッサージするのが正解です)

コロナ禍の今、我が家の洗面所でリステリンはその存在感を増しているようです。



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子供の頃から広告が好きだった(17)

テレビ広告が始まったころCMのほとんどは60秒だった。精工舎の時報広告も最初は60秒だったし、番組内の広告は生CMが中心で3分の生CMもあった。発売されたばかりのチキンラーメンのCMはお湯をかけて食べるまでの3分生CMだったのを覚えている。1961年に15秒CMが流れるようになり、翌年から5秒CMが放映され始めた。5秒という短尺なので記憶に残るようなキャッチーなフレーズとブランド名を記憶させる工夫を凝らしたコマーシャルが流れた。

今でも覚えている5秒CMのフレーズは「なんである アイデアル」、「コニカはコニカ いいと思うよ」、「インド人もびっくり」、「アサヒスタイニー アッ」などだがその他にもたくさんあったと思う。総量としては決して多くはなかったと思うが印象は結構強烈だった。しかし短尺CMは製品の特徴を訴えるより認知を獲得することを主眼にしたためあざとい表現が増え、コスト安で露出頻度も増加したためしつこくてうるさい印象が強まり、1965以降はキー局の5秒枠の販売停止もあって激減してしまった。
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しかし高騰するメディア費に対応するため広告主サイドも新たなアイデアを絞り出し、CMの最後の数秒に他の製品広告を加えるタグオンという手法を使い始めた。例えば有名な例では、オリエンタルスナックカレーのCMの末尾に「ハヤシもあるでよ~」を付け加えたり、オロナミンCの広告の最後に「ボンカレーもよろしく」を足すなどのダブルブランド広告である。が、これも局側が広告総量が増えた印象を与えるとして規制されるようになり、現在では同じブランドのラインエクステンション製品だけに可能のようである(今日見たのは、歯磨き粉のCMの最後に同ブランドのマウスウォッシュの宣伝)。

個人的には5秒CMは好きだ。短いうえに音声にはノンモン部分を加味せねばならず、実際には4秒しか使えない。それだけ制作者は知恵を使って広告を作る。主流である15秒CMも製品特徴や対競合優位性を訴えるものは少なく5秒で十分だと思わせるCMも多い。最近ではYouTubeの頭にCMが入ることが多く、4秒後にスキップできるものもあるがスキップ機能のないバンパー広告と呼ばれる6秒CMも増えている。6秒は我慢できる限界内のような気がするし、音を出さずに聞くことが多いモバイル環境で画面さえ魅力的であれば苦も無く見終えてしまう。これは専用のCMが作られていることとも関連していると思う。TV用に作られたCMをそのまま流すと小さな画面には向かない画像が多く、かつ音声に依存しているので無音ではメッセージが伝わりにくいのはトレインチャンネルで経験済みだ。モバイル専用CMはこれらを解決し、かつリアクションも早いので問題点をすぐ修正して流すことも可能だ。

モバイルだけでなくアメリカではTVでの6秒CMも流され効果の検証が始められている。価格面ではそれほど優位ではないが注視率が高いこと、特に普段TV広告に関心があまりない層で高いことが報告されている。アメリカでも日本同様テレビ離れが起きていて、その一つの理由がCMの多さだと言われている。CMのないNetflixなどのビデオオンデマンドサービスに対抗するためにも広告総量を減らすことができそうな短尺CMに期待したい。




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今年の7月が例年になく涼しかったので酷暑の8月はより暑く感じられた。老人には堪える夏だった。ペットボトルのお茶やスポーツ飲料をがぶ飲みしたし、普段はほとんど飲まない炭酸飲料も良く飲んだ。たまたまスーパーの棚で見つけた懐かしのドクター・ペッパー、10年ぶりに飲んだファンタ・グレープ、そして久しぶりの瓶のコカ・コーラなど。新卒で入社した広告代理店でコカ・コーラ社製品を担当し、その20年後にペプシ・コーラで仕事をしたことを飲みながら思い出した。

ドクター・ペッパーは日本ではコカ・コーラから販売されているが、もともと同社の製品ではないアメリカ第4位の競合ブランドだ。当時の東京コカ・コーラボトリングなど3社が日本コカ・コーラに造反して1970年代に製造販売を始めた。販売前から大量のティーザー広告を流したことを覚えている。インディアンが大地に耳をつけてこちらに向かって疾駆してくる蹄の音を聞いているシーン覚えていませんか? ジングルは「ジュースじゃない、コーラじゃない。ドクター・ペッパー」でしたね。販売エリアが限られていたことや日本人があまり好まないチェリー味ベースであったこともあり、一部の熱狂的なファンがいるもののアメリカほどメジャーにはなれなかった。日本コカ・コーラは対抗するために味がそっくりなミスター・ピブを発売し広告サポートをしたがこれも短命に終わった。こちらのCMソングはカントリー調で「帰ってきたのさ 素直なひととき 自分に帰るのさ」で始まったと記憶している。

ファンタは最も飲んだ炭酸飲料だ。大学時代に銭湯で湯上りに飲んだのはいつもファンタだった。銭湯代が32円なのにファンタが35円とはなんだか納得できないと思いながら飲んでいた。飲むのはいつもグレープ味でこんなうまい飲料はないと思っていた。確かコカ・コーラが年間30億本くらい売れている時にファンタはそれより約1割多く売れていたはずだ。当時のCMのキャッチは「僕のファンタ飲んだのはだーれ?」で10年近く使われた。グレープを飲むと舌が少し紫色になった。その後三重大学の先生がファンタの着色料を問題視しファンタ・グレープでセーターを染める実験まで本に載せてから売り上げが下がり始めた。メーカーも着色料を変えるなどしたが自販機のファンタが退色するなどの事件もあり低迷が続いた。2020年3月に果汁13%のファンタ・プレミアグレープが発売されヒット中なのは久しぶりにうれしいニュースだった。でもなかなか製品を店頭で見つけられない。
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新入社員の時に上司から「これ読んでおきなさい」と一冊の新書を渡された。タイトルは忘れてしまったがコカ・コーラについての本だった。ドクター・ペンバートンがコークを作った経緯や特徴的なロゴの出自などが書かれていたがその他いくつかが記憶に残っている。①コークのユーザーの多くは年配者だ。第二次大戦の戦場で疲弊してキャンプに戻ってきた兵士を冷えたコークが待っていた。つい先ほどまで生死の線上にいた彼らにとって冷えたコークは単なる清涼飲料水ではなかった。そこまでしてくれたことを国に戻っても忘れない彼らは年をとってもコークのロイヤルユーザーであり続けた。②コークのボトルはコンツァーボトルと呼ばれ当時の女性のスカートを模したとも言われるが、開発のコンセプトは暗闇で触ってもコークと分かることだとされている。そういえばファンタボトルには波が何層にも付き、スプライトのボトルには小さなイボイボが付いていた。同じ発想なのだろう。③戦後アメリカ製品がどっと日本に入って来たとき三つのCが日本製品を駆逐すると言われた。最大の脅威はCoca-Colaでサイダーなどは消滅すると思われ同業者はコークを買っては製造コストが高いボトルを全部割ったそうだ。しかしサイダーもラムネも生き残った。もう一つのCはColgateだが、これもライオンや花王は頑張って勝ち残った(初期のJV花王コルゲートが失敗したせいもあるが)。


最近はPETボトルばかりで瓶コーラに出会わないし(瓶の方がおいしいのに)、真夏なのに今年は広告も少ない。昔は良かったとは言いたくないがあの頃の輝きは失せつつある。おまけに今日コカ・コーラ社は事業部門を半減し少なくとも世界で4000人の希望退職を募ると発表した。輝きは失せたのかもしれない。



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子供のころから広告が好きだった(16)

小学生の頃、保守的な街で母親は当時としては珍しく活動的で、毎週カルチャーセンターのコーラスに参加したり、マチネだったと思うがコンサートにも出かけていた。帰ってくると、(当時NHK名古屋のアナウンサーだった)下重暁子がかわいかった、とか立川澄人は上手い、とか(当時モデルだった)岡田真澄はいい男だわとか呟いていた。家の中でも掃除をしながら、食事を作りながらいつでも練習中の歌を口ずさんでいた。

ある時コンサートのプログラムが置いてあったのでパラパラとめくっていたら、ヤマハ(だったと思う)の広告にその美少女が載っていた。ハーフなどほとんどいなかった時代、もちろん国民的美少女コンクールもなかった時代にこんな美しい少女がいるなんて。多分あの頃鰐淵晴子の写真を見た少年はみんな恋に落ちたと思う。そのくらいの衝撃だった。ネットでその広告を探したが見つからなかった。その頃の彼女の写真にはこんなものがある。

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隣にいるのは原節子。と言うことは初主演映画「ノンちゃん雲に乗る」からのカットだと思う。母の本棚にはこの原作本もあってそこにも彼女の写真が載っていた。幼い時から天才バイオリニストと呼ばれ、子役デビューしてからは姉妹で競わないようにとモデルもしていた妹の朗子がバイオリン、晴子が女優の道に進んだ。下の写真の左が晴子、右が朗子。
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その後「乙女の祈り」「伊豆の踊子」「あんみつ姫の武者修行」などの主演、トニー・ザイラーと共演の「銀嶺の王者」など多くの映画に出演したが大ヒットとまではいかなかった。二度の結婚を経て再度映画やテレビに出るようになったが役柄はがらりと変わった。若いころの美貌に凄みが増し「らしゃめん」「悪魔が来りて笛を吹く」「八つ墓村」などかつての清純派女優とは全く異なる妖艶な悪女役でその存在感を示した。

でも、そういう役もよかったのだけれど数十年前に胸躍らせた少年の脳裏にはあの頃の愛くるしく清楚な美少女鰐淵晴子の残像がいまだに留められているのです。

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子供のころから広告が好きだった(15)

今でこそビール飲料第一位を誇っているアサヒビールですが、1980年代中旬までは落日の「夕日ビール」と揶揄され、いつ後発のサントリーに抜かれて第四位に落ちてもおかしくないメーカーでした。1950年代初頭までは49年に集排法(独禁法)で分割された大日本麦酒から生まれた朝日麦酒、日本麦酒(サッポロビール)の二社とと麒麟麦酒の三つ巴だったのが、1954年に麒麟がトップに躍り出てからは他社を引き離し、70年代にはシェアは60%を超え65%を伺う勢いでした。

ビールメーカー国内シェア推移2018年
「日本には二種類のビールしかない。キリンビールと、その他のビールだ」。当時そんなことが言われていました。これ以上シェアが上がると大日本麦酒のように独禁法に抵触するかもしれないと考えられ、積極的な販促案や広告は実行されずにいました。その頃のキリンビールの広告の典型例が「どういうわけか、キリンビール」。流通対策上広告は打たなくてはいけないが、あまり派手にやると分割対象になるかもしれない。作り手のそんな気持ちがマーケターには感じられる作品でした。

(クリックすると「どういうわけか、キリンビール」のCMが見られます)
https://www.youtube.com/watch?v=n0TdiT24P54

しかしこの頃競合のサッポロも三船敏郎を使って「男は黙ってサッポロビール」のシリーズを流し、アサヒはずっと「アサヒビールはあなたのビールです」のコピーを使っていて各社製品差別化などあまり考えずブランドイメージだけで勝負をしていた時代でした。他の製品と比べると製品間の差が大きくないビール業界だからだったのかもしれません。

その後日本でもアメリカの後追いで缶ビールが伸長し市場には「キリンビール、その他のビール、缶ビール」の三種と言われるようにもなりました。缶ビールは50年代末に発売されたのですが当時はスティール缶で三角穴を二つ開けて飲むタイプでした。瓶よりも冷えやすいだけが売りでした。それが65年にプルトップ缶が出、71年にアルミ缶が世に出るとビール自販機の伸びと相まって一気に市場を創造しました。缶ビールの強みは大瓶と比べると飲み切りやすい内容量、瓶はケース買いが主流でしたが1缶は1本または6本で買えること、冷えやすさ、昼間に飲むときに栓抜きで栓を開け構えて飲む瓶とは違って後ろめたさが少ないことが挙げられました。1998年には缶がビール全体の5割に達し、現在では75%を占めると言われています。

ビール市場は70年代中旬は「生」合戦、80年代は「容器」合戦で波乱気味の様相でした。83年にアサヒのスーパードライが世に出てドライ戦争がはじまり90年代半ばまでは市場が伸び続けましたが、それ以降は発泡酒や第三のビールの導入にもかかわらずほぼ四半世紀のあいだ縮小を余儀なくされています。人口減、若者の酒離れ、圧倒的に高いビールの酒税などがその理由とされています。昨年10月の消費増税の影響や、2026年まで段階的に行われる予定の発泡性酒税の改正でビール市場がどうなるのか見守りたいと思います。



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https://www.slideshare.net/Mooming/advertising-154055512


クリックするとプレゼンテーション資料が表示されます。
広告に関する32ページのスライドです。





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子供のころから広告が好きだった(10)

トン トン トマト まっかっかのカゴメ
坊やのほっぺも まっかっかのカゴメ

まだ社名が愛知トマトの頃から始めたCMソング(創業時は愛知トマトソース製造)。これも歌っていたのは楠トシエだった。たしか3番はこう終わっていた。

カゴメ カゴメ 明日も天気
母さん呼んでる 夕ご飯
チップチャップケチャップ ランランラン
ジュースもソースもカゴメ

家の裏の空地で夕方まで三角ベースをしていると、母親が「ご飯よ~」と叫んでいたのと重なるのでよく憶えている。確かに名古屋ではケチャップもソースもカゴメだった。

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トマトジュースはドロッとしていて好きではなかったが、槙みちるが歌うカゴメのイメージソング「トマトジュース乾杯」というレコードを買ってから少しずつ飲むようになった。「若いってすばらしい」のヒットを持つ同い年の初期アイドルは引退してスタジオミュージシャンになり、ジャスやスタンダードを今でも歌っている。数年前寺尾聡のバックコーラスをしているのをみて相変わらずの歌唱力と声量にちょっと感動しましたね。

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上京して関東ではブルドックソースやキッコーマンが強いのを知り、関西ではイカリソースやオリバーソースが市場を席巻していると聞いたが、ケチャップとトマトジュースはどこでもカゴメが圧倒的だった。最近はスーパーでカゴメブランドの生トマトまで売っている。アスタキサンチンとならぶ抗酸化物質のトマトリコピンが注目され業績も順調らしいが、トマトだけではいかんと思ったのだろうか、少し前の日経の見開き広告は「トマトの会社から、野菜の会社に」がヘッドコピーだった。

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子供のころから広告が好きだった(8)

日本で最初のラジオ広告は1951年に中部日本放送(CBC)で流れた精工舎の時報広告でした。2年後には最初のテレビ広告が日本テレビでオンエアされました。これも精工舎の時報広告でした。初めのころは60秒でしたが、だんだん短くなりそのうち15秒の時報広告が全民放局の全時間に流れるようになりました。「精工舎の時計が午後7時をお知らせいたします」プッツプッツプッツ ポ~ン。

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働き始めてしばらくしてRoad Blockingという手法を聞きました。全局の同じ時間を買って民放を見ている全世帯にCMメッセージを一度に届けるリーチ(広告到達率)を最大化する方法です。実行するのが難しく効率も良くはないのですが、昔セイコーがやっていたなあと思ったものです。

個人的にはシチズンのテレビCMが印象に残っています。アニメ広告で、歌っていたのはやっぱり楠トシエでした。

シチズンCちゃん窓の中
時計の小窓の窓の中
シチズンCちゃんこう言った
お腕の時間は引き受けた
姿もすっかり引き受けた
時計のことなら引き受けた

キャラクター全盛の時代でナショナル坊や、ソニー坊やと並んでシチズンCちゃんも人気者でした。中学に入るときに買ってもらった初めての腕時計はシチズンだったし、そのあと買い換えたのもシチズンでした。当然手巻きで、当時としては珍しい目覚まし付きでした。ちいさなハンマーがケースを叩き、音と振動でアラームになるという面白い時計でした。時計をすることもなくなり、去年ネット・オークションで売ってしまいましましたが・・・(買ったときより高く売れました)

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約20年前のうろ覚えの話です。米ペプシコは100周年を記念してロゴの変更を予定していました。それまでの赤の土台にブルーのPEPSIを乗せたロゴから、青地のバックに赤・青・白の三色で描いた地球のような円形ロゴへの変更でした。日本サイドでは翌年の導入に向けての新ロゴ告知プランの目玉として画期的な案がありました。月にペプシの丸い新ロゴを投影しようというものでした。レーザーを使えば可能で、業者に機材も予算も確認済みでした。新月の日を選んで投影すれば鮮やかに月がペプシのロゴに化けます。日本だけでなく近隣の国からも見ることができます。当然のことながら神聖な月を汚したと非難もでるでしょうが新ロゴ認知はそれ以上にあがります。コカ・コーラとの1:9のシェアがペプシマンCMの成功で少し改善された時期で、さらに弾みがつくのではと期待されました。
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しかしその数か月後にサントリーが日本におけるペプシ製品のマスターフランチャイズ権を取得してペプシコーラジャパンは消滅しこのプランは流れてしまいましたが、久しぶりに胸高ぶった計画でした。翌年サントリーは宇宙の旅プレゼントキャンペーン(2001 Space Tour Pepsi)を実施しましたが、何年か先の宇宙旅行より月面ロゴの方がインパクトは大きかったのではないかと今でも思います。やりたかったなあ。1997年の話です。

結局サントリーは宇宙の旅を実行することができず、かわりに5人の当選者には現金1000万円(当時の賞金の上限額)を支払って決着したとのことです。

(下のロゴが旧ロゴです)
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下記の映像はYouTubeで見つけた2012年にイランで撮影されたと言われるものです。合成されたものっぽいですが実際に投影するとこんな感じになるのだと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=eWx214mQ3To

https://www.youtube.com/watch?v=eWx214mQ3To



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https://www.youtube.com/watch?v=Uy9yd1bLftY&fbclid=IwAR22sXGP-WRPgB2ShG0gK0Q62ozZ1SYP_GfSrNcMH9xarraUio4k-Mfxc1c

クリックするとCMが見られます


子供のころから広告が好きだった(3)

森永の広告が記憶に残っている。これも社名も製品名も入っていないが誰でも森永の広告と分かる。

誰もいないと思っていても
どこかでどこかでエンゼルは
いつでもいつでも眺めてる
ちゃんとちゃんとちゃんと
ちゃちゃんと眺めてる

やさしくて暖かくて良い広告だと思う。昔はモノクロのアニメだったが見つけたのはカラー版。グリコ・森永事件の後、会社存続の危機にこのCMに立ち返ったのは、この広告が森永魂を表しているからなのでしょうね。

森永でも乳業のほうのCMソングも好きだった。夕方の番組の前に入っていた。やはりモノクロのアニメーションで、丘の上で草の上に座った少年が空を見上げている。

マ ミ ム メ 森永 流れ雲
青いお空の牛乳よ
バ ビ ブ ベ 坊やも眺めてる
マ ミ ム メ 森永 流れ雲

記憶だけで書いているので違っているかもしれないが、画面はモノクロだったが真っ青な空に白い雲が浮かんでいて、それが流れて牛乳のように見えたことは未だに覚えている。ああ、そうだ、あの頃は瓶入りの牛乳が毎日配達されてたのだった。自転車の荷台で瓶がぶつかってカタカタと鳴る音を思い出した。


(追)エンゼルも時代とともに変わってきたのですね。

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子供のころから広告が好きだった(9)

サラリーマンの家庭にも昔はけっこうな数のお中元やお歳暮が来た。たいていはみかんの缶詰、石鹸、味の素の詰め合わせだったり豊年製油セットだったが時々変わったお中元もあった。

記憶に残っているのは、飛行機に乗ったことのある人など周りには皆無だった時代に航空便で北海道から送られてきたすずらんの花束。開けるといい香りがして母親が喜んでいたのを覚えている。しゃれたことをする人がいるものだと子供心に思った。

もうひとつは瓶に入った茶色の液体。家族のだれもなんだかわからず暫く放っておかれた。冷やして飲むことすら知らなかったので日本で製造が始まった1957年から「コカ・コーラを飲もうよ、コカ・コーラを冷やしてね」の広告が始まった1962年の間だと思う。暑い夏の縁側で一人で恐る恐る栓を開けた。茶色の液体は噴きこぼれてあたりに散らばり中身の三分の一は無くなった。残った液体は水薬の味がして一口でやめた。

1962年以降春から夏にかけてコカ・コーラの広告は大量に流れ、フォーコインズ、ジミー時田、加山雄三、ピンキーとキラーズ、ワイルトワンズ、フォーリーブスが、70年代に入ると赤い鳥、西郷輝彦、朱里エイコ、布施明、森山良子、かまやつひろし、ビリーバンバンがCMソングを歌っていた。どれも映像が素晴らしくて庭で遊んでいても広告が始まるとテレビの前まで走った。今は亡きティナ・ラッツが出ているCMが好きだったなあ。「コークと呼ぼうコカ・コーラ」のCMだけは「コークって?」と当時意味が分からなかったが、その十数年後社会人になって初めて配属された部署は「コーク・リエゾン」と呼ばれていた。

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飲み始めたのは大学に入り下宿生活で銭湯通いをした頃。おいしかったけど銭湯代が30円で湯上りのコーラが35円はなんだか納得できなかった。コーク・リエゾンではメディア・プランも作ったが、テレビ局に送るCM素材指示表(進行表)を書く時間が一番長かった。コンピューターもなく数人で全88民放局宛の6枚カーボン用紙に一日数時間力を込めて「コカ・コーラ檀一雄ファミリー編・15秒・改」などと書いていた。(檀一雄ではなくデビューしたばかりの檀ふみが主役)。おかげで今でも右中指はすこし曲がったまま。

楽しい職場だったし学ぶことがたくさんあった。この経験があったから後年ペプシ・コーラで働く機会を得ることができた。ま、11カ月後にサントリーにマスター・フランチャイズ権を買われて失業することにはなるのだけれど…

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今ではコークやペプシを飲むこともほとんどなくなった。たまに無性に飲みたくなるが、瓶から飲みたい。どうして瓶製品をもっと売らないのだろうか、おいしさが全然違うのに。レストランやバーでしかお目にかからない。この辺りだとモトマチに瓶の自販機が一台あるだけ。



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子供のころから広告が好きだった(6)
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花びらのタッチ スコッティ

ベルベットタッチ スコッティ

チュチュ姿でピルエットしながら歌っていたのはアメリカ留学から帰ってきたばかりの松島トモ子でした。「アメリカではどのご家庭でも…」と皆があこがれていたアメリカ的生活をチラリと見せるような広告でしたね。鼻をかむと顔がヒリヒリするチリ紙しか知らなかった日本人からみるとびっくりする柔らかさで箱に入っているのも驚きでした。「こんなんで鼻かんでる国に勝てるわけはないなあ」と言った大人の言葉に妙に納得したものでした。

毎年夏になると流れる「ミネラ~ル麦茶」のCMや「ライオンに襲われた女優」として知られる松島トモ子の子供時代の人気はすごいものでした。前回楠トシエのCMソング占拠率(?)が6割くらいあったのではと書きましたが、松島トモ子の当時の少女雑誌表紙占拠率は8割くらいある印象でした。「少女」の表紙モデルを10年間続け、他の少女誌だけでなく「平凡」「明星」の芸能誌、「小学六年生」などの学習誌の表紙にもあの大きな瞳と愛くるしい笑顔で毎月のように登場しました。残りの2割を小鳩くるみ(今では大学教授!)、古賀さと子、近藤圭子、渡辺典子などが競っていたと記憶しています。

雑誌の表紙だけでなくラジオやテレビでも彼女の歌がよく流れていました。歌を歌い、数十本の映画に出演し、芝居もして、バレエを踊り、かつ学校の成績はいつもオール5という記事がよく芸能雑誌や少女誌に載っていました。当時一番のマルチタレントでした。今でいうと芦田愛菜と橋本環奈を足したような存在でしたね。
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そのティッシュペーパーはあっという間にチリ紙を駆逐して家庭の必需品となり、今では5箱パックが200円強で売られるようになりました。オイルショックの頃セブンイレブンでひと箱200円(それも2枚重ねが100組の計200枚つまり今の半分の量しか入っていなかった)で買った記憶がある自分には信じられない価格です。山陽スコットのスコッティと十条キンバリーのクリネックスが市場を席巻していたのですが、日本の製紙メーカーも参入し価格競争が激化したようです。その後アメリカでも日本でも製紙業界では合併が相次ぎ、今ではクリネックスとスコッティは同じ会社から発売されています。つい数か月前両製品を買ってはじめて気づきました。迂闊でした。

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子供のときから広告が好きだった(1)

小学2年の時に我が家にTVが来た。町内で2番目だったと思う。1番は父親が勤める鉄鋼会社の重役だった。課長の父親が先に買うわけにはいかなかったのだろう。14インチのブラウン管で確か値段は10万円ちょいだった。大卒の初任給が1万円強だったからかなりの贅沢品だった。NHK一局だけしかなく放送は夕方から始まった。1年後中部日本放送(CBC)が開局しテレビ広告に接するようになる。

日本で最初のCMソングは1951年9月にCBCラジオと新日本放送(現毎日放送)で流された小西六写真工業の「僕はアマチュアカメラマン」とその数日後に流されたサンスターの「ペンギンの歌」だとされる。「アマチュアカメラマン」は三木鶏郎の作詞・作曲で当時の人気歌手灰田勝彦が歌っていた。
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僕はアマチュアカメラマン

素敵なカメラをぶらさげて
可愛い娘を日向に立たせ
前から横から斜めから
あっち向いてこっち向いて
はい パチリ!はいいけれど
写真ができたらみんなピンボケだ
あらピンボケだ おやピンボケだ
嗚呼みんなピンボケだ

曲の人気はすこぶる高かったが、歌詞の中の「みんなピンボケだ」「二重撮り」「露出過度」などが気に入らなかった写真店主の間では評判は芳しくなかったらしい。TVで見た記憶はないのだが「ペンギン」のテレビ広告はよく憶えている。
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氷のお山ですまし顔

いつも気取って燕尾服
もしもステッキ買い込んで
黒いかばんを持ったなら
とても立派なお医者さん
ペンギンペンギン可愛いな

モノクロのアニメーションにこの歌が乗っかっていた。個人的には「オーロラ輝くその中で なんとお洒落な燕尾服」で始まる2番のほうが気に入っていたのだが、2番を憶えているということは60秒かそれ以上の広告だったのだろう。当時1分のCMや3分の生CMはごく普通にオンエアされていた。一社単独提供番組の中で番組の一部のように流され、憶えられ、流行し、レコードになったりNHKで流されたりもしたそうだ。

今では考えられないが、この2曲には社名も製品名も一切登場しない。現在のイメージソングのような感じかもしれない。金と時間をかけ、クリエイターに全面的に任せる。テレビ広告の揺籃期はのどかでおおらかで良い時代だった。


僕はアマチュアカメラマン、下記をクリックすると聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=WPC6C289u3E

サンスターのペンギンは下記です。
https://www.youtube.com/watch?v=j0xT5kDHjSg





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子供のころから広告が好きだった(14)

どんなものなのか理解できなくても広告で「OO配合」とか「有効成分OO」と言われると昔からなんとなく信じてしまう。私は単純な人間です。

子供のころミツワ石鹸の薬用「ミューズ」のテレビ広告の「G11アネガム(だったと思う)配合」の文言を見て、どんな菌でも殺してしまうんだと思った。花王がP&GのHead & Shouldersのコピーであるメリットシャンプーを発売した時も「ジンクピリチオン」という成分名をすぐ覚えたし何年間か使ってもいた。
G11アネガムもジンクピリチオンもどんな成分でどう機能するのかも知らなかったが、仕事をするようになってこれらが消費者ベネフィット(使用することによる利点)を強化・正当化するRTB(Reason to Believe)だと教わりました。

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クロレッツを開発し広告を制作している時に、当時の米国人社長に言われました。クロレッツはコンセプトで売る製品です。テレビ広告では効果は当然だが、我が社独自の有効成分である「アクチゾル」を前面に出して宣伝しなさい。でも決して、決して「アクチゾル」がなんであるかを広告内で語ってはいけない。消費者にMagical Recipeだと思わせなさい、その方が消費者は信じやすいのですよ、と。

さっき調べたら家にあるミューズのパッケージには「G11アネガム」の文字は既になく、メリットからも香りが悪いという理由で「ジンクピリチオン」は外されている。今日店頭で見たクロレッツにも「アクチゾル」の表示は見当たらず(原材料表示から推測するとまだ含有されているはず)、「緑茶ポリフェノール配合」の表示だった。こんなどこでも使われている有効成分では分かりやすすぎてありがたみに欠ける。あのRTBやMagical Recipeはどこに行ってしまったのだろうか。

下をクリックすると1984年の田中裕子主演のメリットのCMが見られます。「ジンクピリチオン」出てきます。ちなみにアメリカP&GのHead & Shouldersはいまだに「ジンクピリチオン」配合です。

https://www.youtube.com/watch?v=4k5ga54PJ6o


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子供のころから広告が好きだった(13)

子供のころ髪は石鹸で洗っていた。当時石鹸はお歳暮やお中元の主役格で、テレビではミツワ石鹸や牛乳石鹸のCMが毎日流れていた。ミツワは「名犬ラッシー」の単独提供社で、オープニング曲はこんなだった。

ラッシー ラッシー ラッシー ラッシー バウワウワウ
ラッシーがバウワウ吠えるとき きっと何かが起こります
今日のお話なんでしょなんでしょ
ラッシー ラッシー 頑張れラッシー
ミツワ ミツワ ミツワのラッシー

まるでミツワがラッシーの飼い主のようだ。「日真名氏飛び出す」の三共もそうだったが、この頃の単独スポンサーは相当勝手なことをしていた。それとこの曲でアメリカでは犬がバウワウと鳴くと知った。番組の中で流されていたのが三人の人形が唄う「輪、輪、輪、輪がみっつ」のCMだった。

一方の牛乳石鹸は牧場の牛の親子のアニメで、最後の「牛乳石鹸 良い石鹸」のサウンドロゴが耳に残った。2番にはクレオパトラが、3番には小野小町が登場する。両CMとも三木鶏郎の作曲。ちなみに小鳥の絵はヴィックスドロップの「クリクリ三角」のCMと同じなので、当時は限られたクリエイターが八面六臂の活躍をしていたのだろう。

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60年代に入ると液体シャンプーが発売され石鹸で頭を洗う人は減った。暮らしの手帖が、シャンプーは皮脂を落としすぎるので髪は水石鹸で洗うのが良い、と書いたのはこの頃。70年には花王のメリットが登場しあっという間にトップブランドになった。米国P&GのHead and Shoulderのコピー商品でジンクピリチオンという有効成分も同じだった。

その後ポンプボトルが発売され、日に二度洗う朝シャン族が生まれた。つい数十年前まで日本人は月に一度とか週に一回くらいしか洗髪していなかった、と1932年発売の花王シャンプーの広告で知りました。現在でも地毛で髷を結う力士や芸妓さんは洗髪は週に一度だそうです。まあ彼らは毎日美容院に行ったり床山に髪を結ってもらったりはしていますが。


ミツワ石鹸と牛乳石鹸のCMは下記をクリックすると見られます。

https://www.youtube.com/watch?v=mr2xPhiyhac
https://www.youtube.com/watch?v=fFjxSzf_G1k




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