マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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カテゴリ: 懐かしのCM

子供のころから広告が好きだった(40)

生まれてから幼稚園まで住んでいた社宅の玄関横にはトマトが植えてあった。夏になるとそれをおやつ代わりに食べた。塩をかけて食べたのだがそんなに好きではなかった。野菜でもない、果物でもない蝙蝠の様な食べ物だと子供心に思っていた。

トマトジュースもドロッとした食感が嫌いだった。それにトマトジュースはポピュラーではなかった。我が国では昭和8年にカゴメ(当時の社名はは愛知トマトソース製造)が製造を開始し瓶入りの高級品だった。戦争で中断の後、昭和24年に製造を再開し30年代に缶入りにしてから需要が伸び、昭和38年にはデルモンテが参入して市場が拡大した。高度経済成長のひずみとして食品公害が表面化し、消費者の天然・自然・健康志向が高まったことも成長の後押しをした。

昭和47年にカゴメがテレビ広告を大々的に展開し始めた。「お酒を飲んだ翌朝は」のキャンペーンだ。九里洋二、太地喜和子、黒柳徹子、ちあきなおみと毎年酒豪タレントを起用したがやはり初年度の田辺茂一の印象が一番強い。紀伊国屋書店の創業者社長で「粋人」「日本一働かない社長」「夜の市長」などと呼ばれ、夜な夜な銀座で飲み歩くことで有名だった。その粋人がガウン姿で「夜の銀座より、朝のトマトジュースの方がいいや」と言いながら飲むトマトジュースは大人だけを対象にしたちょっと変わった飲料だった。大学生時代映画を見に行くとシネアドには必ずこのCMが入った。時々紀伊国屋で本を買っていたし、彼が慶応出ということは知っていたのでその大学を退学処分され他の大学に編入したばかりの自分はちょっと複雑な心境で遊び人社長の広告を見ていた。
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このシリーズ広告は5年続き、そのあと渡哲也の「しみるなあ、風呂あがりの一杯」に替わる。後ろ向きの二日酔い対策から積極的な健康管理に舵を切ったのだ。競合のデルモンテは慌ただしい朝の食卓にトマトジュースを加えることを訴求し、昭和51年にはキリンも参入し「赤い戦争」が始まった。3社で8割を超えるシェアを持つ寡占状態がしばらく続いた。
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最近は下降が止まらない野菜ジュースを尻目にトマトジュース市場は伸び続けている。スーパーマーケットでは前年比+50%というところも昨年あった。アスタキサンチンと並ぶ抗酸化成分であるリコピンが注目されていること、リコピンにGABAを加えたコレステロールや高血圧対策の機能性表示製品が市場を引っ張っている。トマトが値上がりしていることもあって料理用に無塩のトマトジュースが使われることも一因らしい。

市場の5割強を押さえるカゴメの強さは変わらないが、デルモンテと紙パック、缶、PETを揃えた伊藤園が20%前後のシェアで2位の座を争っている。3社で9割占拠だ。デルモンテは7月に米本社が破産法の申請をしたが、日本ではキッコーマンが1989年に事業を買収した日本デルモンテが製造販売をしているので大きな変化は起こらないかもしれない。カゴメはジュースだけでなくスーパーの高リコピンの生トマトの販売や、ネット通販で機能性表示食品の販売に力を入れている。私も先日ネット広告を見てケース買いをしてしまった。
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子供のころから広告が好きだった(39)

何十年も前に見ていた広告、聞いていたジングルをいまだに憶えている。テレビを見始めたころはNHKだけだったし、一日に数時間しか放送はなかった。翌年民放(CBC)が開局し、その二年後にTHKが放送を開始したので広告に接する機会は多くはなかった。

当時の広告は番組内で流れるものが中心で、30秒や60秒CM、時には3分の生CMも流れた。大メーカーはごぞってテレビ番組のスポンサーとなり、番組の多くは一社単独提供だった。その番組も映画や記録映画、「兼高かおる世界の旅」などの番組以外はドラマもクイズ番組も全部生放送だった。1958年にテレビに危機感を持った主要6映画会社がテレビ局への作品販売や所属俳優の派遣を停止したために各局は代替としてアメリカ製のテレビ映画を輸入し放映を始めた。やがて「うちのママは世界一」「パパは何でも知っている」「名犬ラッシー」「ララミー牧場」などは人気番組となった。

会社名に対する信頼が強い時代で、広告は今のようにブランド訴求するものは多くなく、会社名がまず前面に出て、その後にその会社の製品であることを訴える傾向が強かった。「ヤマハエレクトーン」「大正漢方胃腸薬」「カンロ健康のど飴」のように我が国のブランディングは社名+製品名の二階建てブランディングが中心で、ブランド売買が一般的なアメリカとは異なる面を持っていた(ブランド売買時に社名と密接にリンクしていると売却しにくい)。テレビ広告も社名を知らしめる目的が強く、社名の連呼や社名と製品群をまとめて訴えるものが多かった。

特に家電や医薬品など製品の機能や効能効果、アフターサービス(死語?最近聞かない)などを重要視されるカテゴリーではこの傾向が強かった。すべての提供番組の冒頭に入るナショナル(現パナソニック)のCMソングはこんなだった。

明るいナショナル 明るいナショナル
ラジオ テレビ なんでもナショナル
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もう片方の家電の雄である東芝の広告。

光る 光る 東芝 まわる まわる 東芝
走る 走る 東芝 歌う 歌う 東芝
輝くひかり ひかり 強いちから ちから
みんな みんな 東芝 東芝のマーク
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極めつけは武田薬品のジングルだろう。なにせ社名だけしか出てこないのだ。

タケダ タケダ タケダ
タケダ タケダ タケダ
タケダ ターケーダー
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このシンプルさが記憶に残る原因かもしれない。いまのCMやジングルは昔より秒数が短くなっているのにいろんなものを盛り込みすぎているような気がする。

(武田薬品のジングルは下記のサイトで聴くことができます)
https://www.youtube.com/watch?v=EGc0_0DG4Zg

子供のころから広告が好きだった(38)

たいていの消費財商品は使用者が自分で購入することが多い。しかし亭主に頼まれて下着やカミソリの替え刃を主婦が買うとか、おじいちゃんの入歯洗浄剤を頼まれるということもあるだろう。この使用者と購入者が一致しない最大の製品群は子供が食べたり使ったりする商品だ。子供の服や文房具などはその典型であるが、子供が食べる食品・菓子類や飲料もその種の製品だ。

子供が母親に買ってくれとねだる場合もあれば、母親が子供のために買い与える製品もある。支払いをするのは母親なので企業は母親をターゲットとする。両者が満足する商品ならば問題ないが、そんな商品は多くはない。今日もスーパーで子供がアンパンマンアイスだかガリガリ君だかを買ってくれとねだり、母親が駄目と言っているのを見た。昔はコーラが飲みたいのに「骨が溶けるよ」と訳の分からぬ理由でノーと言われた子供が多かった。

そんななかで子供と母親の両方をうまく説得した広告の一つがかっぱえびせんではなかろうか。
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やめられない とまらない かっぱえびせん。このCMソングは60年近く流されている。アメリカには「この世で最も勇気のある者はピーナッツを一粒食べてそこで止められる男だ」という格言があるが、エビ好きの日本人はかっぱえびせんもひとつでは止められない。かっぱえびせんは製品と広告の秀逸さであっという間にスナック菓子のトップブランドになり、カルビーの名を知らせしめ、その後のサッポロポテト、ポテトチップス、じゃがりこなどの同社製品開発・発売の財政基盤を作った。同時にかっぱえびせんは日本を代表するロングセラー菓子となった。

ただおいしいだけの菓子ではない。当時の菓子はせんべいやあられ以外は甘いものばかりだった。すこし塩味の効いたエビの風味の軽いスナック。養殖魚のエサにしか使われていなかった小エビを丸ごと使っているので子供の成長に必要なカルシウムに富む。それを直接的に訴求するのでなく、CMソングを「かしこい母さん かっぱえびせん」で締めることで子供のために製品を選択した母親の心をくすぐった。かしこい母さん かっぱえびせん。うまい表現だった。栄養価の高い未利用資源の有効活用を社是とするカルビーの面目躍如だ。

そう思うのは昔の経験から来ている。日本人に恒常的に不足している栄養素はカルシウムだけだったので、カルシウム含有の子供向けの菓子を作って販売したことがある。ターゲットを子供だけにしたことが間違いだった。子供はカルシウムの必要性なんか気にしない。母親を巻き込むべきだったのだ。
その前にはシュガレスガムを「これならママもOKさ」というキャッチコピーで広告を打っていた。製品としては成功した部類だったが、今思うと子供はもっと甘くて量のある砂糖入りのガムを噛みたかっただろうし、母親はシュガレスでもガムは噛ませたくなかったのではなかろうか。違う表現があってもしかるべきだった。

カルシウムにしろシュガレスガムの例にしろとかく外資は頭でっかちになりがちで、コンセプトだけで物が売れると考えるのが弱みかもしれない。マーケティングの教科書に「コンセプトで牛を川辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」とあった。C(コンセプト)+P(プロダクトパフォーマンス)のバランスが大事なのだ。それと、この国では機能的ベネフィットだけではなく情緒的ベネフィットも付加すべきだった、というのが40年経ったあとの反省だ。遅すぎる。

子供のころから広告が好きだった(37)

たった一本のテレビCMが製品だけでなく会社の業績を大きく変えることがある。無名の会社が突然有名になったり、地方の会社が一夜で全国区になったりする。広告の麻薬的な効果である。その確率はとんでもなく低いが。

まず思いつくのが「禁煙パイポ」だ。マルマンの系列会社だったアルマンが、製品がまったく売れず最後の賭けで銀行から借金をしてテレビ広告を制作した。当たらなければ倒産必至で、出演タレントも交通費と弁当だけが支給されたとのことだ。普通に何本かを撮影したあと、市川準監督は製作費がないということはオンエア量も少ないと判断し印象に残るカットを最後に収めた。それが小指を立てて「わたしはこれで会社を辞めました」の台詞だった。この広告で禁煙パイポは一気に有名になり7億円の売り上げは40億円まで跳ね上がった。一本のCMが会社を救った例だ。
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地方のメーカーが広告でナショナルブランドになることもある。味噌という商品はもともと地場産業で地域の大豆や米などで作られ、もっぱら地元中心に流通していた。私は名古屋生まれだが、地元の赤みそや八丁味噌で育った。イチビキ、サンビシ、マルサンなどのメーカーが有名だったが、関東に出てきた時にそれらのメーカーの赤だし味噌が売られていなくてびっくりした。いまではコンビニやスーパーに一つか二つは置いてある。

地場の味噌メーカーで最初に全国展開したのはマルコメだ。各地に販売会社を設立したり自立式容器ドイパックの導入もあったが、少年を坊主にしてのマルコメ坊やのCMの力も絶大だった。「マルコメ、マルコメ、マルコ~メ味噌」のジングルが耳に焼き付いている。1977年からマルコメ君のCMを放映しはじめ、翌78年には全国トップの味噌メーカーに上り詰めた。その後も日本初のだし入りの「だし入り味噌 料亭の味」などのヒット製品を出してその地位を確保している。
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全国的な広告を打つ会社がなかったこともマルコメには幸いしたが、それを追いかけた同じ長野県の味噌メーカーであるハナマルキはもっと大変だったと思われる。マルコメが日本一になった6年後、社名をハナマルキに変え、生産設備を更新し、テレビ広告を大量投入し始めた。タレントには当時は駆け出しのモデルだった今井美樹を使って「一日一杯のハナマルキで 大人になりました」「味噌は天才」とマルコメの少年と差別化する方向をとった。その後は現在も使われている「おみそな~ら ハナマルキ」のジングルを採用し知名度のアップを狙った。
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そのかいあってハナマルキはナンバー2の味噌メーカーとなった。3位にも長野県のひかり味噌が入り、味噌市場上位は長野勢の独占である。

今井美樹もこのCM以降ドラマ出演が増え1986年には歌手デビューもしている 。彼女はかつてハナマルキのCMがデビュー作だと時々話していたが、その前に彼女はクロレッツの最初のCMに出演している。WL社の受付嬢の役で、当時これはというタレントがいなかったが広告代理店がいいモデルがいますということで出演してもらった。背の高い笑うと口の大きい女性、というのが第一印象だった。山梨県でのテスト販売時にオンエアしたが全国展開の時は同時に撮ったコミカルな方を一本を流したので今井バージョンはほとんど人目には触れなかった。そのCMは思ったほど当たらず、次に半ばヤケで制作した岡本麗の「いかがでしょう~か」の物売りCMがヒットしてクロレッツは離陸できた。予想外だった。事程左様に広告というのは先が読めないものなのだ。

子供のころから広告が好きだった(36)

バブル期とは1986年12月から1991年2月までの4年強の期間に起きた好景気、資産の過度の高騰、よく言えば経済の拡大期とされる。今思うと狂っていた時代とも考えられるし、人によってはもう一度戻りたい懐かしの時代でもある。私にとっては40歳前後の働き盛りで仕事は面白く、会社の業績も5年で2倍に成長した時代だった。

現在の落ち目の日本からは想像もできないが、その象徴が企業の時価総額ランキングだろう。
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上位20社中なんと日本企業が13社と過半数を占める。かつトップ5は全部日本の会社だ。この間の為替レートはそれ以前よりは強かったが121円から159円のレンジだったので、円が強くてドル換算の恩恵で膨らんだわけでもない。そのころ読んだE.ボーゲルの「ジャパン アズ ナンバーワン」やR.クリストファーの「日本で勝てれば世界で勝てる」の時代が来たと本気で考えていた。

そんな時代の空気は当然広告にも影響する。まず思い出されるのがリゲインの「24時間戦えますか」シリーズだ。サラリーマンに扮した時任三郎が世界中を駆け回りながら「24時間戦えますか」と唄いながら働き倒すというCMだ。ジャパンマネーが世界を席巻していた時代だったし、企業戦士という言葉も定着した。今思えばブラックの最たるものだが当時は人気のCMで流行語となった。
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ただこうした熱血広告一辺倒ではなく、経済成長の恩恵を受けて余裕も生まれてきた時代でもあったのでゆとりのある広告も存在した。リゲインの対極を行くグロンサンは高田純次の「5時から男」で終業後の充実を訴求したし、バブル真っ最中の87年に流されたコカ・コーラのCMは高揚感や将来への希望が見えるあの時代の雰囲気を良く表していると思う。
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金余りの時代でもあったので広告主はギャラにこだわらずに外国タレントを多用した時期でもあった。毎日のようにCMでシュワルツェネッガー、マイケル・J・フォックス、マドンナ、マイケル・ジャクソン、マライア・キャリー、ジーン・ハックマン、ハリソン・フォード、グレグ・ノーマン、トム・ハンクス、ショーン・コネリーなどの顔を見ることができた。本国では決して出演を受けないであろう車、煙草やアルコール飲料の広告の仕事も日本だけでのオンエア契約と高額ギャラで押し切ったような感じだった。
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上記はダイアン・レインの宝石店の広告だが、この時期の深夜帯はこの手の広告ばかりだった。カメリアダイアモンドを販売していたじょわいゆ・くちゅーるマキや武富士、ハウスのCMが5分に一回は流れていた。いわゆる「青天井」と呼ばれる販売方法で、空いている時間にお任せで挿入CMをすることにより、TV局は売りにくい深夜ゾーンのスポット広告枠が捌け、広告主はリーチは限定されるものの安価にスポットが購入できるというメリットがあった。いまではこんな予算を無視するような販売方式はないんだろうなあ。

ともあれ、そんな時代だったのです、バブル期は。
注:時価増額ランキングの東洋銀行は東海銀行だとおもいます

子供のころから広告が好きだった(35)

1964年の東京オリンピックの頃だった。まだ我が家のテレビは白黒だった。軽快なリズムに乗ってアニメーションの広告が流れてきた。当時のアニメーションCMといえばカッパの黄桜CMかクリクリ三角のヴィックスかアンクルトリスくらいだったが、それらとは全くテイストが異なるCMだった。それに唄っているのが当時の世界的ヒット「アイドルを探せ」を出したばかりのシルヴィ・ヴァルタンだった。
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ドライブウエイに春がくりゃ イエイエイエイエイエ~イ イエイエイエ
プールサイドに夏がくりゃ イエイエイエイエイエ~イ イエイエイエ
C'est bien  (セ ビヤ~ン)
レ~ナウン レナウン レナウン レナウン娘が
お洒落でシックなレナウン娘が ワンサカサッサ ワンサカサッサ
イエイエイエイエイエ~イ イエイエイエ
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あのハスキーな声で人気の美人シンガーがイエイエイエとかワンサカサッサと唄うのだから記憶に残るのが当然のCMだった。作詞作曲は当時は無名だった小林亜星。あの頃外国の歌手や俳優をCMで使うということは殆どなかったから余計に目立った。当時のレナウンは若い女性向けのウェアしかなかったと思うが、若い男性やおじさんの間にもレナウンの名前は浸透した。

その後もイエイエのCMシリーズがヒットし、投入したアーノルドパーマーブランドや紳士服のダーバン、アクアスキュータムの買収などで製品群を拡げ一時は世界最大のアパレルメーカーとなった。私も学生時代はJUNの服を着ていたが、サラリーマンになってからはアウトレットでアランドロンが宣伝するダーバンのスーツを買い、ゴルフを始めてからはアーノルドパーマーのウェアを着るようになった。

しかしバブル期の大規模投資が裏目に出て採算が悪化すると同時に急成長するファストファッションに市場を奪われるようになり、百貨店をメインの販路としていたレナウンはバブル崩壊後に経営難に陥る。2010年には中国企業の傘下に入ったが事業は好転せず、その10年後には民事再生法を申請し、今年の8月に破産手続きが完了し122年続いた歴史に幕が下ろされてしまった。

子供のころから広告が好きだった(34)

東芝がCO2削減のために白熱電球の製造を終了してから10年以上が経つ。電球は会社発祥事業の一つであり120年間作り続けてきた看板製品だった。わが家もほとんど使わないふたつのダウンライト以外は全部LED電球に変わった。電気代は激減したが時々あの温かみのある光りが懐かしくなることがある。

子供のころ我が家の電球は東芝製だった。乳白色電球と透明電球が混在していた。蛍光灯などというものは高価でまだ一般的ではなかった。ただ当時の電球はよく切れて、そのたびに電気屋に買いに行かされた。あの頃の電気屋はメーカーによって系列化され、ナショナル、東芝、日立、サンヨーなどそのメーカーの製品しか置いてなかった。60Wの電球は65円か70円だった。
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東芝は電球では我が国最古参で市場のリーダーでもあった。ちなみに蛍光灯も東芝が日本で最初に開発し発売した。家電製品ではナショナル、日立と並ぶ大手で大広告主でもあり、当時単独提供していた東芝日曜劇場(TBS)や東芝土曜劇場(CX)をはじめ数多くの提供番組を持っていた。それらの番組の冒頭にいつも流れるCMソングがあった。

街のランプがお花になった マツダランプだ明るく咲いた
とんとん東芝遠太鼓 たのしいお祭りもう近い

藤山一郎が朗々と歌う「マツダランプの唄」で当時のCMソングとは少し異なるトーンだった。私もこの広告は憶えていたが、なぜ東芝なのにマツダランプなのだろうと思っていた。後年マツダは二神教で知られるゾロアスター教の光の神であるマツダから来ていると知った。商標そのものは米国のGEが持っていて提携企業にも使用を許可していたとのことだ。そういえば東芝の電気店にはこんな看板がかかっていた。
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そんな名門であった東芝も業績の悪化や不祥事が重なり、分社化を進めると同時にテレビはハイセンスに、洗濯機などの白物家電は美的集団に委譲されるなどして、2023年には上場停止にまで追い込まれてしまった。わが家にある東芝製品はテレビのレグザとLED電球だけになってしまったが、さっき調べたらどちらもMade in Chinaとあった。


参考までに「マツダランプの唄」は下記で聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=ZsxfP8GmaXE

子供のころから広告が好きだった(33)

グリコグリコ アーモンドグリコ 一粒で二度おいしい 一粒で二度おいしい
グリコグリコ アーモンドグリコ しゃぶったら変わったよ ミルクの味のアーモンド

小学生の頃テレビから流れてきたCMソングだ。コンガを叩く音にリズミカルに乗ったラテンの旋律をバックに紙人形が踊るというコマーシャルだった。まだアーモンドというものをほとんどの人が知らない時代だったので、二度おいしいアーモンドとは何なのだろうかと思った。
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それまでにグリコは食べたことがあったが、アーモンド見たさに買ってみた。確か8粒入りで十円と、16粒入りで20円の二種類だった。口の中に入れるとミルク味にナッツの香りがプラスされている。嚙むと小さく粉砕されたナッツがつぶれてアーモンドの味が強くなる。これがアーモンドなのか。ナッツと言えばピーナッツしかなかった時代だから新鮮に感じた。

グリコ創業者の江崎利一は1930年にアメリカ産業視察団の一員として渡米し、ナッツ専門店で一番高いが一番おいしいアーモンドに出会った。25年間温めておいたアイデアを大人向けのグリコを開発するときに隠し玉として使ったというわけだ。ホエーのミルク感に噛むとアーモンドの香ばしさが加わって独特の食感と味が生まれた。「一粒で二度おいしい」というコピーも利一が考え出した。未知のナッツだったアーモンドは一気に知られるところとなり、アーモンドグリコはヒット商品となった。円が1ドル360円だったこともあってアーモンドの輸入価格は高く、製造原価だけが問題だった。

その3年後にはアーモンドを一粒丸ごと入れたアーモンドチョコレートを発売しチョコレート市場に参入した。チョコレートの2倍のグラム単価のアーモンドを使ったため小売価格は割高になったが、活発な広告活動もあり成功を収め総合菓子メーカーへと脱皮することができた。江崎グリコは広告の量も多いが、製品の開発時に他社との差別化を明確にして開発すること、それを分かりやすく憶えやすいコピーする巧みさがある。グリコの「一粒300メートル」も、アーモンドグリコの「一粒で二度おいしい」も子供のころすり込まれたら一生忘れない。

しかし、あれだけのヒット作だったのにキャラメル市場の停滞もあってアーモンドグリコに過去の面影はない。今日も近所のスーパー3店、セブンイレブン、ダイソー、デパートで探したが見つからず、最後にキオスクでやっと買うことができた。久しぶりに味わったアーモンドグリコはなんだか懐かしい味がした。子供のころ16粒で20円だったのが18粒で170円になっていたのが時の流れを感じさせた。

寒い深夜には温かいスープが飲みたくなる。ただキャンベルの缶スープは牛乳と鍋が必要だし、中華スープは卵がないと作れないし深夜にはごま油が重く感じられる。老人にはあっさりしたリケンのわかめスープか永谷園の松茸の味お吸いものくらいがちょうど良い。だから今日も松茸のお吸いものだった。熱湯を注ぐだけですぐ飲める。ちょっとケミカルな香りがするが麩、海苔に乾燥葱と椎茸も入っている。
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松茸の季節にはちと早いが、国産の松茸はとても手が出ないのでたまに買うときはカナダ産か中国産を選ぶことになる。ちょっと大味で香りに欠けるような気がするけど。昔も安くはなかったが今ほど高根の花ではなかった。時々母親が竹かごに入った松茸を買ってきて松茸ご飯を作った。当時輸入ものはほとんどなかったので全部が国産だったと思う。そんな頃テレビで柳屋小さんの「松茸の味 お吸もの」のCMが流れ出した。小さんがつぶやく「これで一杯10円だって」のセリフが記憶に残っている。
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(左は発売当時の、右は現在のパッケージ)
製造元の永谷園はもともと宇治の製茶屋だった。江戸時代中期にそれまで赤黒くて味も香りの薄かった煎茶を現在のような薄緑色の煎茶を開発した永谷宗七郎をルーツとする。明治時代に分家が東京に進出し、煎茶に加えて昆布茶やアイスグリーンティなどを販売していた。戦後一時的に永谷園の看板を下ろしていたが、1952年に発売した「お茶づけ海苔」が大ヒットし、翌年永谷園本舗が設立された。「お茶づけ海苔」が唯一の製品だった。次の新製品は1958年のふりかけ「磯のふきよせ」まで待たねばならなかった。

1964年10月、まさに東京オリンピックと同じ時期に第三の新製品「松茸の味 お吸いもの」は世に出た。ただ関西ではお吸い物はある程度地盤を持っていたが、関東では味噌汁が強く苦戦を強いられた。そのためお吸い物単体ではなく、餅を加えてお雑煮ににするなどのアレンジメニュー提案でプロモーション活動をした。この路線は今でも続けられており、パッケージの裏面には和風パスタ、炊き込みご飯、茶わん蒸しなどのレシピが載せられている。

我が家では鰻丼やちらし寿司の時に出番が多いが、素麺のつゆにもなるし、アレンジレシピの中では炊き込みご飯が重宝されている。松茸の替わりにレシピではしめじを使っているがエリンギの方が見た目と食感が松茸に近い。貧乏人のなんちゃって松茸ご飯とでも呼ぼうか。和風パスタは好みではなかった。今度は電子レンジで茶碗蒸しにトライしてみよう。
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「これで一杯10円だって」は過去のものになり今では一杯30円だがその価値は十分にあると思う。ネットでは業務用50袋入りを600円台で売っていて、これだと一杯13円だ。アマゾンで取り寄せてみたが、通常品が3グラムに対しこれは2.3グラムしかなく、当然具の量も少なく、おまけに椎茸が入っていない。でも小腹が空いた時に飲んだり、出汁代わりに使ったり、お茶漬けにしたりと用途はいろいろある。

永谷園は新製品の少ない会社だ。通常食品会社は毎年春に数品、秋に数品の新製品を出すものだが、永谷園は平均すると年に一つの新製品かそれ以下だ。もう少し頑張ってもらわないとメインのユーザーである老人はこの世からいなくなっちゃうよ!
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子供のころから広告が好きだった(21)


電気洗濯機。なんだか懐かしい呼び方です。日本初の電気洗濯機は1930年に芝浦製作所が発売したSolarです。その数年前から東京電機がアメリカから電気洗濯機を輸入をしていました。この二社が1939年に合併し東京芝浦電気が誕生し、1984年に愛称を社名とする東芝が誕生しました。Solarの価格は370円。銀行員の初任給が70円の時代ですから今の金額だと100万円強でしょうね。当然のことながら一般家庭に浸透はしませんでした。
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戦後洗濯機の発売は再開されましたが高額(5万3千円)であったこともあり昭和27年(1953年)の販売台数はわずか1万5千台でした。その後電気洗濯機は電気冷蔵庫と白黒テレビと並んで「三種の神器」と呼ばれるようになると普及期に入り価格も3万円を切るようになりました。噴流式も出始めていたが当時の主流は大きな三枚羽根で水をかき回す攪拌式でした。新しもの好きのエンジニアの父親が買ったのか、洗濯板の洗濯はしたくないと母親が言い出したのかは不明ですが、我が家には私が小学生の頃憧れの電気洗濯機が来ました。1950年代の中旬だから相当早かったですね。三菱の丸型で下の広告は絞り器が付いているけどうちのにはなかったと思うのでこれの前の型だったのでしょう。今の家のように防水バンや排水溝がないので風呂場の洗い場に鎮座していました。本体下部に車輪があり移動が可能でした。
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タイマーなどはないので水を入れて洗濯ものと洗剤を加えてスィッチを入れます。大きな音を立てて羽が動き始めます。左に回ると次は右、と一回ごとに回り泡が立ちます。適当なところで止めて排水をし、再度水を入れてすすぎを二度ほど繰り返す。今から考えれば面倒なのですが毎日何時間も洗濯に時間をとられ手の荒れた主婦にとっては本当の神器だったと思います。メーカーも最も過酷な家事から解放できることを広告で訴求していました(下記広告)。少し後の広告コピーには「最近、腰のまがったおばあさんをみかけなくなりました」というのがあり電気洗濯機が主婦を重労働から解放した自負を感じさせるようなコピーでした。
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その後洗濯機は噴流型が主流になり、形は角形に変り、ローラーでまわす絞り器が付きどんどん進化していきました。我が家の導入も早かったと思ったのですが小学校5年の時に同級生の栄ちゃんの家にお邪魔したときに見た洗濯機が忘れられません。ドラムが回転し洗濯物が上から落ちてまた回転し、というドラム式洗濯機だったのです。なんだこれは、と思いました。今では普通のドラム式ですが当時は見たこともなくアメリカ製だろうかと思いました。ところが調べてみると当時でも国産のドラム式があったのです。
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自動車部品メーカーのデンソーが1950年に発売した日本初の回転式で1回で550匁(約2キロ)洗えることと水切りができることが売りでした。さすが後年QRコードを発明した会社ですね。テレビCMも流し、一時は売上トップを記録したらしいのですが、自動車市場が拡大するにつれ本業に集中することになり家電から撤退したとのことです。CMは下記で見られます。
https://www.facebook.com/watch/?v=1698219026911397

小学生の時国語の教科書でアメリカの洗濯機に関する文章がありました。アメリカでは洗濯物を入れると自動で水が注がれ、洗剤も入れられ、洗濯が始まって、すすぎに移り、終わるとブザーが鳴って終了を知らせる洗濯機がある、というものでした。夢のような洗濯機だとその時思いました。でも今はそれを上回る洗濯乾燥機が日本でも普通に売られています。家電の進化はすごいし、数多い家電の中でも主婦の労働を軽減したという点では洗濯機はだんとつのナンバーワン家電でしょうね。



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子供のころから広告が好きだった (30)

最初の大学は哲学科美学美術史学専攻だったので、卒業したら美術館は無理だろうから画廊で働くのだろうかと思っていた。しかし退学処分を喰らってしまい、翌年もぐり込んだ大学は文学部新聞学科だったが年齢や能力的に新聞社や雑誌社、
通信社は駄目だろうと考えていた。広告コピースクールに通っていたし書くことが好きだったので広告の仕事に就こうと決めた。

コピーライターになりたいと何社かの入社試験を受けたが、最初からコピーライター希望は駄目という会社もあったし、面接で落とされた会社もあった。最終的には外資系の会社に採用されたが配属されたのは媒体局だった。広告代理店は制作と営業だけだと思っていたので、電話で媒体局配属と聞いても漢字が思い浮かばなかった。だからコピー以外は全く知らずに広告の仕事を始めたことになる。

文学部だったのでマーケティングも統計も経済も分からずにスタートし、おまけにテレコだのCCだのHHだのPTだの業務用語が分からずに苦労した。広告用語辞典を買って知らない言葉はすぐ調べた。そんなころ広告批評という雑誌が創刊され、創刊号から買い始めた。伊丹十三、なだいなだ、開高健など知った論客が広告論を戦わせ、クリエイティブ中心だが論文の転載や時事ネタ、昔の名広告、流行っている広告の分析などもあった。編集長は天野祐吉で権威に対して批判的な姿勢が気持ちよく、これは次の編集長の島森路子にも引き継がれた。
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世の中には多くの広告賞があるがたいていは業界の内輪での選定だったり、出稿量が大きな会社の広告が選ばれたりだが、広告批評のランキングは独自の視点で選ばれ、マイナーな広告主や地方の広告にも光が与えられた。代理店からメーカーのプロマネに転職した後も購読し続けた。当時の外資系としてはめずらしいユーモア広告やナンセンス広告(米国本社や社内でも叩かれた)も好意的にコメントをしてくれてずいぶん助けられた。トライデントガムの泉谷しげる、上田馬之助と美保純のシリーズや初期のクロレッツのCM(岡本麗と尾身としのり)は広告批評のおかげで長続きしたと言っても過言ではない。

日本の広告だけでなく、海外の広告にも目が向けられていた。同じ社内で隣のグループだったリステリンのアメリカでの広告も「おどし広告の原点」として取り上げられたことがある。
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そんな広告批評だったがマスメディアからネットへの移行という時代の波には逆らえず、2009年に休刊されてしまった。そのご
天野祐吉と島森路子の二人の編集長はともに2013年に他界されたので復刊はほぼないだろう。サラリーマン引退後に若い人に読んでもらえたらと創刊号からの100余冊をオークションに出したらすぐ買い手が付いた。
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買い手の方からこの本で広告の勉強をしますとメールが来てうれしくなった。新しい読み手もきっと楽しんでくれるでしょう。記憶に残る雑誌でした。



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子供のころから広告が好きだった (28)

定年退職後は買い物と昼食と夕食の調理の担当となっている。野菜を洗っていて気がついた。最近の野菜には時々虫食いはあるが虫そのものはいない。昔はホウレンソウや白菜の葉の間に時々小さな虫がいた。農薬が付着している可能性もあったので、キャベツも今のように丸ごと包丁を入れたりはできず、一枚ずつむいて洗わなくては恐ろしくて食べられなかった。それで我が家の台所にはいつもライポンFがあった。(写真は昭和37年の広告)
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そのライポンはもともとは衣料用の洗剤だった。昭和26年に日本初の鉱油系合成洗剤として発売され、山本富士子の「洗う労力半分で、布地の輝き三倍に」のCMと共に世に出た。しかし当時は第一工業製薬のモノゲンと昭和28年に発売された花王のワンダフルの競合製品が強く苦戦を強いられた。追い詰められたライポンがとった戦略は「ライポンの新しい用途をご存じですか?」と戦場を変えて、野菜などに付着している大腸菌や回虫の卵を駆除することを訴求するというものだった。これは当時の厚生省から寄生虫による健康被害対策として食器、野菜や果物用の洗剤開発の要請を受けたことも背景としてあった。

当時の製品はは粉末だったが大都市圏で30万軒にサンプル品を配布しアンケート調査をするなどの大々的なプロモーションを実施した。昭和31年には完全に食器、野菜、果物用の台所洗剤にリポジショニングして名前もライポンFに変更した。その後「野菜・果物は洗剤で洗いましょう」日本食品協会推奨品ライポンF、の新聞広告や、テレビ広告を打ち啓蒙活動に励んだ。その結果野菜を洗剤で洗う習慣が根付き始め昭和33年末には売れ始めたとのこと。翌34年には液体ライポンFを発売し、そのコピーは「水の17倍もきれいに洗えます」という挑戦的なものだった。

当然競合も黙っているはずはなく、花王は昭和33年に台所洗剤のワンダフルKを液体と粉末の2フォーマットで売り出した。ライオンも昭和41年に同じカテゴリーに二つ目のブランドであるママレモンを投入して対抗した。その後は製品差が付きにくくなり花王は手を守るファミリー、ライオンはチャーミーシリーズで香りや乾きやすさといったソフト面を強調するようになった。その後昭和50年代に入ると合成洗剤そのものが環境問題、水質汚染問題、誤飲問題などで悪者視されるようになり、メーカーは対応するため無リン化、石油系原料から植物系原料への転換などを余儀なくされ冬の時代に入った。また農薬使用量が減ったため野菜・果物を洗剤で洗う必要性が薄れ、ライポンFも昭和60年代に家庭用が終売となり、現在は業務用だけが売られている。
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農薬の乱用が問題になっている中国では中性洗剤で野菜を洗うのは常識らしいが、わが国では野菜を洗剤で洗う人は少なくなったものの、ハンバーガーチェーンなどでは野菜を洗剤で洗い、よくすすいでから提供しているようだ。最近は市場には野菜・果物専用の洗浄剤があり、その多くは貝殻を高温で焼いてできたカルシウムが主成分のものだ。水洗いだけでは落ちにくい農薬やワックスを洗い流してくれるのが売りで、「生で食べる野菜が水洗いだけでは心配だ」という人たちに重宝がられている。

家庭用の台所洗剤のいくつかには、用途の欄に「野菜・果物・食器・調理用具用」といまだに記されている。



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子供のころから広告が好きだった(7)

昭和30年代の中ごろお年玉や小遣いを貯めてテープレコーダーを買った。周りにテープレコーダーを持っている家はなかったと思う。確か1万数千円したので子供ながら清水の舞台から飛び降りる決断だった。ソニーは1951年に一般用製品を売り出し、裁判所や小学校を皮切りに浸透させ、本格的に家庭に売り込みをかけたころだった。
夕方に電器屋のおじさんが配達してくれて茶の間で使い方の説明が始まった。デモテープが一巻ついていて廻すと音楽が流れだした。

とっても可愛い坊やだな
どこから来たのと聞いたらば
僕は空の子朝日の子
光と一緒に飛んできた
ソニーソニーソニー
S-O-N-Y SONY
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マスコットのソニー坊やのテーマ曲だ。おじさんは次に録音の仕方を説明し、なにか話せと石鹸箱サイズのマイクを私に向けた。なにを話せばいいのか分からないのと声を撮られるのが恥ずかしいので黙っていると、突然父親が夕刊を音読し始めた。再生すると確かに父親の声だったが、本人はちょっと違うという顔をしていた。最初のIt's my SONYだった。当時トランジスタラジオが大ヒットし、テープコーダーという名称で家庭用テープレコーダーを本格発売し始めたソニーは日の出の勢いだった。

その後も学生時代の4畳半の下宿には父親から奪い取ったマイクロテレビがあったし、会社員になってからは5年の勤続表彰でもらったウォークマンで音楽を聴く毎日だった。日本を代表する家電メーカーで、高品質の自負からかテレビや音響製品など大抵競合品より値段が高かった。でも、あの頃身の回りにはいつもソニー製品があった。
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最近はソニーが軸足を他の領域に移したせいもありSONYの4文字にお目にかかることが少なくなった。うちの中を探してみたら大枚をはたいて買ったテープレコーダで録音したテレビの音楽番組や「夢で逢いましょう」、ラジオドラマ吉永小百合の「お父さん!大好き」などのテープと、カナダ時代に会議の内容を確認するために使っていたマイクロカセットコーダー、飛行機の中で音楽を聴くときに使っていた初期のノイズキャンセリング・ヘッドフォンくらいしか見当たらなかった。

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かつて日本の首相がフランスを訪れた時、当時のド・ゴール大統領が「日本からトランジスタのセールマンがやって来た」と言ったことがあった。ソニーはその頃の日本の勢いを象徴する会社であり製品だった。日本が元気のない最近、ソニーのような会社、井深さんや盛田さんのような起業家、技術者や経営者がまた出てこないだろうかと老人は期待しているのですが。



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子供のころから広告が好きだった (27)

子供の頃わが家の木製の薬箱にいつも入っていたもの。脱脂綿、ガーゼ、包帯、三角巾、絆創膏、ハサミ、毛抜き、水銀体温計、赤チン、オキシフル、正露丸またはクレオソート丸、メンソレータム。時々入っていたもの、風邪薬(ルルが多かった)、頭痛薬(セデスだったかな)そしてオロナイン軟膏。多分父親が勤めている会社の健康組合が配ったものに母親が必要な薬を追加したのだと思う。一番お世話になったのは赤チンと絆創膏。いまでは赤チンもオキシフル(オキシドール)も見かけることはなくなった。
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これらの薬はテレビで広告されている製品ばかりだ。メンソレータムのリトルナースや「ラッパのマークの正露丸」は戦前から、ルルの「くしゃみ3回ルル3錠」は1951年の発売時から、セデスも1960年から広告をしている。広告をしている製品の方が安心だからなのか、メーカーが組合にアプローチしているなのか分からないが健康組合の薬箱には同じような商品が入っている。

オロナイン軟膏を製造している大塚製薬は1921年徳島県で誕生した。苦汁を使った製薬原料を作る小さな工場だったが医療用注射液の製造販売を始めて規模を拡大し、戦後三井物産から情報をもとにアメリカのオロナイトケミカル社が開発した殺菌消毒剤を使って完成させたのがオロナイン軟膏だった。

1953年に発売開始をしたが徳島の無名メーカーでは簡単には売れない。知名を上げるために販促活動に力を入れ始める。まず看護婦を対象としたミス・ナースコンテストを実施し、翌年からは宣伝カーを仕立てて全国を回り始める。社長自身も月に26日間出張し全国の主要病院を訪れたという。匂いが気になるとの意見を受けて製品改良をし、全国の幼稚園と小学校で2.5gの試供品を配布するという売り上げを上回る費用のサンプリングで不動の地位を獲得した。
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宣伝カーを使うのはチューインガムのロッテやカレーのオリエンタルでも見られた方法だが、全国の幼稚園と小学校でサンプリングというのは聞いたことのない規模だ。昔発売して間もないミロが実製品を配布したが幼稚園だけだった。大塚社長の「最高の宣伝は現物の使用。たった1回の使用でも10回の宣伝より効果がある」という一種の信念が売り上げ以上の資金を投じさせたのだろう。

サンプリングは現在でも有効な知名度と使用率アップの方法で製品に自信を持っている外資系企業などが多用する。私自身もホールズやクロレッツという菓子製品で首都圏で数百万個の配布の経験がある。剃刀メーカーはホルダーを無償配布し、替え刃を買ってもらうように仕向ける。大塚製薬も1980年にポカリスエットを発売後まったく売れず在庫をイベント会場などでのサンプリングに回して一気に在庫処理と知名拡大に成功した(私も当時関内ホールのコンサートでもらったことを思い出した)。40億円の費用がかかったとのことだが、社内では25年前のオロナイン軟膏の無償配布成功が語り継がれていたのだろうと思う。
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サンプリング以外にも大塚製薬は黎明期のテレビ広告を多用したことで有名だ。大村崑主演の「とんま天狗」と松山容子主演の「琴姫七変化」が特に記憶に残っている。「姓は尾呂内 名は南公」と丸薬を飲んだ崑ちゃんが見得を切る決め台詞。あの頃の一社提供番組はやりたい放題だった。最近では90歳になっても筋トレして元気そうな大村崑がライザップの広告で見られる。ちなみに浪花千栄子の本名は南口(なんこう)キクノで、それが縁で(軟膏効くの)オロナインの広告に出演が決まった。
松山容子の武士姿が凛々しい琴姫七変化はドキドキワクワクしながら見た。いまでも時々県域U局や日本映画専門チャンネルで見られる。美貌で品があり太刀裁きの見事な女優だった。1968年にボンカレーが発売された時は松山容子のパッケージだった。いまでも沖縄と大阪・横浜の一部で売られている。カナダに住んでいた時の日本食材店サンコーに置いてあったのも松山バージョンだった。今でも見かけたら必ず買ってしまう。
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子供のころから広告が好きだった (26)

子供の頃わが家の台所には大きな電蓄が置いてあった。レコード(SP!)を聴くことはほとんどなくもっぱらラジオとして使われていた。大相撲中継や「ヤン坊ニン坊トン坊」をよく聞いていたが、今でも時々思い出すメロディがある。

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1956年から中部日本放送(CBCラジオ)で流れていた番組の内容は覚えていないがこの軽妙なイントロの旋律だけはしっかり頭に残っている。鶏郎なんて名前は当然知らなかったのでサンドイッチの一種だと思っていた。彼の名前を知るようになるのはずっと後のことだ。「毒消しゃいらんかね」「田舎のバス」などの歌謡曲や日本最初のCMソング「僕はアマチュアカメラマン」も鶏郎の作曲だ。あの頃のCMソングの大半は彼の作詞作曲ではなかっただろうか。楽曲も流行歌とは一線を画す軽快なものが多く、よくラジオで流れていて母親も口ずさんでいたのはこんな曲だった(記憶だけで書いているので間違っているかも)。

僕は特急の機関手で 可愛い娘は駅ごとに
いるけど三分停車では キスする暇さえありません
東京 京都 大阪 う~う~う~う~ ポッポ

歌詞のなかにキスなどという言葉が入ることは稀有な時代だったし(接吻のほうがポピュラーだった)当時住んでいた名古屋は日本第三の都市で特急も止まるのに何故東京の次が京都なのか。東京 名古屋 大阪だろう、と思っていたのでよく覚えている。
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冗談音楽やコントで有名になった三木鶏郎だが記憶に残っているのはラジオおよびテレビ黎明期のCMソングの数々だ。作詞及び作曲した曲だけでも相当の数だ。多分数百曲に及ぶと思う。かつ競合など完全無視で、医薬品ではポポンの歌、ノーシンの歌、ジンジン仁丹、パント錠の歌、くしゃみ三回ルル三錠、アスパラで生き抜こう。百貨店なら高島屋、松坂屋、大丸、丸井。石鹸でも花王、輪が三つのミツワ石鹸、牛乳石鹸よい石鹸。「明るいナショナル」を作れば、「ぱっとついた日立」も作曲している。親しみやすい旋律と諧謔精神に富みながら育ちの良さを感じさせる歌詞が特徴だと思う。

年配者であれば「カ~ンカ~ン鐘紡」「一粒で二度おいしいアーモンドグリコ」「家中でみんなキリンキリン」「ジンジン仁丹ジンタカタッタター」はそらで歌えるはずだ。そのうえ中村メイコ、楠トシエやなべおさみ、三木のり平、左とん平などの歌手や俳優を育てただけでなく、野坂昭如、永六輔、キノトール、小野田勇などの作家まで何人も誕生させている。実弟の三木鮎郎も音楽評論家で昔は「スター千一夜」や「11PM」の司会での柔らかい声を憶えている。トリローは今のジャニーズ事務所や吉本興業のような放送業界での影響力を持っていた。それもたった一人で。
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反骨精神も旺盛で時の政権をチクリと批判するコントや歌を書いていくつかの番組を打ち切られたりしている。この辺りは永六輔や野坂昭如に引き継がれていた。1994年に80歳で他界。

特急の機関手の唄は147番まであるらしいが、若かりし森繫久彌が唄う5番の名古屋編はこんな歌詞だった。

名古屋にお城はあるきゃあも 金の鯱あるきゃあも
守口大根細長く 彼女のあんよに似るきゃあも
東京 京都 大阪 う~う~う~う~ ポッポ
(歌詞も他と比べてウィットに富んでいなくて、名古屋が入っていないのはやっぱり気に入らない)



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子供のころから広告が好きだった (25)

私が勝手にタブー商品と呼んでいる製品群がある。使っていることを人には知られたくない製品で、広告が打てない(打ちにくい)もしくは広告が見ている人を不快にさせるような製品のことです。生理用品、コンドーム、かつら、痔や水虫薬などが入ります。他人のいるところでは買うことを躊躇する製品とも言ってもいいのかもしれません。ま、最近はそういう恥じらう傾向も無くなりつつあるようですが。
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1982年戸川純がおしりを突き出しながら「おしりだって洗ってほしい」という当時としては衝撃的なコピーを用いたTOTOウォシュレットのテレビCMが流れ始めた。それまでトイレの広告は新聞社や雑誌社から出稿拒否されていたことに加えて食事の時間に流れたこともあり「食事をしている時に便器の広告とは何を考えているのか」とクレームが殺到したらしい。ほんわかした戸川純の台詞回しや広告全体のトーンもあって批判も薄れその年を代表する広告となった。当時約15万円もしたウォシュレットは5年後には累積100万台を超えるヒット商品となり、訪日中にホテルでその快適さを経験した俳優やロック歌手が買って持ち帰るようになった。

その20年前。「40年間お待たせしました」「アンネの日と決めました!」という男にはよく分からない広告が女性誌を中心とした活字媒体に出稿された。月経とか生理日というダイレクトな表現でなく「アンネの日記」からとられた社名と製品名を前面に出したネーミングと広告活動でそれまで使われていた脱脂綿を駆逐し「水に流せる肌着」と言われたナプキンの時代を創りあげた。女性の心理的圧迫感を解放したが、それ以上に人前で口にすることがためらわれ生理日を「今日はアンネなの」と言わしめた功績の方が大きかった。
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こうしたタブー商品の広告表現は機能をストレートに表現すると嫌悪感を持たれたり、人前で使うことを憚られたりするリスクがある。後年生理用品のテレビ広告規制が解除された時に放映されたCMで、吸水性を誇示するために着色された水を製品に注ぐシーンの違和感というか不快感を今でも覚えている。こうしたマイナス面を避けるため広告主は機能表現にユーモアを使ったりオブラートに包むように穏健にしたり、機能的ベネフィットを心理的情緒的ベネフィットに転換したりと様々な手法を駆使する。

ウォシュレットの広告は今まで陽がが当たることがなかった便器やおしりに市民権を与えた初めてのCMだと思われるが、ネガティブ面を全く感じさせなかったのはコミカルに添えられた「おしりだって洗ってほしい」の一言だった。このメッセージのおかげで効能効果や便益にはほとんど触れていないのに、見終わった後に機能と爽快感がちゃんと伝わってきた。アンネナプキンも「アンネの日」と言い換えることによって生理日を日陰者扱いから救い出し、その機能性・簡便性によってアンネの日でも女性を活動的に変えることに成功したと言えるだろう。しかし大手の参入により業績が悪化し、吸収合併されるうちアンネブランドは消え、やがて会社そのもの消失してしまった。



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子供のころから広告が好きだった (24)

マーブル マーブル マーブル マーブル マーブルチョコレート
七色揃ったかわいいチョコレート
コロコロ並んだおしゃれなチョコレート
マーブル マーブル マーブル マーブル マーブルチョコレート
素敵な明治のマーブルチョコレート

1962年日本中でこのCMソングが流れていた。ヴィックスドロップ以来の集中テレビスポットキャンペーンだった。出演していた上原ゆかりの愛くるしい顔が毎日テレビに現れた。あっという間に明治製菓のマーブルチョコの認知率が上がり、30円の製品が月に5億円を売り上げるようになり、当時の最も売れた菓子製品となった。同様な輸入品はすでに存在していたが(M&M's)一般消費者の目に届くところにはなかった。チョコレートといえば板チョコと歯磨きのようなチューブ入りしか知らなかった子供には円筒型のパッケージは衝撃的だった。
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パッケージを振るとジャラジャラと音がするし、蓋を開けるとポンと鳴ることも子供の心をひきつけ、おまけについていた鉄腕アトムのシールなどがさらに購入意欲を掻き立てた。食べ終わった容器を上原ゆかりが「なくなっちゃった つまんない」と言いながらポンと投げ捨てるバージョンには、子供がまねをして困るのでゴミ箱に入れるものに変えてくれ、という母親からのクレームが殺到したらしいがマーブルチョコの勢いは止まらなかった。

当然競合品は出現する。一年後に森永製菓はパレードチョコレートを発売し「三ばか大将」の動くバッジをおまけにつけマーブルチョコを追撃した。鉄腕アトムvs三ばか大将の戦いは一時は森永が優勢だったがいつのまにかパレードチョコは市場から消えたしまった。現在チョコレート売り場に残っている糖衣がけチョコは実質的にはマーブルチョコと1987年に日本発売が開始された本家マースジャパンのM&M'sのニ製品くらいだ。
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M&M'sは小袋入りで色がマーブルチョコより鮮やかだった。この製品も大量のテレビ広告に援護されて発売され、世界中で使われていたキャッチフレーズの「Melts in your mouth, not in your hands」(お口で溶けて 手で溶けない)」を前面に出していた。ただ最近のパッケージ表面にはこのフレーズはなく、裏面に小さく「お口でとろけて 手にとけない」と書いてあり、表面には「手につきにくい」とだけ表示されている。マーブルチョコが筒形状のパッケージと七色揃ったかわいいチョコレートで売ったのに対し、M&M'sが「お口で溶けて手で溶けない」の消費者ベネフィットで市場を創ったのは日米のマーケティングの違いを見るようで興味深い。

60年前にCMデビューした上原ゆかりは60年代には子役として映画やドラマに出演し、その後も芸能界で活躍したが結婚を機に引退した。カメラマンだった夫の死亡後は宅建士の資格を取り現在は不動産会社の代表取締役だとのことだ。下の写真は2020年時点の上原ゆかりさんです。子役時代の面影が残っていてちょっとうれしいですね。出典:AsageiPlus

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子供のころから広告が好きだった(23)


子供の頃駄菓子屋で一番目立ったのはキャラメルだった。ごちゃごちゃした店内でキャラメルコーナーは光っていた。新高キャラメル、カバヤキャラメル、グリコ、フルヤウィンターキャラメル、明治クリームキャラメル、アーモンドグリコ、サイコロキャラメル、ラクダキャラメル、少しお高くとまっていた不二家フランスキャラメルなど。でも一番おいしそうに見えたのは森永のミルクキャラメルだった。
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当時あれだけ甘い菓子は少なかったし、濃厚なミルク感は魅力だった。おまけやカードがついた製品もあったがそんなにしょっちゅう買う製品ではないのでたいていはミルクキャラメルに落ち着いた。名古屋では関東で有名だった紅梅キャラメルは見かけたことがない。

森永キャラメルは森永製菓の歴史のような商品である。創業者である森永太一郎がアメリカで修業を終えキャラメルづくりを始めたが、バターやミルクをたっぷり使った濃厚な味のばら売りのキャラメルは日本人に受け入れられなかった。1913年に製品改良をし現在の容器と同じサック式にしたら爆発的ヒットとなり、サック式は後のキャラメルのスタンダードとなった。同時に森永は広告にも力を入れ寿屋(現サントリー)、ライオン歯磨き(現ライオン)、カルピスと並ぶ広告界の名門となって、新聞広告中心ながら片岡敏郎率いる広告部は森永広告学校と呼ばれるほどの豊富な人材と活発な広告活動で知られるようになった。
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大学3年の時広告の仕事に就きたくて渋谷にあった日本デザイナー学院のコピー専科に一年通った。その時の講師の一人が森永の名コピーライターでコピーライターの殿堂入りをされた黒須田伸次郎先生だった。森永でキャラメルなどのコピーを書き、後には「ゴホン、といえば龍角散」などのコピーで知られる伝説的人物だ。宣伝会議のコピーライター養成講座の講師も務められ、生徒には糸井重里や仲畑貴史や林真理子などがいる。授業では森永の話が時折出たし、なぜか気に入られて課題評価の時によく私の作品を取り上げてもらったり、帰りに田園調布の御自宅に誘われて娘さんや業界人と麻雀をさせられた。他の生徒は就職を斡旋されたりしたが「宗君は大丈夫だろう」と言われて私は放っておかれた。卒業後広告代理店に入ったがコピーライターにはなれずマーケターになった。

森永製菓は新聞広告だけでなくヘリコプターによる全国巡回宣伝、大相撲の森永賞や銀座の真ん中にネオン搭を出したことでも有名だ。上京した当時の銀座五丁目にはこれがあった。
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その後甘いものが世にあふれるようになるとキャラメルはお菓子の王座から陥落し今も苦戦が続いている。サイコロキャラメル、クリームキャラメル、カバヤキャラメル、フランスキャラメル、ウィンターキャラメルは終売となり、一時は森永、明治と並んで三大菓子メーカーと呼ばれた新高製菓は70年代に廃業に追い込まれた。

久しぶりに買ってみた森永ミルクキャラメルはレトロなパッケージに変わりはなく、内装紙は蝋引きからアルミに変更され、一粒は少し小さくなったがミルクリッチな味は維持されている。ドロップスと同様ときどきとても食べたくなる菓子であることには違いはない。



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子供のころから広告が好きだった(22)


歌も楽しや 東京キッド いきで おしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チューインガム
空を見たけりゃ ビルの屋根 もぐりたくなりゃ マンホール

戦争の傷跡がまだ残っていた1950年に発売された美空ひばりの「東京キッド」の歌詞です。同年に映画化もされ13歳の彼女が主演でした。チューインガムが夢と同等に扱われています。物資欠乏時代のチューインガムは食料の代用品であり数少ない甘味を味わえる食材であった。後年野坂昭如は「チューインガム・ブルース」でこう歌っていた。

あの頃俺は十一で DDTまみれの浮浪児
進駐軍の顔見れば ハングリー ハングリー ハングリーと つきまっとてた
チューインガム チューインガム チューインガム・ブルース

最初は怖かった進駐軍兵士にだんだん近づいていきチューインガムやチョコレートをねだった子供がたくさんいたらしい。それを大人は多分苦々しく見ていたのだろう。少年たちが手にしたのはリグレーガムだったと思う。当時リグレーにはビッグスリーとでも言うべきスペアミント、ジューシイフルーツ、ダブルミントの三ブランドがあった。DAjMgdxXsAAkpJK
やがて日本製のガムも市場に出回るようになった。我が国最初のチューインガムはフエキ糊がゴムの技術を生かして「白龍」というリグレーを模した板ガムを明治42年(1909年)に6枚5銭で出したが甘味料不足で撤退している。大正5年(1916年)にはリグレー製品が輸入され広告も打たれた。その後森永や明治も製造を開始し、昭和に入ってもマサキガムや新高製菓が製造販売を始めたが売れ行きは芳しくなかった。第二次大戦が始まると統制経済のため航空機搭乗員用以外のガムは製造禁止となった。
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日本人の食生活に合わないとか人前で口を動かすのは品がないと言われて浸透しなかったチューインガムだが、戦後状況は一変した。ガムは手軽でかっこいいアメリカンファッションになった。たいした宣伝をしなくても市場は拡大の一途だった。雨後の筍のように400近くのメーカーが見よう見まねでガムを作り始めた。粗悪品も多かった。結局生き残ったのは大手数社と子供用ガムに特化した数社だけだった(現在ガム恊メンバーは18社)。
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1955年当時はハリスが約40%のシェを持つトップメーカーで、酢酸ビニールを使ったガムベースは白かった。当時の広告ではその白さを強調して富士山の写真にかぶせて「山は富士、ガムはハリスの白いガム」と謳っていた。50年代は「東のロッテ 西のハリス」と言われていたが、54年に初の天然チクル配合のバーブミントガムを発売してロッテの反撃が始まる。それまでテレビ広告はスケートをしている少年のアニメ(だったと思う)バックにのんびりした「ロッテ ロッテ ロ~ッテ ロ~ッテのチューインガム、どなたも どなたも ロッテのチューンガム チューインガム(少しうろ覚え)」だったのが、パンチの効いた「天然チクルのロッテガム~」に変った。同年にスペアミント、57年にグリーン、59年にジューシイミント、60年にクールミントとヒット商品を世に送り、その間関西菓子卸を買収し西日本を強化し、61年には翌年に景品表示法を制定する原因となった1000万円懸賞(現在の1億円以上)を実施して遂にハリスを抜いて日本一のガムメーカーになった。
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その他のメーカーでは森永がチクルの本場メキシコ出身のトリオ・ロス・パンチョスをCMに使い「チクレ モリナ~ガ チクレ モリナ~ガ ア~イヤイヤイヤイ チクレ モリナ~ガ」とコーヒーガムなど3品の広告を打っていた。グリコや明治もガムを発売していたし、私が所属していたWLアダムスも61年にチクレット、67年にデンティーンを発売した。デンティーンの新宿西口に乗り付けたトラックから若者たちが降りてきてエレキギターを弾きながら「アメリカ生まれのデンティーンガム」とロック調で歌った広告は今でも覚えている。

ガム市場が縮みはじめて20年近くたち、ピーク時より6割も落ちてしまった。盛り返すのは困難かもしれないが、最近歯科医師や歯科医院が行っている「歯周病を予防するにはチューインガムは有効だ、40代50代はガムを噛んで!」というキャンペーンに期待しましょうか。



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子供のころから広告が好きだった(20)


子供のころ母親はポーラの化粧品を使っていた。まだポーラが訪問販売の頃だ。あのころはポーラだけでなく鎌倉ハムも扱っていた肉屋さん、御前崎から海産物を売りに来ていたおばさんなども訪問販売で来ていた。ポーラの製品は値段も結構高く、母親はクリームや化粧水の裏側に購入日と値段を書いたちいさな紙を貼っていた。

化粧品市場は資生堂やカネボウなどの制度品メーカー、ポーラやノエビアのような訪問販売を主体にするメーカー、通信販売メーカーのファンケルやオルビス、そして製品レンジは広くないが単品を息長く売るキスミー、ウテナなどの一般品メーカーがある。資生堂やカネボウはその頃からテレビや主婦向け雑誌で大量の広告を打っていたし、資生堂は農協の「家の光」という当時日本一の発行部数を誇った雑誌と並ぶ部数を持つ「花椿」という月刊PR誌まで発行していた。しかし私の記憶に残っているのはそうした大メーカー品ではなくどちらかと言えば小規模の一般品・専業メーカーの製品だ。
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子供心に変な名前、こんなんで効くのだろうかと思ったのはヘチマコロン。ご近所の庭に生えているのを見たこともあるし、風呂でタオルやスポンジ代わりに使っていたへちま。発売は大正4年だしへちまを並べたようなカタカナのロゴ、竹久夢二の絵と詩を使った広告は昭和ではなく大正の香りがする。先月発売時のガラスボトルの復刻版を発売した。いまだに根強いファンがいるらしい。
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桃谷順天館の明色アストリンゼント美顔水も妙に記憶に残っている製品だ。アストリンゼントは収斂を意味するらしく毛穴を引き締め化粧崩れを防げると謳っていた。ラジオ広告の「美人は夜つくられる」というコピーはうっすらと覚えている。これも母親の化粧台にあったような気がする。後年アルカリイオン整水器が副産物でできる弱酸性水をアストリンゼンとして使えると広告していたのも記憶に残っている。胡散臭いと思ったらマルチ商法のようだった。美顔水は創業者の桃谷政次郎が妻のニキビのために作った化粧水が評判になり製品化された。最近では男性用の美顔水まで売り出されている。大容量の美顔水もあり、このボトルもヘチマコロンの復刻ボトルもノスタルジックで素晴らしいデザインだと思う。
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洗顔剤ではなんといってもロゼット洗顔パスタ。テレビや新聞広告で黒子さん白子さんのシリーズがずっと流れていた。今じゃNGでとても無理だろうな。これも「硫黄温泉に入ると肌がすべすべする、白くなる」と聞いた創業者が硫黄を使った洗顔料、それも固形でなく軟膏状の開発を始めた。販路がなかったため突き出し広告を打ち、価格分の切手を送ると製品を発送するという通販の原点ような商法で土台を作った。戦後ロゼットに名前を変え、容器も変更して再スタートを切った。内蓋を押すと製品が出てくる他にはないユニークなパッケージだ。ふたを開けると軽い硫黄のにおいがする。280円という当時としては超高級品だった。我が家では家内がずっとこれを使っている。
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最後はマダムジュジュ。発売されたのは戦後5年目の1950年。発売当初から若い女性ではなく奥様をターゲットにした点がほかの化粧品と少し違った。まあマダムといっても当時の女性初婚年齢は23歳だったので(現在は29.6歳)今より若い奥様ターゲットを狙ったのでしょうね。初期の広告には「25才以下の方はお使いになってはいけません」という刺激的なコピーが使われている。製品に卵黄リポイドエキスが入っており、それが若い人には栄養が強すぎるというのが理由らしい。そう言いながらそのあとには「25才以下でも奥様ならお使いになれます」とよくわからない説明が続く。しかし「結婚したらマダムジュジュ」が定着し母から娘へ受け継がれて主婦層に根強いファンを持っている。
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製品はなんだか懐かしいかつての母親の化粧台の匂いがする。ただ45グラムと今どきの化粧品よりこじんまりしていて、推奨している「マダムパック」をすると10回くらいでなくなりそうだ。現在でも「25才はお肌の曲がり角」というフレーズはよく使われるが、これは60年前のマダムジュジュの広告に発するものだ。そしてその後はマダムジュジュのメインコピーとなった。消費者団体からは、根拠もないのに25才が曲がり角とはなにごとだ、とクレームがついたらしい。昭和30年あたりに販売はピークを迎えたがその後盛り返すことはできなかったようで、ジュジュ化粧品は2020年9月に小林製薬に吸収合併されてしまった。
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子供のころから広告が好きだった(12)

名古屋の民放ラジオ局2局(CBCラジオと東海ラジオ)では3時の時報の後に必ず流れる歌があります。

ボンボンボ~ンと時計が三つ

坊や おやつを食べました
とろりとろけて とろりんこ
二つの赤い提灯の
大須ういろとないろで~す
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名古屋を離れて50年以上経つのにいまだに覚えている。ただ自宅でういろうを食べた記憶はない。お土産菓子なのでしょうね。名古屋にはもうひとつ日本一の販売量を誇る青柳ういろうがある。大須ういろが戦後の起業であるのに対し、青柳ういろうは1879年の創業である。広告は覚えていないけれど「しろ・黒・抹茶・上がり・コーヒー・ゆず・さくら」の7フレーバーは名古屋っ子だったら誰でも暗唱できる。上がりとはこしあんのことだが、一説によると当時の天皇陛下(現上皇陛下)のご成婚時に献上され「上がりういろう」と名付けられたのが由来ともいわれている。ちなみに「ないろ」は大須ういろが「ういろう」にこしあんを加えて作ったもの。

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ういろうは中国から伝来し京都や小田原などでも作られているが、東海道新幹線の開業時に青柳ういろうだけが名古屋名物として社内販売を許されて全国区商品になり、以後ういろう=名古屋名物となったらしい。中身は同じようなものだが大須ういろは「ういろう」では商標登録ができないため「ういろ」と命名したとのこと。


先日名古屋に行き30年ぶりにういろうを買いました。いつの間にかコーヒーとゆずは廃版となり5フレーバーでした。新幹線の売店でも知らないお土産菓子ばかりで昔ながらのういろうはひっそりと目立たない場所に置かれていました。
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歌はこちらで聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=rcagVga5p_o



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子供のころから広告が好きだった(5)

毎日のようにけたたましい歌がテレビから流れてきた。歌っているのは楠トシエだった。

クリクリ三角小さなドロップ ヴィックスヴィックス しゃれた味
ドレミファお喉が エッエッエッ お~やおやおや どうしたの
一粒クチュクチュなめてごらん ヴィックスヴィックス いい気持ち
あなたも私もチュッチュッチュッ ほ~らほらほら スッキリね

日本で最初の集中スポット広告キャンペーンだと言われている。それまで日本の広告主は番組を一社提供し、その中で長尺(60秒、時には3分)の広告を流すことが多かったのに対し、一定期間その地域民放全局のステブレ(番組と番組の間の時間)を買いまくり認知を一気に上げようというキャンペーンだった。外資の製薬会社は日本の会社と比べて営業マンの数も少ないしリベートなどの条件も良くないので、卸店や小売店はなかなか取扱ってくれない。広告を大量に流して消費者に名前を覚えてもらい、日に何人もの客が店頭で「あのクリクリ三角」のドロップくださいと言えば、いつもは利益率の高い薬を推奨販売している薬局も利幅が低い製品を置かざるを得なくなる。こうして高い指名買い率を武器にヴィックスは短期間でトップブランドになった。
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歌っていた楠トシエ(現在93歳でご存命です)は実力派の歌手であり「お笑い三人組」などにも出演していた女優でもあったが、コマソンの女王と呼ばれていた。当時CMソングのほとんどは女性歌手が歌っていたが、個人的な印象ではコマソンの6割くらいは彼女だったような気がする。発売時のハウスバーモントカレー「とろりとけてるリンゴとはちみつ」も「カッパッパ~」の黄桜も「シチズンCちゃん」も「とんとんトマトまっかっかのカゴメ」も「カーンカーン鐘紡」も彼女だった。のちに楠の後をスリー・グレイセス、遅れて天地総子が続いた。天地総子は楠トシエの倍くらいの2000曲のCMソングを歌ったが存在感は楠の方が圧倒的だった。広告総量が少ない時代だったので目立ったこととCMソングが長かったので記憶に残りやすかったのがその理由だと思われる。


学校にお菓子を持っていくのは禁じられていたが、先生に咎められても「これ薬です」と言い逃れたことが何回かあった。甘いオレンジ味が好みだった。まさか20年後にヴィックスの仕事に関わるとは夢にも思っていなかった。


クリックするとCMの動画が見られます。
https://www.youtube.com/watch?v=TPKdeHULc38&fbclid=IwAR0NsT289wzM5B5Odh9FtGcISPYzGRUA0K-UOolY8Vk7mnzKki4vTBMFv_Y




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子供のころから広告が好きだった (19)

高度成長期のサラリーマンは夏でも長袖のワイシャツを着ていた。学生も制服の下には長袖のワイシャツを着ていた。父親もワイシャツを腕まくりし、上着を抱えて毎日出勤していた。あの頃のワイシャツはみんな少しだぶついた白のワイシャツだった。
暑い夏が来そうな昭和36年の5月1日。朝刊の広告に多くのサラリーマンが驚いた、と思う。当時売れっ子モデルだった岡田真澄を使った帝人の広告だ。
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コピーは
YシャツにかわるYシャツ。<テイジン・テトロン・ホンコンシャツ> それはセミスリーブ <半袖>のオフィスシャツ。ネクタイOK、上着OK、フォーマルでスマート、えりは流行のボタンダウンなど。そで丈は短め、そで幅は細め、スリムなシルエットが新鮮!

サラリーマンはびっくりした。半袖のワイシャツ? 会社に行くんだぜ。これは遊び用のシャツじゃないか。それまで半袖シャツと言えばアロハシャツか開襟シャツしかなかったのだから、驚いて当然だった。石津謙介がデザインし汗をかいても乾きやすいテトロン製の半袖シャツはこうして世に出た。
男たちの抵抗は続いたが、当時の混雑した冷房のない通勤電車や扇風機だけのオフィスで過ごすサラリーマンはだんだん半袖シャツを着るようになった。着てみれば仕事はしやすいし、洗濯屋に出さなくても家で洗えるし確かに便利だった。東レがセミ・スリーブシャツで追いかけたことも市場拡大に勢いをつけた。
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しわになりにくく乾きやすいテトロンという素材のメリットだけでなく、胸ポケットが二つそれもフラップ付き、それまでのゆったりシャツとちがって細身のデザイン、若者に人気のボタンダウン、袖口の切込みなど新しい機能やデザインが満載だった。洗ってすぐ着られる、アイロン不要は主婦にも受け入れられる要素だった。薄くて透ける、と不評の面もあったがテトロンシャツは市場浸透をし続け、5年後にはワイシャツの全需要の5割を占めるまでに至った。

この頃はテトロンだけでなくトレロン、カシミロンといろんな合成繊維を使用した衣類が発売された時期だが、テトロンが一番知名があった。ちなみにテトロンは帝人と東レが共同で商標を持っていて、帝人のテ、東レのトにナイロンのロンを加えたものだと言われている。そのテトロンを使ったホンコンシャツは後年のクールビズや省エネファッションの先駆けともなった大ブーム商品だったが、父親が半袖シャツを着て出勤していた記憶は全くない。



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子供のころから広告が好きだった (18)
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洗口液のリステリンが生まれたのは1879年です。誕生から141年間処方を変えていないと言われる稀有な製品です。外科医のリスター博士が手術時の消毒用に開発したものをランバート製薬が外科手術の消毒薬として世に出しました。一時期床掃除クリーナーや淋病薬として売られたこともあったのですが、その後口腔内の殺菌効果があることが判明し、1914年に一般向けのマウスウォッシュとしての発売が始まりました。同時に雑誌や新聞で広告を打ち始め、いわゆる「脅迫広告」で成功を収めわずか7年で11万5千ドルの売り上げを8百万ドルまで増加させたとのことです。その広告は「付添人ばかりで花嫁になれない」のキャッチコピーを使い、口臭故に結婚できない女性を悲劇のヒロインにして30年以上続けられました。初期の広告では通常使われるbad breathではなく医薬用語のhalitosisを使用したことも脅迫効果を高め成功の一因と言われました。このシリーズは廃刊となった雑誌「広告批評」でも「おどし広告」「ネガティブ広告」の原点として紹介されています。
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しかしこの成功の後リステリンは迷走をし始めます。マウスウォッシュの他に、傷にも、風邪にも、のどの痛みにも効くと広告で言い始めたのです。なんにでも効くは下手をするとなんにも効かないととられるリスクがあるのですがね。このあたりはひび・あかぎれ、擦り傷、にきび、やけどから水虫、たむしと拡がり浪花千栄子の「痔にも効くんですよ」のCMまで流したオロナイン軟膏を思い出させます。ダウンロード (2)
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その後1930年頃の広告では髭剃り後に、とかフケにも有効だというものまで出始めました。
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こうした効能追加でどのくらい売り上げが上がったかは分かりませんが、製品の輪郭が呆けたことは確かだと思います。1976年に恐れていたことが起こります。FTC(米国連邦取引委員会)が風邪やのどの痛みに効くという表現は誤解を招くだけでなく予防や緩和する点に関して効果はないと裁定したのです。製造販売元のワーナー・ランバート(WL)社はこれらの広告表現を中止するだけでなく以降の広告で「リステリンは風邪やのどの痛みを予防することも軽減することもありません」の文言を加えることを要求されました。

しかしその後はマウスウォッシュとして順調に伸び、アメリカではほとんどの家庭の常備品となり、スーパーでは何間ものスペースをあてがわれる製品となりました。1999年にはWL社買収によりファイザー社の製品となり、2007年にはジョンソン・アンド・ジョンソン社の傘下に入って現在に至っています。

日本では1985年にテスト販売が始まったのですが、私がWL社に入社した時は発売前のリステリンはプロダクトマネジャーとセールスマネージャーのたった二人の事業部でした。何年も製品を出せずにいたプロマネのTさんはいつも暇そうで時々私の部屋にやってきて「何度製品テストをしても購入意向率が低くて経営陣がOKをくれない。それにテストをしても多くの対象者が刺激が強すぎて製品を30秒口の中に含んでいられなくて吐き出すからテストにならない」とぼやき、セールスマネージャーのFさんはアメリカンドラッグで輸入品を買った消費者から「パッケージにフケに効くと書いてあるからずっと使っているが全く効かない」とクレームを貰ったと呆れていました。(口に含むのではなく頭皮にかけてマッサージするのが正解です)

コロナ禍の今、我が家の洗面所でリステリンはその存在感を増しているようです。



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子供の頃から広告が好きだった(17)

テレビ広告が始まったころCMのほとんどは60秒だった。精工舎の時報広告も最初は60秒だったし、番組内の広告は生CMが中心で3分の生CMもあった。発売されたばかりのチキンラーメンのCMはお湯をかけて食べるまでの3分生CMだったのを覚えている。1961年に15秒CMが流れるようになり、翌年から5秒CMが放映され始めた。5秒という短尺なので記憶に残るようなキャッチーなフレーズとブランド名を記憶させる工夫を凝らしたコマーシャルが流れた。

今でも覚えている5秒CMのフレーズは「なんである アイデアル」、「コニカはコニカ いいと思うよ」、「インド人もびっくり」、「アサヒスタイニー アッ」などだがその他にもたくさんあったと思う。総量としては決して多くはなかったと思うが印象は結構強烈だった。しかし短尺CMは製品の特徴を訴えるより認知を獲得することを主眼にしたためあざとい表現が増え、コスト安で露出頻度も増加したためしつこくてうるさい印象が強まり、1965以降はキー局の5秒枠の販売停止もあって激減してしまった。
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しかし高騰するメディア費に対応するため広告主サイドも新たなアイデアを絞り出し、CMの最後の数秒に他の製品広告を加えるタグオンという手法を使い始めた。例えば有名な例では、オリエンタルスナックカレーのCMの末尾に「ハヤシもあるでよ~」を付け加えたり、オロナミンCの広告の最後に「ボンカレーもよろしく」を足すなどのダブルブランド広告である。が、これも局側が広告総量が増えた印象を与えるとして規制されるようになり、現在では同じブランドのラインエクステンション製品だけに可能のようである(今日見たのは、歯磨き粉のCMの最後に同ブランドのマウスウォッシュの宣伝)。

個人的には5秒CMは好きだ。短いうえに音声にはノンモン部分を加味せねばならず、実際には4秒しか使えない。それだけ制作者は知恵を使って広告を作る。主流である15秒CMも製品特徴や対競合優位性を訴えるものは少なく5秒で十分だと思わせるCMも多い。最近ではYouTubeの頭にCMが入ることが多く、4秒後にスキップできるものもあるがスキップ機能のないバンパー広告と呼ばれる6秒CMも増えている。6秒は我慢できる限界内のような気がするし、音を出さずに聞くことが多いモバイル環境で画面さえ魅力的であれば苦も無く見終えてしまう。これは専用のCMが作られていることとも関連していると思う。TV用に作られたCMをそのまま流すと小さな画面には向かない画像が多く、かつ音声に依存しているので無音ではメッセージが伝わりにくいのはトレインチャンネルで経験済みだ。モバイル専用CMはこれらを解決し、かつリアクションも早いので問題点をすぐ修正して流すことも可能だ。

モバイルだけでなくアメリカではTVでの6秒CMも流され効果の検証が始められている。価格面ではそれほど優位ではないが注視率が高いこと、特に普段TV広告に関心があまりない層で高いことが報告されている。アメリカでも日本同様テレビ離れが起きていて、その一つの理由がCMの多さだと言われている。CMのないNetflixなどのビデオオンデマンドサービスに対抗するためにも広告総量を減らすことができそうな短尺CMに期待したい。




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子供のころから広告が好きだった(16)

小学生の頃、保守的な街で母親は当時としては珍しく活動的で、毎週カルチャーセンターのコーラスに参加したり、マチネだったと思うがコンサートにも出かけていた。帰ってくると、(当時NHK名古屋のアナウンサーだった)下重暁子がかわいかった、とか立川澄人は上手い、とか(当時モデルだった)岡田真澄はいい男だわとか呟いていた。家の中でも掃除をしながら、食事を作りながらいつでも練習中の歌を口ずさんでいた。

ある時コンサートのプログラムが置いてあったのでパラパラとめくっていたら、ヤマハ(だったと思う)の広告にその美少女が載っていた。ハーフなどほとんどいなかった時代、もちろん国民的美少女コンクールもなかった時代にこんな美しい少女がいるなんて。多分あの頃鰐淵晴子の写真を見た少年はみんな恋に落ちたと思う。そのくらいの衝撃だった。ネットでその広告を探したが見つからなかった。その頃の彼女の写真にはこんなものがある。

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隣にいるのは原節子。と言うことは初主演映画「ノンちゃん雲に乗る」からのカットだと思う。母の本棚にはこの原作本もあってそこにも彼女の写真が載っていた。幼い時から天才バイオリニストと呼ばれ、子役デビューしてからは姉妹で競わないようにとモデルもしていた妹の朗子がバイオリン、晴子が女優の道に進んだ。下の写真の左が晴子、右が朗子。
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その後「乙女の祈り」「伊豆の踊子」「あんみつ姫の武者修行」などの主演、トニー・ザイラーと共演の「銀嶺の王者」など多くの映画に出演したが大ヒットとまではいかなかった。二度の結婚を経て再度映画やテレビに出るようになったが役柄はがらりと変わった。若いころの美貌に凄みが増し「らしゃめん」「悪魔が来りて笛を吹く」「八つ墓村」などかつての清純派女優とは全く異なる妖艶な悪女役でその存在感を示した。

でも、そういう役もよかったのだけれど数十年前に胸躍らせた少年の脳裏にはあの頃の愛くるしく清楚な美少女鰐淵晴子の残像がいまだに留められているのです。

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子供のころから広告が好きだった(15)

今でこそビール飲料第一位を誇っているアサヒビールですが、1980年代中旬までは落日の「夕日ビール」と揶揄され、いつ後発のサントリーに抜かれて第四位に落ちてもおかしくないメーカーでした。1950年代初頭までは49年に集排法(独禁法)で分割された大日本麦酒から生まれた朝日麦酒、日本麦酒(サッポロビール)の二社とと麒麟麦酒の三つ巴だったのが、1954年に麒麟がトップに躍り出てからは他社を引き離し、70年代にはシェアは60%を超え65%を伺う勢いでした。

ビールメーカー国内シェア推移2018年
「日本には二種類のビールしかない。キリンビールと、その他のビールだ」。当時そんなことが言われていました。これ以上シェアが上がると大日本麦酒のように独禁法に抵触するかもしれないと考えられ、積極的な販促案や広告は実行されずにいました。その頃のキリンビールの広告の典型例が「どういうわけか、キリンビール」。流通対策上広告は打たなくてはいけないが、あまり派手にやると分割対象になるかもしれない。作り手のそんな気持ちがマーケターには感じられる作品でした。

(クリックすると「どういうわけか、キリンビール」のCMが見られます)
https://www.youtube.com/watch?v=n0TdiT24P54

しかしこの頃競合のサッポロも三船敏郎を使って「男は黙ってサッポロビール」のシリーズを流し、アサヒはずっと「アサヒビールはあなたのビールです」のコピーを使っていて各社製品差別化などあまり考えずブランドイメージだけで勝負をしていた時代でした。他の製品と比べると製品間の差が大きくないビール業界だからだったのかもしれません。

その後日本でもアメリカの後追いで缶ビールが伸長し市場には「キリンビール、その他のビール、缶ビール」の三種と言われるようにもなりました。缶ビールは50年代末に発売されたのですが当時はスティール缶で三角穴を二つ開けて飲むタイプでした。瓶よりも冷えやすいだけが売りでした。それが65年にプルトップ缶が出、71年にアルミ缶が世に出るとビール自販機の伸びと相まって一気に市場を創造しました。缶ビールの強みは大瓶と比べると飲み切りやすい内容量、瓶はケース買いが主流でしたが1缶は1本または6本で買えること、冷えやすさ、昼間に飲むときに栓抜きで栓を開け構えて飲む瓶とは違って後ろめたさが少ないことが挙げられました。1998年には缶がビール全体の5割に達し、現在では75%を占めると言われています。

ビール市場は70年代中旬は「生」合戦、80年代は「容器」合戦で波乱気味の様相でした。83年にアサヒのスーパードライが世に出てドライ戦争がはじまり90年代半ばまでは市場が伸び続けましたが、それ以降は発泡酒や第三のビールの導入にもかかわらずほぼ四半世紀のあいだ縮小を余儀なくされています。人口減、若者の酒離れ、圧倒的に高いビールの酒税などがその理由とされています。昨年10月の消費増税の影響や、2026年まで段階的に行われる予定の発泡性酒税の改正でビール市場がどうなるのか見守りたいと思います。



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子供のころから広告が好きだった(11)

父親と母親は時々口げんかをした。時として男のロジックは女の感情のひとかけらに敵わず、旗色が悪くなった父親は私に向かって「出かけるぞ」と言って外に出る。無言で名鉄に乗り山王で降りて中日球場に行くのが常だった。当時近鉄も準本拠地にしていたので毎日のように試合があった。父は中日ファンではなかった(と思う)。火の玉ドロップの荒巻、打者では山内、葛城、榎本などの名前が良く出たので毎日オリオンズのファンではなかっただろうか。後年関西に単身赴任し甲子園口に部屋を借りてからは熱烈な阪神ファンになった。会社のチームのピッチャーをしていたので野球そのものが好きだったのだろう。
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球場に行くといつもバヤリースオレンジを買ってくれた。これが一番の楽しみだった。家には米屋が届けてくれるタケダのプラッシーがケースで置いてあったが瓶の底にたまったプチプチが苦手だった。「リボンちゃん、リボンジュースよ!」のリボンは球場にはなかった。バヤリースの広告の印象はほとんどない。チンパンジーの広告が始まるのは数年後のことだ。

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こうして球場通いをしているうちにすっかり中日ファンになった。日本一になった日本シリーズも球場で見た。今でも天知監督のもと(投)杉下(捕)河合(一)西沢(二)井上(三)児玉(遊)牧野(右)原田(中)本多(左)杉山のラインナップを思い出せる。特に西沢道夫が好きで打席に立つ前バットで右の靴を二度、左の靴を二度コンコンと叩く仕草を真似していた。

大きくなるにつれ野球からは遠ざかり、ロッテとの日本シリーズに敗れてから中日の試合は見ていない。いま思い出すのは中日球場の騒がしさと、父親のひざの上で見ていた時に興奮してバヤリースをこぼしてしまい前の席のサラリーマンのワイシャツの背を染めてしまったバヤリースのあのオレンジ色と相手の顔、そして息子の代わりに一生懸命に謝っている父の顔だなあ。



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子供のころから広告が好きだった(10)

トン トン トマト まっかっかのカゴメ
坊やのほっぺも まっかっかのカゴメ

まだ社名が愛知トマトの頃から始めたCMソング(創業時は愛知トマトソース製造)。これも歌っていたのは楠トシエだった。たしか3番はこう終わっていた。

カゴメ カゴメ 明日も天気
母さん呼んでる 夕ご飯
チップチャップケチャップ ランランラン
ジュースもソースもカゴメ

家の裏の空地で夕方まで三角ベースをしていると、母親が「ご飯よ~」と叫んでいたのと重なるのでよく憶えている。確かに名古屋ではケチャップもソースもカゴメだった。

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トマトジュースはドロッとしていて好きではなかったが、槙みちるが歌うカゴメのイメージソング「トマトジュース乾杯」というレコードを買ってから少しずつ飲むようになった。「若いってすばらしい」のヒットを持つ同い年の初期アイドルは引退してスタジオミュージシャンになり、ジャスやスタンダードを今でも歌っている。数年前寺尾聡のバックコーラスをしているのをみて相変わらずの歌唱力と声量にちょっと感動しましたね。

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上京して関東ではブルドックソースやキッコーマンが強いのを知り、関西ではイカリソースやオリバーソースが市場を席巻していると聞いたが、ケチャップとトマトジュースはどこでもカゴメが圧倒的だった。最近はスーパーでカゴメブランドの生トマトまで売っている。アスタキサンチンとならぶ抗酸化物質のトマトリコピンが注目され業績も順調らしいが、トマトだけではいかんと思ったのだろうか、少し前の日経の見開き広告は「トマトの会社から、野菜の会社に」がヘッドコピーだった。

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子供のころから広告が好きだった(8)

日本で最初のラジオ広告は1951年に中部日本放送(CBC)で流れた精工舎の時報広告でした。2年後には最初のテレビ広告が日本テレビでオンエアされました。これも精工舎の時報広告でした。初めのころは60秒でしたが、だんだん短くなりそのうち15秒の時報広告が全民放局の全時間に流れるようになりました。「精工舎の時計が午後7時をお知らせいたします」プッツプッツプッツ ポ~ン。

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働き始めてしばらくしてRoad Blockingという手法を聞きました。全局の同じ時間を買って民放を見ている全世帯にCMメッセージを一度に届けるリーチ(広告到達率)を最大化する方法です。実行するのが難しく効率も良くはないのですが、昔セイコーがやっていたなあと思ったものです。

個人的にはシチズンのテレビCMが印象に残っています。アニメ広告で、歌っていたのはやっぱり楠トシエでした。

シチズンCちゃん窓の中
時計の小窓の窓の中
シチズンCちゃんこう言った
お腕の時間は引き受けた
姿もすっかり引き受けた
時計のことなら引き受けた

キャラクター全盛の時代でナショナル坊や、ソニー坊やと並んでシチズンCちゃんも人気者でした。中学に入るときに買ってもらった初めての腕時計はシチズンだったし、そのあと買い換えたのもシチズンでした。当然手巻きで、当時としては珍しい目覚まし付きでした。ちいさなハンマーがケースを叩き、音と振動でアラームになるという面白い時計でした。時計をすることもなくなり、去年ネット・オークションで売ってしまいましましたが・・・(買ったときより高く売れました)

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https://www.youtube.com/watch?v=Uy9yd1bLftY&fbclid=IwAR22sXGP-WRPgB2ShG0gK0Q62ozZ1SYP_GfSrNcMH9xarraUio4k-Mfxc1c

クリックするとCMが見られます


子供のころから広告が好きだった(3)

森永の広告が記憶に残っている。これも社名も製品名も入っていないが誰でも森永の広告と分かる。

誰もいないと思っていても
どこかでどこかでエンゼルは
いつでもいつでも眺めてる
ちゃんとちゃんとちゃんと
ちゃちゃんと眺めてる

やさしくて暖かくて良い広告だと思う。昔はモノクロのアニメだったが見つけたのはカラー版。グリコ・森永事件の後、会社存続の危機にこのCMに立ち返ったのは、この広告が森永魂を表しているからなのでしょうね。

森永でも乳業のほうのCMソングも好きだった。夕方の番組の前に入っていた。やはりモノクロのアニメーションで、丘の上で草の上に座った少年が空を見上げている。

マ ミ ム メ 森永 流れ雲
青いお空の牛乳よ
バ ビ ブ ベ 坊やも眺めてる
マ ミ ム メ 森永 流れ雲

記憶だけで書いているので違っているかもしれないが、画面はモノクロだったが真っ青な空に白い雲が浮かんでいて、それが流れて牛乳のように見えたことは未だに覚えている。ああ、そうだ、あの頃は瓶入りの牛乳が毎日配達されてたのだった。自転車の荷台で瓶がぶつかってカタカタと鳴る音を思い出した。


(追)エンゼルも時代とともに変わってきたのですね。

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子供のころから広告が好きだった(9)

サラリーマンの家庭にも昔はけっこうな数のお中元やお歳暮が来た。たいていはみかんの缶詰、石鹸、味の素の詰め合わせだったり豊年製油セットだったが時々変わったお中元もあった。

記憶に残っているのは、飛行機に乗ったことのある人など周りには皆無だった時代に航空便で北海道から送られてきたすずらんの花束。開けるといい香りがして母親が喜んでいたのを覚えている。しゃれたことをする人がいるものだと子供心に思った。

もうひとつは瓶に入った茶色の液体。家族のだれもなんだかわからず暫く放っておかれた。冷やして飲むことすら知らなかったので日本で製造が始まった1957年から「コカ・コーラを飲もうよ、コカ・コーラを冷やしてね」の広告が始まった1962年の間だと思う。暑い夏の縁側で一人で恐る恐る栓を開けた。茶色の液体は噴きこぼれてあたりに散らばり中身の三分の一は無くなった。残った液体は水薬の味がして一口でやめた。

1962年以降春から夏にかけてコカ・コーラの広告は大量に流れ、フォーコインズ、ジミー時田、加山雄三、ピンキーとキラーズ、ワイルトワンズ、フォーリーブスが、70年代に入ると赤い鳥、西郷輝彦、朱里エイコ、布施明、森山良子、かまやつひろし、ビリーバンバンがCMソングを歌っていた。どれも映像が素晴らしくて庭で遊んでいても広告が始まるとテレビの前まで走った。今は亡きティナ・ラッツが出ているCMが好きだったなあ。「コークと呼ぼうコカ・コーラ」のCMだけは「コークって?」と当時意味が分からなかったが、その十数年後社会人になって初めて配属された部署は「コーク・リエゾン」と呼ばれていた。

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飲み始めたのは大学に入り下宿生活で銭湯通いをした頃。おいしかったけど銭湯代が30円で湯上りのコーラが35円はなんだか納得できなかった。コーク・リエゾンではメディア・プランも作ったが、テレビ局に送るCM素材指示表(進行表)を書く時間が一番長かった。コンピューターもなく数人で全88民放局宛の6枚カーボン用紙に一日数時間力を込めて「コカ・コーラ檀一雄ファミリー編・15秒・改」などと書いていた。(檀一雄ではなくデビューしたばかりの檀ふみが主役)。おかげで今でも右中指はすこし曲がったまま。

楽しい職場だったし学ぶことがたくさんあった。この経験があったから後年ペプシ・コーラで働く機会を得ることができた。ま、11カ月後にサントリーにマスター・フランチャイズ権を買われて失業することにはなるのだけれど…

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今ではコークやペプシを飲むこともほとんどなくなった。たまに無性に飲みたくなるが、瓶から飲みたい。どうして瓶製品をもっと売らないのだろうか、おいしさが全然違うのに。レストランやバーでしかお目にかからない。この辺りだとモトマチに瓶の自販機が一台あるだけ。



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子供のころから広告が好きだった(6)
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花びらのタッチ スコッティ

ベルベットタッチ スコッティ

チュチュ姿でピルエットしながら歌っていたのはアメリカ留学から帰ってきたばかりの松島トモ子でした。「アメリカではどのご家庭でも…」と皆があこがれていたアメリカ的生活をチラリと見せるような広告でしたね。鼻をかむと顔がヒリヒリするチリ紙しか知らなかった日本人からみるとびっくりする柔らかさで箱に入っているのも驚きでした。「こんなんで鼻かんでる国に勝てるわけはないなあ」と言った大人の言葉に妙に納得したものでした。

毎年夏になると流れる「ミネラ~ル麦茶」のCMや「ライオンに襲われた女優」として知られる松島トモ子の子供時代の人気はすごいものでした。前回楠トシエのCMソング占拠率(?)が6割くらいあったのではと書きましたが、松島トモ子の当時の少女雑誌表紙占拠率は8割くらいある印象でした。「少女」の表紙モデルを10年間続け、他の少女誌だけでなく「平凡」「明星」の芸能誌、「小学六年生」などの学習誌の表紙にもあの大きな瞳と愛くるしい笑顔で毎月のように登場しました。残りの2割を小鳩くるみ(今では大学教授!)、古賀さと子、近藤圭子、渡辺典子などが競っていたと記憶しています。

雑誌の表紙だけでなくラジオやテレビでも彼女の歌がよく流れていました。歌を歌い、数十本の映画に出演し、芝居もして、バレエを踊り、かつ学校の成績はいつもオール5という記事がよく芸能雑誌や少女誌に載っていました。当時一番のマルチタレントでした。今でいうと芦田愛菜と橋本環奈を足したような存在でしたね。
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そのティッシュペーパーはあっという間にチリ紙を駆逐して家庭の必需品となり、今では5箱パックが200円強で売られるようになりました。オイルショックの頃セブンイレブンでひと箱200円(それも2枚重ねが100組の計200枚つまり今の半分の量しか入っていなかった)で買った記憶がある自分には信じられない価格です。山陽スコットのスコッティと十条キンバリーのクリネックスが市場を席巻していたのですが、日本の製紙メーカーも参入し価格競争が激化したようです。その後アメリカでも日本でも製紙業界では合併が相次ぎ、今ではクリネックスとスコッティは同じ会社から発売されています。つい数か月前両製品を買ってはじめて気づきました。迂闊でした。

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子供のころから広告が好きだった(4)

名古屋には市内に本社を置く製パン会社が2社あります。フジパンと敷島パンです。子供のころ街にはパン菓子店がたくさんありフジか敷島のどちらかを扱っていました。フジのほうが圧倒的に優勢だったと記憶しています。広告もフジがテレビや宣伝カーで流していたのに対し敷島の印象はあまりありません。CMソングの最後の「パ~ンならシキシ~マ 敷島パン」しか憶えていません。おとなしいというか品がよい会社でした。これは「ねのひ」の醸造元やソニー創業者である盛田昭夫氏で有名な盛田家の一族が創業したせいかもしれません。一方フジパンの宣伝カーは毎週のように廻ってきました。

山は富士山 日本一
パンなら富士パン 日本一
やっぱり富士パン おいしいね
めっきり健康 富士パンで

今ならとても使えない文言です。世は朝食がご飯食からパン食へと移行しつつある時期でもあり、パンメーカーとして必死に啓蒙活動をしていたのだと思います。そんな時、東京で一番売れているパンが名古屋に来るというニュースが流れ、友達と隣町まで偵察に行きました。ヤマザキパンののぼりが何本も立っていました。なんとなく洒落ていてフジと敷島は大丈夫だろうか、と子供心に心配しました。

それから数十年。両社ともに健在です。フジはパンだけでなく惣菜やマックのバンズも手がけるようになり、敷島はヤマザキに次ぐ製パン業界第二位となっています。「超熟」のヒットもありますが、東京に進出するときに敷島の名前を出さずにパスコを前面に出したのが効いたとも言われています。PascoはPan、Shikishima、Companyというポルトガル語、日本語、英語の頭文字をとって作った造語ですが、こんなところが名古屋の会社らしくていいですね。

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子供のころから広告が好きだった(2)

今の子供はテレビやPC・スマートフォンで広告を見るけど、私の子供時代は屋外広告だった。新しい商業ビルが建てば数個のアドバルーンが浮かび、高層ビルがないので遠くからでもその場所が確認できた。時々セスナが飛んできてチラシを撒いた。空からキラキラ光りながら降りてくるチラシを友達と走って取りにいった。車があまり走っていないから可能だった宣伝でしたね。(たまに車が通ると排気ガスの匂いを嗅ぐために追いかけもした)

街には週に一回くらいロバのパン屋がやってきて、「できたて焼きたていかがです~」とテーマソングを流していた。たいていはロバではなくてポニーで、白いポニーは少し汚れていて疲れ気味に見えた。時折大音声で音楽を流しながら宣伝カーも来た。一番記憶に残っているのはオリエンタル・カレーの車とあのCMソング。
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なつかしい なつかしい あのリズム
エキゾチックなあの調べ
オリエンタルの謎を秘め
香るカレーよ夢の味
嗚呼 夢のひと時 即席カレー
君知るや 君知るや
オリエンタルカレー


インスタントではなく即席カレー、それに「夢の味」!!!。カレーが大ご馳走だった時代だ。オリエンタルは愛知県の会社で、歌っていたのは名古屋出身の女性カントリー歌手トミー・藤山だった。一度は彼女が乗っていてショーがあり、その後カレーの実売をするのに出くわした。トミー藤山はまだ現役で、ディスコグラフィーを見るとSP19枚、シングル18枚、LP7枚、CD4枚とある。SP19枚がすごい。このCMソングもテレビで流されて有名になった。私いまでもちゃんと歌えます。

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オリエンタルはその後スナック・カレーを発売し、南利明の「ハヤシもあるでよ~」のテレビ広告で名古屋以外でも知られるようになった。ただ今日近所のスーパー2軒を見て廻ったがカレールーの棚はS&Bとハウスばかりでオリエンタルは見つけられなかった。


オリエンタルカレーの唄は下記クリックで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=78FJ3W4j2Ns




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子供のときから広告が好きだった(1)

小学2年の時に我が家にTVが来た。町内で2番目だったと思う。1番は父親が勤める鉄鋼会社の重役だった。課長の父親が先に買うわけにはいかなかったのだろう。14インチのブラウン管で確か値段は10万円ちょいだった。大卒の初任給が1万円強だったからかなりの贅沢品だった。NHK一局だけしかなく放送は夕方から始まった。1年後中部日本放送(CBC)が開局しテレビ広告に接するようになる。

日本で最初のCMソングは1951年9月にCBCラジオと新日本放送(現毎日放送)で流された小西六写真工業の「僕はアマチュアカメラマン」とその数日後に流されたサンスターの「ペンギンの歌」だとされる。「アマチュアカメラマン」は三木鶏郎の作詞・作曲で当時の人気歌手灰田勝彦が歌っていた。
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僕はアマチュアカメラマン

素敵なカメラをぶらさげて
可愛い娘を日向に立たせ
前から横から斜めから
あっち向いてこっち向いて
はい パチリ!はいいけれど
写真ができたらみんなピンボケだ
あらピンボケだ おやピンボケだ
嗚呼みんなピンボケだ

曲の人気はすこぶる高かったが、歌詞の中の「みんなピンボケだ」「二重撮り」「露出過度」などが気に入らなかった写真店主の間では評判は芳しくなかったらしい。TVで見た記憶はないのだが「ペンギン」のテレビ広告はよく憶えている。
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氷のお山ですまし顔

いつも気取って燕尾服
もしもステッキ買い込んで
黒いかばんを持ったなら
とても立派なお医者さん
ペンギンペンギン可愛いな

モノクロのアニメーションにこの歌が乗っかっていた。個人的には「オーロラ輝くその中で なんとお洒落な燕尾服」で始まる2番のほうが気に入っていたのだが、2番を憶えているということは60秒かそれ以上の広告だったのだろう。当時1分のCMや3分の生CMはごく普通にオンエアされていた。一社単独提供番組の中で番組の一部のように流され、憶えられ、流行し、レコードになったりNHKで流されたりもしたそうだ。

今では考えられないが、この2曲には社名も製品名も一切登場しない。現在のイメージソングのような感じかもしれない。金と時間をかけ、クリエイターに全面的に任せる。テレビ広告の揺籃期はのどかでおおらかで良い時代だった。


僕はアマチュアカメラマン、下記をクリックすると聞けます。
https://www.youtube.com/watch?v=WPC6C289u3E

サンスターのペンギンは下記です。
https://www.youtube.com/watch?v=j0xT5kDHjSg





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子供のころから広告が好きだった(14)

どんなものなのか理解できなくても広告で「OO配合」とか「有効成分OO」と言われると昔からなんとなく信じてしまう。私は単純な人間です。

子供のころミツワ石鹸の薬用「ミューズ」のテレビ広告の「G11アネガム(だったと思う)配合」の文言を見て、どんな菌でも殺してしまうんだと思った。花王がP&GのHead & Shouldersのコピーであるメリットシャンプーを発売した時も「ジンクピリチオン」という成分名をすぐ覚えたし何年間か使ってもいた。
G11アネガムもジンクピリチオンもどんな成分でどう機能するのかも知らなかったが、仕事をするようになってこれらが消費者ベネフィット(使用することによる利点)を強化・正当化するRTB(Reason to Believe)だと教わりました。

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クロレッツを開発し広告を制作している時に、当時の米国人社長に言われました。クロレッツはコンセプトで売る製品です。テレビ広告では効果は当然だが、我が社独自の有効成分である「アクチゾル」を前面に出して宣伝しなさい。でも決して、決して「アクチゾル」がなんであるかを広告内で語ってはいけない。消費者にMagical Recipeだと思わせなさい、その方が消費者は信じやすいのですよ、と。

さっき調べたら家にあるミューズのパッケージには「G11アネガム」の文字は既になく、メリットからも香りが悪いという理由で「ジンクピリチオン」は外されている。今日店頭で見たクロレッツにも「アクチゾル」の表示は見当たらず(原材料表示から推測するとまだ含有されているはず)、「緑茶ポリフェノール配合」の表示だった。こんなどこでも使われている有効成分では分かりやすすぎてありがたみに欠ける。あのRTBやMagical Recipeはどこに行ってしまったのだろうか。

下をクリックすると1984年の田中裕子主演のメリットのCMが見られます。「ジンクピリチオン」出てきます。ちなみにアメリカP&GのHead & Shouldersはいまだに「ジンクピリチオン」配合です。

https://www.youtube.com/watch?v=4k5ga54PJ6o


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子供のころから広告が好きだった(13)

子供のころ髪は石鹸で洗っていた。当時石鹸はお歳暮やお中元の主役格で、テレビではミツワ石鹸や牛乳石鹸のCMが毎日流れていた。ミツワは「名犬ラッシー」の単独提供社で、オープニング曲はこんなだった。

ラッシー ラッシー ラッシー ラッシー バウワウワウ
ラッシーがバウワウ吠えるとき きっと何かが起こります
今日のお話なんでしょなんでしょ
ラッシー ラッシー 頑張れラッシー
ミツワ ミツワ ミツワのラッシー

まるでミツワがラッシーの飼い主のようだ。「日真名氏飛び出す」の三共もそうだったが、この頃の単独スポンサーは相当勝手なことをしていた。それとこの曲でアメリカでは犬がバウワウと鳴くと知った。番組の中で流されていたのが三人の人形が唄う「輪、輪、輪、輪がみっつ」のCMだった。

一方の牛乳石鹸は牧場の牛の親子のアニメで、最後の「牛乳石鹸 良い石鹸」のサウンドロゴが耳に残った。2番にはクレオパトラが、3番には小野小町が登場する。両CMとも三木鶏郎の作曲。ちなみに小鳥の絵はヴィックスドロップの「クリクリ三角」のCMと同じなので、当時は限られたクリエイターが八面六臂の活躍をしていたのだろう。

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60年代に入ると液体シャンプーが発売され石鹸で頭を洗う人は減った。暮らしの手帖が、シャンプーは皮脂を落としすぎるので髪は水石鹸で洗うのが良い、と書いたのはこの頃。70年には花王のメリットが登場しあっという間にトップブランドになった。米国P&GのHead and Shoulderのコピー商品でジンクピリチオンという有効成分も同じだった。

その後ポンプボトルが発売され、日に二度洗う朝シャン族が生まれた。つい数十年前まで日本人は月に一度とか週に一回くらいしか洗髪していなかった、と1932年発売の花王シャンプーの広告で知りました。現在でも地毛で髷を結う力士や芸妓さんは洗髪は週に一度だそうです。まあ彼らは毎日美容院に行ったり床山に髪を結ってもらったりはしていますが。


ミツワ石鹸と牛乳石鹸のCMは下記をクリックすると見られます。

https://www.youtube.com/watch?v=mr2xPhiyhac
https://www.youtube.com/watch?v=fFjxSzf_G1k




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