マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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カテゴリ: プロダクトマネジャー制度

消費財メーカーのマーケティング部門に転職してブランド担当となった時は自分のキャリアパスなんか考えていなかった。面白そうな仕事だと思っていたしそれまでの代理店での経験がある程度は使えるだろうくらいに考えていた。英語では苦労したが製造現場や営業活動など新鮮な発見がたくさんあった。

その頃は小さなマーケティング組織でマーケティング・ディレクターの下にプロマネは私を入れて4人だった。私以外の3人は全員アメリカの大学を卒業していて、かつ2人はMBAホルダーだった。後で気付くのだが彼らは明確なキャリアパスを持っているようだった。当時でも私費で留学すれば1000万円はかかったはずだ。帰国後にその投資を回収すべく給料の高い外資のマーケティングに職を得て上位のポジションに上がることを考えるのは当然だ。そのために転職を繰り返すこともいとわない。単純に仕事が面白そうだからと考えていた私とは将来設計が違った。

一般的にマーケティング職、特にブランド担当の職位は下から順番にあげると次のようになる。

アシスタント・プロダクトマネジャー
プロダクトマネジャー
シニア・プロダクトマネジャー
カテゴリー・マネジャー
マーケティング・ディレクター
事業部長
ゼネラル・マネジャー
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最初のアシスタント・PMはジュニア・PMと呼ぶ会社もある。私がいた会社はプロダクト・スーパーバイザーと呼んでいた。若い新人や営業から異動してきた社員は大抵ここから始める。小さなブランドを担当するか大ブランドのプロマネの補助をしながら経験を積んでPMになる。
MBA保有者はプロダクトマネジャーから始めることが多い。ケーススタディを数多くこなし知識と疑似体験が評価されるからだ。アメリカなどでは大学を出てアシスタントPMを経験してから大学院に行きMBAをとってプロマネとして働き始めるマーケターが多い。出身校によって待遇が変わることが多く、私がいた会社のひとつではMBAのトップ10校出身者は1000万、それ以外は800万と初任給に差をつけていた。

その上にはシニア・プロダクトマネジャー職を置く会社もあるが、多くの会社ではカテゴリー・マネジャーという商品群を束ねるポジションがある。その下に数人のプロダクトマネジャーが属する。
そして数人のカテゴリー・マネジャーを統括するのがマーケティング・ディレクターで日本語ではマーケティング部長と訳されることが多い。カテゴリー・マネジャーだけでなく調査部門や、新製品担当グループがある場合はそれらのグループもマーケティング・ディレクター傘下となることがほとんどだ。

その上には事業部長が位置し、マーケティングだけでなく営業部門、製造、品質管理、お客様相談室なども管轄範囲となる。取締役又は執行役員であることが多い。
そして最上位にはゼネラルマネージャー。CEOとか代表取締役社長のタイトルの会社も多い。マーケティング部門からだけ昇格するわけではないが、外資系ではマーケ出身者の比率が高い。いま思いつくくだけでもネスレ日本の高岡浩三氏、コカ・コーラと資生堂で社長だった魚谷正彦氏、ユニバーサルスタジオから刀の森岡毅氏、リーバイスとトリンプで社長を務めた土居健人氏などがいる。高岡氏はネスレ一筋だったが、他の3人は数社の転職を経て上まで上り詰めた。外資系では転職派が主流だが、どちらが良いのか今の私には分からない。

40代半ばの時に上司から海外赴任の打診を受けた。マーケティング部員の多くがアメリカの大学やビジネススクール出身者で、外資系企業で幹部候補生になるためには海外経験が必須と考えたのだろうと思う。当時私はアメリカ本土に行ったことすらなかった。最初の提案はマーケティングディレクターのポジションでタイのバンコック勤務だった。家に帰って家内に話すと「一人で行ってください」とつれない反応だった。上司に話すと単身ではなく家族で行った方がいい、広い一軒家でプールもあるしメイドも何人か付くと再度説得されたが、家内を説得できなかった。

数か月後にカナダ勤務の話が来た。上司本人も米国本社勤務の経験があり、世界中から人を集め少しギスギスしたアメリカ本社より、忍耐強い国民性のカナダの方がよいだろうとの判断だった。新婚旅行でカナダに行ったことがあったので今度は家内も簡単にOKを出した。その後カナダの人事の人が面接に来たり、事前に夫婦でトロントを訪れ秘書の助けを得て住居や現地の学校を決めたり急に忙しくなった。帰国して娘の中学の休学手続きやベルリッツでの英語特訓を受けさせたりしたあと、親子3人でトロントに旅立った。初の海外勤務にしては歳をとりすぎているし英語が得意でないので不安だったが社長の「お前はTechnical Competenceがあるから大丈夫だ」の一言を信じての決断だった。
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カナダではDentyneというガム(日本でもニッキ味のガムとして知られていた)のプロマネのポジションでアシスタントが一人ついた。実務は彼がほとんど仕切っていたのでお飾りのような上司だったが、十数人のマーケティング部員のほとんどが20代でマーケティングの経験に乏しかったのでコーチのような立場だった。当然英語では苦労した。1対1で話すときはゆっくり話してくれるが、会議で議論が白熱すると耳がついていかず会議中に同時に2か所で話が始まると(これがまたよく起こるのだ)もうお手上げだった。菓子部門は200人くらいの規模だったが全員の顔と名前を一致させるのに苦労した。ファーストネームと苗字の両方覚えなければならないからだ。
Dentyne
3か月くらいたった時に上司の女性が突然米国本社勤務となり、代わりに私がカテゴリーマネジャーになってしまった。Dentyneの他にTrident、Bubblicious、Cinnaburst、Chicletsなどの製品群でカナダのチューインガム市場の6割を持ち、世界でも数少ない世界一のリグレー社を上まわるシェアを誇る部門だ。当然なぜ自分のボスが日本人なのだという不満が出たらしい。上司のディレクターがカナダにとってPacific Rimは重要な地域で将来転職するときに日本人のボスの下で働いた経験は有利になる、と説得したとのことだ。以降他の部署との会議が増え、採用のために名門クィーンズ大学やWオンタリオ大学に人寄せパンダで(東洋人でもこのポジションに就ける!の意)出かけたりした。

カナダはアメリカ以上の多国籍人種国で、娘の高校のクラスには25の国籍があったし、会社にも北米、中米、アジアなど人種の坩堝だった。こういう事情を反映してか広告で大勢の人数が出るときはカナダの母集団に近い人種構成にしなくてはいけなかったし、社員の構成も同様だった。採用担当が「政府の要請にこたえるためにはイヌイットが一人足りないんだ。一人営業用に採用しに行かなくちゃならない」と言ったときは少し驚いた。

毎日英語疲れでぐったりして帰り、時にはスーツのままでベッドに倒れこんだりした。最初の頃は毎晩深夜まで予習していて苦労したはずの娘はだんだんカナダに慣れ、「この国のほうが授業が面白い」と言い出した。暗記するのではなく自分の頭で考えたことを皆の前で発表し、質問や議論が始まる。MBAのケーススタディのようなことを子供のころからやっているのだから日本人は敵わないだろうと思う。日本人は彼女一人の高校では香港からの移民グループに溶け込んでたくましくなった。家内も日本ではできなかった楽器の個人レッスンやトロント大学での聴講などしっかり街に馴染んだ。任期を終えて私は帰国したがその後家内は7年、娘は10年をカナダで過ごすことになった。仕送りだけが私の仕事になった。



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外資系企業を数社経験したのでいくつかの職務分掌を目にしました。その中で一番わかりやすくてよかろうと思われるものをご参考までに添付しておきます。カナダでのプロダクト・マネジャーの職務分掌です。ご参考になれば幸いです。



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https://www.slideshare.net/secret/5I7rDmWglWV491

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プロダクトマネジャーの責務・業務に関する25ページのスライドです。
旧Warner-Lambert社のPRODUCT MANAGER'S OPERATION MANUALなどを参考にしています。




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