マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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カテゴリ: 災害

毎日のようにクマのニュースが流れる。先日は山形新幹線の駅の車庫にクマが侵入して運休になったことが報じられていたし、自宅の庭、旅館や小学校に入り込んだとのニュースもいくつかあった。クマに襲われた人もかつてないくらい多い。4人の死者と60人の負傷者を出している秋田を中心とした東北地方だけのことかと思っていたら、関東でも東京都下の日の出町や八王子などでも目撃されている。東京都も「TOKYOくまっぷ」なる目撃情報サイトを開設している。
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関東地方でクマの目撃情報がないのは千葉県だけらしく、私が住む神奈川県も静岡県や山梨県方面からクマの目撃ラインがどんどん近づいている。足柄山の金太郎伝説があるものの神奈川県のツキノワグマは生息数が非常に少なく県の絶滅危惧種に指定されているくらいだ。それなのに今年は毎月7件から13件の目撃情報があったと県が発表している。全国ベースでは2023年と比べて目撃件数は1.4倍、年率18%で増えている。
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私はクマに詳しいわけではないしそんなに興味を持ってたわけでもなかったがこれだけニュースになると気にはなる。クマの数が激増してエサが足りなくなって人里まで降りてくるようになったらしい。そのうえに今年はクヌギなどのブナ科の植物の生成が悪く凶作でクマの餌となるドングリが激減したのでエサを求めて都会まで来る。冬眠の季節なのでその前に栄養を貯えこむ必要があるのだろう。

確かにクマの数は増えているようで、農水省の発表では北海道に生息するヒグマの推定個体数は1990年の「春クマ駆除制度」廃止の影響でこの30年間で倍増し、1991年の5514頭が2023年には1万1661頭へと増えている。本州のツキノワグマは(日本ツキノワグマ研究所長の米田氏によると)1970年の3千頭から3万5千頭へとこの半世紀で10倍強になったと推定される。ただ最近では農水省の資料では増加または安定化とある。四国では生息分布域が12%縮小し、九州では絶滅とのことだ。

北大の坪田教授によるとクマはもともとは肉食性だったが進化の過程で雑食性になり現在の日本のクマは食料の8~9割を植物から摂取する。残りの1~2割はアリやハチなどの昆虫で、生息地にサケやマスが遡上すれば捕食することもあるが獣を襲って肉を食べることには積極的ではないそうだ。つまり頭数が増え、主食のドングリなどが不作のためエサを求めて人里に降りてくるのだろう。

ネットでは人的被害をなくすため見つけ次第駆除すべきと言う意見と、原因は人間サイドにもあるのでクマとの共生を求めて生活圏の住み分けや緩衝帯の設置などの自然環境を整備すべきだとの意見が飛び交っている。時間のかかりそうな解決案に対しては日常的にクマとの接点がある住民からは、現場のことが分かっていないと反論も多い。

頼みの猟友会も高齢化し後処理まで考えるといつまでもボランティアに頼っているわけにはいかない。命がけの仕事だから。自衛隊や警察官への狩猟訓練も簡単ではないだろう。南知床の自治体のように野生鳥獣専門員(法人)を置き、野生動物の管理を猟友会でなく自治体から委託された法人がクマやキツネなどの駆除対応をしているところもある。自治体職員と法人職員が即座に対応できるのが強みとのこと。全ての地区で可能とは思えないが一つの方法ではある。

去年喜寿になったから先はそんなに長くはない。でも何かあっても少しでも生き永らえたいと思う老人の諦めの悪さ。今年は大災害が起こるのではないか、などという噂だか予言に踊らされ、半額セールの一言に乗せられてポータブル電源(蓄電池)とソーラーパネルのセットを買ってしまった。
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当初はテレビ通販のセットを買おうと思った。3万円位で安かったし小さいながらソーラーパネルも付いていた。しかし充電できるのはスマホ、PCに扇風機や電気スタンドのような小型家電に限られるし使用可能時間も長くはない。ならば同じメーカーの大容量の方が使う機会が増えるのではないのか、と考えていたら一週間のセールの広告が目に入った。45%オフでも10万円位になるが、1500ワットの出力があるので停電時に小型家電はもちろん電子レンジや洗濯機も使えるし、水道さえ止まらなければトイレも使用が可能になる。最近のトイレや電話は電気が止まると使えないのだ。

ネットで注文して3日後に届いた。ずっしり思い。10キロ強。取っ手がついているので家の中で移動したり、車に乗せる分には問題ない。電池残量が26%だったのでACにつないで充電すること約1時間半でフル充電となった。思ったより早い。試しに消費電力500ワットの布団乾燥機につないでみたらAC電源と同じように稼働した。4000回の充電に耐えると言うから毎日充電しても11年は使えることになる。1年1万円弱で安心が買えるのであれば高くはないだろう。日差しの強い時にソーラーパネルで充電すれば節電にもなる。ゼロからフル充電には半日くらいかかるが、7~8割からフルまでなら冬の朝の陽ざしでも3時間くらいで99%までチャージできる。
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かなり前から終活の一環として断捨離を始めた。書物、レコード、DVDやCDなどの処分を始めて身軽になろうとしている一方でこういうものを買ってしまう一種の矛盾。家の中には震災用に備えた非常食、携帯ガスコンロ、非常用トイレセット、LEDランタン数個。水は常に数ケースをローリングストックしている。富士山噴火に備えてゴーグルと防塵マスク、コードレス高圧洗浄機などなど。その上に今回のポータブル電源とソーラーパネルだ。火山学者はマグマは溜まっているのでいつ噴火してもおかしくないと煽り、地震学者は先日南海トラフの今後30年での発生確率を80%に引き上げた。研究費を得るために数字を上げているに違いないのだが、老人にこういう心配をさせてはいけないよねえ。

住んでいるマンションでは毎年二回減災訓練がある。今日がその日だ。休日の朝に室内のインターホンのスピーカーから巨大地震が発生したとの案内放送が流れ、室内待機の後、火災が発生して延焼中なので避難しろとの指示が出る。同じ内容の放送が敷地内のスピーカーからも流れ住民の退避が始まる。
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働いていた頃はせっかくの休日の朝に放送で起こされるのは3時にベッドに入る自分には少し腹立たしく、訓練に参加することは少なかった。今は管理組合の理事長なので参加せざるを得ない。訓練は退避後広場に集合して消火器やAEDの使用訓練があり(時には地震体験車やはしご車を消防車から出してもらうこともある)その後会議室に移動して消防署員や防災専門家による講話がある。本日の講話は「高層マンションにおける防災」というタイトルだった。

マンションは高層階になるほど地震の揺れ幅が大きく、家具などの転倒、落下、移動による被害が大きくなることは阪神淡路や東日本大震災で実証されている。怪我だけでなく通路や出口ドアを塞ぐことによって避難障害を招くこともある。それらを防ぐために背の低い家具に変えたり、人がいない方向に倒れるように家具の向きを変えたり、窓際には重量物や移動しやすいものを置かないようにする。大きな家具はL字金具で壁に固定したり、ストッパーを併用したりする、などが実物とともに紹介された。

記憶ではかつては防災訓練と呼んでいたと思う。今は減災訓練だ。「防災」が災害を未然に防止し被害をゼロに近づけるための努力なのに対し、「減災」は災害は起こるものだと考え被害を最小に抑えるための事前対策と定義づけられる。自然をねじ伏せようという考えから自然には敵わないと現実的になったような気がする。この変化は1995年の阪神淡路大震災の経験から来たらしく、その後「減災」が一般的になったようだ。

国や地方自治体は「自助」「共助」「公助」で災害に備えよと言う。まず自分および同居家族で身を守り備蓄品や持ち出し品を準備する。次に隣近所や町内会、自治会などのコミュニティで助け合う。最後に国や自治体の対策や制度を利用する。ただ防災に詳しい人は「公助」は期待しないほうが良いという。国や市のプライオリティはまず公共施設や病院、学校に置かれ民間の共同住宅はその後になるだろう。

「公助」がないわけではない。私の両親は阪神大震災で被災した。寝室の箪笥が倒れてあわや直撃だったらしい。電気ガス水道すべてが止まり、その夜自衛隊の給水車が来たので二人で9階から階段でおり、寒い中並んで水を貰い、階段をまた昇って部屋にたどり着いたら二度と下に降りる気力も体力もなかったらしい。老人から死んでいく、と妹が言っていた。だから「自助」が第一で「共助」がそれに続く。ただ、困った時だけの「共助」は機能しない。普段から協力したり、少なくとも顔見知りになっておかないと非常のときに役に立たない。

今日のような減災訓練に、毎年同じことをしているから今年は参加しない、という老人もいる。繰り返しが大事なんだよ。災害発生時はだれもがパニックに陥る。パニックになると準備したことしか実行できない。それも十分に準備したことしか。消火器は扱えるかもしれないが、パニック時にAEDがちゃんと扱えるか自分でも自信がない。毎年同じ訓練を受けて体で覚えないと駄目なんだけどね。

毎年9月26日が近づくと伊勢湾台風を思い出す。昭和34年の15号台風。当時は名古屋市南区に住んでいて小学6年生だった。大型台風が来るというので窓が割れないように前日に自分の部屋の出窓に外から板を何枚も打ち付けた。強風で瓦が飛び窓に当たって割れると、そこから風が入り出口を求めて屋根を破って突き抜けるのが最大の被害だからだ。父親は勤めていた大同製鋼の名古屋港に面している築地工場に台風対策で泊まり込んでいて不在だった。
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夕方に史上最大の勢力で紀伊半島に上陸した15号台風は勢力を保ったまま速度を上げ、愛知県の北方を通過しようとしていた。台風は進路の右側のほうが風が強く危険と言われているうえに、この台風は中心気圧の低さだけでなく直径700キロという暴風域の広さと風速の強さが特徴だった。名古屋は台風に襲われることが多く、以前山崎川近くに住んでいた時には父親におぶわれて工場に何度も家族で避難したことがある。

当日はその父親がいない。マイペースの母親は停電になるかもしれないからと暴風域に入ったのに深夜に入浴を始めた。家の周りは風の音が鳴り響き、建物が揺れている。板は打ってあるものの窓ガラスが内側にしなって今にも割れるように思われた。必至で両手で窓ガラスを押さえ続けた。危険この上ない行為だったがこれしかその時は思いつかなかった。2~3時間押さえていたと思う。

翌朝外に出ると家の塀はすべて倒れ、庭の柳の木は折れ、納屋は飛ばされて前の道に倒れ収めてあった書物やSPレコードが散乱していた。天白川のほうに歩いていくと何軒もの家の屋根に大きな穴が開いていた。担任の山田先生の家もやられていた。いつも乗る鯛取通りのバス停は30センチほど水に浸かっていてバスは通れそうもなかった。小学校は3日間臨時休校となった。
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父親が帰ってきて惨状が明らかになった。高潮と重なって台風15号による浸水がひどく港区、中川区、南区や市の西側のゼロメートル地域は何日も水が引かなかった。わが家の2キロほど近くまで水が来ていた。堤防は崩れ2階まで水が来た地域も多く、市内でも相当数の死者が出た。流れている死体や戸板に乗ったまま流されている老婆、養殖場から流れた鯉や金魚も多く見たと父親は言っていた。名古屋港には貯木場が多く、高潮で海水と共に「暴走木材」と呼ばれた材木が大量に市街地に流れ込み住宅を破壊したことが被害を大きくした。最終的には死者・不明者数は全国で5098人となった。
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その夜我が家には奥さんを台風で亡くした父親の会社の部下の人が泊った。泥だらけだったので母親はなんども風呂のお湯を取り替えていた。次の日は家を流された知り合いの夫婦が寄宿した。飼っていた犬を助けられなかった無念さを一晩中語っていた。3日目からは違う一家が泊りに来た。同じ年頃の男の子がいたので少し遊んだ。あれだけの人が来て、ちいさな氷の冷蔵庫しかなく、商店は開いていなかったはずなのに母親はどうやって食事を作ったのだろうか、記憶にない。3日目位に支援食が届けられ生まれて初めてカンパンというものを食べた。白金カイロくらいの大きさでぼそぼそしていておいしいとは思えなかった。

あれから65年が経った。台風が接近するたびに、伊勢湾台風よりひどい台風は来ないだろうと楽観していたが、今住んでいるところは横浜港まで500メートルくらいの川沿いの埋め立て地だ。地球温暖化で海水温度が上がり続け、65年前と同様なスーパー台風が上陸すると、河川は氾濫し、電力は喪失し、地盤も場所によっては崩落するかもしれない。9月26日を前にして、そんなことを考えながら備忘のために書き留めました。

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