マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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カテゴリ: 菓子

子供のころ住んでいた名古屋ではしょっちゅう赤福のコマーシャルが流れていた。「伊勢の名物赤福も~ちっ」と唄っていたのは藤田まことと記憶している。ただ赤福を食べる機会はそんなになかった。地元の人はお参りは熱田神宮に行くので伊勢まで出かける人は少なかったし、まだ名古屋駅の売店で売っていなかったような気がする。
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最初に食べたのがいつだったかは覚えていないが、あんこのまろやかさと品の良い甘さは印象的だった。ヘラですくって食べるのも気に入った。ひと箱全部食べたいくらいだったが家族で分けると一人3個くらいだった。翌日までとっておくと餅が堅くなって少し食感が変わるのが残念だった。

赤福は伊勢神宮の近所で売られ始めて300年以上が経つ伊勢を代表する銘菓、いや三重県を代表する名物かもしれない。創業は宝永4年(1707年)だから富士山が噴火して宝永山ができた年だ。赤福以外に三重の名産品には松阪牛と御木本真珠、桑名のしぐれ蛤くらいしか思い出せるものない。真珠と牛肉は高価なので手ごろなお土産としては貝新の志ぐれ煮か赤福餅しかないのではなかろうか。父親は出張で時々三重に行ったのだが、おみやげは赤福ではなく大抵は貝新のあさりの志ぐれ煮だった。個人的にはあさりよりしじみ煮の方が好きで今でも時々買う。貧乏性なんだろうな。
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東京に来てから赤福のことは忘れていた。赤福を買うようになったのは菓子の仕事をするようになってからだ。会社のチューインガム工場が名古屋にあり、キャンディの製造を依頼していた名糖産業もその近所だったので、当時担当していたホールズや開発中だったクロレッツの打ち合わせのため毎月のように名古屋出張があった。たまにはお土産をと思って駅の売店を覗くのだが昔から知っている納屋橋饅頭やきよめ餅は存在感がなくなって見知らぬ菓子ばかりになっていた。ただ赤福だけがいつも一等席に陳列されていた。名古屋名物ではないけどおいしくて安いので懐かしくて手に取った。8個入りが500円か600円だったと思う。

その頃には新幹線の他の駅でも売られていたし、社内販売でも扱われていたように記憶している。赤福は1960年代から積極的な拡大政策をとっていたし、1975年にフジテレビが「赤福のれん」という9代目主人の浜田ますをモデルにした連続ドラマを十朱幸代主演でオンエアし人気を博したことも影響していたのかもしれない。

しかしこの拡大政策が裏目に出て大量生産された赤福餅を賞味期限内に売りきることが困難になる。2000年代に入ると製造日と消費期限の偽造、冷凍製品の販売、売れ残り製品の再利用問題が発覚し、駅売店や百貨店での販売自粛や本店の臨時休業などが発生した。その後も元社長が経営する関連企業が暴力団との関係を報じられるなど不祥事が相次いだ。

最近やっと落ち着いた感じの赤福だが、8個入りの価格も2004年に720円に上げてから、760円(2016年)、800円(2022年)、900円(2023年)とこの10年で3回の価格改定だ。ヘラも木製から紙製へと変更するなど昔からのファンが失望しているのかもしれない。ネット上ではサイズが小さくなった、あんが甘くなった、食べるたびに味が違うなどのコメントが目立つ。可愛さ余って憎さ百倍的状態かもしれない。
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赤福は企業として売り上げ的にはほぼ単品経営なのだが、季節商品をいくつか持っている。今月は夏季限定の「赤福水ようかん」が企画販売されたので高島屋で予約して手に入れた。初めて食べたのだがなんとなく赤福のあんこを感じるし寒天分が少なめで食感はともかく餡の味が前面に出るのは好ましいい。ただ水ようかんの製造はデリケートでちょっとでも配合を誤ると固まらなかったり、硬くて水ようかんぽくなかったりする。赤福の水ようかんもまだ改良の余地は十分にある。でもその前に赤福餅の品質の安定化が先ではないかと思っている。

いくつかの消費財メーカーでマーケティングを担当していたし、広告の仕事をしていたこともあるのでコピーやキャッチフレーズはいまだに気になる。このブログでも書いたことがあるが、「私はこれで会社を辞めました」や「おしりだって、洗ってほしい」「アンネの日」などは会社存亡の危機を救ったり、新しい市場カテゴリーを開拓するのに多大な貢献があったコピーでありキャッチフレーズだった。

当時は「おいしい生活」とか「モーレツからビューティフルへ」など時代を代表するようなコピーもあったが、メーカーでモノを企画製造する立場だった人間としては製品やそのベネフィットに直接リンクするようなコピーに惹かれる。そんなことを考えていて頭に浮かんだのはグリコの「一粒300メートル」だった。
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グリコは子供のころから食べていてグリコーゲンという言葉もなんとなく聞いていた。理由は分からなかったが、一粒食べれば300メートル走れそうな気がした。グリコというキャラメルは創業者である江崎利一が牡蠣の煮汁から得たグリコーゲンを加えた栄養菓子で1922年に発売された。ブランド名も社名もそれに因っている。グリコは戦前は栄養菓子に力を入れたようで1933年にはビスコを発売した。ビスコは酵母入りのビスケットで5枚に1億個の乳酸菌が入っているという。当時は子供の栄養状態が良くなかったのでそれを改善したいと考えたのだろう。それに栄養菓子という位置づけにすれば親も他の菓子より子供に与えやすくなる。そのうえ発売5年後にグリコにおまけを付けるようになって販売量が大幅に増加した。日本初の食玩と言われている。(下の写真は発売時のパッケージ)
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一粒300メートルはそれなりの根拠がある。グリコの一粒は16.75kカロリーがあり、平均的な成人男子が100メートルを35.5秒のペースで走ると16.75kカロリーで300メートルを走ることができるのだという。江崎利一という人はアイデアマンのようで、このキャッチフレーズもゴールインマークも彼が考えたらしい。その後発売されたアーモンドグリコの「一粒で二度おいしい」も彼のアイデアだ。ただ発売時のパッケージのランナーの顔が怖いと言う女学生が多くて書き直しをして笑顔のゴールインランナーとなり、その後も笑顔が引き継がれている。
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「一粒300メートル」が秀逸なのは、短く簡潔に商品の特徴を表して記憶しやすいところだろう。ちょっと残念なのは、今のグリコは粒がハート型になっていて昔子供のころに食べたのと異なっている一点である。

前回チェルシー、サイコロキャラメルとカールの販売中止(カールは販売地域限定)と復刻版発売について書いたが、昔働いていたガム業界にも復刻版があるので書き残しておこう。

チューインガムは他のカテゴリーに比べると製品の数が少ない。製造メーカーが少ないのと輸入品がほぼ無いことがその理由だ。日本チューインガム協会には20数社が参加していると記憶していたが、今調べたら16社に減っていた。戦後には200社がひしめいていたのだが。当然新製品の数も多くはなく、ロングセラー製品や一時代を築き上げたヒット商品が多い。ロングセラー商品としてはグリーンガム、クールミント、クロレッツ、キシリトールガムや子供向け商品のマルカワのオレンジガムやフィリックスガムなどがある。今は市場から消えてしまったがトライデント、キスミント、フラボノなども一時期市場をリードした。定期的にブームがやってくるフーセンガム市場ではプレイガムのコーラ味のように爆発的に売れて品切れを起こす製品も登場した。

ガムという製品は基本的にはガムベースに甘味料と香料などを加えるだけなので製品のバリエーションに乏しい。子供製品はおまけをつけた玩菓と呼ばれるカテゴリーもあるが、大人向けではユニークなフレーバーや剤型で差をつけるしかない。形状としては板ガム、糖衣ガム、ブロックガムが中心で、かつては粉状のガムやシュレッダー状のガムやキャンディガムも存在した。フレーバーは流行りがあるので数年で廃れてしまうことがある。何年か前にロッテが発売した復刻ガムはその種の製品だった。
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一番古いのはコーヒーガムで次がリグレーをコピーしたジューシィフレッシュだが、梅とブルーベリーも根強いファンを持っていて80年代にはどちらもトップ10にランクインしていた。特にブルーベリーのデビューは鮮烈で、山手線の車内で一人が噛んでいると車両全体にあの臭いが蔓延するくらいだった。ベリー系商品のはしりで私も担当していたキャンディにラズベリー味を追加した。

先月ロッテはイブという香水ガムとクイッククエンチガムの再販売を始めた。1978年発売のクイッククエンチは2年前に続く再復刻だ。イブは1972年の発売だが、ロッテはその前からピンクミントという香水ガムを持っていた。香水ガムは大きなセグメントにはなりそうにないと思ったが、その後もローラ、ロブ、ドナと製品ラインを強化した。どうも重光社長が号令を出したらしい。
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こうした復刻製品が続くということは昔それらの製品を愛用していた世代にはなつかしいし、知らない世代にとってはレトロ感あふれる製品で新鮮に映るのだろう。縮小一本槍だったガム市場が昨年から持ち直していることも背景としてはあるのかもしれない。ただ穿った見方をすれば他の菓子類より新製品開発の余地が少ないガム市場でマーケティングと開発の手詰まり感が見える。砂糖入りガムからシュガレスガムへ、板ガムから糖衣ガムに移行した市場で若いユーザーに一度板ガムの良さを知ってもらいたいとか、新奇素材やフレーバーが見当たらないのでかつてのヒット商品で一時しのぎをしようとしているようにも思われる。こういう時こそ企画や開発の腕の見せ所なんだけどね。
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個人的に復刻版を出してもらいたいと思う廃版製品は、当時一番アメリカのガムという雰囲気を持っていたデンティーンガム、それもシナモン味ですね。ちょっと硬くてニッキの味と香りがが強かった。それとあのパッケージ。懐かしいね。

つい半年前に販売中止を発表した明治のチェルシーが9月3日に北海道限定の土産用商品として復活したというニュースにびっくりした。北海道産の素材を使ったり食感を柔らかくするなどの変更点はあるようだが、半年前に「終売は残念だ」とブログを書いたばかりなので騙されたような気分だ。2024-09-08 (7)
しかしよく考えれば明治という会社はこういうことをする会社なのだ。2017年に50年の歴史を持つカールの東日本での販売を中止し、関西以西だけに商圏を縮小した。10億売れればヒットと言われる業界で、当時60億の売りがあった製品を関東以北だけとはいえ発売を辞めるというのは普通では考えられない。
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それだけではなくかつて販売中止にされたカールうすあじ、カレーがけの2種を2001年に復刻版として販売し、その後も廃版となったピザあじ、バターしょうゆ味、いそあげを再販売している。うすあじなどは3度も復刻された。それ以前にも2016年に90年の歴史を持つサイコロキャラメルを終売にした数か月後に北海道サイコロキャラメルとして北海道限定で販売を始めた。諦めが良い会社なのだか未練がましい会社なのだかよく分からない。
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だから半年前チェルシーの販売中止が発表された時に復刻がありうるのではと疑われ、広報担当は「販売終了は長い時間をかけた苦渋の決断であり、弊社としては今後も新たな価値ある商品を提供していきたい」と答えたのに、今日ニュースを読んで「またか」と思った。

しかし商売としてはおいしいのかもしれない。日本人は限定版に弱いし、お土産だと価格に鈍感になる。かつて100円で売られていたサイコロキャラメルは北海道で248円で売られているし、チェルシーは21粒入りで864円、カールは10袋単位ではあるがネットで200円強で販売されている。先日はカールの工場がある松山市がふるさと納税の返礼品にカールを加えたら、東日本からの申し込みが殺到し、予定数はすぐに捌け、再度再々度の追加もすぐに無くなったとの記事があった。こういうことをもし予測して終売にしたり復刻版を出しているとしたら明治という会社はたいしたものだと思うが。ま、そんなことはあるまいて。

子供のころから広告が好きだった(38)

たいていの消費財商品は使用者が自分で購入することが多い。しかし亭主に頼まれて下着やカミソリの替え刃を主婦が買うとか、おじいちゃんの入歯洗浄剤を頼まれるということもあるだろう。この使用者と購入者が一致しない最大の製品群は子供が食べたり使ったりする商品だ。子供の服や文房具などはその典型であるが、子供が食べる食品・菓子類や飲料もその種の製品だ。

子供が母親に買ってくれとねだる場合もあれば、母親が子供のために買い与える製品もある。支払いをするのは母親なので企業は母親をターゲットとする。両者が満足する商品ならば問題ないが、そんな商品は多くはない。今日もスーパーで子供がアンパンマンアイスだかガリガリ君だかを買ってくれとねだり、母親が駄目と言っているのを見た。昔はコーラが飲みたいのに「骨が溶けるよ」と訳の分からぬ理由でノーと言われた子供が多かった。

そんななかで子供と母親の両方をうまく説得した広告の一つがかっぱえびせんではなかろうか。
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やめられない とまらない かっぱえびせん。このCMソングは60年近く流されている。アメリカには「この世で最も勇気のある者はピーナッツを一粒食べてそこで止められる男だ」という格言があるが、エビ好きの日本人はかっぱえびせんもひとつでは止められない。かっぱえびせんは製品と広告の秀逸さであっという間にスナック菓子のトップブランドになり、カルビーの名を知らせしめ、その後のサッポロポテト、ポテトチップス、じゃがりこなどの同社製品開発・発売の財政基盤を作った。同時にかっぱえびせんは日本を代表するロングセラー菓子となった。

ただおいしいだけの菓子ではない。当時の菓子はせんべいやあられ以外は甘いものばかりだった。すこし塩味の効いたエビの風味の軽いスナック。養殖魚のエサにしか使われていなかった小エビを丸ごと使っているので子供の成長に必要なカルシウムに富む。それを直接的に訴求するのでなく、CMソングを「かしこい母さん かっぱえびせん」で締めることで子供のために製品を選択した母親の心をくすぐった。かしこい母さん かっぱえびせん。うまい表現だった。栄養価の高い未利用資源の有効活用を社是とするカルビーの面目躍如だ。

そう思うのは昔の経験から来ている。日本人に恒常的に不足している栄養素はカルシウムだけだったので、カルシウム含有の子供向けの菓子を作って販売したことがある。ターゲットを子供だけにしたことが間違いだった。子供はカルシウムの必要性なんか気にしない。母親を巻き込むべきだったのだ。
その前にはシュガレスガムを「これならママもOKさ」というキャッチコピーで広告を打っていた。製品としては成功した部類だったが、今思うと子供はもっと甘くて量のある砂糖入りのガムを噛みたかっただろうし、母親はシュガレスでもガムは噛ませたくなかったのではなかろうか。違う表現があってもしかるべきだった。

カルシウムにしろシュガレスガムの例にしろとかく外資は頭でっかちになりがちで、コンセプトだけで物が売れると考えるのが弱みかもしれない。マーケティングの教科書に「コンセプトで牛を川辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」とあった。C(コンセプト)+P(プロダクトパフォーマンス)のバランスが大事なのだ。それと、この国では機能的ベネフィットだけではなく情緒的ベネフィットも付加すべきだった、というのが40年経ったあとの反省だ。遅すぎる。

明治のチェルシーが今月いっぱいで販売中止と発表された。菓子の仕事をしていた人間からするとちょっとショックだったし、寂しい気がする。日本のキャンディのリーディングブランドだったし、とてもおいしい飴だった。なによりもあの「歌いたくなるよな一日 あなたにもわけてあげたい ほらチェルシー もひとつチェルシー」のCMソングとスコットランドの風景をバックにした広告が頭に残っている。
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市場環境や顧客ニーズの変化で収益が落ち込み販売を終了せざるを得ない、というのが終売の理由らしいが、一時代を築いたブランドがピークの数分の一とは言えまだ数億の売り上げがあるのに消えていくのはなんだか悲しい。

チェルシーは1971年に明治製菓が今までにない特徴とおいしさを求めて開発・発売したスカッチキャンディだった。多くの飴はロープ状の飴を型で打ち抜いて作るが(スタンピング製法)、チェルシーは流し込み(デポジット)という小さな型に熱い飴を流し入れて冷ます製法だった。この製法だと設備は大掛かりになるが表面が滑らかになりバターの含有も増やせる。ミルクリッチな味と滑らかな舌触りはそれまでの日本のキャンディにはなく、一気にトップブランドとなった。80年代に私はホールズという飴を担当していて、製品としては直接競合はしないが同じキャンディカテゴリーのトップシェアのブランドをベンチマークにして追いかける立場だった。

明治製菓はそのチェルシーに加えて1988年に果汁グミを発売し、2年後の1990年には群雄割拠のキャンディ市場で16.8%のシェアを獲得し、カンロを抜いてNo.1カンパニーとなった。私が所属していた菓子事業部でもチェルシーに対抗するバタースコッチを発売しようと開発を始めた。森永製菓から招聘した開発部長とともに試作を始めたのだが、何度トライしてもチェルシーを超える製品はできない。開発部長も「いや~チェルシーはおいしい」と半分お手上げだった。結局チェルシーとの真っ向勝負を避け側面攻撃策をとり、バタースカッチでなくミント味とラム味のスカッチ二品を「エナ」というブランドで発売した。
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スコットランドを想起させるタータンチェックのパッケージとスティック形状でチェルシーと差別化を図り、アリッサ・ミラノが歌うCMソングのTV広告でサポートしたが惨敗だった。2年ですごすごと撤退した。そのくらいチェルシーは強かった。そのチェルシーが売り上げ不振で終売となるなんて。

経営資源の効率化を追求するとこうなるのかもしれないが、明治は諦めが早すぎるようにも見える。数年前には60億もの売り上げがあったカールの東日本での販売を中止したし、94年の歴史があったカルミン、クリームキャラメル、根強いファンのいたサイコロキャラメルも終売になった。2011年に医薬品事業と統合することになって、利益率がダントツに高い医薬品と比べると菓子の経営的な魅力が薄れたのかもしれない。ガムからも撤退し、キャンディ、キャラメルもなくなった明治の菓子事業はこれからはチョコレートとグミに選択集中することになるんだろうなあ。

菓子の仕事を15年間していたので引退した今でも菓子業界が気になる。2022年の菓子統計が発表されたので久しぶりに数字を追いかけてみた。

昨年の我が国の菓子類小売り金額は3兆4361億円で対前年比は+4.2%と前年に続き2年伸長し、コロナで落ち込んだ分を取り戻しつつある。2022年は小麦粉や油の値上がり、エネルギー価格の上昇、輸送費の高騰があり菓子メーカーが値上げをしたことも小売り金額上昇の一因でもあるが。
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最大のカテゴリーはチョコレートで5750億円。その後をスナック菓子、和生菓子、洋生菓子、ビスケット、米菓が続く。ちょっと待った。私が菓子の仕事に従事していたころ、四半世紀も前だけど、トップは和生菓子で次が洋生菓子、チョコレートはいつも3番目だった。チョコレートが大きく伸びたこともあるが、和生菓子と洋生菓子が縮んだと言った方が正解だろう。1995年と比べると洋生菓子が25%、和生菓子が18%下降している。需要不足と生産現場の人材人員不足が原因と思われる。同期間でチョコレートは36%成長している。直近10年の伸長率はこんな感じになる。
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チョコレート、スナック菓子、ビスケットはコンスタントに伸び続け、チューインガムは下降し続けている。チューインガムは95年比でマイナス60%と悲惨な状態だ。ガムメーカーはグミやミント菓子に市場を奪われたと言い訳がましく言っている。確かにグミは伸びているが、グミやミント菓子を含む飴菓子自体はこの10年ほぼ横ばいなので、ガムだけでなくキャンディもグミの影響を受けていると考えるべきだろう。

キャンディ専業メーカーであるカンロはこのまま若年層のあめ離れが進むと市場全体が縮小すると危惧して、Z世代に向けて「飴の原体験共創プロジェクト」を高校生と共に開始した。ガムメーカーも「歯周病予防にチューインガムは有効」というキャンペーンを歯科医院などで行っているが効果のほどはまだ分からない。

菓子市場トータルで見るとこの30年間大きな変化はなく3兆円強の市場である。しかし好調な分野とそうでない分野が存在する。新規の素材・原材料や製法などもあまりない市場なのでメーカーの機能性商品を中心とした新製品開発がカテゴリーの浮沈を分けているのは、新製品の多いチョコレートやスナック菓子の好調さを見ればわかる。インバウンド需要がしばらくは期待できないのであれば、ECなどのさらなる販路開拓や高齢者向けの機能性商品や健康商品の開発などメーカーができることはまだありそうな気がする、と最近は固いせんべいを敬遠しがちなジジイは思うのですが。



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横浜駅から家に帰るときは横浜そごうを通り抜ける。B2の入り口から入ると受付があり、その左側が洋菓子コーナーだ。約50店が出店している。受付からエスカレーターに向かう通路に面しているのがメインストリートで集客力のある洋菓子店が並ぶ。右側にある和菓子コーナーは入り口の横にとらや、たねやなどが並ぶ不動の店構えだが、洋菓子店は移動が激しい。
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20年位前までは一番目立つ場所はアンリ・シャルパンティエとアンテノールが占めていた。芦屋と神戸の洋菓子店だ。両店とも客足は引きも切らず、かつシャルパンティエはB1フロアに喫茶室も持っていて勢いを感じた。神戸で数年を過ごして横浜に戻ってきたので懐かしくて何度も買った覚えがある。

しかししばらくするとアンリ・シャルパンティエの集客力が落ちてきた。私の鈍感な舌でも味が変わったように感じた。ちょうど全国の百貨店に店を拡げていた時期と重なる。創業者である蟻田さんが退社されてコンサルタントに転身した頃でもある。昔両親が芦屋に住んでいたころ、家から数百メートルに開店したばかりのアンリ・シャルパンティエがあった。母親がよく買ってきて、こんなにおいしいケーキがあるんだと驚いたことを憶えている。たしかパウンドケーキも作っていて、朝食のパンを買い忘れた母親が電話で注文すると蟻田さんがバイクだか自転車で配達してくれた。そんな店だったから味が変わったのは悲しかった。

同様な経験は多店舗展開した有名な中華料理店でもあるし、同じ店なのに味が激変した洋菓子店でもある。石神井に住んでいたころ神戸の洋菓子屋に負けないくらいおいしい店があった。フランスに勉強をしに行った店主が洋菓子のとりこになり菓子を学んで帰ってきて開店したと聞いた。ひと口で素材の良さが伝わり、クリームもケーキベースもおいしかったが特にリキュールが効いていたのが印象深かった。店にはリキュールの瓶が並び、併設した喫茶室もいつも混んでいた。30年後に懐かしくなって訪れたが全く違う味になっていた。こんなはずでは、と数種食べたがどれも昔の面影はなかった。店主が変わったのか、利益志向になったのかは分からないが全くの別物だった。手を抜いたり素材を疎かにするとこうなるのだと思った。

閑話休題。その後アンリ・シャルパンティエとアンテノールは少し目立たない場所に移り、ファウンドリーが一等地に出てきた。いつも多くの客が並びクリスマス前は長蛇の列ができた。買うのが大変だったが時々家内が買ってきた。そのファウンドリーも今日はクリスマス前なのに列はなかった。その代わり人が集まっている店が数店ある。
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ガトーフェスタ ハラダ、ニューヨーク パーフェクトチーズとN.Y.シティサンドだ。残念ながら3店とも食べたことがない。パーフェクトチーズは家内が何度か買いに行ったのだが食べたいケーキはいつも売り切れだと言っていた。コロナで外出が減り知らないうちに店が様変わりしていた。たまには街歩きをせねばと思ったが、多分「たねや」に足が向かうのだろうな、老人は。でも急がないとここもヨドバシになってしまうかもね。



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昔ドロップは筒状(穴あきドロップ)か缶入りしかなかったように思う。筒状の物は湿気でくっついて棒状になったし、缶入りは開けるのに苦労した。今でも時々無性に舐めたくなるのがこのドロップ。思わずレジ横の棚に手を伸ばしてしまう。果汁入りとは書いてあるが果汁感はあまりない。口に入れてしばらくすると割れるのは砂糖より安い水飴の含有量が多いからだろう。近所のスーパーでは100円強で売られているのだが、利益は出るのだろうか。ま、ドロップそのものは缶の半分くらいしか入っていないが…

缶入りは佐久間製菓のサクマ式ドロップスとサクマ製菓のサクマドロップスとがあり、今回衝動買いしたのは後者の製品。そんなに差はない。もともと池袋にあった佐久間製菓がサクマ式ドロップスを製造販売していたが戦争中に倒産し、戦後元番頭だった人が再建した佐久間製菓と、同じころ元社長の息子が渋谷に起こしたサクマ製菓の二社だから製品が類似していても当然かもしれない。同じような缶に入っているが色が異なる。佐久間製菓が赤が基調でサクマ製菓は緑が基調。佐久間の缶はこんな感じです。
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当然のことながら商標争いが起き、裁判の結果佐久間製菓がサクマ式ドロップスを名乗り、サクマ製菓は社名を用いたサクマドロップスを使用することで決着がついた。消費者から見るとちょっと紛らわしい。菓子の仕事をしているころ、業界の人はこの二社を池袋佐久間と渋谷サクマとか(略して池サクと渋サク)、漢字の佐久間とカタカナのサクマと呼んで区別していた。野坂昭如原作のアニメ映画「火垂るの墓」で主人公清太が終戦後の8月22日に飢えと病で死んだ妹の節子を自ら火葬し、その骨片を彼女の大好物だったドロップの缶に収めたのは赤い缶の佐久間製菓のサクマ式ドロップ缶だった。

サクマ式ドロップスは戦争中は生産中止だったので、清太が腹巻の中にしまって大切に持っていた節子の骨片を収めたドロップ缶は数年前から持っていたものだと思われる。その清太も一月後に三ノ宮駅で衰弱死してしまうという悲しい話だった。
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甘いものといえばキャラメルかドロップだった時代がありました。もう遠い昔です。先日の報道で佐久間製菓が2023年1月で廃業するというニュースが流れたのでこの記事を加筆再掲しました。原材料の高騰とそれを価格転嫁できなかったことが理由らしいが、寂しいと思うのと同時に戦後をひきずっていたあの懐かしい時代が終わったという感傷に襲われました。あのハッカ味、なつかしいね。

ちなみにニュースが流れた後佐久間製菓のドロップスは品切れが起き、ネットでは数千円で売られています。今日近所のスーパーに行ったらサクマ製菓のサクマドロップスも棚から消えていました。
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名前は知っているのだが食べたことがない。多分カンロ飴もその類の商品だと思う。子供の頃に食べた記憶はない。子供の口には大きすぎるのも理由の一つかもしれないし、子供から見ると「甘くておいしい」とは思えない味だ。先日40年ぶりくらいにスーパーで買ってきた。
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 スーパーでもワンフェイスを与えられているだけで、社名の基になった製品としては寂しい。近所の7-11では発見できなかった。かつては紅茶キャンディのカティーサーク、カンロ健康のど飴と並び同社の花形商品だったが最近はその座をピュレグミや金のミルクなどのグミ製品に奪われている。

大正時代に創業された山口県の宮本製菓所が1954年に発売した「カンロ玉」がその起源だ。当時は一個単位で売られていた。そうだった、あの頃多くの菓子はガラスのジャーに入れられてバラで売られていた。他の飴玉が一個一円だったのに対しカンロ玉は一個二円という強気の価格設定だった。創業者の宮本政一は戦後海外から流れ込んできたキャラメルやドロップとは一線を画した製品を作ろうと考え、差別化ポイントを「和」に求めた。煮詰めても焦げない醤油の開発に3年の年月を費やし、当時としては貴重だった高品質の砂糖を使用したりしたから二円の価格は妥当だったのかもしれない。
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この一粒8グラムの裸飴は二円の価格のせいで売れないだろうと言われながら、地元で好成績を残し、販路を九州や大阪へ拡げ、1957年には東京へも進出した。その間に日本で初と言われるセロハンのひねり個包装を採用し、その後包装を機械化し生産効率を向上させた。名前も「カンロ玉」から「カンロ飴」に変え発売から3年で山口の地飴は全国ブランドに成長した。これを機に社名も宮本製菓(株)からカンロ株式会社に変更し日本を代表するキャンディメーカーとなった。1980年代はキャンディ市場のトップシェアを誇り、特に中国地区と九州地区では20%以上のシェアを持つ断トツのメーカーだった。

久しぶりに食べてみると、確かにでかい。8グラムはないが約7グラムはある。昔ホールズというキャンディの担当をしていたが、当時一粒4.7グラムは大きすぎると思っていたが(今は小さくなっている)それより相当大きい。それに球形でいかにも昭和の飴という印象だ。その大きさと形状ゆえ噛み割ることさえできない。じっと舐め続けねばならない。かすかに醤油の味がして、でも飴だから甘い。たとえるならばみたらし団子の味とでも言えるのだろうか。

残念ながらカンロ飴も時代の変遷とともに売り上げは下がり、かつての勢いはない。しかし唯一の醤油味のキャンディとして、そして社名となったブランドとして会社はカンロ飴のテコ入れや再生計画を考え続けるだろう。諦めるわけにはいかない。カンロ株式会社のコーポレイト・スローガンは「Sweeten the Future」だもの。



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子供のころから広告が好きだった(23)


子供の頃駄菓子屋で一番目立ったのはキャラメルだった。ごちゃごちゃした店内でキャラメルコーナーは光っていた。新高キャラメル、カバヤキャラメル、グリコ、フルヤウィンターキャラメル、明治クリームキャラメル、アーモンドグリコ、サイコロキャラメル、ラクダキャラメル、少しお高くとまっていた不二家フランスキャラメルなど。でも一番おいしそうに見えたのは森永のミルクキャラメルだった。
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当時あれだけ甘い菓子は少なかったし、濃厚なミルク感は魅力だった。おまけやカードがついた製品もあったがそんなにしょっちゅう買う製品ではないのでたいていはミルクキャラメルに落ち着いた。名古屋では関東で有名だった紅梅キャラメルは見かけたことがない。

森永キャラメルは森永製菓の歴史のような商品である。創業者である森永太一郎がアメリカで修業を終えキャラメルづくりを始めたが、バターやミルクをたっぷり使った濃厚な味のばら売りのキャラメルは日本人に受け入れられなかった。1913年に製品改良をし現在の容器と同じサック式にしたら爆発的ヒットとなり、サック式は後のキャラメルのスタンダードとなった。同時に森永は広告にも力を入れ寿屋(現サントリー)、ライオン歯磨き(現ライオン)、カルピスと並ぶ広告界の名門となって、新聞広告中心ながら片岡敏郎率いる広告部は森永広告学校と呼ばれるほどの豊富な人材と活発な広告活動で知られるようになった。
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大学3年の時広告の仕事に就きたくて渋谷にあった日本デザイナー学院のコピー専科に一年通った。その時の講師の一人が森永の名コピーライターでコピーライターの殿堂入りをされた黒須田伸次郎先生だった。森永でキャラメルなどのコピーを書き、後には「ゴホン、といえば龍角散」などのコピーで知られる伝説的人物だ。宣伝会議のコピーライター養成講座の講師も務められ、生徒には糸井重里や仲畑貴史や林真理子などがいる。授業では森永の話が時折出たし、なぜか気に入られて課題評価の時によく私の作品を取り上げてもらったり、帰りに田園調布の御自宅に誘われて娘さんや業界人と麻雀をさせられた。他の生徒は就職を斡旋されたりしたが「宗君は大丈夫だろう」と言われて私は放っておかれた。卒業後広告代理店に入ったがコピーライターにはなれずマーケターになった。

森永製菓は新聞広告だけでなくヘリコプターによる全国巡回宣伝、大相撲の森永賞や銀座の真ん中にネオン搭を出したことでも有名だ。上京した当時の銀座五丁目にはこれがあった。
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その後甘いものが世にあふれるようになるとキャラメルはお菓子の王座から陥落し今も苦戦が続いている。サイコロキャラメル、クリームキャラメル、カバヤキャラメル、フランスキャラメル、ウィンターキャラメルは終売となり、一時は森永、明治と並んで三大菓子メーカーと呼ばれた新高製菓は70年代に廃業に追い込まれた。

久しぶりに買ってみた森永ミルクキャラメルはレトロなパッケージに変わりはなく、内装紙は蝋引きからアルミに変更され、一粒は少し小さくなったがミルクリッチな味は維持されている。ドロップスと同様ときどきとても食べたくなる菓子であることには違いはない。



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チョコフレークも終売なのですね(2019年夏に生産終了)。一時ツイッギーがCMに出たりしてあの頃の代表的なチョコ菓子だったのですけれど。好きだったバブリシャスも終売になったし、キスミントも昨年の2月に生産を終えている。江崎グリコの地元関西では80年代後半からずっとトップブランドで、関東でもシェア9%を保持していたのに。

コンビニでの販売ウェイトが上がりSNSの影響力が強まり、ロングセラー、定番商品も常に手を打っていないと安泰とはいかないのですね。サイコロキャラメルもカルミンもノースキャロライナも消え、関東ではカールも売られていない。昭和の菓子が少なくなっていく。

子供人口の減少や消費者の嗜好の変化もその理由だろうけど、ひとつには新製品が多すぎるのでしょう。毎年少しだけ模様替えをしてチョコレートで800、キャンディで900、米菓で1100もの新製品を出し続けているメーカーにも責任はありますね。新製品は既存製品の陳腐化を招き、店頭で棚の取り合いとなり新発売された製品の数だけの旧製品が消えていきます。消費者段階と店頭段階での二つのカニバリゼーションを引き起こします。

昔菓子の仕事をしている時に「たとえ100人でも買ってくれる熱心なファンがいる限り製品を販売し続けるのはメーカーの使命・義務ではないだろうか」、「いやいや、回転の悪いSKUを持っていると製造設備の稼働率が下がり、在庫も増えて採算が悪くなり他の製品へのサポートが減って共倒れになる可能性がある」という議論をしたことを思い出しました。もちろん後者が優勢でした、まだPOSがない頃ではありましたが。今なら週販がすべてを決めるのでこんな議論さえ起きないのでしょうね。




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