マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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カテゴリ: 転職

私が生まれたのは昭和22年、戦争が終わって2年近くが経っていた。戦争の記憶はもちろんない。しかし上空を飛ぶ双胴の米軍輸送機はよく見かけたし、残されていた防空壕の記憶もある。当時住んでいた名古屋の中心部には進駐軍の駐留宿舎があり、たくさんの米兵がいた。下の写真は終戦直後の名古屋の中心部。中ほどの大和生命ビルに司令部がおかれた。司令部の前には「日本人は米国を尊敬すべし。日本人の軍馬は米軍を追い越すべからず。違反者は射殺する事あるべし」との進駐軍の警告文があったとのことだ。
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幼い頃家族で栄町に出かけると、道を歩く兵隊と出会った。セーラー服だったから海軍だったと思う。長躯で長い脚で大股で3人横に並んで楽しそうに歩いていた。米兵を見るのは初めてだったし、それまで見たこともないピカピカの革靴に目を奪われた。じっと見ていると母親が「いつまでも見ていちゃ駄目。殺されるよ」と言った。まだそんな雰囲気が残っていた。名古屋駅前や栄にはまだ白衣の傷痍軍人が何人もいた時代だ。戦争の痕跡はあちこちに残っていた。

数年前まで敵だったアメリカの文化は日本中に入り込み、ラジオからは毎日ドリス・デイの「センチメンタルジャーニー」やパティ・ペイジの「テネシーワルツ」が流れていた。いまだに私のカラオケのレパートリーだ。エンジニアだったため徴兵されなかった父親はアメリカのことを良くも悪くも言わなかった。私が赤子だった時に頭に腫瘍ができ病院でもう駄目だと言われたらしい。ただ米軍にはペニシリンという薬があり入手できれば助かるかもと助言され、父親はあちこちに手を廻して調達し私は一命をとりとめた。ペニシリン1本が当時の父親の月給2か月分だったと後年聞いた。

小学生高学年の時米軍は名古屋から去っていった。その時に軍の家具などのセールがあり、母親は私と妹にベッドを買ってきた。2メートルのサイズの小学生には大きすぎるベッドでスプリングのよく効いたマットレスがついていた。初めてのベッドでうれしくてよくマットレスの上でジャンプをした。天井に頭がつきそうなくらいジャンプできた。

そんな子供時代を過ごしたせいか身近にアメリカが、アメリカの音楽や小説があった気がする。大学を出たあと英語は得意ではなかったがアメリカの会社7社で35年勤務するというサラリーマン生活だった。卒業が遅れたので日本の大会社は入社試験さえ受けられず外資か中小企業しか選択肢がなかったのが現実だった。広告代理店でコカコーラの担当となり、その後転職してチューインガム、風邪薬、ペプシコーラ、抗癌剤、頭痛薬とアメリカの製品・ブランドの開発や企画に携わってきた。今では日本の製品の数多くがグローバル展開しているが、まだまだチャンスはあると思う。若い人には内向きにならず外に目を向けてもらいたい。と言いながら最近はアメリカが内向きになって扉を閉ざし気味になっているのが残念なのだが。

外資系企業7社で33年間過ごしたサラリーマン人生だった。いろんな面でドライだと考えられている外資でも人間関係や人との絆はちゃんと存在していたように思う。

新卒で入社したのは広告代理店。コピーライター志望で入ったが配属されたのは媒体局のコカ・コーラ専属のメディアプラニング部門だった。楽しくて働きやすい部門だった。3年後にマーケティング局に転属になり、労働組合の書記長をすることになった。会社側の代表が人事局長のI氏で実直で優しい人物で、組合側から見ると比較的楽な交渉相手だった。数年後にヘッドハンターからの電話で面接に行くとI氏がいた。当時は55歳が定年だったので定年退職後に製薬メーカー(ワーナーランバート)の人事のトップとして入社し、菓子事業部が人を探していた時に私のことを思い出したらしい。知っている人が上層部にいるのは心強い。即入社を決めた。

菓子の仕事は面白く毎日が充実していた。数年後に管理職になったがもう少し現場の仕事がしたかった。会社の医薬品部門にスミスクラインから転職した人がいて、数年後にまたスミスクラインに戻った。コンタックの担当が欠員となった時に私のことを思い出し面接に呼ばれた。簡単な宿題が出てそれを提出したら採用が決まった。ただ入社後数か月で日本の製薬会社のOTC部門を吸収合併し会社の雰囲気が悪くなったのと上司との折り合いも良くなくて退職し、元上司の口利きもあってワーナーランバートに出戻った。人材が潤沢でない外資系企業ではこうした出戻りはよくあることだ。

また菓子の仕事に戻り、カナダでの海外勤務を終えて日本に戻ったら私の後任で一時的に赴任していたアメリカ人が戻る場所がなくて居残っていた。同じポジションに二人いるのも妙だが仕事を無理に二分割するのはもっと理不尽だった。昔から知り合いのエージェントに頼んで次の仕事を見つけてもらった。ヘッドハンターに依頼したのはこの時だけだ。

紹介されたのはペプシコーラだった。ペプシマンキャンペーンの頃で業績は上向きだった。新製品開発チームや開発会議の新設、人員補強など組織の強化に取り組んだが半年後に事業はサントリーに売却移管された。マネジメントや開発、工場要員などは不要とされ生まれて初めてハローワーク通いを数か月経験した。その間ペプシ事業の売却を知ってマーケティング人材採用のため来社した関西の製薬会社の元人事部長が採用に動いてくれて調査部長の職を得て神戸に転居した。

神戸での最初の2年は快適だったが、その後新設の抗癌剤のチームを任されてからが大変だった。消費財の経験しかないマーケターがこなせる仕事ではない。毎日今日が最後の出社日になるかもと思いながら電車に乗った。そんな時東京のヘッドハンターから電話があり、消費財と医療用医薬品の両方の経験を持つマーケターを探しているが面接に来ないかとのことだった。バファリンの会社だった。

バファリンがOTCと医療用の両方を持っているとは知らなかったし、失敗だったと思った医療用医薬品への転職がこんなところで役に立つとは思わなかった。日本法人のカナダ人社長に面接されたが私がカナダで働いていたことにも興味を持ったようだった。翌月には本社の社長との面談があった。面接中に「ペプシにいたのか。本社の交渉相手は誰だった」と聞かれた。彼も以前ペプシに在籍していたとのことで結局それが決め手になったのか採用されて最後の勤務先となった。

もともと転職志向があったわけではないし英語も不得手だった。知人がエージェントに私の名前を出したこともあるが、私のことを知っている人が誘ってくれたことも何度かあった。まだ外資に行く人が多くなかった時代なので、個人的ネットワークが重要だった。転職してからかつての部下や仲間を採用することはよくあったし私も何度かしたことがある。その人の強みと弱みを知っているから強いところを活かすポジションをあてがえば失敗は少ない。自分の首がかかっているから採用にも慎重になる。日本の企業で働いたことがないから比較はできないが、組織に頼ることが少ない外資系企業の方が人と人とのつながりや絆が強いのではなかろうかと思ったことは何度もあった。昔の仲間とは今でも繋がっている。

私のブログの自己紹介には「外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人」と書いてあります。広告業、菓子(ガム・キャンディ)、清涼飲料水、OTC(大衆薬)、医療用医薬品業界で働きました。こう並べてみても他が全部消費財分野なので医療用医薬品だけが異質な感じがします。ブランド広告が打てない、プロモーション規制などの制約が多い業界なのです。

今思うと間違えて入ってしまった会社に近いのかもしれません。転職での間違いは二種類あるように思います。会社を間違えることと業界を間違えることです。会社の間違いはカルチャー、意思決定方法、上司などに入社した後に驚くことですが、この医療用医薬品会社への転職は後者だと思います。ずっとマーケティングで食べていましたしOTC(風邪薬)の経験もあったので医療用医薬品でもなんとかなるだろうと考えていました。入社時の職種が調査とマーケティングサービスだったのもそう考えた理由の一つでした。数年後に製品チームに配属替えになり抗癌剤チームを任された時から地獄の毎日になりました。チームの雰囲気は良かったものの病理や薬理が分からないと仕事についていけません。外資でしたからそれらに関する用語を日本語と英語の両方で覚えなければならないのも大変でした。
2023-04-27 (2)
入社時には消費財で培ったブランディング知識を医療用医薬品で活かしてくれとの上司からの要望でした。しかし外資は上が変わると組織や人事がいっぺんに変わります。次の上司の私への最初の一言は忘れもしない「なぜおまえはここにいるのか?」でした。消費財しか経験のない人間が抗癌剤の管理業務を遂行できるのかを全く信じていない発言でした。ま、実際にできていなかったのですが。

医療用医薬品会社のマーケティング担当はほぼ全員営業出身者です。実績を上げた営業部員が本社に回されます。製品や顧客のことを知っているのでなんとか格好は付けられます。ただマーケティング実務の経験に欠けるのと、外資の場合は英語を使わなくてはならないので大抵は最初に苦労します。なんとか慣れて形ができてくるとこれがマーケティングだと誤解します。それでも業界的には広告が打てず、学会やコンベンション、説明会などのプロモーションが中心なのでなんとかなるのです。上にもマーケティングに精通した人がいないので本当のマーケターがどの会社でも少ないと考えられます。

この背景には商品の特性があると思います。入社して一番驚いたのが会社のインシュリンやパーキンソン薬などの主要製品のほとんどが死ぬまで使い続けねばならない製品でした。それまでは今日のユーザーが明日は飲んだり食べたりしない確率が高い飲料や食品の仕事だったので、一度顧客を掴まえたら死ぬまで毎日使ってもらえる業界があるなどとは考えてもいませんでした。生命にかかわるのでブランドスイッチも限定されます。価格も国が薬価を決めるので価格競争もない。それに原価もとんでもなく低い(開発には時間と金がすごくかかるが)。

ブランドイメージなどで売りが影響される消費財と違って、エビデンスがないとドクターに使ってもらえない商品なので効能効果が最重要項目です。開発部門のひとが放った言葉が忘れられません。「この薬でなければ患者の命が救えないとなったらどの先生もうちの薬を使わざるを得ない。となると営業もマーケも無くても売れるよね」。そんな薬だけではないのですがそのプライドに驚愕させられました。

なんとか生き永らえ、ヘッドハンターからも消費財から医療用医薬品に転職して生き延びているのはあなただけだと言われましたが数年が限界でした。またOTC業界に戻って私のサラリーマン人生は終わりました。辞めると伝えたとき「なぜおまえはここにいる」と言った上司が、「なぜ辞める。もう少し我慢できないのか」と言ったことだけが慰めでしたね。



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33年間のサラリーマン生活で6回の転職、7社での勤務を経験した。全部外資だった。一番長く在籍したのは初めての転職先で今はなきワーナー・ランバート社。一度辞めて出戻り、通算15年働いた。入社した時は年商300億くらいの規模だったが、ちいさなコングロマリットのような会社で、医薬品、医療用ゼラチン製ハードカプセル、シックのカミソリ、アダムスの菓子、洗口液のリステリン(発売前)、熱帯魚の飼料のテトラなど多岐にわたるが相互にあまり関連のない製品群を持っていた。その他にも入社後すぐに売られてしまったが診断用試薬事業部と眼鏡や光学機器を扱うアメリカン・オプティカル事業部があった。あの頃の外資によく見られた相次ぐ買収で大きくなった会社のひとつだった。入社時には全事業部合計で社員数は210人くらいだったが、辞めた時は私がいた菓子事業本部だけで300人近い所帯となっていた。
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合併で大きくなった会社によくあるように異なる社風やカルチャーがそのまま残り、ボーナスの支給方法さえ事業部で異なっていたし、同じ会社とは言え雰囲気は結構違っていた。外資ではボスの性格によってその事業部の雰囲気が変わることも多いが、重厚な感じの医薬品事業部と比べると消費財事業部は自由な緩い感じがした。会社としての規模は小さいものの業績は悪くなく、カプセルは50%、シックは70%、テトラは90%のシェアを持ちそれらのカテゴリーのリーダーだった。ただ私が所属した菓子事業部は日本に来てから22年間連続の赤字続きで、そのことは入社後に初めて聞いた。だまされたと思った。

転職など考えていなかったのだが、突然リクルーターから電話が来た。労働組合の書記長をしていたので、厄介者を外に追い出す逆ハンティングかと思った。なんども電話があったので会いに行ったら面接官にかつての団体交渉の相手だった元人事局長のI氏がいた。定年で退職した後(当時の定年は55歳)日本ワーナー・ランバート、パークデイビス、パークデイビス三共の三社が合併してできたワーナー・ランバートの人事や給与システムを統合するために人事のトップとして合併直前に入社したとのことだった。業績が伸びている時だったのでプロダクトマネジャーが必要になり、I氏が前の会社のアメリカ帰りの私の同僚に声を掛けたが断られ、仕方なく次に私の名前を出したらしい。面接の後近くのホテルで晩飯をご馳走になり入社を決めてしまった。

提示された待遇も魅力的ではあったが、I氏だったら悪いことはしないだろうと考えた。感情がすぐ顔に出る正直者で団交の時には組合側から見ると最も容易な交渉相手だった。もとは食品会社で営業をしていた人で人事のプロではない。笑うと笑顔のやさしい人だった。入社後のパーティで連れて行った娘が私にそっくりなことを社長に話そうとして「He has a Xerox baby」と言った一言は忘れられない(彼は東大卒)。英語が不得手の自分でもこの会社なら生き延びられるかもしれないと思った。

とは言いながらそこは外資で、菓子事業部マーケティング部の同僚は全員アメリカでMBAをとったかアメリカの大学卒で、アメリカに行ったことすらなかった自分は異邦人のようだった。彼らのジョークについていけず、会話の何割かを占めるカタカナ語が分らず何度こっそり辞書をひいたことか。プレゼンで英語が出てこなくて沈黙すること数知れず。そんな時「気楽にやりましょう」と本部長は言ってくれたが気楽になんかなれるはずがない。前の会社も外資だったが、本物の外資に来てしまったと思った。よく15年も持ったと今でも思う。

居心地の良い、働きやすい会社だった。ただ本業の医薬品ではなかなかヒットが出ず、当時ウォールストリートが製薬会社に求める年十数パーセントの成長はかなり困難だった。やっとブロックバスターが出そうで、社長が「今は大変だが、あと2年で会社が変わる」と言っていたリピトールが発売され、グローバル年商1兆円の製品になったら、アメリカで販売提携をしていたファイザーに敵対的買収を掛けられてあっさりこの世からワーナー・ランバート社は消えてしまった。



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70歳になりました。あっという間の70年でした。私が生まれた年に日本人男子の平均寿命が初めて50歳を超えたのですから、長生きをしていると言うこともできます。
会社勤めを辞めてからちょうど10年。振り返ってみると自分の会社人生には10年に一度大きなイベントがあったことに気づきました。

10年前の2007年6月。親会社の米国人社長との定例個人面談で業務報告をしようとしたら「今日はいい」と遮られ、米本社がバファリンやエキセドリンなどの商標を日本のJVパートナーに売却することを決めたので会社は来月一杯で解散されると唐突に伝えられました。一週間後にプレスリリースが出るのですぐデューデリジェンスを極秘で始めろ、JVパートナーへの業務引継ぎは発表後一週間で終えろと通常ではありえないスケジュールです。社員のことを考えると社内発表までの一週間は辛い毎日でした。発表後に書類だけの株主総会の議事録が廻ってきて会社の解散と自身の代表取締役の解任決議に署名をしたことを覚えています。たまたまその日が60歳の誕生日で、役員でなくなることは定年を意味し7月末で退職となりました。

その10年前の1997年秋。日本ペプシコーラ社の本部長は会議室に緊急召集され、社長から本社が日本の事業をサントリーに譲渡すると決定したと告げられました。12月で会社は抹消され社員はサントリー(の子会社)に転籍になるとのことでした。マーケティング責任者だった私は広報担当に話をし、翌月に行われるサントリーの記者会見の準備を依頼しました。これも秘密裏に進めるため広報担当も苦しかったと思います。その後社内にはサントリーから数名が常駐し業務引継ぎのための聞き取りが始まりました。結局マネジメント、製造・開発スタッフは不要ということで退職することとなり、私も何か月かのハローワーク通いをすることとなります。ペプシマンのキャンペーンが成功し業績が回復している時だけに無念な思いだけが残りました。

そのまた10年前、1987年。スミスクライン&フレンチにコンタック担当のプロダクトマネジャーとして入社して三か月後、住友製薬のOTC事業を吸収合併してスミスクライン住薬という会社になりました。同時に住友製薬から数十人が転籍してきましたが、除虫薬や殺鼠剤を中心に営業力のプッシュで売るコテコテの関西企業とTV広告のプルで売る外資が融合するはずもなく、社内は二つに割れたバラバラのままで朝礼も別々に行われる状態でした。入社して間もない私はどちらにも属することができず宙ぶらりんで居心地の悪いまま退職を決意しました。予期した通り数年後に提携は解消され社名はスミスクライン ビーチャム コンシューマーヘルスケアという長い名前に変わっていました。

しかしよく考えるとたまたま10年ごとにイベントが起こったのではなく、自分が30歳では、40歳では、50歳ではこうならねばという妙な概念に憑りつかれて性急に新しいチャレンジ(40歳、50歳直前の転職)をしたために引き起こした部分もあったのではと考えるようになりました。大学を退学処分され社会に出たのが4年遅れで、早く同い年の仲間に追いつこうと焦ったことも影響していたと思います。自分でキャリアを作り上げる意欲も大事だけれど、運を天に任せるのもひとつの方法だったかもと今では考えられるようになりました。


今年は最後のイベントからちょうど10年目。あと半年何も起こらなければいいなあ。




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