マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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カテゴリ: 老人のたわごと

10月に入りやっと秋らしくなった。しかし今年の夏も記録的な暑さだった。過去最高だった2023年と2024年を上回る暑さだったと気象庁が発表した。6~8月の平均気温は平年(1991年から2020年までの30年間の平均)より2.36度高かったそうだ。ダブル高気圧が日本上空を覆っていたこと、梅雨明けが早かったこと、海水温度の上昇が主な原因らしい。暑いわけだ。これでは後期高齢者は夏バテするはずだ。

9月に入って多少涼しくなったものの真夏日を記録する日が多かった。6~9月の東京都心の真夏日数は88回で90回と最高だった2023年に次ぐ日数だった。わが家も契約電力会社からメールで送られてくる「明日の節電タイム」に協力しながら節電には務めたが、我慢できずにエアコンを入れたことが何度もあった。下のグラフでもわかるように最高気温も高かったが、最低気温が平年より高かったことが睡眠に影響して老人には辛かった。(下図は萩原雅之氏作成のものを借用)
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この夏は北海道でも39度を記録するなど全国的に異常な暑さで、8月5日には群馬県の伊勢崎市で日本最高値となる41.8度を記録した。小学校の時に習った日本の最高気温は1933年の山形の40.8度で、40度など想像もできないと当時は思った。その記録は2007年に岐阜の多治見で記録された40.9度に74年ぶりに破られたのだが、ここ数年間は毎年のように最高気温が更新されている。いったい日本の温度はどこまで上がり続けるのだろうか。
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今年の暑さはダブル高気圧や極端に早かった梅雨明けなど例年にない要素もあった。これらは日本だけの理由だ。しかし化石燃料使用による温室効果ガスの増加が起こす気温上昇、それによって北極海の氷面積が減り太陽光の反射量減少による気温上昇、海面温度の上昇が引き起こす気温上昇は世界的な現象で日本だけでは何もできない。政府はは2035年までに2013年比で60%削減するとの目標を国連に提出した。EUは2040年までに1990年比で温暖化ガスを90%削減すると提案したし、中国も2035年までに温暖化ガスの排出量をピークの7~10%削減すると先月発表した。

パリ協定では各国は2050年までに温室効果ガスをゼロにすることを表明している。目標は立派だがトランプ政権が消極的なのと、最大排出国の中国の目標が控えめすぎること、わが国の削減への具体策が見えないことは懸念材料だ。国連で25%削減を国際公約として発表し、3年後に(大震災があったとはいえ)撤回された鳩山イニシアティブの再現にならねば良いのだが。多分老人は死ぬまでこの夏の暑さにいじめられるのだろうなあ。

そんなに余裕があるとは言えないが何とか金銭的な心配が少ない年金生活を過ごせている。ただ財政的に逼迫状態だった時期は何度か経験した。歳をとってからの逼迫期は投資の失敗が理由なので反省・納得せざるを得ない。しんどかったのは社会人になった頃と結婚してからの数年だった。

私が社会に出たのは1974年だった。前年に第一次オイルショックが起き、経済成長率は5.1%から戦後初めてのマイナス成長に陥落し、トイレットペーパーの奪い合いがあった時期だった。消費者物価指数は24%も上昇し「狂乱物価」と呼ばれた。入社した広告代理店の仕事は面白かったが給料は安かった。忙しい部署で連日の残業で残業代が基本給に近づくことも時々あった。入社した年に従業員からこれでは物価上昇に追いつかず生活できないと不満が出て労働組合が結成された。翌年の春闘では30%を超える昇給を勝ち取った。これで暮らしていけると思った。

その年に結婚した。ボロアパートから高円寺の1DKのマンションに引っ越した。家賃は数倍になったので生活は楽ではなかった。それでも商売(倒産経験もある)をしていた家で育った家内は「毎月決まった額が決まった日に入るのは楽だわ」と気にする風もなかった。私が職場のマージャンで大負けして家に入れる額が減ったりすると大変だった。結婚した頃は自分の貯金を取り崩して料理学校に通ったり洒落た食材を買っていたが、だんだん貧乏サラリーマンの食卓になり、夕食のメニューがカレーとか大葉のパスタとかシンプルになった。帰りが遅いので深い時間に食べることが多かったし、独身時代に比べれば食事の質に問題などなかった。20年後くらいに「あの時はほんとにお金がなくて一番安くできるのがあのパスタだったのよ」と言われた。昼飯も下のパン屋でジャムパンを一個買って済ませていたようだ。

お嬢様育ちだったらしい家内は世間一般の社会常識や交渉能力に欠けているところがあった。あの頃は珍しくもなかったが、コンドームを売りに来る女性営業がいた。一種の押し売りだ。一度にグロス(12ダース)を1万数千円で売りつけるのだ。何度も断るのだが引き下がらない。最後に「今うちには2千円しかなくてこれであと2週間暮らさなくてはならないのです。どうしたらいいでしょうか」と言ったら呆れて帰って行ったそうだ。ある時は新聞の集金人が来たが「手持ちがない」と言っても納得しない。脅されたと恐怖を感じた家内は私のコレクションからオリンピック硬貨を引っ張り出してそれで払った。帰宅してその話を聞いてとんでもなく高い新聞料金に呆れ怒りもしたが終わったことは仕方ない。コイン収集はそこで止めた。

一番こたえたのは家に帰ったら「もうお米がありません」と言われた時だ。そんな台詞は戦後のドラマの中だけだろうと思っていたことが我が家で起きたのだ。あわてて親父からもらったロレックスを持って近所の質屋に駆け込んだ。学生時代から何度もこのロレックスには世話になった。結婚してからの数年間もけっこうな頻度で出番があった。後の返済が大変になるので借りるのはいつも1万円だった。そのロレックスは、もう時計など必要なくなった定年後に売り払った。

この程度の貧乏話は珍しくもないだろう。苦労したとあまり思わなかったのは、楽天家で金銭に関して拘泥しない家内に助けられた面もあるし、日本経済が右肩上がりで将来は明るいと皆が思っていた時期だったのも幸いした。現にその後の10年間は、転職したせいもあるが、給料が毎年二桁上がって生活は少しは楽になり子供を育てることもできた。今の若い人たちと比べることはできないが、時代に恵まれていたと本当に思う。競争相手が多い団塊世代に生まれ、損をしたと思ったこともあるが、今考えれば日本経済がまだ成長している時期に会社員としてのピーク時を迎えられたことは幸運だった。「団塊世代は最後の食い逃げ世代だ」とよく言われたが、今となってはその謗りを甘んじて受けたいと思う。

若いころはそこそこの読書青年だった。浪人時代に、受験勉強からの逃げだったかもしれないが、本を読み始めて好きな作家が何人かできた。彼らが青年時代に読んだ本や薦める書籍を片っ端から読んだ。小説類だけでなく、旧制高校生の三大愛読書が「善の研究」「三太郎の日記」「愛と認識その出発」と聞けば理解できないままに目を通し、亀井勝一郎の人生論や青春論を夢中になって読んだ。体系だった読書ではなく手当たり次第だった。
当時は小遣いも少なかったので岩波文庫に助けられた。その頃の岩波文庫は他の文庫のような表紙カバーはなく、定価は★で表示されていて、★ひとつが50円だった。「茶の本」や「桜の園」「共産党宣言」のような薄い文庫は50円で、いつも買った後喫茶店で読み終えた。コーヒー代も50円だったので100円で何時間か楽しむことができた。
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大学も文学部に入り下宿の四畳半は本であふれていた。週に2~3冊の本を読み、読後ノートも付けていた。しかし留年ののち退学処分を受け、一年後に他の大学に編入学してからは専門書を読むことに集中せざるを得なかった。就職後は仕事がらみの本を読むことが増えた。結婚して住んだ部屋の六畳間の天井まで壁一面の本棚に本をを並べていたら、遊びに来た友人に「寝ている時に地震がきたら死ぬぞ」と脅かされた。問題は家内が私の何倍かの読書家で一日中本を読んでいる。最高は一日に13冊読んだと言っていた。二人とも図書館には行かないので本は増え続け、そのころ蔵書数を数えたら4000を少し超えるくらいだった。

歳をとりはじめると、つまり老眼が始まるとだんだん読書と縁遠くなる。新しい知識への欲求が弱くなるのもあるが、読書が苦痛になるのだ。昔買った岩波文庫や古典の全集は活字が小さい。少し読んでいると目が疲れてくる、もしくはピントが合いずらくなる。そのうち老眼鏡の数だけが増えてきて、どれがどの度なのか分からなくなる。
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もう活字の小さい本は読めない。10年くらい前から終活の一環としてレコードやCD、VHSテープと並んで書物もヤフオクやアマゾンで処分し始めた。既に2000冊くらいは捌けたと思う。売れるたびに本を梱包しながら、買った時のことやうろ覚えの内容を思い出しながら娘を嫁に出すような気持になる。しかし持っていても読むことはもうないのだ。本箱の空きスペースは年々広がり、そこに家内が本やいろんなものを並べるようになった。気が付けばドア横に通販家具で作った隠し戸棚のような扉付きの書棚も、まだ読書意欲が私ほどは落ちていない家内の新書や文庫本、洋書に侵食されてしまった。
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昔読んだ円地文子の「めがねの悲しみ」というエッセイは見えすぎてしまう悲しみを綴っていたが、両目とも眼内レンズのお世話になっている後期高齢者は、眼鏡をしても年々衰えていく視力をボヤくばかりである。

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