
幼い頃家族で栄町に出かけると、道を歩く兵隊と出会った。セーラー服だったから海軍だったと思う。長躯で長い脚で大股で3人横に並んで楽しそうに歩いていた。米兵を見るのは初めてだったし、それまで見たこともないピカピカの革靴に目を奪われた。じっと見ていると母親が「いつまでも見ていちゃ駄目。殺されるよ」と言った。まだそんな雰囲気が残っていた。名古屋駅前や栄にはまだ白衣の傷痍軍人が何人もいた時代だ。戦争の痕跡はあちこちに残っていた。
数年前まで敵だったアメリカの文化は日本中に入り込み、ラジオからは毎日ドリス・デイの「センチメンタルジャーニー」やパティ・ペイジの「テネシーワルツ」が流れていた。いまだに私のカラオケのレパートリーだ。エンジニアだったため徴兵されなかった父親はアメリカのことを良くも悪くも言わなかった。私が赤子だった時に頭に腫瘍ができ病院でもう駄目だと言われたらしい。ただ米軍にはペニシリンという薬があり入手できれば助かるかもと助言され、父親はあちこちに手を廻して調達し私は一命をとりとめた。ペニシリン1本が当時の父親の月給2か月分だったと後年聞いた。
小学生高学年の時米軍は名古屋から去っていった。その時に軍の家具などのセールがあり、母親は私と妹にベッドを買ってきた。2メートルのサイズの小学生には大きすぎるベッドでスプリングのよく効いたマットレスがついていた。初めてのベッドでうれしくてよくマットレスの上でジャンプをした。天井に頭がつきそうなくらいジャンプできた。
そんな子供時代を過ごしたせいか身近にアメリカが、アメリカの音楽や小説があった気がする。大学を出たあと英語は得意ではなかったがアメリカの会社7社で35年勤務するというサラリーマン生活だった。卒業が遅れたので日本の大会社は入社試験さえ受けられず外資か中小企業しか選択肢がなかったのが現実だった。広告代理店でコカコーラの担当となり、その後転職してチューインガム、風邪薬、ペプシコーラ、抗癌剤、頭痛薬とアメリカの製品・ブランドの開発や企画に携わってきた。今では日本の製品の数多くがグローバル展開しているが、まだまだチャンスはあると思う。若い人には内向きにならず外に目を向けてもらいたい。と言いながら最近はアメリカが内向きになって扉を閉ざし気味になっているのが残念なのだが。


















