マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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カテゴリ: 製品開発

子供のころ住んでいた名古屋ではしょっちゅう赤福のコマーシャルが流れていた。「伊勢の名物赤福も~ちっ」と唄っていたのは藤田まことと記憶している。ただ赤福を食べる機会はそんなになかった。地元の人はお参りは熱田神宮に行くので伊勢まで出かける人は少なかったし、まだ名古屋駅の売店で売っていなかったような気がする。
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最初に食べたのがいつだったかは覚えていないが、あんこのまろやかさと品の良い甘さは印象的だった。ヘラですくって食べるのも気に入った。ひと箱全部食べたいくらいだったが家族で分けると一人3個くらいだった。翌日までとっておくと餅が堅くなって少し食感が変わるのが残念だった。

赤福は伊勢神宮の近所で売られ始めて300年以上が経つ伊勢を代表する銘菓、いや三重県を代表する名物かもしれない。創業は宝永4年(1707年)だから富士山が噴火して宝永山ができた年だ。赤福以外に三重の名産品には松阪牛と御木本真珠、桑名のしぐれ蛤くらいしか思い出せるものない。真珠と牛肉は高価なので手ごろなお土産としては貝新の志ぐれ煮か赤福餅しかないのではなかろうか。父親は出張で時々三重に行ったのだが、おみやげは赤福ではなく大抵は貝新のあさりの志ぐれ煮だった。個人的にはあさりよりしじみ煮の方が好きで今でも時々買う。貧乏性なんだろうな。
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東京に来てから赤福のことは忘れていた。赤福を買うようになったのは菓子の仕事をするようになってからだ。会社のチューインガム工場が名古屋にあり、キャンディの製造を依頼していた名糖産業もその近所だったので、当時担当していたホールズや開発中だったクロレッツの打ち合わせのため毎月のように名古屋出張があった。たまにはお土産をと思って駅の売店を覗くのだが昔から知っている納屋橋饅頭やきよめ餅は存在感がなくなって見知らぬ菓子ばかりになっていた。ただ赤福だけがいつも一等席に陳列されていた。名古屋名物ではないけどおいしくて安いので懐かしくて手に取った。8個入りが500円か600円だったと思う。

その頃には新幹線の他の駅でも売られていたし、社内販売でも扱われていたように記憶している。赤福は1960年代から積極的な拡大政策をとっていたし、1975年にフジテレビが「赤福のれん」という9代目主人の浜田ますをモデルにした連続ドラマを十朱幸代主演でオンエアし人気を博したことも影響していたのかもしれない。

しかしこの拡大政策が裏目に出て大量生産された赤福餅を賞味期限内に売りきることが困難になる。2000年代に入ると製造日と消費期限の偽造、冷凍製品の販売、売れ残り製品の再利用問題が発覚し、駅売店や百貨店での販売自粛や本店の臨時休業などが発生した。その後も元社長が経営する関連企業が暴力団との関係を報じられるなど不祥事が相次いだ。

最近やっと落ち着いた感じの赤福だが、8個入りの価格も2004年に720円に上げてから、760円(2016年)、800円(2022年)、900円(2023年)とこの10年で3回の価格改定だ。ヘラも木製から紙製へと変更するなど昔からのファンが失望しているのかもしれない。ネット上ではサイズが小さくなった、あんが甘くなった、食べるたびに味が違うなどのコメントが目立つ。可愛さ余って憎さ百倍的状態かもしれない。
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赤福は企業として売り上げ的にはほぼ単品経営なのだが、季節商品をいくつか持っている。今月は夏季限定の「赤福水ようかん」が企画販売されたので高島屋で予約して手に入れた。初めて食べたのだがなんとなく赤福のあんこを感じるし寒天分が少なめで食感はともかく餡の味が前面に出るのは好ましいい。ただ水ようかんの製造はデリケートでちょっとでも配合を誤ると固まらなかったり、硬くて水ようかんぽくなかったりする。赤福の水ようかんもまだ改良の余地は十分にある。でもその前に赤福餅の品質の安定化が先ではないかと思っている。

いくつかの消費財メーカーでマーケティングを担当していたし、広告の仕事をしていたこともあるのでコピーやキャッチフレーズはいまだに気になる。このブログでも書いたことがあるが、「私はこれで会社を辞めました」や「おしりだって、洗ってほしい」「アンネの日」などは会社存亡の危機を救ったり、新しい市場カテゴリーを開拓するのに多大な貢献があったコピーでありキャッチフレーズだった。

当時は「おいしい生活」とか「モーレツからビューティフルへ」など時代を代表するようなコピーもあったが、メーカーでモノを企画製造する立場だった人間としては製品やそのベネフィットに直接リンクするようなコピーに惹かれる。そんなことを考えていて頭に浮かんだのはグリコの「一粒300メートル」だった。
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グリコは子供のころから食べていてグリコーゲンという言葉もなんとなく聞いていた。理由は分からなかったが、一粒食べれば300メートル走れそうな気がした。グリコというキャラメルは創業者である江崎利一が牡蠣の煮汁から得たグリコーゲンを加えた栄養菓子で1922年に発売された。ブランド名も社名もそれに因っている。グリコは戦前は栄養菓子に力を入れたようで1933年にはビスコを発売した。ビスコは酵母入りのビスケットで5枚に1億個の乳酸菌が入っているという。当時は子供の栄養状態が良くなかったのでそれを改善したいと考えたのだろう。それに栄養菓子という位置づけにすれば親も他の菓子より子供に与えやすくなる。そのうえ発売5年後にグリコにおまけを付けるようになって販売量が大幅に増加した。日本初の食玩と言われている。(下の写真は発売時のパッケージ)
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一粒300メートルはそれなりの根拠がある。グリコの一粒は16.75kカロリーがあり、平均的な成人男子が100メートルを35.5秒のペースで走ると16.75kカロリーで300メートルを走ることができるのだという。江崎利一という人はアイデアマンのようで、このキャッチフレーズもゴールインマークも彼が考えたらしい。その後発売されたアーモンドグリコの「一粒で二度おいしい」も彼のアイデアだ。ただ発売時のパッケージのランナーの顔が怖いと言う女学生が多くて書き直しをして笑顔のゴールインランナーとなり、その後も笑顔が引き継がれている。
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「一粒300メートル」が秀逸なのは、短く簡潔に商品の特徴を表して記憶しやすいところだろう。ちょっと残念なのは、今のグリコは粒がハート型になっていて昔子供のころに食べたのと異なっている一点である。

毎朝の朝食はパンだ。コーヒーと果物、ヨーグルトにパンで50年続いている。小麦粉の値上がり以降パンの価格もそれなりに上がったのに味が落ちた製品も多く、サイズも小さくなったような気がする。小麦粉の含有量を減らしているのかもしれない。特にロールパンは小さくなったと思うので一番おいしい超熟の山型食パンを買うのだが毎日だとそれにも飽きてくる。それで近所のスーパーでおいしいパン探しを始めた。
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最初に東急ストアにタカキベーカリーの石窯フランスパンがあることを思い出した。広島のパンメーカーでデニッシュペストリーで知られる。デンマーク女王が来日した時に広島工場を見学され、東京の記者たちが「なぜ広島に」と驚いた話は有名だ。アンデルセンやリトルマーメイドという店名のほうが分かりやすいかもしれない。ここのパンはリーズナブルな値段で美味しい。近所のそごうの地下にもアンデルセンがあるが石窯パンは置いていない。

値段も加味して選ぶならオーケーストア。ちょっと大味な感じはするがフランスパンは1本168円だし、ミニクロワッサンは5個で150円だ。ここはパンもピザも価格を考えれば大満足。ランチタイムにはピザを買うサラリーマンで一杯だ。一番安いのは4分の1カットが129円。2枚食べるとちゃんとした昼食になる。クロワッサンもバターリッチでほかの店の大一個300円の半額だから毎日のパンにはもってこい。ピカールのフランス直送の冷凍クロワッサンは1個約120円でおいしいが、オーブンを温めて20分強焼いてクリスピーになるまで待つと30分はかかってしまう。忙しい朝にはちょっと不向きかもしれない。

結局よく買うのは地元横浜のポンパドウルに落ち着く。ここも値段は高い。1969年の創業当時から他店の菓子パン15円に対し50円の値付けで高級・高品質を訴求して差別化してきたからだ。元町本店は宮殿風の店構えと赤い買い物袋といつでも焼き立て(一日に8回焼く)が売り物だったが、ポリ袋有料化以降はあの赤い袋がなくて寂しい。製品開発に熱心で毎月12日には新製品が発売されるし、今月3月は1日と12日の2回も新製品が出る。いずれも400円前後とちょっとお高いけど。毎年新年には干支にちなんだパンを作るという遊び心もある。下の写真は酉年の干支パン、「おいしさトリプル」のダジャレ付きだった。
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こんな努力が実を結んでいるのだろう。創業から56年を迎えても客を飽きさせず惹きつけている。先日も元町に行ったら店の前は人で一杯だった。店内には焼きたてを強調する「一店舗一工房」のパネルが誇らしげに掲げられている。店も手を加えてモダンになっている。宮殿風とはいかないが窓や開口部を大きくして商品を見やすくし店内へ誘導するのを容易にしている。その下の1969年の創業時の写真と比べると違いが分かりますね。
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結婚した当時住んでいたマンションの水はおいしくなかった。コーヒーや日本茶をおいしく飲もうと小瓶入りのミネラルウォーターを贅沢だと思いながら買っていた。1瓶500ccが50円位で、たしかサントリー製だった。バーで水割りを頼むとバーテンダーが運んでくるあの水だ。バーではいつも栓が空いたまま持ってくるので中身は水道水ではないかと疑っていた。

当時売られていた水は業務用製品だけで、用途は水割り用か乳児の粉ミルク用だった。ミネラルウォーターという名前もなかった。その数年前イザヤ・ベンダサンが「日本人とユダヤ人」の中で、「日本人は水と平和はタダで手に入ると思っている」と書いて衝撃を与えた。たしかに平和ボケの時代だったが、自衛隊や在日米軍のコストが税金で賄われていることくらいは皆知っていたので平和はタダとは思わなかったが、水はタダではないという感覚はなかった。状況は今でも変わらないが、喫茶店や蕎麦屋、レストランに入るると黙っていてもどこでもお茶または水が出てくるのは日本だけだ。それもタダで。

だから1982年に1リットル以上のPETボトルが清涼飲料用に認められ翌年ハウス食品から「六甲のおいしい水」が発売された時は、高品質の水が蛇口をひねれば出てくる国で誰が金を払って水を買うのかと思った。60年代に発売された缶コーヒーは徐々に浸透しつつあったが、80年代に市場に出たポッカの缶入りほうじ茶や伊藤園の缶入り煎茶は苦戦を強いられた。まだ「お茶はタダ」の時代だったのだ。しかし主力の茶葉事業が縮小している製茶メーカーの伊藤園は簡単に諦めるわけにはいかない。89年に「缶入り煎茶」を「お~いお茶」と名前を変え、ルートセールスの強みを生かして弁当と一緒に売る戦法で扱い店舗を増やし、売り上げを前年の3倍である40億円まで伸ばした。
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伊藤園が次に手掛けたのがペットボトルの緑茶飲料だ。缶と異なりリキャップできるメリットは大きい。しかし缶では気にならなかった沈殿物の存在は中身が見えるPETでは致命的だ。苦心の末茶殻をろ過する特許フィルターを開発し、1990年に1.5リットルの「お~いお茶」を発売した。その後飲料業界には追い風が吹き始める。90年代に入るとマンションの貯水タンクの水質問題が起き、安全な飲料への関心が高まった。96年にはそれまでゴミ散乱の懸念で禁止されていた1リットル未満のPET清涼飲料がリサイクル体制の確立で許可されるようになった。その頃私は飲料業界にいたが容器が足りず各社で500ミリPETボトルの争奪戦だった。そして2011年の東日本大震災。これ以降ミネラルウォーターをはじめとする飲料を災害時の飲料として備蓄する家庭が急増した。わが家にも6ケースのローリングストックが常時ある。
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伸び続ける緑茶市場にはキリン生茶(2000年)、サントリー伊右衛門(2004年)、コカ・コーラ綾鷹(2012年)と飲料大手が参入し緑茶戦争の様相を呈した。これらに対応するために伊藤園は2000年には他社に先駆けてホット対応のペットボトルの開発・販売をし10万店の販売店に専用ウォーマーを無償で提供した。2001年からは九州中心にお~いお茶専用畑を契約農家と作って原材料の調達を確保し、2004年には「お~いお茶濃い味」の発売、2012年以降はシンガポール、タイ、中国、ハワイに子会社を設立するなどトップブランドを守る施策を立て続けにとってきた。また2011年には大塚食品と、2019年にはアサヒ飲料と自販機の製品相互販売契約を結んでいる。大手と比べて少ない自販機経由の販売を強化するためだ。

経営としては自社農園も自社工場も持たないファブレス経営で開発力、機動力と提携先との協力関係がビジネスドライバーとなっている。ちなみに茶系飲料は金額ではコーヒー飲料の後塵を拝しているが、生産量では圧倒的一位で伊藤園はトップシェアを維持し続けている。

前回チェルシー、サイコロキャラメルとカールの販売中止(カールは販売地域限定)と復刻版発売について書いたが、昔働いていたガム業界にも復刻版があるので書き残しておこう。

チューインガムは他のカテゴリーに比べると製品の数が少ない。製造メーカーが少ないのと輸入品がほぼ無いことがその理由だ。日本チューインガム協会には20数社が参加していると記憶していたが、今調べたら16社に減っていた。戦後には200社がひしめいていたのだが。当然新製品の数も多くはなく、ロングセラー製品や一時代を築き上げたヒット商品が多い。ロングセラー商品としてはグリーンガム、クールミント、クロレッツ、キシリトールガムや子供向け商品のマルカワのオレンジガムやフィリックスガムなどがある。今は市場から消えてしまったがトライデント、キスミント、フラボノなども一時期市場をリードした。定期的にブームがやってくるフーセンガム市場ではプレイガムのコーラ味のように爆発的に売れて品切れを起こす製品も登場した。

ガムという製品は基本的にはガムベースに甘味料と香料などを加えるだけなので製品のバリエーションに乏しい。子供製品はおまけをつけた玩菓と呼ばれるカテゴリーもあるが、大人向けではユニークなフレーバーや剤型で差をつけるしかない。形状としては板ガム、糖衣ガム、ブロックガムが中心で、かつては粉状のガムやシュレッダー状のガムやキャンディガムも存在した。フレーバーは流行りがあるので数年で廃れてしまうことがある。何年か前にロッテが発売した復刻ガムはその種の製品だった。
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一番古いのはコーヒーガムで次がリグレーをコピーしたジューシィフレッシュだが、梅とブルーベリーも根強いファンを持っていて80年代にはどちらもトップ10にランクインしていた。特にブルーベリーのデビューは鮮烈で、山手線の車内で一人が噛んでいると車両全体にあの臭いが蔓延するくらいだった。ベリー系商品のはしりで私も担当していたキャンディにラズベリー味を追加した。

先月ロッテはイブという香水ガムとクイッククエンチガムの再販売を始めた。1978年発売のクイッククエンチは2年前に続く再復刻だ。イブは1972年の発売だが、ロッテはその前からピンクミントという香水ガムを持っていた。香水ガムは大きなセグメントにはなりそうにないと思ったが、その後もローラ、ロブ、ドナと製品ラインを強化した。どうも重光社長が号令を出したらしい。
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こうした復刻製品が続くということは昔それらの製品を愛用していた世代にはなつかしいし、知らない世代にとってはレトロ感あふれる製品で新鮮に映るのだろう。縮小一本槍だったガム市場が昨年から持ち直していることも背景としてはあるのかもしれない。ただ穿った見方をすれば他の菓子類より新製品開発の余地が少ないガム市場でマーケティングと開発の手詰まり感が見える。砂糖入りガムからシュガレスガムへ、板ガムから糖衣ガムに移行した市場で若いユーザーに一度板ガムの良さを知ってもらいたいとか、新奇素材やフレーバーが見当たらないのでかつてのヒット商品で一時しのぎをしようとしているようにも思われる。こういう時こそ企画や開発の腕の見せ所なんだけどね。
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個人的に復刻版を出してもらいたいと思う廃版製品は、当時一番アメリカのガムという雰囲気を持っていたデンティーンガム、それもシナモン味ですね。ちょっと硬くてニッキの味と香りがが強かった。それとあのパッケージ。懐かしいね。

スーパーの棚でパウチ入りのシーチキンを見つけた。以前からあるのかもしれないが初めて見た。数年前にノザキのコンビーフがねじ巻き缶からパッ缶に変わった時も驚いたが、このシーチキンのパッ缶からパウチへの変身にもビックリした。
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しかしこれは望ましい変身なのではなかろうか。ごみの量が減るし保管しておくスペースも軽減される。割高な1缶売りを敬遠して3缶パックや4缶パックを買っていたが、このパウチなら場所はとらないし、1個で買っても缶より安い。賞味期限こそ缶の37カ月に対し25カ月と多少短いが全く問題はない。

シーチキンは1931年清水の後藤缶詰所が試作したマグロの油漬け缶詰めに端を発する。もとはアメリカ向けの輸出用商品だったが、1969年に地元の三保の松原の羽衣伝説からはごろも缶詰め株式会社に社名変更した。シーチキンの商標は1958年に登録している。当時はミカンの缶詰との二本立て経営だった。私の父親は清水の生まれで当時実家は鶏の缶詰を作っていた。清水には缶詰工場がいくつかあった。子供のころ親戚から毎年お中元とお歳暮にはごろものミカン缶詰が贈られてきた。たぶん親戚のだれかが働いていたと思われる。

売れ行きがいまいちだったシーチキンだが、二代目社長が始めた特約店づくりと1967年に開始したメニュー提案型のテレビCMが功を奏し、開始前の3万箱から10年後には250万箱まで販売を伸ばした。食事の欧風化の追い風もあったが、他に先駆けて1982年にイージーオープン缶(パッ缶)の採用、ローファット、ローカロリー化へのかじ取りが早かったことも成長の要因となった。いまでもシーチキンははごろもフーズの売り上げの半分を稼ぎ出し、ツナ缶市場のシェアは5割を超える。清水にはツナ缶御三家と呼ばれる缶詰め会社があり、全国の97%を静岡県で生産している。
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もともと缶詰は1811年に英国で発明された。この発明により製品の保護、輸送そしてラベルを貼ることによりブランド名、成分、製法、用途、宣伝文句などを明確に伝達できるようになり、パッケージ化が可能となった。パッケージ化が可能になると、それまで量り売りなどで売られていた製品のブランディング化が可能になった。こうしてスープや保存食、フルーツ缶など多く生産されるようになった。ツナのオイル詰め缶はぴったりだったわけだ。
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しかし重い、錆びるなどののデメリットもありアルミ缶やイージーオープン缶などが誕生した。アルミ缶は軽いが「電気の缶詰」と呼ばれるほど高価であり、アルミのプルトップは開缶時に微小量のアルミが缶内に落下するとされ、これが脳内に蓄積されてアルツハイマーの一因となると一時話題になったことがある。清水にあったアルミのただ一つの精錬工場も原油と電力料金の上昇で10年前に撤退し、精錬したアルミを輸入している日本は円安で輸入価格も高騰し缶からパウチへの転換はさらに進むんだろうなあ。

子供のころから広告が好きだった(33)

グリコグリコ アーモンドグリコ 一粒で二度おいしい 一粒で二度おいしい
グリコグリコ アーモンドグリコ しゃぶったら変わったよ ミルクの味のアーモンド

小学生の頃テレビから流れてきたCMソングだ。コンガを叩く音にリズミカルに乗ったラテンの旋律をバックに紙人形が踊るというコマーシャルだった。まだアーモンドというものをほとんどの人が知らない時代だったので、二度おいしいアーモンドとは何なのだろうかと思った。
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それまでにグリコは食べたことがあったが、アーモンド見たさに買ってみた。確か8粒入りで十円と、16粒入りで20円の二種類だった。口の中に入れるとミルク味にナッツの香りがプラスされている。嚙むと小さく粉砕されたナッツがつぶれてアーモンドの味が強くなる。これがアーモンドなのか。ナッツと言えばピーナッツしかなかった時代だから新鮮に感じた。

グリコ創業者の江崎利一は1930年にアメリカ産業視察団の一員として渡米し、ナッツ専門店で一番高いが一番おいしいアーモンドに出会った。25年間温めておいたアイデアを大人向けのグリコを開発するときに隠し玉として使ったというわけだ。ホエーのミルク感に噛むとアーモンドの香ばしさが加わって独特の食感と味が生まれた。「一粒で二度おいしい」というコピーも利一が考え出した。未知のナッツだったアーモンドは一気に知られるところとなり、アーモンドグリコはヒット商品となった。円が1ドル360円だったこともあってアーモンドの輸入価格は高く、製造原価だけが問題だった。

その3年後にはアーモンドを一粒丸ごと入れたアーモンドチョコレートを発売しチョコレート市場に参入した。チョコレートの2倍のグラム単価のアーモンドを使ったため小売価格は割高になったが、活発な広告活動もあり成功を収め総合菓子メーカーへと脱皮することができた。江崎グリコは広告の量も多いが、製品の開発時に他社との差別化を明確にして開発すること、それを分かりやすく憶えやすいコピーする巧みさがある。グリコの「一粒300メートル」も、アーモンドグリコの「一粒で二度おいしい」も子供のころすり込まれたら一生忘れない。

しかし、あれだけのヒット作だったのにキャラメル市場の停滞もあってアーモンドグリコに過去の面影はない。今日も近所のスーパー3店、セブンイレブン、ダイソー、デパートで探したが見つからず、最後にキオスクでやっと買うことができた。久しぶりに味わったアーモンドグリコはなんだか懐かしい味がした。子供のころ16粒で20円だったのが18粒で170円になっていたのが時の流れを感じさせた。

ここ20年以上花粉症に悩まされている家内が毎年この季節になると買い込む商品がある。「じゃばら」だ。ゆずに似た小型の柑橘類で酸味と苦みが強いのが特徴。邪払(邪気を払う)と書かれることもある。これが花粉症に効くらしい。
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もとは和歌山県の北山村に自生していた他の地域には見られない柑橘類で、鬼も逃げ出すその酸っぱさから邪気を払う「じゃばら」と呼ばれ、地元では食酢として使われていたという。1977年にある村人がたった一本だけになってしまった「じゃばら」を「変なミカンだが独特の味でうまい」と村の特産品にできないかと村議会に働きかけ、1982年に村営農場をが造成されて本格栽培が始まり、1985年初収穫を得た。1999年には村営ブログを立ち上げ農産加工品のネット販売も開始された。しかし特産品化を狙った「じゃばら」は思ったようには売れず、毎年果実がだぶついて2000年には撤退まで考えた。

その頃毎年20キロの大量の「じゃばら」を購入する県外の顧客に村の職員が購入理由を聞くと、「子供の花粉症に効く」との返事が返ってきた。そこで村長は「花粉症対策」をキーワードにして楽天市場での試験的出店を始めた。同時に花粉症に悩む1000人を対象に無料のモニター調査を実施したところ18000人もの応募があり、モニターの46%が症状が緩和されたとの回答を寄せた。「じゃばら」にはビタミンAとC、カロチンなども含まれているが、フラボノイドの一種であるナリルチンが多く含まれており、これが花粉症に効くのではないかと言われている。楽天市場の初月販売は2万円だったが、モニター調査終了後の翌月は55万円まで上がり、2001年の総売り上げは2600万円を計上した。テレビ番組で取り上げられることも増え「じゃばら=花粉症に効果」が浸透し始めた。
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翌2002年ネット販売の予約を開始すると果汁製品は1日半で完売し、2003年は1時間で完売した。総販売金額も2002年が5000万円、2005年は1億7700万円、2006年は2億2200万円と順調に伸び、田舎の小さな村でもネットの力を利用すれば大きなビジネスができることを証明した。村の税収が6000万円であることを考えるると2億はすごい数字だ(収益は約1500万円)。この頃は楽天市場やアマゾンでも発売するとすぐ売り切れることが多く、花粉の時期には家内はいつもPC画面ととにらめっこだった。

たった一本の木から始まった「じゃばら」栽培も現在は9ヘクタール7000本の規模になり、人口たった366人(1980年の790人から半減)の村の15人が管理する村一番の産業となった。建設省出身の村長と三重県から移住したIT責任者の二人の「よそ者」の尽力もあり、かつての「幻の果実」は特産品となり、村の財政を救う「奇跡の果実」と呼ばれ、ふるさと納税品にもなって過疎の北山村の社会的インフラを立て直す起爆剤になったのだ。

明治のチェルシーが今月いっぱいで販売中止と発表された。菓子の仕事をしていた人間からするとちょっとショックだったし、寂しい気がする。日本のキャンディのリーディングブランドだったし、とてもおいしい飴だった。なによりもあの「歌いたくなるよな一日 あなたにもわけてあげたい ほらチェルシー もひとつチェルシー」のCMソングとスコットランドの風景をバックにした広告が頭に残っている。
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市場環境や顧客ニーズの変化で収益が落ち込み販売を終了せざるを得ない、というのが終売の理由らしいが、一時代を築いたブランドがピークの数分の一とは言えまだ数億の売り上げがあるのに消えていくのはなんだか悲しい。

チェルシーは1971年に明治製菓が今までにない特徴とおいしさを求めて開発・発売したスカッチキャンディだった。多くの飴はロープ状の飴を型で打ち抜いて作るが(スタンピング製法)、チェルシーは流し込み(デポジット)という小さな型に熱い飴を流し入れて冷ます製法だった。この製法だと設備は大掛かりになるが表面が滑らかになりバターの含有も増やせる。ミルクリッチな味と滑らかな舌触りはそれまでの日本のキャンディにはなく、一気にトップブランドとなった。80年代に私はホールズという飴を担当していて、製品としては直接競合はしないが同じキャンディカテゴリーのトップシェアのブランドをベンチマークにして追いかける立場だった。

明治製菓はそのチェルシーに加えて1988年に果汁グミを発売し、2年後の1990年には群雄割拠のキャンディ市場で16.8%のシェアを獲得し、カンロを抜いてNo.1カンパニーとなった。私が所属していた菓子事業部でもチェルシーに対抗するバタースコッチを発売しようと開発を始めた。森永製菓から招聘した開発部長とともに試作を始めたのだが、何度トライしてもチェルシーを超える製品はできない。開発部長も「いや~チェルシーはおいしい」と半分お手上げだった。結局チェルシーとの真っ向勝負を避け側面攻撃策をとり、バタースカッチでなくミント味とラム味のスカッチ二品を「エナ」というブランドで発売した。
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スコットランドを想起させるタータンチェックのパッケージとスティック形状でチェルシーと差別化を図り、アリッサ・ミラノが歌うCMソングのTV広告でサポートしたが惨敗だった。2年ですごすごと撤退した。そのくらいチェルシーは強かった。そのチェルシーが売り上げ不振で終売となるなんて。

経営資源の効率化を追求するとこうなるのかもしれないが、明治は諦めが早すぎるようにも見える。数年前には60億もの売り上げがあったカールの東日本での販売を中止したし、94年の歴史があったカルミン、クリームキャラメル、根強いファンのいたサイコロキャラメルも終売になった。2011年に医薬品事業と統合することになって、利益率がダントツに高い医薬品と比べると菓子の経営的な魅力が薄れたのかもしれない。ガムからも撤退し、キャンディ、キャラメルもなくなった明治の菓子事業はこれからはチョコレートとグミに選択集中することになるんだろうなあ。

寒い深夜には温かいスープが飲みたくなる。ただキャンベルの缶スープは牛乳と鍋が必要だし、中華スープは卵がないと作れないし深夜にはごま油が重く感じられる。老人にはあっさりしたリケンのわかめスープか永谷園の松茸の味お吸いものくらいがちょうど良い。だから今日も松茸のお吸いものだった。熱湯を注ぐだけですぐ飲める。ちょっとケミカルな香りがするが麩、海苔に乾燥葱と椎茸も入っている。
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松茸の季節にはちと早いが、国産の松茸はとても手が出ないのでたまに買うときはカナダ産か中国産を選ぶことになる。ちょっと大味で香りに欠けるような気がするけど。昔も安くはなかったが今ほど高根の花ではなかった。時々母親が竹かごに入った松茸を買ってきて松茸ご飯を作った。当時輸入ものはほとんどなかったので全部が国産だったと思う。そんな頃テレビで柳屋小さんの「松茸の味 お吸もの」のCMが流れ出した。小さんがつぶやく「これで一杯10円だって」のセリフが記憶に残っている。
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(左は発売当時の、右は現在のパッケージ)
製造元の永谷園はもともと宇治の製茶屋だった。江戸時代中期にそれまで赤黒くて味も香りの薄かった煎茶を現在のような薄緑色の煎茶を開発した永谷宗七郎をルーツとする。明治時代に分家が東京に進出し、煎茶に加えて昆布茶やアイスグリーンティなどを販売していた。戦後一時的に永谷園の看板を下ろしていたが、1952年に発売した「お茶づけ海苔」が大ヒットし、翌年永谷園本舗が設立された。「お茶づけ海苔」が唯一の製品だった。次の新製品は1958年のふりかけ「磯のふきよせ」まで待たねばならなかった。

1964年10月、まさに東京オリンピックと同じ時期に第三の新製品「松茸の味 お吸いもの」は世に出た。ただ関西ではお吸い物はある程度地盤を持っていたが、関東では味噌汁が強く苦戦を強いられた。そのためお吸い物単体ではなく、餅を加えてお雑煮ににするなどのアレンジメニュー提案でプロモーション活動をした。この路線は今でも続けられており、パッケージの裏面には和風パスタ、炊き込みご飯、茶わん蒸しなどのレシピが載せられている。

我が家では鰻丼やちらし寿司の時に出番が多いが、素麺のつゆにもなるし、アレンジレシピの中では炊き込みご飯が重宝されている。松茸の替わりにレシピではしめじを使っているがエリンギの方が見た目と食感が松茸に近い。貧乏人のなんちゃって松茸ご飯とでも呼ぼうか。和風パスタは好みではなかった。今度は電子レンジで茶碗蒸しにトライしてみよう。
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「これで一杯10円だって」は過去のものになり今では一杯30円だがその価値は十分にあると思う。ネットでは業務用50袋入りを600円台で売っていて、これだと一杯13円だ。アマゾンで取り寄せてみたが、通常品が3グラムに対しこれは2.3グラムしかなく、当然具の量も少なく、おまけに椎茸が入っていない。でも小腹が空いた時に飲んだり、出汁代わりに使ったり、お茶漬けにしたりと用途はいろいろある。

永谷園は新製品の少ない会社だ。通常食品会社は毎年春に数品、秋に数品の新製品を出すものだが、永谷園は平均すると年に一つの新製品かそれ以下だ。もう少し頑張ってもらわないとメインのユーザーである老人はこの世からいなくなっちゃうよ!
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子供の頃夕食に刺身やおでんが出されるとき、母親はいつも小さな缶から粉からしや粉ワサビを小皿にとり、水で溶いて人差し指で捏ねていた。子供だったので当時はからしやワサビを使うことはほとんどなかったが、母親が台所で捏ねている情景ははっきり覚えている。
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やがてパウダータイプの香辛料はだんだん姿を消し、1970年にはチューブに入った香辛料がスーパーの棚に並ぶようになった。35円の粉タイプと比べると100円は高かったが、その簡便さとおいしさで家庭に浸透していった。特に粉ではあのツンとくる刺激に欠けた練りわさびが好評だった。生の本わさびは今でも高価だが、チューブ入りなら刺激も十分だし日持ちもする。1970年にSB食品が創った市場は1974年にハウス食品が参入することによってさらに拡大した。

初期の頃はアルミ製のチューブだったがプラスティックチューブに変わり、わさび、からしに加えておろししょうが、おろしにんにくがラインに追加された。1987年には本わさびを使用した本生おろしわさびと粒入りマスタードの上位品を発売し「本生シリーズ」が誕生した。我が家の冷蔵庫のポケットにもSB、ハウス、トップバリュのチューブ香辛料が常備されている。特に夏は昼食がざるそば、そうめん、ざるうどんのローテーションなのでチューブのわさびは必需品である。
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ワサビは日本固有の植物で山葵と書く。江戸時代に静岡などで自生していたワサビの栽培が始まったらしい。それが寿司の流行で急速に広まったという。子供の頃の寿司はワサビ抜きだったが、だんだんワサビを使うようになった。静岡生まれの父親は出張のたびに田丸屋の樽入りのわさび漬けをお土産として買ってきたのでワサビの味に慣れてきた。会社員時代は勤務先の近所に「そじ坊」があり、ざるそばには(本わさびではないが)わさび一本がおろし金と一緒に付いていて、すりおろすのが楽しかった。残った分は小さなビニール袋に入れて持ち帰ることができた。持ち帰っても使うことはなかったんだけどね。
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今やワサビは国際的になり、特に日本に来て寿司を堪能した外人はチューブ入りわさびをお土産にする人も多いし、アメリカやヨーロッパではちょっと高いが店で売られている。Wasabi mustardはShiitake mushroomと同じくらい通用する日本語になった。最近ではイギリス、ニュージーランド、台湾、中国、韓国などでも栽培されていて、SBの本生ワサビはベトナム産だしハウスのはインドネシアと中国産との表示がある。わさびが世界中に広まるのはうれしいのだが、その前に外国の寿司屋(日本人がやっている高級店は除く)の寿司本体のクオリティをもう少し上げてもらいたいなあ。


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働いていた飲料会社が事業売却されて解散し50歳で失業し、しばらく無職だった。4か月のハローワーク通いの後、神戸の製薬会社に採用された。ポートアイランド(地元の人はポーアイと呼ぶ)のマンションに住みはじめ、家財道具一式を三宮のダイエーで全て揃えた。到着したテレビの電源を入れた瞬間に衝撃的なCMが飛び込んだ。「551の豚まんがある時 ない時」。知らない女性タレントとおっさんが出ていた。その昔広告代理店に在職して多少は広告にはうるさい。こんな洗練されていない広告が県域U局のサンテレビでなく、関西キー局から流れている。ショックだった。

その後会社の仲間からあの女性タレントが関西では少しは有名な吉本芸人だと聞いた。ボヨヨ~ンのかつみ・さゆりも神戸に来て初めて知った。カルチャーショックを感じた。会社の近所にそごう(現神戸阪急)があり、地下に蓬莱の売店があった。いつも行列ができていて、並んでまで肉まんを買う気にはならなかった。当時は家族が海外にいて単身赴任だったので時々夕食を買うためにそごうには寄っていた。ある日行列が短かったので初めて肉まんを買った。こっちでは豚まんと言わないと通じないと知った。
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家に帰って食べたら、これがまたショックだった。うまい! 味はシンプルで関東の肉まんより薄味だがしっかりしている。またたくまに食べきってしまった。これが関東に来たら横浜の中華街でつぶれる店が出るのではなかろうかと思った。年に数回出張や帰省で東京や横浜に戻る時、新幹線の車両の中にかならず1人は蓬莱の紙袋を持っている人を見かけた。以前は気が付かなかったが関東にもファンが多いのだろう。時々あの匂いが漏れて車内に漂うこともあった。
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もともと蓬莱は終戦直後の1945年に大阪難波で台湾人羅邦強が仲間と開いた蓬莱食堂が起源だ。カレーが売りの人気店だったが復興が進むにつれて客足が減少し、その打開策として開発されたのが豚まんだった。当時神戸で人気のあった豚饅頭を参考に、豚肉と玉ねぎをたっぷり使って大ぶりの饅頭に仕上げた。これを「豚まん」と命名して売り出したら人気が出た。その後1952年に店頭で実演販売を開始するとテイクアウト客が一気に増えた。

ヒットの裏には日本人向けにアレンジした味、ひとつでおなかが膨れる、歩きながら食べられるなどの商品特性もあるが、持ち帰り客に箱代を負担させない、百貨店の地下や主要駅の構内にテイクアウト専門店を展開など羅のアイデアが反映されている。製品ラインを拡げ、商圏も大阪から関西一円に広げて関西人ならだれでも知っている商品に育てあげた。

マーケターとして感心するのは製品の味を担保するため工場から150分以上かかるエリアには出荷しないという選択だ。豚まんは発酵食品なので遠隔地への長時間輸送では発酵の管理ができないことが理由とのこと。横浜中華街の名店が東京に店を出したときに、味が違うと思ったことがある。味の均一性を保証できないのであればやたら拡大するべきではない。エリアに留まっていれば一種の希少性、ありがたみも生まれる。全国展開しかけた崎陽軒が横浜に再集中してブランドを強化したのに似ている。
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しかし有名になれば地方の客から食べたいのリクエストはでる。1994年に蓬莱は全国への通信販売を開始した。チルド技術によって5日間の味の保証が可能になったからだ。その他にも全国のデパートでの実演販売もスタートさせている。我が家の近所の横浜そごうにも年に一回だが出店する。1時間待ちになるが長い行列に並ぶこともある。豚まんの入った白地に赤で「551HORAI」と書かれた手提げ袋を提げて家に帰る時、なんだか妙な達成感と幸せな気分になるのは私だけだろうか。


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企業が今まで世の中に存在しなかった全くの新製品(新カテゴリー)を発売することは稀です。多くの新製品は既に類似品が発売されている市場に投入される「me-too」と呼ばれる後発品です。後発品を世に送るときに考慮すべきポイントを考えてみましょう。
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まず考えられるのは、先行品にない付加価値を付け加える。新しい技術、成分や製法を消費者に分かるように伝える。新しい味やフレーバーも有効です。お掃除ロボットiRobottを追いかけた国産メーカーがコーナー用のブラシを付けたり形を三角にしたのはこの例ですね。

先行品が既にどのような製品なのかを消費者に示しているのですからこれを利用しない手はありません。先行品を否定するのではなく、先行品のやり方に乗っかる方が賢明です。中華のCook Doに対し「うちのごはん」は醤油ベースの和で参入、今度はそれに対抗してCook Doが「きょうの大皿」を発売したのはこれに近いかもしれません。

同じブランドでもターゲットを変える方法もあります。これはラインエクステンション品ですが、カップヌードルライトは女性に訴求するため麺を短くし(音を立ててすすらなくてよい)カロリーも198に抑えて市場に出ました。

製品そのものに付加価値がつけにくい場合は、その道の権威やセレブリティをエンドーサーとして使う手があります。

先行品が使っていないパッケージ容器や包装形態で市場に参入する。例えば先行のボトルや缶に対してパウチで発売するとか。

先行品との区別がつきやすく、製品特徴が分かりやすく覚えやすいネーミングを用いる。

自社が持つアセットを利用するために社名、親ブランド、ラインエクステンションを使うのは認知を獲得するための投資が少なくて済む。

性能面で先行品と差がつけられなければ、価格ベネフィットを訴求することも考える。または同額で内容量を増量する。安売りしたくなければ、先行品とは異なる内容量で価格も変え、価格の直接比較を回避する。味の素がキューピーの寡占状態だったマヨネーズ市場に参入する時に小さめのサイズと値段で入りました。消費者はスーパーの棚の前でグラム単価を計算しないので価格差はあいまいなまま購入することになりました。当時はプライスカードに100g当たりの価格なんてなかったのです。


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競合と比べた場合に明確な機能的な差があったり、数値化できるデータがあれば優位性の立証は楽なのですが、いつも機能面での優位差やデータがあるとは限りません。技術が進んだ現在ではよくあることですが、メーカー間の開発力の差は少なくなりつつあり、機能的な差があまりないケースが多くなりました。そんな時は差を創り出すしかありません。製品に大きな手を加えずに付加価値を加えて「差」を産み出すのです。
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方法としては、新用途の提案、新市場への位置づけ、新ユーザーへの訴求、使用を阻害している原因を取り除く、パッケージや容器の改良、先取戦略などです。

新しい用途の提案例としては、焼き肉のたれを焼き肉以外に使うよう勧めるCMがありますし、古くは風邪をひいたとき胸に塗って呼吸を楽にする薬だったヴェポラブをこめかみに塗って頭痛に効くと宣伝していたことがあります。

新ユーザー獲得例としては、J&Jのベビーオイルはその名の通り赤ん坊用のオイルでしたが、赤ちゃんの敏感な肌に良いのなら若い女性にも良いに違いないとターゲットを拡げて成功しました。龍角散の老人用飲み込み補助ゼリーを子供用の「お薬のめたね」への転用例もあります。

使用を阻害する原因除去例としては、シャンプーの使い過ぎは髪と肌を傷めると考える人が多かった頃に、そんなことはないとメッセージを送った結果、朝シャンと夜の二回シャンプーをする女性が増えました。

パッケージの改良例は、シャンプーやリンスのパッケージをポンプ式にすることで一回当たりの使用量が増えた例が有名ですし、古くは味の素がボトルの穴を大きくし使用量と売り上げが上がり提案者が社長賞をもらった例があります。その他にもガラスからプラボトルへ、そして中身の見えるよう縦に透明部分を作る、キャップがメジャーになるなどの改善例があります。

先取り戦略というのは、どの会社もやっていることをさも自社だけがやっているように見せることです。かつてアサヒビールが「製造後三日以内に店頭へ」のキャンペーンを打っていた時期がありますが、どのメーカーも同じことをしていますが、広告を見た消費者はスーパードライだけが製造後すぐ出荷していると思ったでしょう。ドモホルンリンクルは「毎日4時間機械を止めて分解掃除」とCMで言っていましたが、どの工場でもラインの切り替えや清掃のため機械を止めて掃除をするのは日課です。富山常備薬は「一般医薬品承認基準内最大量を配合」と謳いますが、同じカテゴリーの競合品も同じ成分を同じだけ配合しています。承認基準の最大量を入れるのは通例ですが、一社だけがそれを訴えるとその製品だけが効き目が強いように消費者は思ってしまいます。これらの会社はあまりに当たり前でCMで言うようなことではないが言ったもの勝ちと思っているのでしょう。消費者は馬鹿にされています。

ネーミングの成功例は、2004年に「ネピア モイスチャーティッシュ」から「鼻セレブ」に変えたことで売り上げが10倍になった例が有名ですね。


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家電量販店からメールが来た。今日は電池の日です、と。電池の日?...聞いたことがない。調べてみたら11月11日から12月12日までの期間を電池月間と言うらしい。電池工業会が35年前に命名したという。乾電池のプラス(+)とマイナス(-)を漢数字の十一にみたてて電池の日とし、その2年前に制定したバッテリーの日(12月12日)までの一ヵ月を電池月間と呼ぶのだそうだ。プラスとマイナスを数字化するのはユニークだが、このバッテリーの日の発想が妙におかしい。野球のバッテリーの守備位置が1と2と表記されるので12月12日を「カーバッテリーの日」と命名し、1991年にバッテリーの日に改名したらしい。なんとかの日というのは数百あるがこの命名はちょっと苦しい。
2022-12-11
気になったので家中の電池を数えたらとんでもない数があることが分かった。リモコンが9個、時計7台、懐中電灯が6個、ラジオ2台、電子チューナー2台、その他シェーバー、EMS、距離計、電動歯ブラシ、CDプレイヤーなど電池を使用する機器が30を超える。ひとつに電池2個を使っているとして60個の乾電池。他にもカメラやストロボも電池やボタン電池を使用するのでスペアを加えると100近い電池が家にはある。最近はゴミを出すのが嫌なので充電式の電池を使っている。充電器も2個ある。
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自分も知らなかったが、乾電池は日本で生まれた。それまで湿電池は存在したが持ち運びに問題があった。長岡の尾井先蔵が1887年に時計用の乾電池を発明し尾井乾電池と呼ばれた。日の目を見るまでに時間がかかったが、シカゴ万国博覧会で地震計の電源として注目され、その後日清戦争時に電信機の電源としてその威力を発揮し「日本の勝利は乾電池によるもの」と言われたという。単一型、単二型という規格ができ、戦後には単四、単五型が誕生し、マンガン電池からアルカリ電池、リチウムイオン電池と進化しつつある。
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あまりに身近にありすぎてありがたみを感じることが少ないが、地震や台風で停電の時には乾電池がないと情報もとれないし光源もなくて不便この上ない。1970年ころ単一電池は100円だったが、今では100均で2個100円、アルカリ電池や充電式単三電池が100円で売られている。こんなに便利で安価な生活用品なのだから苦し紛れの「電池の日」命名には目をつむってもいいかと思う。



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子供のころから広告が好きだった (28)

定年退職後は買い物と昼食と夕食の調理の担当となっている。野菜を洗っていて気がついた。最近の野菜には時々虫食いはあるが虫そのものはいない。昔はホウレンソウや白菜の葉の間に時々小さな虫がいた。農薬が付着している可能性もあったので、キャベツも今のように丸ごと包丁を入れたりはできず、一枚ずつむいて洗わなくては恐ろしくて食べられなかった。それで我が家の台所にはいつもライポンFがあった。(写真は昭和37年の広告)
2022-10-14
そのライポンはもともとは衣料用の洗剤だった。昭和26年に日本初の鉱油系合成洗剤として発売され、山本富士子の「洗う労力半分で、布地の輝き三倍に」のCMと共に世に出た。しかし当時は第一工業製薬のモノゲンと昭和28年に発売された花王のワンダフルの競合製品が強く苦戦を強いられた。追い詰められたライポンがとった戦略は「ライポンの新しい用途をご存じですか?」と戦場を変えて、野菜などに付着している大腸菌や回虫の卵を駆除することを訴求するというものだった。これは当時の厚生省から寄生虫による健康被害対策として食器、野菜や果物用の洗剤開発の要請を受けたことも背景としてあった。

当時の製品はは粉末だったが大都市圏で30万軒にサンプル品を配布しアンケート調査をするなどの大々的なプロモーションを実施した。昭和31年には完全に食器、野菜、果物用の台所洗剤にリポジショニングして名前もライポンFに変更した。その後「野菜・果物は洗剤で洗いましょう」日本食品協会推奨品ライポンF、の新聞広告や、テレビ広告を打ち啓蒙活動に励んだ。その結果野菜を洗剤で洗う習慣が根付き始め昭和33年末には売れ始めたとのこと。翌34年には液体ライポンFを発売し、そのコピーは「水の17倍もきれいに洗えます」という挑戦的なものだった。

当然競合も黙っているはずはなく、花王は昭和33年に台所洗剤のワンダフルKを液体と粉末の2フォーマットで売り出した。ライオンも昭和41年に同じカテゴリーに二つ目のブランドであるママレモンを投入して対抗した。その後は製品差が付きにくくなり花王は手を守るファミリー、ライオンはチャーミーシリーズで香りや乾きやすさといったソフト面を強調するようになった。その後昭和50年代に入ると合成洗剤そのものが環境問題、水質汚染問題、誤飲問題などで悪者視されるようになり、メーカーは対応するため無リン化、石油系原料から植物系原料への転換などを余儀なくされ冬の時代に入った。また農薬使用量が減ったため野菜・果物を洗剤で洗う必要性が薄れ、ライポンFも昭和60年代に家庭用が終売となり、現在は業務用だけが売られている。
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農薬の乱用が問題になっている中国では中性洗剤で野菜を洗うのは常識らしいが、わが国では野菜を洗剤で洗う人は少なくなったものの、ハンバーガーチェーンなどでは野菜を洗剤で洗い、よくすすいでから提供しているようだ。最近は市場には野菜・果物専用の洗浄剤があり、その多くは貝殻を高温で焼いてできたカルシウムが主成分のものだ。水洗いだけでは落ちにくい農薬やワックスを洗い流してくれるのが売りで、「生で食べる野菜が水洗いだけでは心配だ」という人たちに重宝がられている。

家庭用の台所洗剤のいくつかには、用途の欄に「野菜・果物・食器・調理用具用」といまだに記されている。



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朝食のプレーンヨーグルトに甘さが欲しいのでジャムを加えている(昔は顆粒の砂糖が付いていたのにね)。最近のジャムは健康志向なので甘さが控えめで物足りない。それでソントンのジャムに切り替えたのだがその横に並んでいたピーナッツクリームが懐かしくてついでに買ってきた。アメリカのスーパーではこれでもかというくらいピーナッツバターが並んでいるけど、日本ではごくわずか。ソントンの製品もピーナッツバターではなくピーナッツクリームという名前だ。
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ピーナッツバターはピーナッツだけで作られるのが普通だが、ソントンのピーナッツクリームは原材料表示を見ると(重量順に)水飴、砂糖、ピーナッツバター、植物油脂、ブドウ糖、乳蛋白、寒天などとある。子供が食べやすいように甘みを加え舌触りがなめらかで食べやすい。それでいてピーナッツの香りがして栄養もある。

もともとソントンのピーナッツクリームは大正後期に宣教師のソーントン師が布教の傍ら、栄養状態が悪い日本人のために本国から機械を取り寄せて製造販売し教会の維持費に充てていたものだった。ソントン創業者で熱心な信者であった石川郁二郎は師から製造方法を譲り受け、名前を使用する承諾も得て1942年に製造を開始し、1948年にソントンの前身となる会社を興した。当初はピーナッツバターに糖蜜を加えて食べやすくしたものだったが1952年に現製品に近い製品が開発されピーナッツクリームと名付けられた。これが街のパン屋の目に留まり当時流行っていたコッペパンの間に塗った商品が飛ぶように売れたという。

その後研究を重ねて紙容器を開発し1960年にFカップ(ファミリーカップ)を導入し缶容器、セロ袋、ポリ袋から切り替えに成功した。現在ではポリエチレン、バリアーフィルム、ポリエチレン、紙、ポリエチレンという5層構造を採用し香り成分も逃げなくなった。Fカップシリーズにはチョコレートクリームやキャラメルクリーム、ジャム類ではイチゴジャム、オレンジマーマレード、ブルーベリージャムなどが追加され9種類のラインナップとなっている。
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ソントンのFカップシリーズは高級品ではない。ピーナッツバターは通常数百円するし、有機のジャムや輸入ものには1000円を超えるものも多い。それらは確かにおいしい。しかし毎朝子供が食パンにいっぱい塗るのには向いていない。ソントンも最近素材のこだわった瓶入りの上位製品であるSun & Tableシリーズを出したが(残念ながら我が家の近辺では見かけない)、Fカップシリーズは100円強で売られている。家計には優しい製品と言うことができる。

10代から50代までの男女1万人に好きな「パンのおとも」を聞いた調査によると、2位にピーナッツクリーム、6位にイチゴジャム、8位にチョコレートクリーム、14位にブルーベリージャムと15位以内にソントンのFカップシリースが4商品も入っている。隠れたヒットシリーズと言うことができるし、その中でも2位に入ったピーナツクリームはスプレッド類の中ではトップクラスだ。食品の値上げが相次ぐ中でこれからもソントン製品は存在感を増すに違いない。



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10年使った食洗機が不調になったので買い替えた。5台目の食洗機になる。最初に買ったのは30年以上前。家内が夕食後家族がテレビを見ているのに自分だけ台所で洗いものをしているのは不公平だと言い出した。家電店に行って説明を聞き、日本では主食のコメが茶碗にこびりつくのでノズル式では落としきれないので洗濯機のように水をためて洗う日立の食洗機がいいですよと薦められて選んだ。大きな炊飯器のような形状だった。期待したほどの洗浄力はなかったけど。

その後カナダに転勤となり借りたマンションには当然ビルトインの食洗機が備わっていた(すごい運転音だった)。日本に戻って買ったのはTOTOの二階建ての食洗機。量が少ない時は下の部分だけで洗えるし、多い時や大皿を洗う時は上下運転できた。これを結構気に入っていたので、壊れた時にまた同じものに買い替えた。次に購入したのが4台目の10年使ったパナソニック。可もなく不可もなくの印象だった。

今回最初に見に行ったのはビックカメラのアウトレット店。斜めドラム洗濯乾燥機も数年前ここで買った。が、その時あった食洗機は一台も見当たらない。次に向かったのは正規のビックカメラ。駄目だ、3台だけの展示、2台がパナソニックであとは知らないブランド。最後にヨドバシカメラ。ありましたよ、さすがヨドバシ。しかし展示台数は僅か6台(レギュラー3台、プチ3台)、それも全部パナソニック。日立、東芝、三菱、シャープ、象印、TOTOはどうした!  仕方がない、ネットで買おうと価格コムで調べて発注。

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1971年から食洗機を売っているパナソニックのシェアはもともと高かったが、2003年に100万台近くあった市場はその後10数万台に縮小、同時に他のメーカーは将来性を見いだせずに撤退してしまったとのこと。現在製造しているメーカーはパナソニック、アクア(旧三洋電機)とSKジャパンの三社のみ。つまり日本メーカーはパナ1社だけ。パナも市場拡大のため2012年に小家族向けのプチ食洗機を発売するなどしているが、いまでも日本での食洗機の普及率は3割くらいだという。

こうしたメーカーの撤退は食洗機だけの問題ではないかもしれない。洗濯機だっていつのまにか国産は日立とパナソニックの2社だけになってしまった。NEC、富士通ゼネラル、三菱は既に撤退し、東芝は美的集団、三洋はハイアール、シャープはホンハイ傘下に入ってしまった。テレビも同様で、純国産はパナソニック、三菱の2社のみで、ソニーも基幹のディスプレイをサムソンなどから調達しているとのことだし、NECと日立は撤退、東芝はハイセンスに譲渡され、三洋はパナソニックに統合され、シャープはホンハイに買収されてしまった。その三菱も2024年3月の出荷をもって撤退するとの報道が最近あった。

かつては「家電大国」と自負し、特に白物家電はその技術とデザインで輸出の花形でもあった。しかし安価な労働コストを求めてアジアに製造拠点を移し、技術供与をしているうちに中韓台に並ばれ、価格競争力を失って追い抜かれ、ついに過去のパートナーや下請け企業に買収されるようになってしまった。日本製品の強みは痒いところに手の届く利便性や機能だったが、そのために開発コストと価格の上昇を招いた。増加するシンプルな機能で十分と考える消費者や、生活家電は国によってニーズや仕様が異なることに無頓着だったのかもしれない。機能・性能以外のところでの差別化が不十分だった気もするし、その機能も使わないものが多すぎる。製品の設計・企画やデザインの革新性に欠けていたことは、ルンバの自走式掃除機やダイソンのトルネード掃除機、これもダイソンの羽なし扇風機を初めて見た時のショックを思い出せば十分ではなかろうか。



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洗濯機の具合がよくない。段々運転音も大きくなるし。新春初売りで購入した斜めドラム洗濯乾燥機も8年が経とうとしている。そろそろ買い替え時期が近づいているのかもしれない。毎日二度の洗濯で酷使しすぎているのかそれとも洗濯機運がないのか、いまの機種でで4台目のドラム式洗濯乾燥機です。この18年で4台だから平均約4年強の寿命ですね。
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最初のドラム洗濯機は東芝でした。当時の東芝洗濯乾燥機は乾燥がヒートポンプ式でなくヒーター式だったので電気代がかかるのと、乾燥排気を水冷で水蒸気から水に戻して排水していたので水道代も馬鹿になりませんでした。それによく壊れました。2年半ほど使いましたが長期保障に入っていなかったので購入費と同じくらいの修理費を払いました。
2台目からパナソニックのヒートポンプ乾燥のドラム式です。しかしこれも一年で駄目になり無償で新型に交換してもらいました。その3台目は6年半働いてくれたのですが脱水力が弱くなり、途中で止まったり、そのうち終了までの残り時間表示が増えたり(基盤がイカレたのでしょう)末期症状になりました。「買い換えようか」の声が聞こえたのか最後の一週間は頑張って昔のように動いてくれたのですが時既に遅し。現4台目の登場となりました。

ドラム式にする前も我が家の洗濯機は結構短命でした。子供が小さい時は縦型洗濯機に衣類乾燥機の二階建て設置。まだ布製のおむつが主流で洗濯機と乾燥機は廻りっぱなしでした。その後も何台か買い替えて、シャープのニ槽式にたどり着きました。ニ槽式と言っても通常の洗濯槽と脱水槽ではなく洗濯槽の横に乾燥機が付いたものです。多分シャープだけのアイデアでした。あの頃のシャープはユニークな製品を輩出していましたね。これも比較的短期で壊れてしまいましたが、つぎも同じものを買いました。乾燥能力があまり高くなく洗濯と同時に使うとさらに力が落ちたけれど急ぎで乾かしたいものだけを入れれば大きな問題はなかったです。短命の理由は家事が好きではない家人が洗濯だけは一生懸命にやり、日に最低二度、多い時は三度の洗濯と乾燥をするからです。ほとんど洗濯か乾燥のどちらかが動いていてまるで合宿所の洗濯機のごとくフル稼働でした。

さすがに老夫婦二人になると汚れものの量は減るのですが、相変わらず午前に一度午後に一度洗濯機が廻っています。最近は乾燥機は使わず浴室乾燥です。多分こちらの方がコスト的には安いし皴にもなりにくい。だから洗濯乾燥機は不要なのですが、20年近く使い続けているから次に購入するのもドラム式洗濯乾燥機がいいと家人は言うでしょう。
洗濯機も水流や乾燥方法に多少の手を加えたくらいでこの十年大きな改良は見られません(使用電力と水道量は確かに下がっていますが)。18年前最初に買ったドラム式は確か10万以下でした。新型がでる度にサイズが大きくなりいろんなというか老人には不要な機能が付加され、かつ値段も上がっているので白物家電が苦戦している理由がなんとなく分かる気もします。今調べたら最新式はセール価格でも30数万もする。これでは老人世帯は諦めるしかないかも。
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家人が加湿空気清浄機が匂うのでクリーニングをしてくれというので掃除をする。ついでだから他の二台も一緒に始める。フィルターとトレイを湯でざっと洗い、重曹液に浸ける。トレイにはカルキが付いていて取り除くのに手間取る。一年365日24時間稼働しているから汚れて当たり前かもしれない。
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十年くらい前に花粉症がひどいと言うので最初にダイキンの加湿空気清浄器を家人の寝室に設置した。数年後にシャープとパナソニックを買い足して、自分の寝室とリビングに置いた。マンション住まいのせいなのかどうか分からないが冬場は結構空気が乾き、室内の湿度が50%を超えることはほぼ無い。仕方ないのでこれらに加えて12月くらいから4月までは二台の加湿器も稼働する。

メーカーの異なる三台を購入したのは性能や効果に差があるのかが分からないから試してみようと思ったからだ。ダイキンは光速ストリーマ、シャープはプラズマクラスター、パナソニックはナノイーを謳っているがなんだかよく分からない。ダイキンのカタログによるとプラズマ放電の一種であるストリーマ放電は細菌、カビ、アレル物質などを抑制する酸化分解力を持つ活性種を生成するとある。シャープのプラズマクラスターは自然界にあるのと同じイオンで、菌やウィルスに対し細胞膜表面のたんぱく質を切断して分解除去するだけでなく、匂いも分解除去するとある。パナソニックのナノイーは水に包まれた微粒子イオンで除菌、アレル物質抑制、カビ菌抑制、付着臭脱臭をするとある。読んだら余計に分からなくなった。50年近く前「天然イオン配合 イオナ わたしは美しい」というTVCMで爆発的に売れた化粧品があったが、あれと同じように不可解である。そんなに重要な機能なのにそれを切るスイッチが三機種についているのは何故だろうか。これもよく分からない。

空気清浄機が日本で発売されたのは1960年代だったが80年代には花粉症が社会問題化され大きく市場を伸ばした。90年代には中国でPM2.5が深刻なレベルに達し日本製の空気清浄機が飛ぶように売れた。現在でも世界の市場の65%は中国だと言われる。2020年時点の世界での販売金額は1兆1千億円で、今後空気汚染の増加や高性能機の伸長などで毎年10%で伸びると予測されている。メーカー別ではシャープ、フィリップス、パナソニック、ダイキン、ハネウェルが世界のトップ5で、わが国ではシャープ、パナソニック、ダイキンの三社で市場の75%を占めている。調査会社のMyVoiceによると世帯普及率は2021年6月現在43%で空気清浄機能付きエアコンを加えると60%を超える。

同調査による使用者の不満点は、本当にきれいになっているのか分からない、ナノイーが出ているのかどうか分からない、匂いにセンサーが反応して急に動作音が大きくなる、場所をとる、手入れが面倒などだ。確かに効果は分かりにくい。が、月に一度掃除をするとフィルターには結構なほこりが付着している。部屋の状況にもよるが我が家ではダイキン製が一番ほこりを集めている。匂いを嗅ぎつけて風量をマックスにするのは全機種同じ。タンクの水量はダイキンが3リットル、シャープが2.5、パナソニックが2.3だが、シャープが一番はやく水がなくなる。風量を大にすると毎日タンクに水を補充しなくてはならない。ダイキンが一番水が長持ちするが湿度も上がりにくい。それにしてもなんでみんなこんなにデカいんだろうか。




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少し寒くなってきた昨日、暖かいランチを食べたくて久しぶりに新宿中村屋の肉まんを買ってきました。夏の間は店頭で見ることが少なかったのですが、急に冷えてきたせいか駅前のスーパーにはいつもより大量に並べられ買っている客の数も多かった。家に帰り蒸し器の用意をして袋を開けてびっくり。一個づつ個包装されているではありませんか。
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今更という感じもするのですが、個包装化するには大袋に入れる前に個包装ラインを作らねばならないので製造ラインの変更が必要になるし、オペレーションも大変ではなかろうかとメーカーにいた人間は考えてしまいます。パッケージには誇らしげに「個包装のままレンジでふんわり」と書かれています。確か旧製品の裏には軽く水を振ってラップをゆるくかけてレンジに、とか書いてあったような気がします。私は面倒でも蒸し器を使います。この方が絶対おいしいからです。

それともうひとつ気づいたことが。5個入だったのが6個入になっている! 旧製品は基本5個入で時々プロモーションで+1個の6個入はあったのですが、個包装した上に6個入にしてお値段そのまま。中村屋さん、この小麦粉価格が高騰している時に大丈夫か、と心配してしまいます。(下の写真は旧製品)
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しかし個包装を開けた時に気づきました。小さくなっている。高さも径も以前よりひと廻り小ぶりだ。そうですよね、それでなければ採算悪化ですものね。でもいつも6個入で売られるのは大歓迎です。売価495円税込みで534円なら1個89円です。それに肉まんは賞味期限が短く、長いもので5日、私がいつも買う店のものはたいてい3日です。2日になると10%、その後は30%引きで売られることが多い。この値段で体が温まりお腹がいっぱいになるなんて。贅沢は言えません。
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金のなかった学生時代、現金封筒で仕送りがつくとすぐ元住吉商店街の中村屋に走り、蒸篭で蒸かしているのを買いました。たいていは5個、腹の減っている時は7個買います。食べる順番も決まっていて5個の時は、肉肉餡肉肉の順、7個の時は肉肉餡肉肉餡肉でした。今思うと至福の時でした。当時は1個25円でしたから5個で125円、7個買っても175円。学食のカツ丼が70円、商店街の洋食屋の定食が180~200円だったから肉まんの方が満足度が高かったかもしれません。でも今じゃとても7個は食べられない。
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でも味から言うと大阪にある551蓬莱の豚まんが一番でしょう。神戸で働き始めた時に元広告屋はまずTVCMに驚き(あきれたが正確か)食べて驚いた。横浜中華街のよりおいしくて安い。駅の売店や三宮そごうの地下で並んで買いました。横浜ではそごうが年に一回イベント時に招聘している時にしか買えない(通販では買えます)。先週名古屋からの帰りの新幹線でお土産の551の袋を見て羨ましかった。たいてい上りの車内に一人はいますね、お土産で買った人が。あ、いかん。腹が減ってきた。
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昔はガムと言えば板ガムのことだった。

WL社に入社して最初のアサインメントはブレス・フレッシュナーの新製品担当でした。アメリカではサーツやクロレッツがあり当時の社長はトライデントやホールズに次ぐ新製品として期待をしていました。その頃競合としては圧倒的シェア#1のグリーンガムがあり、かつ市場の7割は板ガムでした。なんとかしてグリーンに一泡吹かせたいと考えていました。

クロレッツ発売の一年前に2in1を出しています。2in1のもとはサーツですが、過去に二度の失敗があったため名前を変えました。2in1が先に発売されたのは、2in1の有効成分がレチンだけなのに対しクロレッツはレチンとクロロフィル(後にこのをコンビネーションをアクチゾルと命名)なのでクロレッツが先に発売されると後から来る2in1の効果が弱く見えるからです。過去のサーツ失敗がミントだったのでキャンディに変えて世に送られました。

ですからクロレッツにキャンディの可能性は殆どなかったのですが、ガム、ミント、キャンディの三種で開発を始めました。効能効果の面から見ると、食べてすぐ製品全部が胃の中に入るミントが一番高いのですが(口臭の原因の一番は口の中、次が胃だそうです)サーツの失敗とミント市場があまりに小さいので諦めました(数年後フリスクが成功したときは、やられた~と思いました)。二番目に効果の高いキャンディはガムが成功してから出すことにし、ガムにフォーカスすることにしたのです。

ガムには板、糖衣、ブロック(風船ガム)、スラブ(トライデント)などがありますが、効果の高いのは糖衣でした。ガムベースの中の有効成分は全部がガムの外に出るわけではありませんが、表面の糖衣部分は溶けて口の中から胃に届くからです。それに当時の工場には板ガムの製造設備はありませんでした。糖衣しか選択肢がなかったと言っていい状況でした。数台の銅製の釜(コーティング・パン)がありその中に成形したガムを入れ回転させながら時々工員さんが手で糖液をかけて熱風で乾かし懐かしのチクレットを作っていました。チクレットの売上げはずっと下降していて、工場に行くと「チクレットとダイナミンツの設備が遊んでるからこれでなんか新製品作ってよ」と言われたものです。
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糖衣に決めて試作を繰り返しなんとか満足できる製品ができたので、翌年のテスト・マーケティングの説明のために営業幹部会議に参加しました。プレゼン後あるマネジャーから「今頃糖衣ガム? 糖衣は戦後のガムだよ、ギブミー・チューインガム時代のガムだよ。チクレットを見れば分かるでしょ。売れるわけないだろ。今の世の中は板ガムなんだよ。なに考えてるの!」とボロクソに言われました。包装形態も最初はチクレットと同じ小箱入りで考えていたのですが、これも鉄道担当マネジャーに「包み紙がないガムは扱ってもらえない」と言われ鉄道売店を主力販路と考えていたので滅茶苦茶落ち込んで帰ったのを覚えています。


この悔しさがあったので包装形態をなんとかしたい、見返してやりたいと思うようになり、その頃森永から入社された製品開発部長とスティック包装、糖衣ガムの個包装の検討を始めました。効果感を強めるためにメントール含有を増やし、個包装工程で立てられた粒が倒れてしまう問題も工場サイドの尽力や包材をセロファンからアルミに変えることなどでなんとか解決し、多分世界初の個包装でスティック包装の糖衣ガムが誕生しました。包装機への投資も承認が取れテストマーケティングが始まりました。正式発売後は苦戦しましたが、テレビ広告がヒットしたこともあり品切れ状態が長く続くことになり、営業からは何故増産できないのだと苦情の毎日でした。高速糖衣機と包装機の追加もあり当初の目標の数倍の販売量を達成できました。その後競合社の同じサイズの糖衣ガムの発売が続き、ガム市場が一気に板から糖衣に大きく切り替わるなんで想像もしていませんでした。

久しぶりにクロレッツを買い、味わいながら昔のことを思いだしてつい書いてしまいました。老人の昔話でごめんなさい。




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羅針盤、火薬、活版印刷はルネサンス期の三大発明と言われその後のヨーロッパ社会に大きな影響を与えた。近代以降も電気、電話、自動車、飛行機、TV、コンピューターなど我々の生活を飛躍的に変えた発明は数多い。それらと比べると大発明とは呼べないがが、よくこんなものをと個人的に思う発明の二つが煙草とチューインガムだ。

動物は普通火を嫌うものだが、乾燥させて刻んだ葉に火をつけ、これも動物が嫌う煙を体内に吸い込むなどというのは宗教儀式か薬用として始まったのだろうが発明としてはすごいと思う。ナマコを最初に食べた人もすごいと思ったが煙を吸い込んだ人はもっとすごい。16世紀にメキシコに滞在経験のある僧侶は「それを口に入れるとめまいを起こしたり、感覚が亡くなったりする」と書き、宗教的儀式に用いられるような芳香があり膿瘍や疼痛、風邪、悪寒、ひきつけ、発疹などに治療効果があるとも記している。リスボン駐在のフランス大使ジャン・ニコは故国に煙草を持ち帰り王妃の持病の頭痛を煙草で直したとされる。煙草の主成分は彼の名にちなんでニコチンと呼ばれるようになった。

チューインガムも奇妙な嗜好品だ。噛むということは人間の本能のひとつだが、甘みや味があるものは飲み込みたくなるのが普通なのに、それらを楽しんだ後吐き出す変な食品だ。もとは甘みのないサポディラの樹液を噛んでいた習慣が時代を超えて引き継がれている。驚くのは煙草もチューインガムも中央アメリカに住んでいた先住民族であるマヤ族がその発生源ということだ。マヤ族は高度な文明を生み出したが16世紀にスペインの植民地となり、主にスペイン(人)経由で煙草もチューインガムも世界に広まりはじめた。マヤ語で煙草のことをジクと言い、煙草を吸うことをジカーと言うが、これがスペイン語のシガロになったとのことだ。同様にマヤ語の(Tsicte)チクテがスペイン語のチクル(チューインガム)になったと考えられている。
昔15年ほどチューインガムの仕事をして、研修で何度も話した近代チューインガムの歴史を忘れないうちに書き留めておこう。

テキサス独立戦争中にアラモ砦の戦いで名をはせたメキシコのサンタ・アナ将軍はその後国を追われニューヨークのスタテン島に移り住んだ。彼が寄宿したのがトーマス・アダムスの家だった。貿易商のトーマスが発明家でもあると知った将軍は亡命時に持参したメキシコ特産品であるチクルの塊を差し出し、これで質の良い馬車用のタイヤができるかもしれないと提案した。トーマスは息子と一緒に天然ゴムとチクルで安価な合成タイヤを作る実験を1年続けたがモノにならず諦めてチクルを納屋に放り込んだ。(写真はトーマス・アダムス)
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数年後ドラッグストアに出かけたトーマスは店で少女が1ペニーで何かを買ったのを見る。店主に聞くと「あれはパラフィンベースのチューインガムでそこそこ人気がある。でも品質がいまいちだからいいものを作ったら店においてあげるよ」と言われた。トーマスはサンタ・アナ将軍がチクルを噛んでいたこと、納屋にまだチクルが残っていることを思い出し、あれを使えば良いチューインガムができるのではないかと思いついた。その夜から息子と一緒に鍋でチクルを温め、ちいさな球状にしたものを数百個作った。それをかのドラッグストアに持ち込んだあとトーマスは行商に出かけた。

行商から戻りドラッグストアを訪れたトーマスに店主は「どこに行ってたんだい。あんたのガムはよく売れるよ。もっと持ってきてくれ」と告げた。作業場を新たに借りたトーマスは製造量を増やし、ラベルデザインも考えてそのガムに「アダムス ニューヨーク ガムNo.1」と命名して発売をした。これが世界で最初のブランド名をつけられたチューインガム製品となった。1869年のことだった。1871年にはチューインガムの大量生産を可能にする生産機械を設計開発し特許を取得した。トーマスはその後も「ニューヨーク ガム No.2」、「ブラックジャック」、「チクレット」など多くのガムを世に送り、1888年には「トゥッティフルッティ」をニューヨークの地下鉄駅内に設置した世界初のガムの自動販売機で販売を始めた。後年同業数社を吸収合併しアメリカン・チクル・カンパニーを設立して会長職を務め米国のガム市場をリードし続けた。(写真は初期の工場の様子とブラックジャックの広告、チクレットのパッケージ)
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残念ながら最近では煙草もチューインガムも惨憺たる販売状況のようだ。煙草は嫌煙と健康志向の広がりで喫える場所も少なくなり、かつ電子タバコに市場を奪われ紙巻の販売量はかつての三分の一以下に激減中で留まる気配もない。チューインガムもミント菓子やグミなどに市場を奪われピーク時の2004年と比べると昨年実績は6割減だ。偉大なるユニーク発明品も時代には勝てず苦戦は当分続きそうだ。

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チューインガム発祥に関しては諸説あるが上記は手持ち資料や現役時代にアメリカ本社から取り寄せた資料を読んだ記憶等によるものです。ニューヨークガムNo.1の写真もあるのですが見つけられませんでした。




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久しぶりにハマのソウルフード崎陽軒のシウマイ弁当買いました。月一くらいで食べていたのですが最近はすこしご無沙汰でした。冷めてもおいしいのが特徴ですね。テレビの駅弁ランキングで取り上げられることはほぼ無いけれど(多分駅弁とは見られていないからかも)一日に1万7千食の販売量は日本一ではないでしょうか。コロナで旅行客やイベントが減り32%減少したが、ピーク時には2万5千食あったと最近の記事にありました。

中身は昔ながらのシウマイ5個、鶏の唐揚げ、マグロの照焼、玉子焼き、蒲鉾、筍煮、切り昆布と千切り生姜、あんず、そして御飯。ちなみに1954年の発売当時は、手握りのシウマイ4個、エビフライ、ブリの照焼、玉子焼き、蒲鉾、福神漬け、昆布佃煮、筍煮、そして御飯。御飯は今と同じように俵型の型押しだったが、ゴマと小梅は付いていなかったとのこと。主役のシウマイは、1974年に4個から5個に増え、エビフライがホタテフライに変わり、椎茸の甘煮も加わっている。その後ブリの照焼はマグロの照焼に変わり揚げ物は鶏のから揚げになった。レンコン炒めが入っていた時期もあったし、発売当時の酒悦の福神漬けは1981年に姿を消している。HPでそんなことを確認し、昔はちょっとおかずが違っていたなあ、エビフライは残して欲しかったなあと思いながら、はい、完食。評判がいまいちのあんずがいつ加わったか分らないのが残念。ちなみに下の写真が発売当時の復刻版です。

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弁当としては安くはないのに(現在860円)長い間これだけの販売量を維持しているのはおいしいだけではなく差別化のための色んな工夫がされているからでもあります。シウマイが冷めても硬くならいのはホタテのすり身を加えているからだし、ご飯も高熱の蒸気で蒸しあげているから冷めた後もいつまでもモチモチなのだそうです。そのご飯は固く型押ししてあるので意外とお腹いっぱいになるのです。シウマイが小さいのは揺れる車内でもこぼさないようにと一口サイズにしたのだそうです。容器がプラスティックでなく経木なのも好感が持てます。プラスティックだとふたを開けた時に水滴がご飯の上に垂れてご飯の味を損なう可能性があるからです。

横浜本社で作られたシウマイ弁当は昔ながらの紐かけ式ですが、東京工場で作ったものは蓋式です。熟練職人は一時間に300個の紐かけをするそうですが、いずれは全部蓋式になると思われます。真っ赤な衣装のシウマイ娘(最近はシウマイおばさん比率が高いが)も崎陽軒のイメージ確立に貢献したけれど、焼売弁当でもシュウマイ弁当でもない「シウマイ弁当」のネーミングが一番大きな差別化の要因かも知れませんね。(写真は1950年頃のシウマイ娘と1955年に建てられたシウマイショップー現在の崎陽軒本店)
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子供のころから広告が好きだった (19)

高度成長期のサラリーマンは夏でも長袖のワイシャツを着ていた。学生も制服の下には長袖のワイシャツを着ていた。父親もワイシャツを腕まくりし、上着を抱えて毎日出勤していた。あの頃のワイシャツはみんな少しだぶついた白のワイシャツだった。
暑い夏が来そうな昭和36年の5月1日。朝刊の広告に多くのサラリーマンが驚いた、と思う。当時売れっ子モデルだった岡田真澄を使った帝人の広告だ。
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コピーは
YシャツにかわるYシャツ。<テイジン・テトロン・ホンコンシャツ> それはセミスリーブ <半袖>のオフィスシャツ。ネクタイOK、上着OK、フォーマルでスマート、えりは流行のボタンダウンなど。そで丈は短め、そで幅は細め、スリムなシルエットが新鮮!

サラリーマンはびっくりした。半袖のワイシャツ? 会社に行くんだぜ。これは遊び用のシャツじゃないか。それまで半袖シャツと言えばアロハシャツか開襟シャツしかなかったのだから、驚いて当然だった。石津謙介がデザインし汗をかいても乾きやすいテトロン製の半袖シャツはこうして世に出た。
男たちの抵抗は続いたが、当時の混雑した冷房のない通勤電車や扇風機だけのオフィスで過ごすサラリーマンはだんだん半袖シャツを着るようになった。着てみれば仕事はしやすいし、洗濯屋に出さなくても家で洗えるし確かに便利だった。東レがセミ・スリーブシャツで追いかけたことも市場拡大に勢いをつけた。
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しわになりにくく乾きやすいテトロンという素材のメリットだけでなく、胸ポケットが二つそれもフラップ付き、それまでのゆったりシャツとちがって細身のデザイン、若者に人気のボタンダウン、袖口の切込みなど新しい機能やデザインが満載だった。洗ってすぐ着られる、アイロン不要は主婦にも受け入れられる要素だった。薄くて透ける、と不評の面もあったがテトロンシャツは市場浸透をし続け、5年後にはワイシャツの全需要の5割を占めるまでに至った。

この頃はテトロンだけでなくトレロン、カシミロンといろんな合成繊維を使用した衣類が発売された時期だが、テトロンが一番知名があった。ちなみにテトロンは帝人と東レが共同で商標を持っていて、帝人のテ、東レのトにナイロンのロンを加えたものだと言われている。そのテトロンを使ったホンコンシャツは後年のクールビズや省エネファッションの先駆けともなった大ブーム商品だったが、父親が半袖シャツを着て出勤していた記憶は全くない。



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三島食品の「ゆかり」は我が家の常備品のひとつだ。ふりかけだけれどおにぎりにも使えるし結構重宝している。その割には知らないことが多い。三島って言うから静岡かと思ったら広島の会社だった。ゆかりに三姉妹がいることも知らなかった。さっそく近所の店で「あかり」は見つけたが「かおり」は不在だった。その代わり「うめこ」を手に入れた。パッケージの裏面に「ゆかり誕生50年」とあるように「ゆかり」は1970年発売の長女で、1984年生まれの「かおり」が次女、2010年に発売された「あかり」が三女という感じだ。「うめこ」は昨年生まれたばかりの乳児かな。IMG_4185 (2)
新製品の「うめこ」は「ゆかり」の50周年記念商品の「減塩ゆかり」の発売と重なってしまいネットでは不運なうめこの物語として語られたらしい。しかし長女や次女と比べて中身や味を想像しやすいネーミング、乾燥梅干しのような味と大きめの素材で口さみしい時のちょっとしたおやつにもなる利点がが受けてか予想以上に売れているようだ。この2月1日には初めて男の名前の「ひろし」が発売になると先月発表があった。地元の広島菜を使ったふりかけとのことだが、近所のスーパーではまだ取り扱いがない。

どうも三島食品は製品にまつわるストーリーを作ったりそれをメディアで流す術に長けているようだ。競合と目される丸美屋の「のりたま」や永谷園の「おとなのふりかけ」と比べるとマスメディア広告量が少ないのでアイデアで勝負をしなくてはならないのだろう。例えば「ゆかり」と比べると知名度が低い「かおり」と「あかり」を三姉妹と位置づけ、パッケージも統一感を出せるように修正した。するとふりかけ三姉妹としてSNSで取り上げられるようになり、三品を並べて展示する販売店も増えたとのこと。その後エースコックや飲料メーカーとのコラボ商品を開発・販売しメディア露出が増えた。そこに「うめこ」が加わり四姉妹となり、今度は「ひろし」だ。「うめこ」発売時にはなぜ三姉妹のように「り」で終わる名前でないのだ、「ひろし」発表時はなぜ男なのだ、兄弟なのか「ゆかり」の恋人なのかと話題になった。

多分インフルエンサーを使っているとは思うのだが、次々と話題を提供する姿勢はすごい。「ひろし」も勝手に広島菜大使を名乗るなどメディアに引っ掛かる手を打っている。
ただ現在は巣籠需要で販売は伸びているようだが、白米の消費は減少傾向だし、競合は強力だし、横展開(フレーバー・エクステンション)にも限界はあろう。現在「ゆかり」だけでも14SKUあり、その他のふりかけや混ぜごはんの素を含めると売り上げ規模の割に製品数が多すぎる。成長を維持するためにはSKUを整理し、「あかり」で推進しているようなパスタやピザなどの非米飯使用や、お茶漬け市場などへの更なる浸透が必要かもしれない。



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鉄鋼会社につとめていた父親は工場勤務だったが年に数回東京出張があった。おみやげは毎回銀座木村屋のあんぱんだった。あんぱん以外のお土産の記憶がない。同様に名古屋土産は納屋橋饅頭、生まれ故郷の清水だと追分羊羹、静岡に行けば田丸屋のわさび漬けといつも決まっていた。木村屋のあんぱんは小さめで20個くらい買ってきた。街のパン屋のあんぱんより二廻り位小さいから子供でも3つは食べられた。上のくぼみに梅だかシソが乗っていて(後日桜の塩漬けだと判明した)あんの甘さと良いバランスで地元にはないあんぱんだった。
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大学に入って銀座に行ったとき銀座のど真ん中(和光の隣!)に木村屋ビルがあったので驚いた。きっと父親も学生時代にここに来たのだろう。私も娘が銀座で習い事をしていた時に一階のパン売り場、上階の喫茶室、その上のレストランを時々利用した。大人になって昔ほどの感銘は受けなかったがパン売り場はいつも客で混雑していた。まとめ買いしているのは父親のように地方から来た人なのだろう。クリスマスなどのイベントに合わせた変わり種パンも楽しみだった。

木村屋は明治2年に木村安兵衛が次男の英三郎と始めた文栄堂から始まる。雑貨も扱ったが力を入れたのは当時麺包と呼ばれたパンだった。横浜で外人が製造するパンを研究し日本初の日本人が作るベーカリーだった。しかしパンは全く売れずかつ二度の火災で店は全焼し三度目の店を銀座に開いた(現在三越があるところ)。当時竹橋にあった兵舎の近衛親兵が脚気予防のため白米でなくパンを買い求める以外には大して売れなかった。なんとかパンを日本人の口に合わせる方法はないのか、木村親子は創業からそのことだけを考えていた。

転機は安兵衛から四度の勘当を受けた三男儀四郎の一言だった。神田の餅菓子屋で奉公経験がある三男がパンに餡を入れてみたらとふと漏らした。英三郎は入社したばかりのパン職人とあんぱん作りに取り組んだ。しかしやってみると意外に難しい。砂糖が増えると発酵が止まってしまう。何度も失敗した後に従来の野生の酵母でなく酒麹にたどり着いた。ただこれは手のかかる作業だった。米のとぎ汁の中に握り飯を入れ、28度を保って一昼夜置くと水に変化が起こる。その水を搾り取って酒麹と米飯とを混ぜ合わせまた一昼夜置くと「もとだね」ができる。この頃合いを見て絞ったり混ぜたりするのを目と舌の勘で、それも温度や湿度を勘案しながら行うので熟練の職人技が必要になる。当時あんぱんを作ろうと思ったら木村屋で奉公して秘法を習わねばならなかったというのも納得できる。だから今でも木村屋のあんぱんには「酒種」と誇らしげに書いてある。

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明治8年に明治天皇が小石川に行幸されたとき新製品のあんぱんが天皇に供された。その折に安兵衛はアンパンの真ん中に浅いくぼみを作り、ひとつまみの桜の花の塩漬けを乗せて納めた。これが両陛下に好評ですぐ宮内省の御用品となり、木村屋のあんぱんはへそパンの愛称で銀座だけでなく日本人の食生活の中へ入り込むこととなった。献上日である4月4日は「あんぱんの日」として記念日に制定されている。

現在人気のパン屋はカタカナネームの洋風パンばかりだけど、久しぶりに木村屋総本店のアンパンを食べて150年の歴史に思いを馳せました。おしまい。



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チョコフレークも終売なのですね(2019年夏に生産終了)。一時ツイッギーがCMに出たりしてあの頃の代表的なチョコ菓子だったのですけれど。好きだったバブリシャスも終売になったし、キスミントも昨年の2月に生産を終えている。江崎グリコの地元関西では80年代後半からずっとトップブランドで、関東でもシェア9%を保持していたのに。

コンビニでの販売ウェイトが上がりSNSの影響力が強まり、ロングセラー、定番商品も常に手を打っていないと安泰とはいかないのですね。サイコロキャラメルもカルミンもノースキャロライナも消え、関東ではカールも売られていない。昭和の菓子が少なくなっていく。

子供人口の減少や消費者の嗜好の変化もその理由だろうけど、ひとつには新製品が多すぎるのでしょう。毎年少しだけ模様替えをしてチョコレートで800、キャンディで900、米菓で1100もの新製品を出し続けているメーカーにも責任はありますね。新製品は既存製品の陳腐化を招き、店頭で棚の取り合いとなり新発売された製品の数だけの旧製品が消えていきます。消費者段階と店頭段階での二つのカニバリゼーションを引き起こします。

昔菓子の仕事をしている時に「たとえ100人でも買ってくれる熱心なファンがいる限り製品を販売し続けるのはメーカーの使命・義務ではないだろうか」、「いやいや、回転の悪いSKUを持っていると製造設備の稼働率が下がり、在庫も増えて採算が悪くなり他の製品へのサポートが減って共倒れになる可能性がある」という議論をしたことを思い出しました。もちろん後者が優勢でした、まだPOSがない頃ではありましたが。今なら週販がすべてを決めるのでこんな議論さえ起きないのでしょうね。




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無印良品の「発酵ぬかどこ」が売れているらしい。対前年比2倍だと言う。毎日かき混ぜなくても良い手軽さが受けたとか、コロナ禍で自炊が増え「ぬか女」が糠漬を楽しんでいるからだ、とも。
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早速買ってみた。チャック付きポリ袋に1キロ入って890円。通常のぬか床より値段は高いが棚に並べるとすぐ完売になるらしい。抗菌性の高い乳酸菌を使って特許を持つ工場で製造しているからこの値段も仕方ないか。漬ける容器もいらないし、かき混ぜるのは週に一度でいいし、捨て漬けも不要とのことだ。SNS上では手軽で失敗しないだとか、キュウリやナスも良いけどアボカドやゆで卵を漬けるとおいしいとかの投稿も多い。

まず王道のキュウリを漬けてみた。いままで使っていたぬか床は一日では味が浅く二日だと濃くなるが色が褐変しておいしそうには見えなかったが、このぬか床は表示通り12時間から18時間でちゃんと漬かり色も鮮やかな緑のままだ。最初なので少し塩辛いがそのうち丸くなるだろう。今までもポリ袋でぬか漬けをしていたが厚手のチャック付きは便利だし補充用の少量ぬか床を売っているのもありがたい。確かにヒットする要素はいくつかある。
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最近の無印は衣料や日用品より食品のヒットが多い。フライパンでつくるナン、ごはんにかけるシリーズ、ひとくちスウィーツ、コオロギせんべい(食べる気はしない)などあるが一番はやっぱりレトルトカレーだろう。先日もTV番組で無印のレトルトカレーのランキング特集があった。他にはないユニークなカレーが多く、評者の料理人たちもスパイスの使い方が素晴らしい、辛味・酸味・旨味のバランスが良い、レトルトを超えた、黙って出されたらレトルトとは思えないなどと絶賛だった。

驚いたことに無印良品では製品発売の前に市場調査は実施しないという。製品デザイン設計時の顧客アンケート実施、消費者の声の収集、聞き取り、観察を基に開発を始める顧客参加型開発が主流だ。開発のために消費者とのコミュニケーションを図る「くらしの良品研究所」も設立されている。開発段階で顧客の声を聴くので開発後はテストの必要がないということなのかもしれない。レトルトカレーもカレーを主食とする国々を廻り、材料や作り方だけでなく現地風の食べ方まで学び、日本に帰ってそれを再現する作業からあの製品群が生まれたとのことである。試食を何度も繰り返して消費者テストをすることはない。もし実施したら日本で馴染みのない味ならば高評価を得られず消えていくのが運命なのかも知れない。

自分が30数年やってきた製品開発とはずいぶん異なる。外資では消費者テストを繰り返しコンセプトとの合致度、受容性や購買意向率を高めるよう製品改良を行い、平均点が高い製品にするように努力する。万人受けする製品はできるが、なかなか尖がった製品は生まれにくい。無印のやり方は、消費者が想像もできないものを製品化して驚かせるのだから調査には意味がないというアップルの考え方に多少通じるところがあるかもしれない。どちらが優れているとは言えないが競合の激しい分野では無印の方法は有効だろうと思う。

さ、卵もゆでたしアボカドも買ってきたのでぬか床に漬け込むとしよう。



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以前一度書いたが、消費税増税以降ステルス値上げというかこっそり内容量を少なくして値段を据え置く商品が目立つようになった。小麦粉の値上がりでビスケット、スナック菓子やパンが小さくなっているのがその一例。
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私は手が小さくゴルフ手袋は19センチで男性用はたいてい21センチからなので時々女性用を買うくらいの大きさだ。最近の食パンはトーストするとその手の中に納まるくらい小さい。まるでラスクみたい。6枚切りでは物足りなくて最近は時々5枚切りを買っている。一年半前に値上げがあったばかりなのにひどい仕打ちじゃないか。ネットでは小さくなった分カロリー表示も下がっていてそれで気づいたとの主婦のコメントもある。さすがの主婦視点だ。

輸入小麦の価格は政府売り渡しなのでメーカーはなんともできず、かつ毎日の必需品なので大きく価格を上げられないジレンマもあるだろう。物流費の値上がりもあり多分ほとんどの製パンメーカーはたいした利益は出ていないと思われし、ほとんどのメーカーは赤字だという人もいる。先日ネットの取り寄せで一斤1000円の食パンを4種類試したが、それらと比べて200円前後の食パンはよくできていると思う。この先利益を出すためにどんな手を打つのだろうか。

そんなことを考えながら毎週買うかりんとうを食べていて気が付いた。前と比べて細くなっている。おまけに以前より割れ欠けが随分多い。
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このメーカーは昨年春に値段据え置きで20グラム増量キャンペーンをしている。値上げの布石かと思っていたがまだ値段は変わっていない。多分値上げをする代わりに今まで撥ねていた割れかりんとうを少し多めに入れるようにしたのではなかろうか。今年に入って数回買っているが割れ欠け率は同じようだ。QCの基準が緩くなったと言えばそれまでだが味に変わりはない。また製品が細くなったのにも理由がありそうだ。かりんとうは一度でなく複数回揚げる。メーカーによっては油の温度を変えながら3∼4回揚げる。油が十分にしみこみ素材の味を引き出すためだ。割れた製品は味が染みているし、かりんとうを細くすれば火の通りがよくなり短い時間で揚げることが可能になる。時間と燃料費が節約できるはずだ。

メーカーの開発者やマーケターは消費者の財布の紐が堅くなる昨今いろんなことを考えているんでしょうね。食パンはかりんとうのようにはいかないかもしれないけれど、つぎにどんなことをするのか楽しみにスーパーの棚を見ることにしましょう。



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https://www.slideshare.net/secret/sGfcxlZsIMyVRT

クリックするとプレゼンテーション資料が表示されます。
新製品開発についての27枚のスライドです。



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朝食は半分寝ぼけて食べることが多いからそんなに気にはならなかったが、どう見てもパンのサイズが小さくなっている。ロールパンひとつでは物足りないので二つ食べるのだけれど、ヤマザキのバターロールとパスコのレーズンロールを並べると以前はバットとボールのように見えたのだがいまでは同じような大きさだ。レーズンロールが短くなったのだろう。心なしかレーズンの数も少なくなっているように思える。小麦粉の価格上昇でパンメーカーは昨年値上げをしたばかりだがサイズも変えているのだろうか。

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食パンも小さくなったような気がする。19センチのプレートに乗せるとこんなに小さかったっけと思う。値上げ前はやたら空洞が目立ち、バターを塗るとぺちゃんこに薄くなった。小麦粉が高いから小麦粉の量を減らしたのか水分量を増やしたのかガス抜き工程を端折ったのかなどと思ったが、最近は空洞や縮みは目立たなくなったが、どうみても前よりちいさい。工場では四角のケースに入れて再発酵させたあと蓋をして焼き上げるのでサイズを変更するのは簡単ではないように思えるのだが、きっと生地の量を減らすとかなにか専門家ならではの方法があるのだろう。

こういうのをステルス値上げとかシュリンクフレーションと呼ぶらしい。特に最近値上がりの激しい小麦粉を使う菓子類に顕著で、かっぱえびせん、カントリーマーム、ルマンドなど重量をかえたり枚数を減らしたりするのが目立つ。ちょっと腹が立つのはパンやヨーグルトのように値上げと減量をほぼ同時期に両方行うケース。10%値上げしたいが消費者離れを起こすのが怖いから、値上げを5%に抑えて量を5%減らそう、みたいな発想ではなかろうか。消費者を馬鹿にするんじゃない! と思いつつ、今朝も食パンとヨーグルトをいただきました。



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なぜクロレッツは14粒なのか。

糖衣に決めたあとは粒のサイズを決定しなければいけません。とりあえず参考にしたチクレット(1箱12粒入り)は長辺18ミリ、短辺13ミリ、厚さが7ミリ弱でした。これを12粒縦に並べてモックアップを作りました。なんだか美しくない。それに店頭で隣に並ぶであろうグリーンと比べるとあまりにボリューム感がない。ロゴが載るパッケージ前面は幅19ミリでグリーンの21ミリと比べると貧弱すぎる。少なくともパッケージ幅を同等にするためには粒の長辺を20ミリに広げる必要がありました。

次に短辺を決めるのですが、長辺を20ミリに固定し6種類の短辺でモックアップを作り直し、最終的に12ミリに決めました。長辺をたった2ミリ大きくするだけでパッケージの印象はガラッと変わりました。これなら戦えるかもしれない。後で考えるとこの粒のサイズはほぼ黄金分割でした。落ち着きが良いはずです。(が、この長方形は工場サイドから見ると糖衣コーティング工程で割れ欠けがでやすいのでロスが多いと言われました。マルカワの10円ガムのような球状が最も糖衣コーティングしやすいのです。)

しかし主要な販売チャネルとなるであろう鉄道売店での陳列を想定し縦に並べてグリーンの横に置くと、前面は同じサイズになったものの側面が薄くなり高さ8.4センチとグリーンより1センチ背が高くても弱々しく見えました。相手は当時7枚入り60円で売られており、こちらは100円の価格を想定していました。67%のプレミアム・プライスを正当化するには厳しいボリュームです。残された手は粒数を増やすことだけでした。

こうして14粒に決め新製品会議に諮ることになりました。味も消費者テストの結果も問題なかったのですが製造原価が高すぎると社長が言い出しました。糖衣故の製造効率の悪さ、包装機の償却費、アルミ使用などによる包装コスト増加のため当時の自社製品の平均原価率より10%、最も原価の高かったメントスより数%、原価率優等生のトライデントより20%近く高かったと記憶しています。社長の言い分は、クロレッツはまず広告でコンセプトを売り込まねばならず、十分な広告費を捻出するためには原価率を事業部平均くらいに収めなければならないというものでした。

これ以上下げることは現状では困難だと説明すると、14粒でなく12粒にしたらどうかと提案がありました。12粒では店頭でのプレゼンスが悪くなること、グリーンとの価格差を考えるとこれ以上小さくするとセールスが見込めないと答えると、では一粒減らそう、一粒なら大きさにも影響しないだろうと譲りません。苦し紛れに13粒では縁起が悪い(これは結構外人には効きます)、それに男性は一度に二粒噛むので偶数にしたい、14粒であれば7回噛めてグリーンの7枚に対抗できるなどと思いつきを述べてやっとのことで承認を取ることができました。

クロレッツ発売後に競合社がほぼ同じ粒サイズ、同じ14粒の個包装でのスティック包装で商品を出したときに、我々も真似されるようになったんだ(特にリーディングカンパニーから)と皆で喜んだことを憶えています。

(下のパッケージは新発売時のものです)

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セブンイレブンの冷凍チャーハンが売れているらしい。先日発表された日経クロストレンドの「マーケター・オブ・ザ・イヤー2019」でも開発者が6人の内の一人に選ばれていました。発売は2018年11月とのことですが、迂闊なことに製品の存在を知らなかった。セブンに行くと、店内の冷凍ケースにチャーハンとピラフが2フェイスずつ並んでいる。4フェイスも取るなんて、と思いながら店内を一巡して戻ってくるとチャーハンが2つ減っていた。確かに売れているみたい。一つ買って帰ってきました。

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なんだか見た目はカップヌードル。開発者は学生街の店の一人前の冷凍チャーハンのPOSデータの異常値に気づき、学生が袋入りの冷凍チャーハンを店内でチンしてスプーンで食べているのを見て閃いたという。おにぎりを二つ食べるより安いし、なによりも暖かくておいしい。冷凍食品は自宅で食べるものだという思い込みが覆されたことが新しい製品を生み出したのでしょうね。

カップ入りのご飯と言えば1975年に日清食品から発売された「カップライス」を思い出します。当時問題になっていた余剰米の処理にも貢献できるし、カップヌードルの成功の再現が期待されました。スタートは順調だったものの味の評価は高くはなく、当時200円という価格と湯切りをしなくてはいけないなどの理由で失速し製造中止となりました。後年この経験が「カップヌードルごはん」や「カレーメシ」に活かされているようです。
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今回の冷凍カップチャーハンは税抜き198円だしチンするだけで湯切りも必要ない。味もカップライスと比べると美味だし、小腹の空いた時やオフィスでのランチにもなります。冷凍食品として家庭外という新しい市場を開拓したことは間違いないでしょう。ただ若い人には量が物足りないだろうし、プラスティックの容器は環境的には改善の余地があります。日清のカップヌードルのように紙製に変えられればさらに受け入れられると思うのですが。



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