マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
にほんブログ村

カテゴリ: テレビ番組

最近のゴールデンタイムはバラエティ番組だらけだが、昭和時代にはホームドラマが数多く放映されていた。テレビ放送開始後は「うちのママは世界一」や「パパは何でも知っている」などのアメリカの中産階級家庭を舞台にしたホームドラマが多かったが、その後は国産ホームドラマが盛隆となった。

その先駆けとなったのが「パパは何でも知っている」をモデルとした「ママちょっと来て」で1959年から4年間放映された。母親役は乙羽信子で、宝塚のお嬢様女優からしっかり者の母親へ見事に転身し、その後も「肝っ玉母さん(第3シリーズ)」など多くの母親役を演じた。当時は俳優というのは一種特殊な職業で今のように簡単にはなれなかったのと、五社協定があり他の映画会社だけでなくテレビ出演にも制約があったため、映画会社に所属しない宝塚出身者の出番は多かった。乙羽信子以外にも轟夕起子、淡島千景、八千草薫、月丘夢路、有馬稲子、新珠三千代などが宝塚出身でテレビで活躍していた。(左が乙羽信子、右が八千草薫)
8afc998e6a920665ec17b518bc3551b0ae24b3aa49e693ef6fd30dd94375bea6
当時は多くのホームドラマが制作され、加藤治子、山岡久乃、京塚昌子、森光子は「日本のお母さん」女優と呼ばれていた。加藤治子は「七人の孫」や「寺内貫太郎一家」などでおっとりしているがテキパキと一家を仕切る品の良い母親を演じていた。山岡久乃はしっかり母さん的存在で「みんなで7人」「三男三女婿一匹」が代表作。京塚昌子は「ありがとう」「肝っ玉かあさん」で恰幅が良く割烹着が似合う母親役が記憶に残る。森光子は「時間ですよ」シリーズなどのチャキチャキ母さんが印象深い。(下は加藤治子と山岡久乃)
ec662d2b6d905ecfae3ec83e4693ad8620718690b3f5aead3f364bd283e09d7a
あの頃は他にも沢村貞子、奈良岡朋子、荒木道子、池内淳子、杉村春子、三宅邦子、賀原夏子などの女優が母親役をよく演じていた。今思うと母親役には加藤治子、三宅邦子、荒木道子、轟夕起子などが演じるおっとり母さんと、森光子、沢村貞子、乙羽信子、奈良岡邦子などのキビキビ母さんの2種類がいた。

また母親の忙しさを強調するためだろうかやたら大家族が多かった。「七人の孫」「マンモス家族」「ただいま11人」「大家族」「三男三女婿一匹」などのタイトルを見るだけで大家族での母親の大変さが想像できる。確かに当時は大家族がまだ多かった時代だ。2025年現在ひと家族の構成人員は2.2人だが、1953年は5.0人だった。子供が5人いる世帯も珍しくはなく「七人の孫」のようにお手伝いさんがいる家庭も結構あった。

今では結婚しない単身者世帯も多く、老人の一人暮らしも激増している。昭和初期のような大家族とあの人間関係は若い人には受けないのだろう。ホームドラマはめっきり少なくなってしまった。それにここに名前を挙げた女優も有馬稲子一人を除いて全員他界してしまった。昭和は遠くなりにけり。

今日フジテレビが「検証 フジテレビ問題 反省と再生・改革」と銘打った2時間番組を放送していた。局アナ二人が司会をして社長がゲスト2名の質問を受けて答えると言う珍しい構成だったので思わず見てしまった。
スクリーンショット (23)
内容としてはこれまで報道されたものと大きく変わるものではないが、フジテレビの組織としての脆弱さ、女子アナをキャバ嬢のような接待要員にしてしまうモラルの劣化、人的資源の貧弱さ、権力を持つ者の独裁者化とそれを正せない体質などまるで旧体質の大個人商店のようだ。以前ニュースで前社長を見てこの社長で大丈夫かと思ったが、ヒットした番組を制作した人が経営能力資質に関係なく管理職から役員に抜擢されているという印象だった。

新卒で広告代理店に入社し、それ以降は広告主として35年にわたってフジテレビと付き合いがあった。70年代はテレビ局は2強2弱1番外地と言われ、TBSとNTVが2強、テレ朝(当時はNET)とフジが2弱、テレ東(当時は東京12チャンネル)が番外地だった。フジには「サザエさん」以外に視聴率を取れる番組がなく河田町の本社も活気に乏しかった。営業部員も他局と比べて切れ味に掛け、低姿勢で販促や接待に力を入れているように見えた。

70年代半ばに「欽ドン」第一弾が始まり、80年代に入るとそれまでの「母と子のフジテレビ」から「楽しくなければテレビじゃない」にキャッチフレーズを変え「ひょうきん族」「笑っていいとも」など高視聴率番組が生まれた。若者にターゲットを絞ったのが成功し、ティーン向けの菓子製品を扱う仕事をしていたのでテレビ向け予算の半分近くをフジテレビに割いていた。「オールナイトフジ」も「夕やけニャンニャン」も開始時からのスポンサーだった。営業成績が上がってくると放っておいても広告枠は埋まるのでこの辺りから驕りが始まったのだと思う。同時に広告主に対する面倒見も悪くなった。ある時フジテレビの会議で関東の広告出稿の上位10社に私がいた会社の名前を見つけた社長が「それは何の会社だ」と言ったと営業部員から聞いた。トライデント、ホールズ、クロレッツ、メントスなどの菓子類とカミソリのシック製品、洗口液のリステリンなどが広告を打っていたが社名を前面に出さないので知らなかったのだろうが、クライアントに目を配っていれば知っていて当然だし、事前に説明しなかった営業部も手抜きだと思った。

80年代後半に視聴率で三冠王となり一度は日テレにその地位奪われたが、96年には「スマスマ」が始まり翌97年にはお台場に移転するなどの話題もあり2004年には三冠王を奪還した。しかしその後は過去の成功体験に囚われ改革が遅れ、視聴率的にはまた二弱に戻ってしまい今ではテレ東に追いつかれそうな状態だ。今日の番組では反省だけでなく改革案を提示していたが、企業のカルチャーや風土を変えるのは組織を変えるのと比べて困難なことが多いし時間も必要だ。今日の番組では社長が反省の言葉を並べたが、もっと社員レベルの意見や改革案を示すべきだった。またテレビ局は公器でもあるのでこうした反省と改革の進展を定期的に視聴者に提示する必要もあると思う。今のテレビ局は同業他社との競争だけでなく動きの速いネットとの争いでもある。今までのような改革ペースでは広告主の信頼を再獲得し、じり貧から抜け出すことは容易ではない。

記憶に残っているテレビ番組(9)

子供のころから音楽は洋楽が好きだった。当時はラジオでしか聞くことができなかったが、1959年にフジテレビで「ザ・ヒットパレード」が始まった。アメリカで流行している曲を日本語に訳して日本人が歌うという番組だった。司会ははミッキー・カーチスでバックはスマイリー小原とスカイライナーズ。ザ・ピーナッツやナベプロ三人娘などが出演する渡辺プロダクション主導のテレビ初のヒットパレード番組だった。ナベプロが力を見せつけテレビ界を牛耳り始めた番組でもあった。
2024-09-03 (1)
その渡辺プロダクションの前に業界をリードしていたのはマナセプロダクションだ。日本最古のプロダクションで曲直瀬正雄と花子の夫婦が1948年に仙台で起業した。のちにアメリカで活躍するジャズ歌手のナンシー梅木を育て、水原弘や山下敬二郎などを擁していた。その後坂本九、森山加代子、ジェリー藤尾、渡辺トモ子、ダニー飯田とパラダイスキング、九重佑三子らの人気ポップス歌手を抱える最大のプロダクションになった。

ザ・ヒットパレードの後にも「森永スパークショー」など多くの番組を制作していた渡辺プロダクションほどの派手さはなかったが、「明治屋マイマイショー」や「ピアスナインショー」などでマナセプロ所属の歌手たちの活躍の場は多かった。ナベプロとは異なりテレビだけでなく地方でのコンサートも数多く開き、高校生の時に名古屋公会堂で坂本九、森山加代子、パラキン、九重佑三子などのステージを直に見ることができた。
2024-09-03
当時は単独提供番組が多く、番組名の前にスポンサー名が付いた。マイマイショーもオープニングから「明治屋 明治屋 食べ物なら何でも 明治屋 明治屋 飲み物なら何でも」のジングルで始まり、「いつでも一番いいものは 明治屋」で終わった。スタジオにはカウンターがあり番組名の元になっていたマイジュース、マイジャム、マイレモンなどが並んでいたと思う。司会は坂本九で歌有りコント有りの30分番組で2年弱続いた。

こう書くと渡辺プロダクションとマナセプロダクションは競合のようだが、曲直瀬正雄・花子夫妻の長女である美佐がジャズマンの渡辺晋と結婚し設立したのが渡辺プロダクションなのである。松下幸之助の義弟である井植歳男が三洋電機を興したのに何となく似ている。ナベプロの現在の会長と社長は渡辺美佐の長女と次女が務め、マナセプロの社長は美佐の妹である曲直瀬道枝であり、道枝の長男が同業のYU-Mエンターテインメントの代表を務めている。まるでファミリービジネスのようだ。

ナベプロには多くの批判もあったが、両プロダクションが戦後日本の芸能人の地位向上と待遇改善に貢献したことは間違いない。最近は新興勢力に押されて昔日の面影はないがナベプロはまだ多くのタレント、歌手、芸人を抱えて影響力を保持している。一方マナセプロは移籍や独立したタレントが多く、タレントリストで顔と名前が想起できたのは西田ひかるただ一人だった。

だんだん老人以外はテレビを見なくなっている。博報堂発表の2024年の年代別メディア接触時間は下記のグラフのようになっている。紺色がテレビの一日当たりの視聴時間で、10代と60代では2.5倍の違いがある。かつ時系列でみると10代は2006年に2時間46分あった視聴時間が2024年には半分以下の1時間14分に激減だ。一方60代は3時間15分が18年間で3分縮んだけで3時間12分となっている。
3239389d3c8fa5f282ec35c8f49b3d1c
もうテレビは爺と婆のメディアと呼んでもいいだろう。ここ数年視聴率や広告収入が落ち目のテレビ業界は、それまでの世帯視聴率ではなく13歳から49歳までのコア視聴率を上げるべく番組作りをしてきた。それなのにコア層からも見放されテレビの前にいるのは老人ばかり。いつからこんなことになってしまったのか。

私はテレビはニュースとゴルフ番組しか見なくなったがたまには他の番組も見る。見ていていら立つのがCMの入り方だ。ここが要という直前にCMが入る。CMを見させる手法なのだろうが、私は大抵ここでチャンネルを変えるかスイッチを切る。どうせCM明けにはさっきまでの復習場面が入るのだろう。この方法が嫌われていることを制作側は気が付かないのだろうか。

自分が歳をとったせいかもしれないが最近のタレントの顔と名前が分らない。わかるのは彼らがつまらないことくらいか。昔はチャンネルを見なくともどこの局か分かった。局の特徴は消え同じような顔ばかりになった。予算の制限が強化されギャラの高い大物の出番は減り、ギャラの安い小物ばかりを大勢出すので特徴が出ないのだ。売れないタレントは数少ない機会を利用してなんとか目立とうとする。その典型的な例がワイプというものだ。バラエティ番組で多用される画面の隅の小窓に出演者の顔が映るあれである。
thumbnail_IMG20240724193420
これは日本のテレビだけの手法で他の国では見たことがない。1990年頃から使われ始め今では多用されている。多分制作側が「ここは泣くところだぞ」とか「はい、ここで笑って」とカンペ代わりに使ったりする感情の押し売り道具だ。当然小窓の芸人はここを先途と大きくうなずいたり、笑ったり、泣いたりとオーバーなリアクションをとる。視聴者からすると見たい画面に集中できないし、何もしていない芸人のアップの表情など見たくもない。最近は韓国のテレビがこれを真似しているらしいが、こんなものを輸出してもしょうがないんだけどね。

他にも安直なグルメ番組、金をかけない近場の旅番組、内容のないコメントしかできないコメンテイター、早く辞めてほしいMC、字幕の多さなど不満はいっぱいある。地上波だけでなくBS放送も昔の時代劇、ドラマの再放送、韓国ドラマ、通販番組ばかりだ。でも直らないだろうな。しょうがない、テレビを見ないことしか選択肢はない。老人にとってもテレビが「最も安価な暇つぶし」だった時代は終わったような気がする。







.




2023年度の在京キー局の決算は全局増収だった。日テレが1.9%、フジとテレ東が2.0%、テレ朝が2.1%、TBSが2.8%成長だった。ただ経常利益はTBSとテレ東がプラスだったものの残りの3局はマイナスそれも二けたマイナスだった。テレビ広告費はネット広告に抜かれてもう何年にもなる。売りはつくったものの高コスト体質は変わらず、かつコロナ禍で動画配信利用者が急増しテレビの視聴率が下がり続け広告収入が減っているのが大きな理由だ。
2024-07-11 (1)
テレビの広告枠は肉屋で「牛肉300グラム!」とグラム単価で買うのと同じように視聴率300%でいくらと視聴率ベースの単価で売られる。視聴率が下がれば単価も下がり当然その分売り上げ金額は下がる。売る枠を増やそうにも総放送時間の18%と上限が決められている。昨年のキー局合計の広告収入は7623億円で前年比-4.7%、フジテレビなどは-8.1%だった。ゴールデンタイムのPUT(Persons Using Television 総個人視聴率)も31.1%と未曽有の低さだ。たしかに見たくなるような番組は少ない。

今のところは広告収入の減少分をTVerなどの配給収入で補っているようだが、これだっていつまで続くのか保証はない。中身のある、見ごたえのある番組を作らないと地上波の将来はないと思うのだが。局別の世帯視聴率の推移を見ると下のグラフのようになる。この3年の下降は注目に値する。全局下がっているがフジの下落がひどい。2011年の8%が2023年には半減の4%だ。過去の成功に囚われて視聴者の変化についていけていないようだ。
2024-07-11
半世紀近く前に広告代理店でテレビの仕事をしている時に在京5局は2強2弱1番外地と言われた。TBSと日テレが2強、フジとテレ朝(当時はNET)が2弱、テレ東(当時は東京12チャンネル)が番外地だ。2強には水戸黄門、8時だョ!全員集合、太陽にほえろなどのお化け番組があったが、他の3局にはなかった。フジとテレ朝がトレンディドラマや欽ちゃんで視聴率を稼ぐのはその数年後からだ。日テレはバラエティ番組で数字を稼いでいるが、TBSとフジはかつての勢いを失い、今ではかつての2弱テレ朝が世帯視聴率の三冠王となってしまった。テレ朝が上昇したのではなく他局より下降の度合いが少なかったからではあるが。フジは万年最下位のテレ東に追いつかれそうになっている。時代は変わるのだ、視聴者が変わるのだから。

最近はニュースとゴルフ番組以外はテレビを見ることがない。しょもないバラエティ、クイズ番組、旅番組、食べ歩き番組には食傷気味だ。同じような顔ぶればかりだし、半分以上は知らないタレントだ。それも才能がありそうには見えない、場数を踏んで慣れだけで一丁前の顔をしている連中だ。

コロナ以降ネットに喰われっぱなしのテレビ業界は製作費の大幅な削減を強いられ、ギャラの安いタレントの出番が増えた。地上波もひどいがBS放送はさらに酷い。出演者のほとんどが物故者のドラマ(特に時代劇)、何度目かの再放送映画、韓国ドラマ、懐メロ番組、そして一番多いのが通販・物販番組だ。

地上波も最近では名の知れた芸人をMCに使って食品や日用品を通販番組で売っているが、BSの通販番組は家電、健康器具、衣料品、日用品、化粧品、サプリメントと多岐にわたり、サプリなどは薬機法(旧薬事法)を無視したような表現が満載だ。番組スタイルはMCと2~3人のガヤ芸人、メーカーの担当者とほぼ昔と同じだ。調理家電や包丁などはカタカナ名をつけた物売りタレントがMCを務めたりする。以前は通販番組といえば落ち目の芸人や歌手が出てきたが最近やたら目立つのは中野珠子というタレントだ。
thumbnail_IMG20240513110617
以前はリポーターをやっていたと記憶しているが、今では節操なくいろんなものを売る物売り芸人みたいだ。化粧品、サプリ、ヘアカラー、補正下着、梅干し、青汁、ごま油にごま煎餅、スマートウォッチ、紳士ベルト、ストレッチマット、電動工具、尿漏れ用パンツなどなど、BSやCSテレビをつけると必ずといっていいくらい彼女に当たる。二年くらい前はたまにだったが最近はすごい出演数だ。通販MCのポジションを確保したのだろうが、最近は多忙のせいか表情に疲れが見える。感じが悪い人ではないのだがこれだけ出ていると「またかよ~、もういいよ」と思う。以前は気にならなかった体を上下に揺らしながらの話す姿も気になり始めた。

昔広告代理店でメディアプランナーをしている時、広告出稿時の接触回数分析というのがあった。視聴者に何回CMを見せるのが効果的、かつ効率的かというものだ。Three-hit theoryという説があり、広告は3回目から有効だというものだった。たくさんの回数を見せればよいというものでもなく、何十回も同じ広告を見れば飽きられるし、認知率も上がらないので効率的ではなくなる(効果は逓減するが広告費は1回目も30回目の同じだけかかるから効率は悪化する)。だから当時は3回から10回を適正接触頻度とし、この回数の接触者(Effective Reach)を最大化するメディア計画を作っていた。

同様に通販番組もMCも広告物である。何度も同じものを見せられれば視聴者の関心は薄れ、商品もMCも飽きられる運命にある。通販番組で扱う商品は競合品と比べて大きな差を持つものはほぼ無いし、MCも余程の才能がある人を除いてやがて飽きられ淘汰される。数年前まで通販番組に出ていたが最近お目にかからないタレントは大勢いる。大昔にも物売りタレントはいたが、泉大助はナショナル(現パナソニック)専属だったし、押坂忍は東芝と守備範囲を絞っていた。今のように仕事であればなんでも売るというスタンスではなかった。クライアントもキャスティングにもっと留意すべきだし、所属事務所も稼げるときに稼ごうだけと考えるだけでなく、サラリーマンの生涯キャッシュフロー的な発想があってもしかるべきではなかろうか。

今週からNHKで「老害の人」というドラマが始まる。義理の息子に社長の座を譲って引退した老人が突然会社に現れて社員に自慢話や昔話をするというのが第一話らしい。老人は見たくもないだろうし、誰が想定視聴者かよくわからないドラマだが、内館牧子の老後小説のドラマ化第三弾とのこと。働いている時は老害など気にもならなかったが、引退して地域のコミュニティや集会に顔を出すと気になる老害老人を何人か見かける。
2024-04-30
一般的に老害とは、社会や企業の中で年齢や経験を盾に実権を握り続けたり、周囲の意見を聞き入れずに周りに迷惑をかける高齢者と言われる。企業では定年があるし、多くの会社では役職定年制も採用されているので、一部の同族会社以外では権力を持ち続けられる老人はほぼいない。問題はそうした老人が引退して地域やコミュニティ、ボランティア活動の団体に参画した時に見られる。マンションの総会や自治会の会合でやたら発言する老人は大抵このタイプだ。

本人は自分の経験や知見が役に立つと思っているし、確かに有益な意見もないではない。ただ彼らが現役で活躍した時から20年くらい経っているので、社会や住民意識はかなり変化していると思われるが、その点を考える人は少ない。発言のしかたにも問題があることもある。自分だけが分っている、という感じで話すからだ。特に大会社で役員や上級職の経験がある人に多いような気がする。

私が観察した老害の特徴は下記のようなものだ。自分でもこの傾向に陥ることもありそうなのでたいしたことは言えないが、自戒の念を込めて。
①自分の経験や体験、特に成功体験を語りたがるし、重きを置く。
②逆に失敗体験したことやものを極力回避しようとする。羹に懲りて膾を吹く、ですね。
③物事を多面的に見られなくなる。複眼思考が苦手というか、できない。
④反論されると感情的になる。声を荒げることもある。間違いを認めようとしない。
⑤若い人に対して上から目線で話す。
⑥話が長い、くどい。

つまり経験は豊富だが、思考に柔軟性がなくなり始め、自分は正しいと信じるプライドの高い人が老害になりやすいのかも。そういう人に近づかない、話をスルーするという手もあるが、そうばかりもいかない。対応策として考えられるのは、

①ちょっと我慢をして、まず話を聞く。長いことが多いので大変かも。
②経験に裏打ちされた良い点もあるのでそこは受け入れる。
③反論するときは否定語から入るのではなく、発言者の意見をまず肯定しておいて、次にこれを加えたら、この部分を変えたらもっと良い案になるとかの代替案を提示する。
④一般論が多い場合は、具体的な提案に落とし込んだ実行案はどんなものになるかを問う。
⑤視点を変換させる提案をする。「相手から見たらこの案はどう映るでしょうか」「現状を改革するには良いアイデアだとは思いますが、30年後のことを考えるとどのように変えたらいいでしょうか」
⑥「さすがですね、その考えは思いつかなかったです」と褒め殺す。

ドラマでは老害に対してどう対応するか見ものではある。

三人娘と聞いてまず思い出すのは子供の頃に人気のあった美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人の歌手だ。三人とも歌唱力があり人気者だった。元祖三人娘と呼ばれている。その中で一番バタ臭い(死語だ)雪村いづみが好きで「スワニー」や「オーマイパパ」が記憶に残っている。口を大きく開けて声高らかに歌う歌手だった。江利チエミもそうだが、英語の発音も素晴らしいが彼女らが歌う日本語は発音が明晰で言葉として美しかった。三人は1937年生まれの同い年で現在は雪村いづみだけが存命で今でも歌手活動を続けている。何本かの映画に三人一緒に出演し、近所の映画館新郊劇場まで見にいったことがある。子供の入館料はたしか30円だった。
e0ad3aba2dc109b3fbe1f410c1e03130
ひばり、チエミ、いづみの三人娘の最初の映画「ジャンケン娘」(1955年)の前年に始まったNHKラジオの「ヤン坊ニン坊トン坊」で兄弟を演じた里見京子、横山道代、黒柳徹子を初代三人娘と呼ぶ説もあるようだが、当時熱心に電蓄にかじりついて毎回番組を聞いていた自分には彼女らが三人娘と呼ばれていた記憶はない。これは役どころが子供役かつ男の三兄弟役で娘とは呼びにくく、多分後年誰かがこじつけたものと思われる。

私の世代の三人娘と言えば中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりのナベプロ三人娘だ。ほぼ同世代だしデビュー時代をはっきり覚えている。当時のポップスはアメリカのヒット曲を日本語に訳したものがほとんどだった。中尾ミエはデビュー作であるコニー・フランシスの「可愛いベイビー」が大ヒットし、朝日新聞夕刊で「恐るべき16歳」の見出しで紹介された記事が目に残っている。伊東ゆかりはちょっとすっぱいような表情でジョニー・ホッジスの「恋の売り込み」やリトル・エヴァの「ロコモーション」を歌っていた。
2024-02-06
この三人娘は最初は1962年開始の「森永スパークショー」のなかでスパーク3人娘として登場したが、その時は中尾ミエ、伊東ゆかりと沢リリ子の3人だった。沢リリ子も人気が出かけた歌手で、多分テレビドラマの主題歌だったと思うが、「You You You, Funky Styleの She is wonderful 素敵なお嬢さん」とパンチのある声と歌は今でも憶えていて唄える。ただ事務所が渡辺プロではなかったので同じナベプロの園まりに入れ替わってしまった。

この頃の三人娘は中尾ミエの「可愛いベイビー」以外にヒットはない。伊東ゆかりが「小指の思い出」で大ヒットを出すのは5年後だし、園まりの「逢いたくて逢いたくて」は4年後だ。中尾ミエは「可愛いベイビー」のたった1曲のヒットでその後60年芸能界で生き延びている稀有な例だ。

その前後にも男性ではロカビリー三人男、御三家、新御三家、たのきんトリオ、女性では日活三人娘、花の中三トリオ、新三人娘など三人ひとくくりにして語られる役者や歌手が誕生した。よほど日本人は三人が好きなようだ。これは売り込みをかける事務所やタレントにとっても話題作りや、一人では期待できないが三人が醸成する相乗効果を産み出すという利点もあるのだろう。それにしても当時のナベプロ三人娘の若いこと!園まりが亡くなってしまったのは残念です。


70歳代ランキング
ランキング参加中です。クリックしていただけると励みになります。

子供のころの年末年始のテレビ番組視聴はこんなだった。大晦日に「レコード大賞」を見て、次に「紅白歌合戦」、その流れで「ゆく年くる年」の冒頭を見てから眠る。元旦になると各局のお笑い番組(漫才が中心だった)を流し見して、「新春かくし芸大会」で締める。多分多くの家庭も同様だったと思う。「レコ大」「紅白」「かくし芸」の三番組は年末年始の風物詩とも言われた。

視聴率的にも今では考えられない数字で、「紅白」が81.4%、「レコ大」が50.8%、「かくし芸」が48.6%という最高視聴率を記録している。残念なことに「かくし芸」は2010年を最後に終了してしまったし、「レコ大」は大賞の選考過程に疑問が出るなどしてかつての力はなく、昨年末は9.6%と初めて二けたを切ってしまった。80%を誇った「紅白」も今ではやっと30%台を維持しているレベルだ。
e0ad443f85ea333f5b02d0d205ec3986 (1)
これらのお化け番組が中止や低迷の憂き目に遭っているのはネットに食われてしまったメディアとしてのテレビの地盤沈下もあるが、視聴者の嗜好が多様化したのに対しテレビ局サイドが十分に対応しきれていないこと、過去の成功例にとらわれてそこから抜け出せないこと、逆に新しいことをやろうとしてうまくいかなかったなどが考えられる。

「かくし芸」は堺正章らの芸で持っていたころは良かったが段々演出過剰になり飽きられるようになったし、「紅白」も高橋圭三や宮田輝が司会をしていたころのワンパターンから脱却しようと司会者をとっかえひっかえし、番組を二部制に変えた1989年ごろから迷走を始めた。心地よいワンパターンから人気取り路線に変えたが作り物っぽさが出てきたように思う。視聴者が作り物を見破る目を持っていることを知らないのだろうか。

裏番組は当然それを狙って攻める。「紅白」の裏番組だったダウンタウンの「笑ってはいけない」シリーズや、年始の「格付けチェック」などは台本はあるのだろうが先が読めない意外性で既存番組からシェアを奪った。

またテレビには無料の暇つぶしメディアという一面があるので、見ていて安心のワンパターンにはそれなりの存在価値があるのだ。この年末のケースで例を挙げれば、視聴率競争を半ばあきらめていると思われるテレビ東京は新番組を作らず、いつもの番組で勝負に出た。大晦日は朝から「孤独のグルメ」のリピートを流し続け、夜には「充電させてもらえませんか」を放送した。下記の1分刻みの視聴率グラフを見れば明らかで、「孤独のグルメ」は昼前後の視聴率でNHKも含めた視聴率競争でトップをとり続け、出川の「充電」は地震のため40分遅れで開始され、他局が臨時ニュースを放映していたとは言え、あっという間に他局の倍の数字をたたき出した。ワンパターン恐るべし。(濃いブ濃いブルーの線がテレ東です)
GCpjXb1bYAAG_2z
415970346_10232035775578554_1602821599646852449_n




マーケティング・経営ランキング
マーケティング・経営ランキング

記憶に残っているテレビ番組 (7)

今は時間や天気予報をスマホで確認する人が多いが、ふた昔前までは時報と天気予報はテレビの必須番組だった。NHKは毎時の時報と天気予報を放映し、どの民放も精工舎の時報と天気予報番組をオンエアしていた。その中で最も記憶に残る天気予報番組と言えば、ヤンマーディーゼル提供の「ヤン坊マー坊天気予報」だろう。なにせ単独提供で55年も続いたのだ。
2023-04-03
オープニングの唄は今でも歌うことができる。

僕の名前はヤン坊 僕の名前はマー坊 二人合わせてヤンマーだ 君と僕とでヤンマーだ
農家の動力 みなヤンマー 漁船のエンジン みなヤンマー
ディーゼル発電 ディーゼルポンプ 動力工事もみなヤンマー
小さなものから 大きなものまで 動かす力だ ヤンマーディーゼル

1959年の気象の日(6月1日)スタートから季節に合わせてアニメーションを多少変えたり、メロディや歌詞に手を加えたりしたものの、2014年3月31日まで半世紀以上も続いた最長寿番組でもあった。しかし予報技術の進化により詳細な情報が求められるようになり、アニメ中心の天気予報番組では対応できなくなったことで放映局数が減り番組終了を迎えることとなった。個人的には「みなヤンマー」の表現が誇大誇張表現とみられたのかもしれない(途中からみなヤンマーを省いたものに変えられてはいたが)と思う。「みなヤンマー」を毎日流されたのでは同じスポンサーである井関農機やヤマハ発動機などは面白くないもの。
2023-04-05
ヤン坊が兄でマー坊が弟という設定で、当時としてはめずらしかったアニメを使ったので(鉄腕アトムのテレビ放映開始はその4年後)一気に人気がでた。番組名に社名を想起させる細工を施し、親しみやすいジングルを使用することで、農機、建機、発動機という普通の人にはなじみのない製品を作る会社の知名を上げた功績は大きかった。後の単独提供の短編番組づくりのベースともなった番組でもあった。



ランキング参加中です。クリックしていただけると励みになります。

↑このページのトップヘ