マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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カテゴリ: ブランディング

みどりのおばさん、ニッセイのおばさん、そしてヤクルトおばさんを日本の三大おばさんと言うらしい。かつてはヤクルト婦人販売員と呼ばれ、最近のヤクルトのHPではヤクルトレディと呼ばれている。今でこそヤクルトを始めとする乳酸菌飲料は市民権を得ているが、ここまで来るには大変な苦労があったらしい。
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ヤクルトの創業者代田稔が腸内の悪い菌を退治する特殊乳酸桿菌の培養に成功したのは1930年だった。これをLカゼイ・シロタ株と名付け、後にヤクルト菌と呼ばれるようになった。ヤクルトとはエスペラント語でヨーグルトを意味するヤフルトを語源としている。代田は1935年に代田保護菌研究所を福岡に設立し乳酸菌飲料の製造と販売を始めたが、それは普及活動のための普及会経由の細々とした販売で、ヤクルト本社が東京にできるのは20年後の1955年まで待たねばならなかった。

私は名古屋で生まれ育ったが、名古屋では同じ1955年に発売されたエルビーの方が有名だった。ヤクルトを見た記憶が全くない。当時は乳酸菌など馴染みはないしビフィズス菌などは聞いたこともなかった。お腹の中に菌を取り込む飲料などほとんどの人は「菌を飲むなんて」と拒絶反応を示した。全国に販売組織を整備したヤクルトが力を入れたのが啓蒙のための広告活動と婦人販売員チームの設立だった。

1963年に導入された婦人販売員は自転車や手押し車に製品を乗せて自宅近くの顧客に届ける配達部隊だった。そのほとんどが当時は外で働くことが珍しかった主婦だった。やがて全国に広がり誕生して20年後には5万6千人のヤクルトおばさんを擁するようになった。その後競合も増え、宅配以外にスーパーなどでの販売も始まったこともあり、2006年には5万人に減り、現在は3万3千人のヤクルトレディが個人宅や会社のオフィスに毎日ヤクルトを配達している。

もちろんヤクルト躍進の原因は婦人部隊だけでなく、ジョア、ミルミルや最近では入手困難だったヤクルト1000などの絶え間ない新製品導入と、1968年に採用されたプラボトルの採用がある。特にプラボトルはそれまでの回収に手間のかかる重い瓶から婦人部隊を解放し、えぐれた中央部は飲みやすさと製造ラインでの安定をもたらした。
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啓蒙活動は国内にとどまらず海外でも行われている。海外での世界水上選手権のテレビ中継でヤクルトのビッグボトルが必ず映される。効果があるのだろうかと疑問に思っていたが、試飲イベントや啓蒙活動を継続していくうちに海外での販売国数は40か国まで増えたという。ヤクルトレディもアジアを中心に8万人に上り、海外で販売されている日本の飲料としてはナンバーワンとなった。main96
通常のヤクルトは65mlで物足りないと思っていたが、フィリピンには1リットル入りのヤクルトがあるらしい。飲みごたえはありそうだが、このシール蓋では開けたら飲み切らなくてはならないし、ヤクルトレディが運ぶには大きすぎるし重すぎる。でもこの発想は好きだし、これを許すヤクルト本社もなかなかのものだ。

昔チューインガムの仕事をしている時に競合会社からビフィズス菌入りのガムが発売された。米国本社の人間に説明をしたら、ビフィズス菌などは全く知らず、乳酸菌(lactic acid bacteria)の話をしたら「お前たちはバクテリアを食べるのか」と言われそれ以上説明する気は失せた。その頃のことを思い出すと現在「アメリカヤクルト株式会社」が存在するなんて時代が変わったと痛感させられる。

ちなみにヤクルトレディは店売りの2倍の数を販売しているとのことだ。


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知多半島の半田はミツカンの街と言ってもいいくらいで、所有する工場、本社ビル、大きな黒塀屋敷、ミツカンミュージアムなどが市の中心にあり、雨が降っている日は街中に酢の匂いが漂う。最近は「種馬発言事件」「ミツカン父子引き離し事件」が話題となり、先月元親子間の裁判が始まったと思ったら、その直後に被告である八代目会長が心不全で急死してしまった。
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もともとミツカンは養子縁組でその歴史を繋いできた企業だ。初代の中野又左衛門からして養子だったし、二代目と三代目又左衛門は盛田家からの養子、四代目は盛田の分家からの養子、五代目も盛田の血を引く養子でかつ四代目の妻の実弟だった。六代目からは先代の実子が跡を継ぎ、先日亡くなった八代目の未亡人が現在の副会長で長女が社長を務めている。八代目の次女の子供が待望の男児だと分かった時点で八代目夫婦の養子にするよう要求され、断ると離縁を迫られたとのこと。ミツカン一族は四代目から中埜に苗字を変えたが、ずっと盛田家の血が受け継がれている。

その盛田家は隣の常滑の由緒ある造り酒屋で、「ねのひ」ブランドの日本酒が愛知県では有名だ。子供の頃テレビでよく「酒~は、子の日松」と呼び出しが唄う広告が流れていた。全国的にはソニー創業者のひとりである盛田昭夫の実家と言った方が分かりやすい。彼は長男だったので本来は十四代盛田久左衛門を名乗るはずだったが、井深大とソニーを創業するため実家のビジネスは弟の和昭に任せられた。

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四代目中埜又左衛門は盛田一族である盛田善平と組んでビール造りを始める。苦労して丸三ビールを完成させ、次にドイツ風の「カブトビール」を発売しエビス、アサヒ、キリン、サッポロに次ぐブランドに育てたが、やがて事業を売却しビール事業で得た麦の知識をもとに製粉業に参入する。最初は小麦粉でマカロニを作ろうとするが失敗し、パンに切り替える。

当時名古屋古出来町の捕虜収容所にいたドイツ人技師数人を雇ってパン焼き窯を完成させ、名古屋に敷島製パンを創立し盛田善平が社長に就いた。その後ドイツ人のパン焼き専門技師であるフロインドリーブを雇い攻めに転じる。当初配送には箱車を使用していたが思い切って梁瀬自動車でフォードのトラックを買い、ボディに大きく「シキシマパン」と書いて市内を走らせた。東京の木村屋のアンパンが好評と聞けばすぐにまねをして作り、木村屋の販売が良好なのは直営店のおかげだと聞くと栄町に直営1号店、広小路に2号店、その後も東新町、上前津と拡大させた。ちなみに現在の盛田淳夫社長は善平の曾孫にあたる。
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愛知県と言えば名古屋とトヨタのある豊田市が思いつくくらいで知多半島が話題になることはほとんどない。名古屋も閉鎖的に見えるが、知多は家と家のつながりが他の地域よりさらに密で、かつ地元への愛着が強いように思える。盛田家と中埜家は養子縁組を繰り返してまるで同じ一族のようだし、中埜家は敷島製パン創業にも参画するだけでなく、一時はソニーの大株主でもあった。

その後の話。ミツカンは味ぽんやふりかけを発売してチルド・加工食品市場に参入し、1997年から納豆製造会社3社を吸収合併し製品ラインを拡大中である。
盛田家の十四代盛田久左衛門は善平亡き後二代目敷島パン社長を兼任し、息子の盛田和昭は家業と並行して創業時のソニーのテープレコーダーを販売して兄の昭夫を助けた。またアメリカで見学したコンビニを7‐11より3年も早く日本に導入し名古屋でココストアを展開した。シキシマパンは2003年にブランドをPascoに統一して日本第三のパンメーカーに成長した。シキシマパンの最初の技師フロインドリーブは会社を辞めた後も国には帰らず、神戸の中山手通で神戸ジャーマンホームベーカリーを開業し息子に引き継がれて現在に至っている。



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名前は知っているのだが食べたことがない。多分カンロ飴もその類の商品だと思う。子供の頃に食べた記憶はない。子供の口には大きすぎるのも理由の一つかもしれないし、子供から見ると「甘くておいしい」とは思えない味だ。先日40年ぶりくらいにスーパーで買ってきた。
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 スーパーでもワンフェイスを与えられているだけで、社名の基になった製品としては寂しい。近所の7-11では発見できなかった。かつては紅茶キャンディのカティーサーク、カンロ健康のど飴と並び同社の花形商品だったが最近はその座をピュレグミや金のミルクなどのグミ製品に奪われている。

大正時代に創業された山口県の宮本製菓所が1954年に発売した「カンロ玉」がその起源だ。当時は一個単位で売られていた。そうだった、あの頃多くの菓子はガラスのジャーに入れられてバラで売られていた。他の飴玉が一個一円だったのに対しカンロ玉は一個二円という強気の価格設定だった。創業者の宮本政一は戦後海外から流れ込んできたキャラメルやドロップとは一線を画した製品を作ろうと考え、差別化ポイントを「和」に求めた。煮詰めても焦げない醤油の開発に3年の年月を費やし、当時としては貴重だった高品質の砂糖を使用したりしたから二円の価格は妥当だったのかもしれない。
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この一粒8グラムの裸飴は二円の価格のせいで売れないだろうと言われながら、地元で好成績を残し、販路を九州や大阪へ拡げ、1957年には東京へも進出した。その間に日本で初と言われるセロハンのひねり個包装を採用し、その後包装を機械化し生産効率を向上させた。名前も「カンロ玉」から「カンロ飴」に変え発売から3年で山口の地飴は全国ブランドに成長した。これを機に社名も宮本製菓(株)からカンロ株式会社に変更し日本を代表するキャンディメーカーとなった。1980年代はキャンディ市場のトップシェアを誇り、特に中国地区と九州地区では20%以上のシェアを持つ断トツのメーカーだった。

久しぶりに食べてみると、確かにでかい。8グラムはないが約7グラムはある。昔ホールズというキャンディの担当をしていたが、当時一粒4.7グラムは大きすぎると思っていたが(今は小さくなっている)それより相当大きい。それに球形でいかにも昭和の飴という印象だ。その大きさと形状ゆえ噛み割ることさえできない。じっと舐め続けねばならない。かすかに醤油の味がして、でも飴だから甘い。たとえるならばみたらし団子の味とでも言えるのだろうか。

残念ながらカンロ飴も時代の変遷とともに売り上げは下がり、かつての勢いはない。しかし唯一の醤油味のキャンディとして、そして社名となったブランドとして会社はカンロ飴のテコ入れや再生計画を考え続けるだろう。諦めるわけにはいかない。カンロ株式会社のコーポレイト・スローガンは「Sweeten the Future」だもの。



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記録があるなかで最も暑かった6月が終わりもっと暑いだろうと思われる7月が始まった。先月は地球温暖化を実感させられる暑さだった。6月で最高気温が40度を超えるなんて想像もしなかった。子供の頃住んでいた名古屋の夏も暑かったが、たまに33度になるとみんなが「暑い!」と叫んでいたような気がする。当時の日本の最高気温は1933年に記録された山形の40.8度だと新聞で読んで、33度でもこんなに暑いのに40度を超えたら人間は生きていけるのだろうかと思った。この最高気温記録は70年以上保持されたのだが、最近では毎年のように40度以上が記録されている。

政府は節電要請を発令し、テレビは毎日のようにできる限り外に出るな、熱中症に気を付けろ、クーラーを適切に使用しろ、水分の補給は忘れるなと言っている。老人は食料品の買い出し以外外に出ないし、前年より3割強値上がりした電気代を気にしながらクーラーを回し、冷えたペットボトルのお茶を飲む。それにしてもこの電気料金の上昇はひどいね。
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お茶ばかり飲んでいると飽きるので時々炭酸飲料も飲む。今日は三ツ矢サイダーを久しぶりに買ってきた。昔コーラなどの着色炭酸飲料の売りが下がったときに三ツ矢サイダー、キリンレモン、スプライト、7-UPなど透明飲料のブームがあったし、数年前にも小さなブームはあったが最近は無糖炭酸や強炭酸飲料に押されて影が薄い。適度の炭酸と甘さで老人にはちょうどいいのだけれど。
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三ツ矢サイダーは日本で最も古い清涼飲料だと言われる。1881年に英国人化学者ウィリアム・ガランが平野鉱泉(現在の兵庫県川西市)の水が理想的な鉱泉だと認め、その三年後(1884年)に民間の工場によって製造発売された「三ツ矢平野水」と「三ツ矢タンサン」がルーツとされる。ただ当時の製品は甘味料は入っておらずただの発泡水だった。色も透明ではなく黄色っぽかったという。1907年に帝国鉱泉(株)からサイダーフレーバーエッセンスを加えた「三ツ矢印の平野シャンペンサイダー」が発売され、1968年にはシャンペンの文字が消え現在の「三ツ矢サイダー」となった。製造元も大日本麦酒から朝日麦酒(株)へと変わったが1954年までは平野工場で製造されていた。
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三ツ矢サイダーの前身の「三ツ矢タンサン」が発売された1884年と言えば薬剤師ジョン・ペンバートンがコカコーラを発明した2年前のことだし、ドクターペッパーが発売された1985年の前年だ。1894年のペプシコーラの発売よりも10年も早い。世界最古の炭酸飲料と言われるシュウェップス(1783年創業)には及ばないが、こんな138年の歴史を持つ炭酸飲料が日本にあることを誇りに思いたい。戦後コカコーラが日本で製造販売されると決まったとき、もうサイダーやラムネはお終いだと言われたがどっこい生き残っている。ラムネはコロナでイベントが減り屋台での売りが壊滅的で大変らしいが、三ツ矢サイダーは健在だ。まだまだ頑張ってね。



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もう40年以上朝食には必ずヨーグルトが付いている。新婚旅行でカナダに行った時ホテルの朝食がおいしかった。メニューはパン、コーヒー、グレープフルーツにヨーグルトという今考えればごく普通の献立だったが、一人暮らしが長かったのでロクな朝食を食べていなかった自分にはごちそうに思えた。思わず「おいしい!」と言ったばかりに帰国してから毎朝同じ四品のメニューが出るようになった。最近ではパン、果物やヨーグルトの種類やブランドは時々変わるが基本的には変化はない。飽きずに40数年。
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ヨーグルトは明治、森永、グリコの御三家に時々特売しているローカルブランドのローテーションだが、やっぱり一番多いのは明治のブルガリアヨーグルトかな。

子供の頃ヨーグルトは小さなガラス瓶に入っていて毎朝牛乳屋さんが配達するものだった。本格的なヨーグルトはなくてゼラチンや寒天で固めた甘い製品ばかりだった。そんなにおいしいとも思えずたまに食べたいと思うのはフルーツ味のヨーグルトだった。ブルガリアヨーグルトを食べたのはその十数年後の大学生時代だった。まだ牛乳パック状の容器で開けると蓋ができず一度に全部食べて食事の代わりにしたりもした。

ブルガリアヨーグルト開発のきっかけは1970年の大阪万博というのは有名な話だ。会場のブルガリア館でヨーグルトを試食した明治の社員が感銘を受け開発に着手した。当時の明治乳業もヨーグルトを販売していたが甘くないプレーンヨーグルトを始めて食べて「これが本物の味だ!」と思ったという。分けてもらったサンプルをもとに乳酸菌の菌種選定からスタートし、試作を重ね何度もヨーロッパを訪問して翌1971年に「ブルガリアヨーグルト」を発売しようとしたらブルガリア大使館から待ったがかかる。ヨーグルトは民族の魂のようなものなので日本の民間企業には貸与できないとのこと。仕方なく「明治プレーンヨーグルト」の名前で市場導入をした。予想されたことながら甘いヨーグルトしかない市場で苦戦を強いられ一日に数百個しか売れず、かつ「酸っぱすぎる」「腐っている」「味が変、不良品ではないか」というクレームも相当来たらしい。

しかし本物の商品が浸透しないと日本の市場は成長しないと信じ、そのためにはヨーグルト発祥の地ブルガリアの名前を冠することが必要と考えた明治はプレーンヨーグルトにかける熱い思いを大使館に伝え続け、製造設備や品質管理、流通管理の説明を繰り返して承認を得て1973年12月に「明治ブルガリアヨーグルト」を世に出すことができた。
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その後も売れ行きは芳しくなかったが新聞広告でヨーグルトの食べ方の説明やテレビ広告であの「明治ブルガリアヨ~グルト」のサウンドロゴを浸透させ、甘く食べられるように砂糖の小袋を店頭で添付するなどの地道な努力を重ねた。1981年にはそれまでの牛乳パック転用の容器から専用の密閉式パッケージを開発したことで販売量が増加し市場に定着した。
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牛乳パックの時は500㎖、81年の新容器発売時は500g、87年には550gに増量したが95年に500gへ、2009年に450gへ、2018年には400gへと減量が続き添付の砂糖も2014年にカットされた。2018年の減量の時は「明治よ、お前もか!」と落胆した。容器と容量の変更、ミリリットルとグラム表示変更もあってブルガリアヨーグルトのパッケージ変更は20回以上に及ぶ。

それでもトップの位置を守っているのはブルガリアの名を冠したこと、記憶に残る「明治ブルガリアヨ~グルト」のサウンドロゴに加え、競合の森永ビフィダスの正方形パッケージやグリコ朝食ヨーグルトの円筒形パッケージと比較すると明治の長方形パッケージは正面の面積が大きく店頭での訴求力が強いことが考えられる。それと相撲ファンにとってはあの少し哀愁を帯びた表情と人のよさそうなブルガリア出身の琴欧州の化粧まわしだろうか。
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生まれてからの20年を名古屋で過ごした。当時はB級グルメや名古屋めしなどという言葉もなかった。名古屋にはほかの地域に誇れるようなおいしいものはないと思っていた。名物と呼べそうなものは名古屋コーチン、きしめん、味噌煮込みくらいだったかもしれない。

「名古屋めし」でググると、ひつまぶし、味噌煮込みうどん、きしめん、味噌カツ、手羽先、台湾ラーメン、あんかけスパゲッティ、天むす、味噌おでん、小倉トーストなどが現れる。この中で名古屋在住時代に食べたことがあるのは味噌煮込みうどん、きしめんと味噌おでんの三つだけであとは見たことすらなかった。(写真は住よしのきしめん)
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調べてみたらひつまぶしは昔から賄い飯として存在していたらしいが登録商標化されたのは1987年とある。つい最近だ。矢場とんで有名になった味噌カツも起源は他店の65年説と67年説がありそんな昔ではない。手羽先だって1960年の誕生で「世界の山ちゃん」は1985年の設立だから私はもう上京していた。台湾ラーメンなどは聞いたこともなかった(台湾には存在しないらしい)。売られ始めたのが71年で80年代中ごろからブームになったらしい。
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あんかけスパゲッティも同様で60年代に生まれたが、人気になったのは2000年過ぎのことだとのこと。知らなくて当然かもしれない。天むすも50年代に天婦羅店の賄い飯として生まれ59年に天むす専門店となり65年に商標登録されたが、その店は名古屋ではなく三重県の津にある。その後にのれん分けした店のほうが有名になってしまったようだ。小倉トーストは古くから名古屋の喫茶店で提供されていたようだが私が学生時代に行った喫茶店のモーニングには入っていなかった。

結局それらの名古屋めしのほとんどは東京や横浜で食べることになった。味噌カツは名古屋からの新幹線内と横浜そごうのレストラン街で、手羽先は自由が丘で、天むすは東急百貨店の地下売店で、小倉トーストは名古屋出張の時コメダ珈琲店でという体たらくだ。ひつまぶし、台湾ラーメン、あんかけスパゲッティはいまだに未経験。うなぎの名店いば昇には子供のころ父親に連れて行ってもらったし、サラリーマン時代にも行ったことがあるがメニューにひつまぶしがあった記憶がない。

どうも名古屋めしは正統とは呼びがたいアイデア料理が多く、味も濃い目のものが多い。名古屋人が八丁味噌やたまり醤油のような濃い味になれているせいもあるのだろう。ほとんどの名古屋めしが50年前後の歴史しかなく(名古屋を離れて50年以上たった自分が知らなくてもおかしくないはずだ)名古屋発祥でないものもあることを考えると、名古屋コーチンや八丁味噌以外に知られた食材もなく、名物食に乏しい名古屋がB級グルメブームに乗っかってご当地グルメとして売り出したのが名古屋めしの起源ではないだろうか。



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https://www.slideshare.net/secret/8Y0QBWr59zTb5A


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ブランドおよびブランディングに関する37ページのスライドです。D.アーカー氏、田中洋氏などの著作を参考にしています。




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前回10年間使ったパナソニックの食洗機のことを書いていて、前の食洗機はパナソニックだったかナショナルだったかおぼろげだった。調べたら2008年に松下電器からパナソニックへ社名変更している。同時に白物家電に使われていた「ナショナル」ブランドも「パナソニック」に切り替えられた。わが家にある洗濯機、空気清浄機とテレビの一台はパナソニックだが、2台のエアコンはナショナル、アラウーノもナショナルブランドだ。海外市場や白物以外の家電はそれ以前からパナソニックブランドで売られているから、我が家で十数年使っているVHSデッキ、SDマルチカメラのブランド名はパナソニックだった。

英語でNationalは国家主義者のような印象を与えるので、海外市場ではPanasonicを使ってきた松下電器の社名変更は創業90年目の大変革だった。それまで国内市場では革新的な洗練された非白物製品には「パナソニック」を、伝統的または家庭的な白物製品には「ナショナル」と二つのブランドを使い分けてきた松下電器がグローバル企業を目指すという宣言でもあった。(当時その2ブランド以外にTechnicsというオーディオ事業ブランドもあった ー 2014年に復活)

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Nationalが誤解を与える可能性があるのでPanasonicに社名およびブランド名変更をしたようなものだが、同じようなことはアメリカでもいくつかみられる。日本ではKentucky Fried Chickenが社名だがアメリカではFriedが油や高カロリー、肥満を想像させマイナスイメージを与えるので短縮されて常にKFCと表現されている。同様にFederal  ExpressはFederalが連邦主義や連邦主義者を連想させるので短縮したFedEx Corporationが正式名となっている。

こうしたネガティブに受け取られかねない社名を変更する例は日本でもある。ニチアスはかつては日本アスベストという社名だったが、アスベストによる健康被害問題や訴訟が起こり1981年に社名を変更した。ネガティブというわけではないが帝人は1962年に帝国人造絹絲(株)から、東レとクラレは1970年に東洋レーヨン(株)と倉敷レーヨン(株)からそれぞれ社名変更している。強度や環境問題もあり化学繊維に押されてレーヨン(人絹)は生産されなくなり人絹やスフ、レーヨンという言葉も忘れ去られつつある。今風でないというならキヤノンもその一例かもしれない。以前は精機光学研究所という社名で、日本初の精密小型カメラの試作機に千手観音からヒントを得てKWANONと名付け、これが後にCanonというカメラのブランド名になり、その後1969年には社名になってしまった。
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(クリックすると図が拡大されます)

この図は数年ごとにOXFAM(オックスファム)というNGOが発表している「These 10 companies control everything you buy」の2017年版です。世界で日々買われている飲料や食品ブランドは、ネスレ、ペプシコ、コカ・コーラ、ユニリーバ、ダノン、ケロッグ、ゼネラル・ミルズ、マーズ、アソシエイテッド・ブリティッシュ・フーズ(ABF)、モンデリーズの10社に支配されているというものです。

スーパーやコンビニでよく目にする会社ばかりですが、ゼネラル・ミルズはハーゲンダッツを、ABFはトワイニングを、モンデリーズはナビスコを所有している会社と言った方が分かりやすいかもしれません。3年前のものと比べるとP&GとJ&Jの2社が消えてABFとモンデリーズが新たに加わっています。M&Aもあるし会社間でのブランドの売買も活発なのでファッション業界同様より大きな会社が生まれているようです。食品・飲料業界で寡占化が進むということは味の画一化にもつながるので味気ない気もしますが、これが現代の潮流なのかもしれません。

これらの10社がどういう基準で選ばれたのかは明確にはされていません。私もこの中の2つの会社に在籍した経験があり、代理店時代には他の2社の仕事をしたことがあります。各社とも優れた製品、特長ある歴史、社風・システムを持っていると思います。残念ながら(もしくは幸いなことに)日本の飲料・食品大手の名前はこのチャートにありません。もともと食品や飲料は嗜好の違いや保存の問題でローカルな産業でした。それが食文化のグローバル化や加工/保存技術の進歩で国籍をまたいだ産業に発展し、強力な国際ブランドを持つ上記の10会社のように世界市場で覇権を争うようになりました。日本にもアジア市場でビジネス基盤を拡大しつつある食品メーカー、飲料メーカーが何社もあります。いつかこのチャートで日本の会社名を見たいものだと思います。




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