33年間のサラリーマン生活で6回の転職、7社での勤務を経験した。全部外資だった。一番長く在籍したのは初めての転職先で今はなきワーナー・ランバート社。一度辞めて出戻り、通算15年働いた。入社した時は年商300億くらいの規模だったが、ちいさなコングロマリットのような会社で、医薬品、医療用ゼラチン製ハードカプセル、シックのカミソリ、アダムスの菓子、洗口液のリステリン(発売前)、熱帯魚の飼料のテトラなど多岐にわたるが相互にあまり関連のない製品群を持っていた。その他にも入社後すぐに売られてしまったが診断用試薬事業部と眼鏡や光学機器を扱うアメリカン・オプティカル事業部があった。あの頃の外資によく見られた相次ぐ買収で大きくなった会社のひとつだった。入社時には全事業部合計で社員数は210人くらいだったが、辞めた時は私がいた菓子事業本部だけで300人近い所帯となっていた。

合併で大きくなった会社によくあるように異なる社風やカルチャーがそのまま残り、ボーナスの支給方法さえ事業部で異なっていたし、同じ会社とは言え雰囲気は結構違っていた。外資ではボスの性格によってその事業部の雰囲気が変わることも多いが、重厚な感じの医薬品事業部と比べると消費財事業部は自由な緩い感じがした。会社としての規模は小さいものの業績は悪くなく、カプセルは50%、シックは70%、テトラは90%のシェアを持ちそれらのカテゴリーのリーダーだった。ただ私が所属した菓子事業部は日本に来てから22年間連続の赤字続きで、そのことは入社後に初めて聞いた。だまされたと思った。
転職など考えていなかったのだが、突然リクルーターから電話が来た。労働組合の書記長をしていたので、厄介者を外に追い出す逆ハンティングかと思った。なんども電話があったので会いに行ったら面接官にかつての団体交渉の相手だった元人事局長のI氏がいた。定年で退職した後(当時の定年は55歳)日本ワーナー・ランバート、パークデイビス、パークデイビス三共の三社が合併してできたワーナー・ランバートの人事や給与システムを統合するために人事のトップとして合併直前に入社したとのことだった。業績が伸びている時だったのでプロダクトマネジャーが必要になり、I氏が前の会社のアメリカ帰りの私の同僚に声を掛けたが断られ、仕方なく次に私の名前を出したらしい。面接の後近くのホテルで晩飯をご馳走になり入社を決めてしまった。
提示された待遇も魅力的ではあったが、I氏だったら悪いことはしないだろうと考えた。感情がすぐ顔に出る正直者で団交の時には組合側から見ると最も容易な交渉相手だった。もとは食品会社で営業をしていた人で人事のプロではない。笑うと笑顔のやさしい人だった。入社後のパーティで連れて行った娘が私にそっくりなことを社長に話そうとして「He has a Xerox baby」と言った一言は忘れられない(彼は東大卒)。英語が不得手の自分でもこの会社なら生き延びられるかもしれないと思った。
とは言いながらそこは外資で、菓子事業部マーケティング部の同僚は全員アメリカでMBAをとったかアメリカの大学卒で、アメリカに行ったことすらなかった自分は異邦人のようだった。彼らのジョークについていけず、会話の何割かを占めるカタカナ語が分らず何度こっそり辞書をひいたことか。プレゼンで英語が出てこなくて沈黙すること数知れず。そんな時「気楽にやりましょう」と本部長は言ってくれたが気楽になんかなれるはずがない。前の会社も外資だったが、本物の外資に来てしまったと思った。よく15年も持ったと今でも思う。
居心地の良い、働きやすい会社だった。ただ本業の医薬品ではなかなかヒットが出ず、当時ウォールストリートが製薬会社に求める年十数パーセントの成長はかなり困難だった。やっとブロックバスターが出そうで、社長が「今は大変だが、あと2年で会社が変わる」と言っていたリピトールが発売され、グローバル年商1兆円の製品になったら、アメリカで販売提携をしていたファイザーに敵対的買収を掛けられてあっさりこの世からワーナー・ランバート社は消えてしまった。

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転職など考えていなかったのだが、突然リクルーターから電話が来た。労働組合の書記長をしていたので、厄介者を外に追い出す逆ハンティングかと思った。なんども電話があったので会いに行ったら面接官にかつての団体交渉の相手だった元人事局長のI氏がいた。定年で退職した後(当時の定年は55歳)日本ワーナー・ランバート、パークデイビス、パークデイビス三共の三社が合併してできたワーナー・ランバートの人事や給与システムを統合するために人事のトップとして合併直前に入社したとのことだった。業績が伸びている時だったのでプロダクトマネジャーが必要になり、I氏が前の会社のアメリカ帰りの私の同僚に声を掛けたが断られ、仕方なく次に私の名前を出したらしい。面接の後近くのホテルで晩飯をご馳走になり入社を決めてしまった。
提示された待遇も魅力的ではあったが、I氏だったら悪いことはしないだろうと考えた。感情がすぐ顔に出る正直者で団交の時には組合側から見ると最も容易な交渉相手だった。もとは食品会社で営業をしていた人で人事のプロではない。笑うと笑顔のやさしい人だった。入社後のパーティで連れて行った娘が私にそっくりなことを社長に話そうとして「He has a Xerox baby」と言った一言は忘れられない(彼は東大卒)。英語が不得手の自分でもこの会社なら生き延びられるかもしれないと思った。
とは言いながらそこは外資で、菓子事業部マーケティング部の同僚は全員アメリカでMBAをとったかアメリカの大学卒で、アメリカに行ったことすらなかった自分は異邦人のようだった。彼らのジョークについていけず、会話の何割かを占めるカタカナ語が分らず何度こっそり辞書をひいたことか。プレゼンで英語が出てこなくて沈黙すること数知れず。そんな時「気楽にやりましょう」と本部長は言ってくれたが気楽になんかなれるはずがない。前の会社も外資だったが、本物の外資に来てしまったと思った。よく15年も持ったと今でも思う。
居心地の良い、働きやすい会社だった。ただ本業の医薬品ではなかなかヒットが出ず、当時ウォールストリートが製薬会社に求める年十数パーセントの成長はかなり困難だった。やっとブロックバスターが出そうで、社長が「今は大変だが、あと2年で会社が変わる」と言っていたリピトールが発売され、グローバル年商1兆円の製品になったら、アメリカで販売提携をしていたファイザーに敵対的買収を掛けられてあっさりこの世からワーナー・ランバート社は消えてしまった。
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