マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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カテゴリ: 懐かしのテレビ番組

うすむらさきの藤棚の 下で歌った アベマリア
澄んだひとみが 美しく なぜか 心に残ってる
君はやさしい 君はやさしい 女学生

詰襟の学生服を着た歌手が歌っていた。高音で優しい歌い方だった。髪型も顔も自分にそっくりでちょっとびっくりした。安達明と言う歌手だった。
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安達明。1948年生まれだから私のひとつ下だ。1962年にTBSの「10人抜きのど自慢」で初代チャンピオンになりジャニー喜多川にスカウトされる。1964年にジュニア小説「潮風を待つ少女」のイメージソングである同名曲でデビュー。2曲目がこの「女学生」だった。所属する日本コロンビアは舟木一夫の弟分として位置付けて売り込みをかけた。舟木が「高校三年生」を学生服で歌ったように、安達もこの曲の時は学生服だった。「女学生」は大ヒットし当時の歌番組の常連歌手となった。性格もやさしそうで女学生の間でアイドル的な人気があった。

しかしヒットと呼べるのはこの一曲だけで、1967年までに13枚のシングルを発表したが、68年に突然引退を発表した。いわゆる一発屋に近いのかもしれない。ただほとんどの一発屋が次の一発が出ることに淡い期待をかけてしぶとく粘るのと違いあっさりしたきれいな引き際だった。私の世代にとっては記憶に残る一曲でブログに思い出を書く人もいれば、ラジオでリクエストをする人もいまだにいる。たいていのカラオケには「女学生」が入っている。

引退後は銀座のスナックなどで弾き語りを生業としていたというから歌うことが好きだったのだろうと思う。2011年に63歳で他界したことを埼玉でレストランを経営されているご子息がSNSで報告されると、多くのメッセージが寄せられいまだに人気があることが判明した。レストランにはファンが訪れ、イベントも開かれ、墓石には「女学生」の歌詞が刻まれた。熱心なファンによる安達明を偲ぶ懇親会が2度も開かれた。ネットでのファンとのやり取りを知った日本コロンビアは急遽追悼盤CD「安達明ゴールデン☆ベスト」の発売を決めた。
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その後もファンの間では3回忌、7回忌も執り行われ、毎年ファンの集いも開かれている。ヒットは一曲だったが数十年経っても、歌い手が亡くなって、もかつての聴き手の心に、記憶に長く残るのだから音楽の力はすごい。彼の場合は人柄の良さもそれらを補強しているんだろうなあ。そうだ、実家の庭には藤棚があったことを思い出した。合掌。

子供のころ聞いていたのはアメリカやイギリスのヒット曲を日本語でカバーするポップスばかりだった。テレビの歌番組でもニールセダカやポールアンカの曲を多くの日本人歌手が歌っていた。そんな頃(1962年)アメリカンポップスとは少し肌合いが異なる曲が流れてきた。全英で4週間ナンバーワンを記録したジョン・レイトンの「Johnny Remember Me」の日本語版だった。邦題は「霧の中のジョニー」。女性コーラスの"Johnny Remember Me"のフレーズが耳に残っている。歌っていたのは克美しげるだ。張りのある中低音で声量もあるうまい歌手だと思った。これは彼のデビュー曲で40万枚売れた。
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その時は歌手としてはそれほど印象には残らなかったが、半年後の3枚目のシングル「片目のジャック」が個人的には刺さった。カントリーっぽいメロディだった。当時の克美はスポーツ刈りでいかにも田舎から出てきましたという風情だった。その風貌には「霧の中のジョニー」より「片目のジャック」の方が曲調も歌詞も合っていたのだと思う。その後は「忘られぬジョニー」とか「霧の中のロンリー・シティー」と柳の下の二匹目を狙うようなタイトル曲を出していたが、1964年にテレビアニメの主題歌「エイトマン」と歌謡曲路線に転じた「さすらい」が大ヒットし2年連続で紅白歌合戦にも出場した。この2曲は彼の代表曲となり専属バンドを抱えるようにもなった。
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60年代後半は大ヒットには恵まれなかったが毎年シングルを4~8枚出す順調さだった。しかし70年代に入ると人気に陰りが出始める。レコードの発売ペースも落ち、それをなんとか盛り返そうと音楽関係者を接待するなどしたため巨額の借金ができた。その借金を付き合っていた銀座のホステスに貢がせて完済した。その後もギャンブルでの借金を愛人の金で清算するなどしていたが、克美が妻帯者だと知ったホステスに結婚を求められる。

その頃所属するレコード会社は克美を復活させる企画を立て克美は1976年に再デビューを果たす。レコードの売り上げも悪くなかったが、愛人が顛末をメディアに暴露し再デビューが不成功になることを恐れた克美は彼女を絞殺してしまう。この時は新聞で事件を知って「あの克実しげるが」と驚いたことをいまだに憶えている。

裁判で10年の実刑判決を受けたが模範囚だったので7年後に仮出所が認められた。出所後はカラオケ教室を開くなどして生計を立てていた。離婚と結婚を繰り返し、1996年に4度目の結婚をする。以後は時々はテレビ番組に出てかつてのヒット曲を歌ったり、2008年には30年ぶりにコンサートを行ったが、2013年に脳出血により他界。

激動の人生だった。テレビで見る限りは腰が低く朴訥で誠実そうな性格を持つ一面、自己中心で身勝手という弱さを持った人間だったのだろうと思う。出所後のライブではデビュー曲もきっと歌ったはずだ。最後のパートをどんな気持ちで歌ったのだろうか。「霧の中のジョニー」は確かこの歌詞で終わっていた。

僕は決して忘れはしない 死んだあの娘の 最期の言葉を
Johnny Remember Me

ヒット曲もあり、人気もあったのに事件を起こし消えてしまったり目に触れる機会が激減した歌手が何人もいる。まず思い出すのが荒木一郎だ。
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荒木一郎は新劇俳優として舞台で活躍した後1950年代から80年代まで多くの映画やテレビドラマに出演した荒木道子を母に持つ歌手であり俳優だ。俳優としてスタートしたが作詞作曲もこなし、1966年にDJを務めたラジオ番組「星に唄おう」のテーマ曲「空に星があるように」を作詞作曲し歌手デビューを果たす。

空に星があるように 浜辺に砂があるように 僕の心に たったひとつの 小さな夢がありました

抒情的なつぶやくように唄うバラードだった。豊かな感受性と繊細な感性を感じさせる曲だった。「星に唄おう」は当時住んでいた名古屋の東海ラジオの番組だったのでよくラジオで流れていたし、テレビの歌番組にも出演して唄っていた。その前年からグループサウンズブームが始まり、ザ・スパイダーズやブルーコメッツなどがヒットを飛ばし音楽番組はGS一色だったのでこうしたバラードはかえって目立ち、レコードは60万枚以上売れて同年のレコード大賞の新人賞を獲得した。この年には映画「893愚連隊」で新人男優賞も受賞している。
翌67年にはそれまでの曲調とは全く異なるグループサウンズ調の「いとしのマックス」が5枚目のシングルとしてリリースされた。アコースティックギターを抱えバックバンドのマグマックス・ファイブを率いて軽快に唄った。

真っ赤なドレスを君に 作ってあげたい君に 愛しているんだよ 素敵な君だけを
ヘイヘイ マックス Want you be my LOVE そして君と踊ろう

この曲はデビュー曲を上回る125万枚のミリオンセラーとなり同年の紅白歌合戦にも出演した。映画にも毎年数本出演し、この勢いで当分人気は上がり続けるだろうと誰もが思った。ところが1969年に女優希望の女子高生に対する猥褻行為で訴えられ、不起訴にはなったもののメディアに叩かれて謹慎生活に入り芸能活動は中断された。確か新聞記事ではカメラテストをすると自宅に招いて犯行に及んだと記憶している。その後は映画出演などは継続されていたが、今度は1977年にはクラブ歌手からレッスン中に性的ないたずらを受けたと訴えられた。損害賠償を請求され非を認めて謝罪をしたものの納得しない相手と婚約者が荒木に暴力をふるい、荒木が告訴して二人が暴力容疑で逮捕されるという事態に至った。

この事件の影響のせいか1980年代からは活動を大幅に減らしているがシンガーソングライターや文筆業の仕事は継続されている。沢田研二や原田芳雄などの歌手への歌詞や楽曲の提供や、桃井かおりのマネジャーを務めたこともある。マジック評論家としても活躍し著書も出している。自伝小説の執筆や2016年にはデビュー50周年コンサートの開催もした現在81歳のマルチタレントは表舞台から少し下がったところでその存在感をいまだに保持している。

最近のゴールデンタイムはバラエティ番組だらけだが、昭和時代にはホームドラマが数多く放映されていた。テレビ放送開始後は「うちのママは世界一」や「パパは何でも知っている」などのアメリカの中産階級家庭を舞台にしたホームドラマが多かったが、その後は国産ホームドラマが盛隆となった。

その先駆けとなったのが「パパは何でも知っている」をモデルとした「ママちょっと来て」で1959年から4年間放映された。母親役は乙羽信子で、宝塚のお嬢様女優からしっかり者の母親へ見事に転身し、その後も「肝っ玉母さん(第3シリーズ)」など多くの母親役を演じた。当時は俳優というのは一種特殊な職業で今のように簡単にはなれなかったのと、五社協定があり他の映画会社だけでなくテレビ出演にも制約があったため、映画会社に所属しない宝塚出身者の出番は多かった。乙羽信子以外にも轟夕起子、淡島千景、八千草薫、月丘夢路、有馬稲子、新珠三千代などが宝塚出身でテレビで活躍していた。(左が乙羽信子、右が八千草薫)
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当時は多くのホームドラマが制作され、加藤治子、山岡久乃、京塚昌子、森光子は「日本のお母さん」女優と呼ばれていた。加藤治子は「七人の孫」や「寺内貫太郎一家」などでおっとりしているがテキパキと一家を仕切る品の良い母親を演じていた。山岡久乃はしっかり母さん的存在で「みんなで7人」「三男三女婿一匹」が代表作。京塚昌子は「ありがとう」「肝っ玉かあさん」で恰幅が良く割烹着が似合う母親役が記憶に残る。森光子は「時間ですよ」シリーズなどのチャキチャキ母さんが印象深い。(下は加藤治子と山岡久乃)
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あの頃は他にも沢村貞子、奈良岡朋子、荒木道子、池内淳子、杉村春子、三宅邦子、賀原夏子などの女優が母親役をよく演じていた。今思うと母親役には加藤治子、三宅邦子、荒木道子、轟夕起子などが演じるおっとり母さんと、森光子、沢村貞子、乙羽信子、奈良岡邦子などのキビキビ母さんの2種類がいた。

また母親の忙しさを強調するためだろうかやたら大家族が多かった。「七人の孫」「マンモス家族」「ただいま11人」「大家族」「三男三女婿一匹」などのタイトルを見るだけで大家族での母親の大変さが想像できる。確かに当時は大家族がまだ多かった時代だ。2025年現在ひと家族の構成人員は2.2人だが、1953年は5.0人だった。子供が5人いる世帯も珍しくはなく「七人の孫」のようにお手伝いさんがいる家庭も結構あった。

今では結婚しない単身者世帯も多く、老人の一人暮らしも激増している。昭和初期のような大家族とあの人間関係は若い人には受けないのだろう。ホームドラマはめっきり少なくなってしまった。それにここに名前を挙げた女優も有馬稲子一人を除いて全員他界してしまった。昭和は遠くなりにけり。

子供のころからアメリカのポップスが好きでラジオでニール・セダカやポール・アンカを聞いていた。英語はよくわからなかった。やがてフジテレビが「ザ・ヒットパレード」を放映しはじめ、その後も「明治屋マイマイショー」や「森永スパークショー」と続いた。それらの番組で歌われたほとんどの曲は洋楽のカバー曲でアメリカで流行っているポップスを和訳したものだった。

当時アメリカンポップスを唄っていたのは飯田久彦、ミッキーカーチス、ザ・ピーナッツ、森山加代子などでグループで歌っていたのは伊藤素道とリリオリズムエアーズくらいだった。そんなときにパラキンが現れた。最初のヒット曲はグループを抜けた水原弘の後釜で加入した坂本九が歌った「悲しき六十才」だった。その2か月後には「ビキニスタイルのお嬢さん(石川進)」と「ステキなタイミング(坂本九)」のカップリングでヒットを飛ばし、その後も1ヶ月か2ヶ月間隔で新曲を出すという、今では信じられないペースだった。翌1961年には11枚ものシングルを出した後、「上を向いて歩こう」のヒットを出した坂本九が独立した。62年にはキューピーの愛称でグループ1の人気者だった石川進も独立し、代わりに九重佑三子が加入した。
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翌年フォーシ―ズンズのカバー曲「シェリー」がヒットし、7枚のシングルが発売された。この頃がグループの最盛期だったような気がする。紅白歌合戦にも出場したし、「明治屋マイマイショー」やNHKの「若い季節」「夢で逢いましょう」に毎週のように出演していた。翌64年には九重も独立し、毎年のようにボーカリストが変わり昔のファンが離れていった。メンバーの入れ替わりが激しいグループではあったが、それだけスターを産み出したということだと思う。ボーカルは変わったがスティールギターのダニー飯田、ギターとボーカルの佐野修、同じく上野保夫、ベースの石田智、ボーカルとウクレレの増田多夢は当時の不動のメンバーだった。私がコンサートに行った時のドラムスは後にジャズドラマーとして活躍するジョージ大塚だった。

60年代後半からはヒットにも恵まれず、東芝からクラウンレコードに変わってからはポップスから歌謡曲路線に切り替わった。メンバーの離脱も進みオリジナルメンバーはダニー飯田と佐野修だけになり、かつての人気グループも存在感は希薄になった。離脱した増田多夢は91年に亡くなり、リーダーだったダニー飯田が1999年に亡くなってパラダイスキングは解散となった。

中学から高校の時期にレコードを集めて聞いていたパラキンだったが、在籍していた水原弘、坂本九、ダニー飯田、石川進、増田多夢、ジョージ大塚、みんな鬼籍に入ってしまった。あれから60年年経っているのだから仕方がないのだけどね。人気グループではあったが今思うと全員が素人っぽくて、ガツガツしていなくて、懐かしき良き時代の歌手たちだったのだと思う。

記憶に残っているテレビ番組(9)

子供のころから音楽は洋楽が好きだった。当時はラジオでしか聞くことができなかったが、1959年にフジテレビで「ザ・ヒットパレード」が始まった。アメリカで流行している曲を日本語に訳して日本人が歌うという番組だった。司会ははミッキー・カーチスでバックはスマイリー小原とスカイライナーズ。ザ・ピーナッツやナベプロ三人娘などが出演する渡辺プロダクション主導のテレビ初のヒットパレード番組だった。ナベプロが力を見せつけテレビ界を牛耳り始めた番組でもあった。
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その渡辺プロダクションの前に業界をリードしていたのはマナセプロダクションだ。日本最古のプロダクションで曲直瀬正雄と花子の夫婦が1948年に仙台で起業した。のちにアメリカで活躍するジャズ歌手のナンシー梅木を育て、水原弘や山下敬二郎などを擁していた。その後坂本九、森山加代子、ジェリー藤尾、渡辺トモ子、ダニー飯田とパラダイスキング、九重佑三子らの人気ポップス歌手を抱える最大のプロダクションになった。

ザ・ヒットパレードの後にも「森永スパークショー」など多くの番組を制作していた渡辺プロダクションほどの派手さはなかったが、「明治屋マイマイショー」や「ピアスナインショー」などでマナセプロ所属の歌手たちの活躍の場は多かった。ナベプロとは異なりテレビだけでなく地方でのコンサートも数多く開き、高校生の時に名古屋公会堂で坂本九、森山加代子、パラキン、九重佑三子などのステージを直に見ることができた。
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当時は単独提供番組が多く、番組名の前にスポンサー名が付いた。マイマイショーもオープニングから「明治屋 明治屋 食べ物なら何でも 明治屋 明治屋 飲み物なら何でも」のジングルで始まり、「いつでも一番いいものは 明治屋」で終わった。スタジオにはカウンターがあり番組名の元になっていたマイジュース、マイジャム、マイレモンなどが並んでいたと思う。司会は坂本九で歌有りコント有りの30分番組で2年弱続いた。

こう書くと渡辺プロダクションとマナセプロダクションは競合のようだが、曲直瀬正雄・花子夫妻の長女である美佐がジャズマンの渡辺晋と結婚し設立したのが渡辺プロダクションなのである。松下幸之助の義弟である井植歳男が三洋電機を興したのに何となく似ている。ナベプロの現在の会長と社長は渡辺美佐の長女と次女が務め、マナセプロの社長は美佐の妹である曲直瀬道枝であり、道枝の長男が同業のYU-Mエンターテインメントの代表を務めている。まるでファミリービジネスのようだ。

ナベプロには多くの批判もあったが、両プロダクションが戦後日本の芸能人の地位向上と待遇改善に貢献したことは間違いない。最近は新興勢力に押されて昔日の面影はないがナベプロはまだ多くのタレント、歌手、芸人を抱えて影響力を保持している。一方マナセプロは移籍や独立したタレントが多く、タレントリストで顔と名前が想起できたのは西田ひかるただ一人だった。

しばたはつみと朱里エイコ。ほぼ同世代で同時代を生き、歌謡曲やスタンダードからジャズまでカバーした実力派の女性歌手だった。音楽一家に生まれ、若いころに単身渡米して修行したことや、なかなかヒットに恵まれず不遇の時代があったことなどの共通点も多かった。小柄だが声量があり、パンチのきいた歌い方やルックスまでちょっと似ていた。
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しばたはつみはピアニストとヴォーカリストを両親に持ち、9歳から米軍キャンプで歌い始めた。その後スマイリー小原とスカイライナーズの専属歌手となり、数多くのCMソングを歌った。小川ローザの「OH!モーレツ」や弘田三枝子やシルヴィ・バルタンも歌った「レナウン娘(ドライブウェイに春がくりゃイェイェイェイェ~イ)」が有名だが当時はだれが歌っているか知らなかった。20歳の時渡米し2年を過ごして帰国し、しばたはつみの名前で活動を始めた。テレビに出始めたころ家内の幼馴染の愛称「奥目ちゃん」にそっくりだったのでわが家では「奥目ちゃん」と呼んでいた。

海外での活動が多かったせいか国内でのヒット曲は「マイ・ラグジュアリー・ナイト」くらいであまりない。ただ「サウンド・イン”S”」にMCとしてレギュラー出演していた時に歌ったアメリカンポップスやジャズナンバーが印象的だった。70年代にはジャズピアニストの世良譲に師事してジャズを学んでいる。ビッグバンドをバックに歌うジャズのスタンダード曲はYouTubeで聞くことができる。個人的には当時広告代理店でコカ・コーラを担当していた時に彼女が歌った「Come on in Coke '77」が記憶に残っている。張りのある高音の伸びが特徴の歌手だった。東京音楽祭の最優秀歌唱賞、日本ジャズヴォーカル賞大賞などの受賞歴がある。

朱里エイコはオペラ歌手と舞踏家の家庭に生まれた。佐々木功のバンドで歌ったりしていたが、18歳の時オーディションで選ばれて2年の契約で単身渡米し、英語学校に通いながら歌やダンスのレッスンに励んだ。当時はEiko Tanabeの名前で全米のホテルやナイトクラブで歌った経験を持つ。帰国して朱里エイコの名前でリサイタルをし、レコードデビューをするもするも前評判ほどは売れず、歌の修業をするために再度渡米。一人でホテルとの契約やバンドメンバーへの給料の支払いなどをしつつ、各地でワンマンショーを成功させた。1971年に一時帰国して発売した「北国行きで」がヒットしたが、ヒットと呼べるのはこの一曲だけだった。
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1975年に再々度渡米してからは日本とアメリカを往復する生活となった。カーネギーホールなどでも公演をし、ステージで英語を駆使してパフォーマンスができる数少ない日本人アーティストとなった。小柄だが豊かな声量、ダイナミックな動きでLittle Dynamiteと評されもした。ただ彼女が目指したのはステージ・エンターテナーだったが日本での活躍の場は限られ、交通事故や家族とのトラブルもありメンタルも強靭とは言い難かったため傷心の期間が長かったという。失踪事件も何度か起こしている。
しばたはつみとの共通点は声やルックス以外にもある。レナウンの「イエイエ」のCMソングを歌い、コカ・コーラの「うるおいの世界」を歌ったことだ。特に「うるおいの世界」は布施明、森山良子、かまやつひろしと競作になったが彼女のヴァージョンが一番だと思う。

そんな二人だったが、しばたはつみは急性心筋梗塞で2010年に、朱里エイコは虚血性心不全で2004年に、二人とも突然にかつひっそりと亡くなった。享年57歳と58歳だった。夭逝というにはふさわしくない年齢かもしれないが、最後のシングルを出したのが33歳と41歳の時だったから、その後の20年前後を目立った活躍の場を持つことなく過ごさざるを得なかったのは辛かっただろうと思う。体調を整え再起の準備をしている時だったので無念なままの孤独な他界だったと思う。合掌。

そこからジュースを飲んだらだめよ 私がが口をつけたとこよ~

学生時代に授業をサボって友人たちと麻雀をしている時に雀荘のテレビから流れてきた歌だ。ハーフの女の子が唄っていた。当時はハーフの歌い手は山本リンダとゴールデンハーフくらいだったのでちょっと目立った。シェリー(Sherry)という名前でフランス系ハーフの17歳の小柄な美少女だった。画面を見ていた一人が「顔は外人だがスタイルは日本人だなあ」と呟いたのを憶えている。
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モデルとしても活躍していたらしいが、歌手としては十数枚のレコードを出したものの記憶しているのはデビュー作の「甘い経験」だけだ。その後テレビドラマの「オズの魔法使い」で主役のドロシーを演じて注目された。一番印象に残っているのは「うわさのチャンネル!!」でマギー・ミネンコの後釜としてバラドルの立ち位置を確保したことだ。同じハーフのマギー・ミネンコが「乳揉め~!」で人気を得たように、シェリーも「ケツ見ろっ!」と美少女らしからぬセリフを叫んでいた。

「うわさのチャンネル!!」で数年活躍したあと姿を見なくなった。結婚を機に引退して家庭に入ったのだろうと思っていた。数年前から同じ名前のアメリカ系ハーフのシェリー(SHELLY)をテレビで見かけるようになり、あの可愛かったシェリーはどうしたのだろうかと思い出した。

調べてみたら、結婚はしたものの数か月で離婚し、婚外子の女児と男児を二人出産し、大阪に移住して生活のためタコ焼きバーやスナックを経営しながら生保レディとしても働いていた。母親の介護を機に介護ヘルパーの資格を取って施設で働いたり、自らも脳梗塞で倒れて店を閉じねばならなかったりとなかなかの山あり谷ありの人生だったみたいだ。ただ66歳になった現在は「元祖バラドル」とか「元祖シェリー噂のチャンネル」の名前でフェイスブッックやインスタのアカウントを持ち、地元のラジオ局に出演したり、年に数回開催している自らのライブコンサートの案内やステージ風景を流したりとどっこいしっかり生きている。
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SNSを見ても生活感もそんなに感じられないし、ステージ映像を見る限り声もまだちゃんと出ているし歌も昔よりうまくなっている。かつてのハーフの美少女が幾多の苦難を乗り越えてたくましい大阪のオバチャンになっているのを見て安心した。

山の人気者 それはミルク屋 朝から晩まで 歌を振りまく
牧場は広々 歌はほがらか その節の良さはアルプスの花
娘という娘は ユ~レイティ~

低音から高音までカバーする張りのある歌声。ファルセットに切り替わるスムースさ。はじめてウィリー沖山のヨーデルをNHKのテレビ番組で見た時のインパクトはまだ憶えている。翌日から真似しようとしたがあのヨーデルは簡単ではなかった。挫折した。
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ちょっとたれ目で愛嬌のある顔だった。次にウィリー沖山の名前を見たのは25年後に横浜本牧に引っ越してきて、時々車で前を通る新山下のバンドホテルだった。「ウィリー沖山コンサート」の看板があった。ホテル内のシェルルームの支配人をしながらステージにも立っていた。ホテルに住んでいるとのことだった。バンドホテルは「窓を開ければ港が見える」で始まる淡谷のり子の「別れのブルース」の舞台だったと言われ、五木ひろしが「よこはま たそがれ ホテルの小部屋」と唄ったあのホテルだ。シェルルームはプラターズやブレンダリーも出演し、尾崎豊、桑田佳祐、ゴダイゴ、安全地帯、TUBEなどの若手が腕を磨いた場所として有名だ。
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あの頃は、ウィリー沖山のような「その道の専門歌手」が多かった。ウィリーはヨーデル歌手(King of Yodelとも)と呼ばれたし、石井好子、越路吹雪、芦野宏、中原美沙緒、岸洋子はシャンソン歌手だった。その他にもタンゴ歌手の藤沢嵐子、ラテン歌手の坂本スミ子、ハワイアンのバッキー白片とアロハハワイアンズなどがいて、テレビに出てくると紹介がなくてもどんな歌を唄うのかが想像できた。

売り込む側にも便利だったのか、布施明はカンツォーネ歌手で、日野てる子はハワイアン歌手としてデビューした。加藤登紀子はシャンソンコンクール優勝歌手としてデビューしたがその後は定義困難なオバサンになったし、「メケメケ」でシャンソンデビューした丸山明宏(美輪明宏)はもっと分からないオジサンになってしまった。同じくシャンソン歌手だった平野レミはいつの間にか料理愛好家に化けた。

時代が移って「その道の専門歌手」はほとんどいなくなり、残っているのは演歌歌手だけかもしれない。毎年バンドホテルでコンサートを開き、80代半ばまで唄っていたウィリー沖山は2020年6月に老衰で亡くなった(87歳)。彼の住居でもありステージでもあったバンドホテルは目の前に視界を遮る高速道路が走るようになり経営不振から閉鎖・解体され、跡地はMEGAドンキになってしまった。

大歌手とか人気のあった歌い手とか言えなくても妙に記憶に残る歌手がいます。ふと気づくと忘れたはずの歌を唄っている自分がいます。そんな歌手のことを書いてみました。最初は伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズです。

私は子供のころから英語も分からないままアメリカのポップスを聴いて育ちました。ラジオから流れるポールアンカやニールセダカを聴いていました。だから今でもその頃の音楽をよく聴きます。YouTubeがあるので助かります。
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1950年代はアメリカの原曲を聴くか、日本語に訳されたものを聴くのが中心でした。そんな頃英語でアメリカの歌を唄うグループが現れました。それが伊藤素道とリリオリズムエアーズです。1948年に結成されリリオ・リズム・ボーイズを名乗っていましたが1952年にリリオ・リズム・エアーズに改名しました。当初は米軍キャンプでハワイアンやジャズを歌っていたのですが、テレビの人気番組「ローハイド」の主題歌を歌って人気が出ました。伊藤素道の張りのあるバリトンと鞭の音をスリッパを打ち鳴らして歌っていたのが記憶に残っています。

その後もザ・ダイヤモンズの「リトル・ダーリン」やディオンの「浮気なスー(Runaround Sue)」などのヒット曲を英語で歌っています。「アラスカ魂」も歌っていたと思います。英語もちゃんとした英語でした。米軍廻りをしていたのだから当然ですね。彼らの7年後にクレイジーキャッツが米軍で歌い始めたのですからその道(コミカルグループ)の先駆者と言ってもいいでしょう。時々々テレビに出てくるのを楽しみにしていました。14インチのブラウン管テレビでした。もちろん白黒です。
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伊藤素道あってのグループでしたが、バックには実力者も居ました。メンバーの一人だった和田昭治は1955年に谷道夫と男性四人組グループを結成しました。デュークエイセスです。和田は6年間デュークエイセスのリーダーを務めた後その座を谷に譲り作曲家に転進しました。サントリーレッド、トリスビール、湖池屋ポテトチップスなど800曲のCMソングを作曲しています。

メンバーは全員他界されたと思いますが、時々懐かしく思い出すグループです。彼らの歌声は下記できくことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=CG-vy08mBhA

三人娘と聞いてまず思い出すのは子供の頃に人気のあった美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人の歌手だ。三人とも歌唱力があり人気者だった。元祖三人娘と呼ばれている。その中で一番バタ臭い(死語だ)雪村いづみが好きで「スワニー」や「オーマイパパ」が記憶に残っている。口を大きく開けて声高らかに歌う歌手だった。江利チエミもそうだが、英語の発音も素晴らしいが彼女らが歌う日本語は発音が明晰で言葉として美しかった。三人は1937年生まれの同い年で現在は雪村いづみだけが存命で今でも歌手活動を続けている。何本かの映画に三人一緒に出演し、近所の映画館新郊劇場まで見にいったことがある。子供の入館料はたしか30円だった。
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ひばり、チエミ、いづみの三人娘の最初の映画「ジャンケン娘」(1955年)の前年に始まったNHKラジオの「ヤン坊ニン坊トン坊」で兄弟を演じた里見京子、横山道代、黒柳徹子を初代三人娘と呼ぶ説もあるようだが、当時熱心に電蓄にかじりついて毎回番組を聞いていた自分には彼女らが三人娘と呼ばれていた記憶はない。これは役どころが子供役かつ男の三兄弟役で娘とは呼びにくく、多分後年誰かがこじつけたものと思われる。

私の世代の三人娘と言えば中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりのナベプロ三人娘だ。ほぼ同世代だしデビュー時代をはっきり覚えている。当時のポップスはアメリカのヒット曲を日本語に訳したものがほとんどだった。中尾ミエはデビュー作であるコニー・フランシスの「可愛いベイビー」が大ヒットし、朝日新聞夕刊で「恐るべき16歳」の見出しで紹介された記事が目に残っている。伊東ゆかりはちょっとすっぱいような表情でジョニー・ホッジスの「恋の売り込み」やリトル・エヴァの「ロコモーション」を歌っていた。
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この三人娘は最初は1962年開始の「森永スパークショー」のなかでスパーク3人娘として登場したが、その時は中尾ミエ、伊東ゆかりと沢リリ子の3人だった。沢リリ子も人気が出かけた歌手で、多分テレビドラマの主題歌だったと思うが、「You You You, Funky Styleの She is wonderful 素敵なお嬢さん」とパンチのある声と歌は今でも憶えていて唄える。ただ事務所が渡辺プロではなかったので同じナベプロの園まりに入れ替わってしまった。

この頃の三人娘は中尾ミエの「可愛いベイビー」以外にヒットはない。伊東ゆかりが「小指の思い出」で大ヒットを出すのは5年後だし、園まりの「逢いたくて逢いたくて」は4年後だ。中尾ミエは「可愛いベイビー」のたった1曲のヒットでその後60年芸能界で生き延びている稀有な例だ。

その前後にも男性ではロカビリー三人男、御三家、新御三家、たのきんトリオ、女性では日活三人娘、花の中三トリオ、新三人娘など三人ひとくくりにして語られる役者や歌手が誕生した。よほど日本人は三人が好きなようだ。これは売り込みをかける事務所やタレントにとっても話題作りや、一人では期待できないが三人が醸成する相乗効果を産み出すという利点もあるのだろう。それにしても当時のナベプロ三人娘の若いこと!園まりが亡くなってしまったのは残念です。


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記憶に残っているテレビ番組 (8)

1985年秋の改編期に新しい番組が始まった。テレビ朝日の「ニュースステーション」だ。それまで夜の10時という時間帯は民放はドラマやバラエティー、野球中継一色で、この時間に報道番組なんて誰も予想しなかった。NHKに夜9時から「ニュースセンター9時」という磯村尚徳や木村太郎をキャスターとする人気番組があり、これを見ておけばその日のニュースは全部分かるという状態だったからだ。

「ニュースセンター9時」もNHKとしてはくだけたニュース番組だったが、テレ朝はもっとカジュアルな報道番組を狙って、「ザ・ベストテン」や「ぴったしカン・カン」の司会で元TBSの人気アナウンサーだった久米宏をメインMCに据えた。エンタテインメント系のイメージが強かった久米の起用とサブMCの小宮悦子や後の渡辺真理とのコンビも番組の魅力を補強していた。
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もともと久米宏はTBSラジオのアナウンサーで、私が大学生の頃毎週聴いていた「永六輔の土曜ワイドラジオTokyo」の中継レポーターだった。しょっちゅうダジャレを飛ばしていて西伊豆からの中継を「西伊豆は細長くてまるで万年筆のようです。西伊豆・ア・ペン」で始めたのを今でも覚えている。当時から軽快で早口のしゃべりが特徴で、ラジオ媒体の強みを熟知していて彼が中継すると語りとマイクが拾う音で光景が手に取るように見える稀有なアナウンサーだった。だから「ぴったしカン・カン」でテレビに出たときは少しがっかりした。

「ニュースステーション」ではNHKを意識してか権力に対して批判的なスタンスをとることも多く、久米宏の個人的な意見も随所に挿入されていた。これに対しては反論や批判も多かったが、メディアの存在価値はそこ(権力を見張る人)にあると思うので今のように忖度ばかりしている報道よりは余程マシだったと思う。

2004年までの20年間で延べ4795回放送され、平均視聴率が14.4%は夜10時からの報道番組としては大成功だった。MCと小宮悦子や渡辺真理などのサブMC以外にも朝岡聡、
渡辺宜嗣、長島三奈、丸川珠代、上山千穂などの局アナが華を添えた。その後浅岡アナはフリーアナに、渡辺アナは定年後も局に残り、長島アナは退局し、丸川アナは国会議員になった。1999年当時新人アナだった上山千穂だけが現役で、今ではエグゼクティブアナウンサーになっているくらいだから時間が流れたことを実感させられる。チャーミングなアナウンサーだった(過去形でごめん)。下は当時と現在の上山アナ。
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番組は古舘伊知郎がMCを務める「報道ステーション」に引き継がれたが、番組の色合いはキャスターで大きく変わりその後番組を見ることはなくなってしまった。


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記憶に残っているテレビ番組 (7)

今は時間や天気予報をスマホで確認する人が多いが、ふた昔前までは時報と天気予報はテレビの必須番組だった。NHKは毎時の時報と天気予報を放映し、どの民放も精工舎の時報と天気予報番組をオンエアしていた。その中で最も記憶に残る天気予報番組と言えば、ヤンマーディーゼル提供の「ヤン坊マー坊天気予報」だろう。なにせ単独提供で55年も続いたのだ。
2023-04-03
オープニングの唄は今でも歌うことができる。

僕の名前はヤン坊 僕の名前はマー坊 二人合わせてヤンマーだ 君と僕とでヤンマーだ
農家の動力 みなヤンマー 漁船のエンジン みなヤンマー
ディーゼル発電 ディーゼルポンプ 動力工事もみなヤンマー
小さなものから 大きなものまで 動かす力だ ヤンマーディーゼル

1959年の気象の日(6月1日)スタートから季節に合わせてアニメーションを多少変えたり、メロディや歌詞に手を加えたりしたものの、2014年3月31日まで半世紀以上も続いた最長寿番組でもあった。しかし予報技術の進化により詳細な情報が求められるようになり、アニメ中心の天気予報番組では対応できなくなったことで放映局数が減り番組終了を迎えることとなった。個人的には「みなヤンマー」の表現が誇大誇張表現とみられたのかもしれない(途中からみなヤンマーを省いたものに変えられてはいたが)と思う。「みなヤンマー」を毎日流されたのでは同じスポンサーである井関農機やヤマハ発動機などは面白くないもの。
2023-04-05
ヤン坊が兄でマー坊が弟という設定で、当時としてはめずらしかったアニメを使ったので(鉄腕アトムのテレビ放映開始はその4年後)一気に人気がでた。番組名に社名を想起させる細工を施し、親しみやすいジングルを使用することで、農機、建機、発動機という普通の人にはなじみのない製品を作る会社の知名を上げた功績は大きかった。後の単独提供の短編番組づくりのベースともなった番組でもあった。



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子供のころから広告が好きだった (27)

子供の頃わが家の木製の薬箱にいつも入っていたもの。脱脂綿、ガーゼ、包帯、三角巾、絆創膏、ハサミ、毛抜き、水銀体温計、赤チン、オキシフル、正露丸またはクレオソート丸、メンソレータム。時々入っていたもの、風邪薬(ルルが多かった)、頭痛薬(セデスだったかな)そしてオロナイン軟膏。多分父親が勤めている会社の健康組合が配ったものに母親が必要な薬を追加したのだと思う。一番お世話になったのは赤チンと絆創膏。いまでは赤チンもオキシフル(オキシドール)も見かけることはなくなった。
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これらの薬はテレビで広告されている製品ばかりだ。メンソレータムのリトルナースや「ラッパのマークの正露丸」は戦前から、ルルの「くしゃみ3回ルル3錠」は1951年の発売時から、セデスも1960年から広告をしている。広告をしている製品の方が安心だからなのか、メーカーが組合にアプローチしているなのか分からないが健康組合の薬箱には同じような商品が入っている。

オロナイン軟膏を製造している大塚製薬は1921年徳島県で誕生した。苦汁を使った製薬原料を作る小さな工場だったが医療用注射液の製造販売を始めて規模を拡大し、戦後三井物産から情報をもとにアメリカのオロナイトケミカル社が開発した殺菌消毒剤を使って完成させたのがオロナイン軟膏だった。

1953年に発売開始をしたが徳島の無名メーカーでは簡単には売れない。知名を上げるために販促活動に力を入れ始める。まず看護婦を対象としたミス・ナースコンテストを実施し、翌年からは宣伝カーを仕立てて全国を回り始める。社長自身も月に26日間出張し全国の主要病院を訪れたという。匂いが気になるとの意見を受けて製品改良をし、全国の幼稚園と小学校で2.5gの試供品を配布するという売り上げを上回る費用のサンプリングで不動の地位を獲得した。
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宣伝カーを使うのはチューインガムのロッテやカレーのオリエンタルでも見られた方法だが、全国の幼稚園と小学校でサンプリングというのは聞いたことのない規模だ。昔発売して間もないミロが実製品を配布したが幼稚園だけだった。大塚社長の「最高の宣伝は現物の使用。たった1回の使用でも10回の宣伝より効果がある」という一種の信念が売り上げ以上の資金を投じさせたのだろう。

サンプリングは現在でも有効な知名度と使用率アップの方法で製品に自信を持っている外資系企業などが多用する。私自身もホールズやクロレッツという菓子製品で首都圏で数百万個の配布の経験がある。剃刀メーカーはホルダーを無償配布し、替え刃を買ってもらうように仕向ける。大塚製薬も1980年にポカリスエットを発売後まったく売れず在庫をイベント会場などでのサンプリングに回して一気に在庫処理と知名拡大に成功した(私も当時関内ホールのコンサートでもらったことを思い出した)。40億円の費用がかかったとのことだが、社内では25年前のオロナイン軟膏の無償配布成功が語り継がれていたのだろうと思う。
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サンプリング以外にも大塚製薬は黎明期のテレビ広告を多用したことで有名だ。大村崑主演の「とんま天狗」と松山容子主演の「琴姫七変化」が特に記憶に残っている。「姓は尾呂内 名は南公」と丸薬を飲んだ崑ちゃんが見得を切る決め台詞。あの頃の一社提供番組はやりたい放題だった。最近では90歳になっても筋トレして元気そうな大村崑がライザップの広告で見られる。ちなみに浪花千栄子の本名は南口(なんこう)キクノで、それが縁で(軟膏効くの)オロナインの広告に出演が決まった。
松山容子の武士姿が凛々しい琴姫七変化はドキドキワクワクしながら見た。いまでも時々県域U局や日本映画専門チャンネルで見られる。美貌で品があり太刀裁きの見事な女優だった。1968年にボンカレーが発売された時は松山容子のパッケージだった。いまでも沖縄と大阪・横浜の一部で売られている。カナダに住んでいた時の日本食材店サンコーに置いてあったのも松山バージョンだった。今でも見かけたら必ず買ってしまう。
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記憶に残っているテレビ番組 (6)

懐かしの番組というには新しすぎるかもしれない。前編の「やすらぎの郷」が放映されたのが2017年4月から同年9月。続編の「やすらぎの刻~道」が2019年4月から2020年の3月だったからつい最近の番組だ。しかし「やすらぎの郷」放映中に亡くなった野際陽子を始めとして八千草薫、山本圭、藤木孝、ジェリー藤尾、津川雅彦、山谷初男など出演者11人が鬼籍に入りもう続編制作は無理だと思われる。それでなくても「やすらぎの刻」の出演者の平均年齢が80を超えていると言われていた番組だ。

倉本聰が今のテレビには老人向けの番組がない、とシルバー向けに作った「やすらぎの郷」。テレビ業界にいた老人だけが入居できる無料老人ホームという設定で、主演の石坂浩二に浅丘ルリ子、加賀まりこ、八千草薫、有馬稲子、野際陽子、五月みどりなどの女優たちが、業界や老人らしからぬ生臭い話を交えながら進行する20分の連ドラだった。男優陣も山本圭、ミッキーカーチス、藤竜也、上条恒彦と揃っているので楽屋はさぞ大変だったと思う。テロップだってヘアメイクもスタイリストも担当女優ごとに流れるし、その女優名もあいうえお順という気の遣いようだった。
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「やすらぎの刻~道」では新たに、いしだあゆみ、大空真弓、丘みつ子、笹野高史、ジェリー藤尾、松原智恵子、水野久美の平均年齢74歳の7人が加わった。昔と変わらぬ風貌の役者もいれば時の流れを感じさせる女優もいた。その一人がいしだあゆみで少し前から激やせが心配されていた。引っ越しを機に断捨離をしミニマリスト生活を送っているらしい。瘦せたせいで最近テレビで見るときはたいてい和服姿だ。肩や腕などの細さを隠しているのだろう。昔はふっくらしていたのに。
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ちょっと寄り道を。最初に彼女をテレビで見たのは1964年の歌番組だった。和服姿で髪も長く、いずみたくに師事していると言っていた。歌はうまくなかったがファンになった。その後髪をバッサリ切ってボーイッシュになった。翌年木島則夫モーニングショーの今月の歌で「真珠(パール)の指輪」を毎日歌った。この歌が気に入ったのでそれを見終えてから自転車で高校に急いだがほぼ毎日遅刻だった。ていねいに歌ってはいたがうまいとは言い難かった。本人も自覚していたようで「ブルーライトヨコハマ」のヒットはあったもののその後女優業へシフトした。
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寄り道ついでに。当時ボーイッシュと言えばダニー飯田とパラダイスキングのメンバーだった九重佑三子だった。1962年石川進の脱退を受けて加入した。最初に見たのは坂本九の「明治屋マイマイショー」でのデビューだった(と思う)。石川進がボーカル担当だった「月影の渚」を歌った。この時は髪を外巻きにしていたが次に見たときはショートだった。九重なんて苗字なので九重親方の娘だろうかと思ったことを覚えている。名古屋市公会堂のコンサート(他には坂本九、森山加代子ら)や上京してからはリサイタルにも行くくらいのファンになった。どうもショートヘアの女性に弱いらしく、その後ファンになったユーリズミックスのアニー・レノックスもロクセットのマリー・フレデリクソンも超短髪だった。8131VG8Z0OL._AC_SX679_
閑話休題。気に入っていて見られない日は録画までした番組だったが、もうこういう番組はできないだろう。これだけの俳優陣を揃えればギャラは高額になり、ロケ場面も多かったので製作費は相当なものだったと思う。倉本聰作品だったからできたようなもので、現在コロナの影響で製作費3割4割カットが当たり前な状況では局の上層部もOKは出さないだろう。だんだん老人が楽しめる番組が無くなる。局も老人層を無視しているみたいだ。最近のテレビ局はスポンサーの意を酌んで世帯視聴率でなく個人視聴率を使い始め、その中でもコア視聴率と言われるものを重視している。コア視聴率は購買力があると言われる13歳から49歳までの男女の視聴率で50歳以上のシニアは購買力がないと言っているのと同じだ。老人も小金は持っているんだけどね。寂しいし、悲しい。



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記憶に残っているテレビ番組 (5)

1966年の1年だけの放映だったがNETテレビ(名古屋では名古屋テレビ)で流された「ハニーにおまかせ」と「それ行けスマート」も忘れられない番組だ。当時はスパイものが流行っていて、既に「0011ナポレオン・ソロ」や「スパイ大作戦」が放映されていた。それらのスパイものとは一線を画す色っぽい女探偵ものとドジな諜報員ものを繋げて一時間物の「危機一発」シリーズにしたものだった。
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アップテンポのオープニング曲をバックに白い壁に銃弾が当たるように次々に穴が開く。その穴がハチの巣となり全ての穴にハニー(アン・フランシス)の顔が写るというスタート画面だった。輝くブロンドに口元のホクロがなんとも色っぽい美人探偵でスタイルも抜群、武道も達者、ガーターベルトにリボルバーを収め、水着になったりシャワーを浴びたり風呂に入ったりと視聴者へのサービスも満点だった。田舎の高校生は毎回ハラハラドキドキそしてワクワクしながらが見ていた。001シリーズに影響を受けたと思われる小道具、リップスティック型の無線機、カクテルに浮かぶオリーブ型の発信機、潜望鏡付のバンと楽しめる細工も潤沢だった。ドレスアップした姿も色っぽかったが全身黒のタイツ姿のアクションシーンが一番の売りでした。アン・フランシス本人の声は低かったが吹き替えた富田恵子の声とセリフがセクシーだったこと人気を生んだ理由だったでしょうね。原題はHoney West。

ハニーの「スマートさん、あとはあなたにおまかせよ」のセリフの後に始まったのがドン・アダムス主演の「それ行けスマート」だった。諜報機関員のスマートが秘密結社ケイオスとのナンセンスな戦いを相棒の99号と遂行するというストーリーだ。タイトルバックではスポーツカーで本部に乗り付け何枚もの自動扉をくぐった後電話ボックスの中で消えるところまでは普通の諜報員かと思わせるが、話が始まるとスマートのドジ加減とケイオスの理不尽な計画満載のドタバタコメディになる。上司であるチーフとの連絡は靴底に仕込んだ電話機を使うという馬鹿馬鹿しさ。
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この映画の可笑しさを日本人に伝えるのに貢献したのが吹き替えの藤村有弘だと思う。そんなに表情が豊かとは思えないドン・アダムスを面白くしたのは藤村の吹き替えだ。コントや芝居では過剰気味の演技だったが、声優や吹き替えではこれが功を奏したのはひょこっこっこりひょうたん島のドン・ガバチョの声でも実証済みだ。話としては毎回美人女優が出てきてスマートがくらくらするワンパターンが多かったが、そこに細身であまり色気のなさそうな99号がからんでなんだか分からないうちに事件が落着する。この99号(バーバラ・フェルドン)がチャーミングで、かつ久里千春の愛らしい声がその魅力をさらに強化していた。好みだった。声優って大事ですね。原題はGet Smart。




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記憶に残っているテレビ番組 (4)

日本での放送が始まったのが1966年だから浪人時代だった。結婚したら奥さんが魔女だったという設定や、母親のエンドラ、会社の上司であるラリー、お向かいのグラディスさんとその旦那などユニークなキャラクターだらけだったが、やっぱり主役のサマンサ(エリザベス・モンゴメリー)とダーリン(ディック・ヨーク)が魅力的で毎週楽しみに見ていた。子供のころに見た「うちのママは世界一」や「パパ大好き」も当時のあこがれだったアメリカ生活を垣間見せてはいたが、親しみがわくという点では「奥様は魔女」が一番だった。オープニングサウンドと箒に乗って飛ぶシーンから猫がサマンサに変るタイトルバックも新鮮だった。
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エリザベス・モンゴメリーの愛くるしい表情とワンパターンではあるが約束を破って魔法を使ってしまうストーリー展開が売りだったが、アメリカの広い住宅、二階へ上がる階段やキッチンの設備など当時の日本にはないものが多く日本人もいつかこんな生活ができるようになるのだろうかと思いながら見ていた。アメリカでも1964年から8年続いた人気シリーズで、日本でも数年間の放映後に何度も再放送された。大人になって見てもサマンサのチャーミングさは相変わらずだったが、当時は広告代理店勤務だったのでダーリンとラリーの仕事ぶりを見ながら時々「そんなにクライアントは甘くないよ」と思ったりした。
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今考えるとこの番組は声優陣が充実していた。オープニングの中村正、エンドラ役の北原文枝、ラリー役の早野寿郎、グラディス役の川路夏子など役にぴったりだった。もちろん主役の声の北浜晴子のすこし鼻にかかった甘い声が出色で、もし違う声優だったらこれほどの人気番組にはならなかったのではなかろうか。ダーリン役の柳沢真一は昔は柔らかな声のジャズシンガーでよくNHKの歌番組で見た。その後コミカルな役の芝居に転向し多くのドラマ出演もある。残念なことにお二人は最近85歳と89歳で亡くなられた。こうした声優陣だったから初代ダーリンと初代グラディスが亡くなり役者が変わっても大きな違和感なく見続けることができた。

アメリカでも人気があったため2005年には同名の映画が製作されニコール・キッドマンが主演したが私にはエリザベス・モンゴメリーの印象が強すぎて稀代の美人女優も影がうすかった。残念なことにエリザベス・モンゴメリーは1995年に癌で62歳の若さで亡くなってしまった。この頃のアメリカのテレビドラマには、ハニーにおまかせのアン・フランシス、バイオニック・ジェミーのリンゼイ・ワグナー、チャーリーズエンジェルの3人(ファラ・フォーセット・メジャーズが人気だったが好みはケイト・ジャクソンだった)など魅力的な女優がたくさんいましたね。でも愛くるしさではエリザベス・モンゴメリーにかなう女優はいない。下の写真は当時のロッテのマザー・ビスケットCMのサマンサです。
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記憶に残っているテレビ番組(3)

子供のころから歌謡曲より外国のポピュラー音楽のほうが好きだった。当時圧倒的に人気があったプレスリーは好みではなかったがポール・アンカやニール・セダカの曲に夢中になった。レコードなど買えなかったからラジオの深夜放送やFENで聴くしかなかった。歌詞はよくわからなかったのでメロディとリズムが好きだったのだろうと思う。ラジオではL盤アワーなどの洋楽番組があったが、60年代に入るとテレビでポップスを流す番組が生まれ始めた。最初のはフジテレビのザ・ヒットパレードだった。フジは日テレに6年近く遅れて開局し(1959年3月)番組開始はそのわずか3か月後だったのでドタバタのスタートだったようだ。渡辺プロダクションの持ち込み企画で始まったような番組で、当初は渡辺晋とシックス・ジョーズがレギュラーで、制作費もナベプロが肩代わりしていたとのことだった。
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「ヒットパレード ヒットパレード みんなで選ぶ ヒットパレード ヒットパレード みんなのヒットパレード」のテーマ曲で始まり、司会はミッキー・カーチス。テーマ曲は何か番組として物足りないというので前日に当時番組ディレクターだった杉山こういちが急遽作曲したという。初回ゲストだったスマイリー小原とスカイライナーズがのちにレギュラーバンドとなり踊る指揮者として有名になった。司会はその後長沢純、ザ・ピーナッツなどに変わり、スポンサーも人気が出るにつれ無名の化粧品メーカーから渡辺製菓、江崎グリコなどに変わった。出演者はミッキー・カーチス、ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりの三人娘など渡辺プロの歌手と渡辺美佐の両親が経営するマナセプロ所属の坂本九、森山加代子、ジェリー藤尾やパラダイスキングが中心だった。みんなで選ぶといいながら選曲や歌い手にはナベプロの意向が強く働いていた。

私が憶えているのはスポンサーがキャノン単独のころで司会は長沢純と豊原ミツ子だったと思う。「キャノネット 素敵だわ~ キャノネット 持ってるわ~」とザ・ピーナッツが唄うキャノネットのCMをまだ記憶している。毎週放送を心待ちにしていた。思春期に差し掛かった時期で好みの歌手もコニー・フランシス、ジョニー・ソマーズ、ヘレン・シャピロ、レスリー・ゴーアなどの女性シンガーに変っていった。彼女らのヒット曲をレギュラー女性陣、沢リリ子、弘田三枝子、木の実ナナなどがカバーした。毎回アメリカで流行った曲を誰が歌うか楽しみだった。ちょっと酸っぱそうな表情で歌う伊東ゆかりとパンチのある沢リリ子が好みだった。歌詞は日本語に訳されていてそのほとんどが漣健児の訳だった。番組は約11年続きフジのその後の「明治屋マイマイショー」「森永スパークショー」「シオノギミュージックフェア」「夜のヒットスタジオ」などの音楽番組の礎を築いた。
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当時の東京のテレビ局は「2強2弱1番外地」と呼ばれ先行のTBSと日テレが圧倒的に強く、フジとNET(日本教育テレビ‐現テレビ朝日)は苦戦が続き、東京12チャンネル(現テレビ東京)は置いてきぼりだった。報道とドラマのTBSは水戸黄門、8時だよ全員集合、お色気と巨人の日本テレビは巨人戦、11PM、太陽にほえろなどがあるのに、女子供のフジテレビには74年スタートの「欽ちゃんのドンとやってみよう」まで高視聴率番組は存在しなかった。歌番組と言えば歌謡曲、演歌、のど自慢、スカウト番組しかなかった時代にフジテレビのポピュラー音楽志向の歌番組は存在感を示し、ザ・ヒットパレードはフジの看板番組となった。NHKのステージ101もTBSのザ・ベストテンも始まる前だった。
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その後フジは若者路線に切り替えヒット番組が続出し、1982年に初めて視聴率三冠を獲得し12年間保持し、2000年代にも一度盛り返したが、以降は不振のようだ。現役時代に広告担当としてティーン向きの商品のTV広告出稿はフジ中心だったが、最近の低迷はちょっとひどいかも。また昔の2弱に戻ってしまった。



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記憶に残っているテレビ番組 (2)

先日ジェリー藤尾の訃報を読んでいたら関連記事でひと月前に中嶋弘子も亡くなっていたことを知った。中嶋弘子は老衰で95歳、ジェリー藤尾は肺炎で81歳だった。中学生の頃毎週楽しみに見ていた「夢であいましょう」を思い出した。ジェリー藤尾は準レギュラーだったが中嶋弘子は初代MCだった。ファッションデザイナーとのことだったが彼女がデザインした服を見たことは一度もなく、素人が司会をしているという印象しかなかった。
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「夢であいましょう」、通称「夢あい」は1961年から5年間放送されたNHKの音楽バラエティ番組である。その3年前に日テレで草笛光子の「光子の窓」というバラエティ番組があったが、小学生の自分には良さが分らなかった。草笛光子中心の「光子の窓」と比べると黒柳徹子、坂本九、EHエリック、デュークエイセス、坂本スミ子、ジャニーズなど多彩なレギュラー陣にダンサーやジャズバンドが加わり、毎月「今月のうた」コーナーがあって越路吹雪、森山加代子、渥美清、北島三郎、弘田三枝子などが出演していた。ジェリー藤尾もこのコーナーで歌った「遠くへ行きたい」がヒットして歌手としての地位を固めた。
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放送時間は土曜の夜10時からという遅い時間帯で、家族は眠りについた時間だった。受験勉強をしているふりをしていて起きていた私は10時になると居間に行きボリュームを最小にして番組に見入った。30分の生番組だが永六輔と大倉徹也の構成でテンポよく画面が切り替わり、コントに唄、トークとダンスがうまくミックスされていて都会的で洗練されていた。今でも十分通用するクオリティだと思う。この頃個人的には坂本九、森山加代子、ジェリー藤尾、九重佑三子などマナセプロ所属の歌手が好きだったことも番組を楽しみにしていた理由である。当時のマナセプロにはその他にも水原弘、山下敬二郎、ダニー飯田とパラダイスキング、渡辺友子などがいて最も有力なプロダクションだった。その後創業者である曲直瀬夫妻の長女の渡辺美佐と夫の渡辺晋が起こした渡辺プロダクションの後塵を拝することになってしまうのだが。

「今月のうた」からは「遠くへ行きたい」以外にも「上を向いて歩こう」、「こんにちは赤ちゃん」、「おさななじみ」、「帰ろかな」などのヒット曲が生まれたし、ジャニーズのデビュー番組でもあり、その後の日本のバラエティ番組の原型ともなった。現在残されている何本かのビデオを見ると生番組ならではの緊張感と躍動感が感じられる。テレビの強みは即時性で、生番組でそれが一番活かされるのだが、最近はニュースとワイドショー以外はほとんど録画になってしまってすこぶる残念だ。

番組は三木のり平、谷幹一、渥美清らの芸達者が支えていて生放送ならではのハプニングもうまく処理していた。その芸達者たちも、永六輔、中村八大、坂本九の六八九トリオも、弘田三枝子や森山加代子も、エンディングテーマを歌っていた坂本スミ子も、越路吹雪も、EHエリックと岡田真澄の兄弟もみんないなくなってしまい、こんどはジェリー藤尾と中嶋弘子が鬼籍に入ってしまった。懐かしさと寂しさが一緒に来たけど、しょうがないよね。番組が始まったのだちょうと60年前なのだ。番組をワクワクしながら見ていた中学生も後期高齢者になろうとしているんだもの。



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記憶に残っているテレビ番組(1)

子供のころ台所の一角に電蓄が置いてあった。上部にSPレコードプレイヤーがあり、一回ごとに鉄針を交換した。レコードを聴くことは殆どなくもっぱらラジオとして使われていた。ダイアルはNHKに合わせっぱなし。よく聞いたのは大相撲中継で、当時は千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦の四横綱時代だった。あとは「ヤン坊ニン坊トン坊」で、「しっかり者のヤン坊、暴れん坊のニン坊、かわいいチビ助トン坊」のテーマ曲は今でも歌える。当時は失敗のできない生放送のため作者の飯沢匡が「大人で子供の声のだせる人」を基準にオーディションをしたので、男の子の役を大人の女性が演じた初めてのケースだと思う。里見京子の丸く柔らかな声と横山道代のぶっきらぼうさと黒柳徹子の幼なそうな声(今ならアニメでよくあるタイプの声だが当時は聞いたことがない声だった)を憶えている。その三人がそろって声を担当した人形劇が「チロリン村とクルミの木」だった。
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チロリン村が始まったのは1956年だから我が家にテレビが来た翌年だったと思う。まだCBCテレビ(中部日本放送)は開局されておらず、NHK一局だけしか放送されていなかった。それも夕方からの放送でスイッチを入れてもテストパターンばかりだった。最初は週一だったが数年後に月-金ベルト番組になった。放送を毎回楽しみにして見た最初の番組なのに中身はあまり憶えていない。印象に残っているのは三人をはじめとする声優陣の声だ。もぐらのモグモグ(辻村真人)、ねずみのタコチュウ(大竹宏)、ニンジンのお巡りさん(由利徹)、スカンクのガスパ(八波むと志)、アスパラのおっかさん(武智豊子)。その他にも後にNHK番組の常連になる川久保潔、太宰久雄、藤村有弘、若水ヤエ子、桜京美、一龍齋貞鳳鳳などが出演していて声優の登竜門のような番組だった。でも主役はあの三人で特に「ヤン坊ニン坊トン坊」で注目された新人黒柳徹子が人気を確固たるものにした。
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三人はNHK放送劇団第五期の同期生で、落ち着いている里見京子が一番年長と思っていたら黒柳徹子のほうが年上で最年長だった。地方に住む少年にとっては当時の黒柳徹子は東京の女性の典型だった、加賀まりこが出てくるまでは。個人的にはボーイッシュな横山道代が好きだった。チロリン村でも一人だけ男の子の声を担当している。黒柳徹子はその後も「ブーフーウー」、紅白歌合戦の司会、「若い季節」、「夢で逢いましょう」とNHKの売れっ子タレントとなる。早口でしゃべり続け、いろんな声を使い分けた。七色の声と言われた中村メイコの座を奪ったようにも見える(年齢は黒柳が一つ上だが中村メイコは2歳で映画デビュー)。民放に出始めてからも「徹子の部屋」、「ザ・ベストテン」と活躍の場を広げ、その間に「窓ぎわのトットちゃん」、「トットチャンネル」などのベストセラーを世に送った。
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しかしさすがに87歳にもなるとかつての機関銃のしゃべりはなくなり、滑舌も多少悪くなった。体形も変わり足腰も弱ったらしく歩くのも辛そうに見える。昔の彼女を憶えている人間にはNET時代から続く「徹子の部屋」を50年続けたいという気持ちも理解できるが無理はして欲しくない。テレビの創成期の現場を知る数少ない生き証人として著作活動などに軸足を移してもいい時期ではなかろうか。かつて引退の時期を問われたときに、周りの人たちは自分には言えないだろうから親しいマッチ(近藤真彦)に「そろそろ辞めたら」と言ってもらうことになっている、と語っていたが、そのマッチが無期限の活動自粛となってしまった今彼女に進言できる人はいそうにない。



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