マーケティング爺のひとりごと

外資系7社でチューインガムから抗癌剤までのマーケティングを生業としていた引退老人です。使えそうなデータや分析、気になった出来事、思い出、日々思うことなどをボケ防止のため綴っています。にほんブログ村 経営ブログ 広告・マーケティングへ
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タグ:外資系企業

現在日本には約3300の外資系企業が存在し、55万人の人が働いている。毎年約50社が新規に設立されその倍近い会社が撤退している。第二次大戦後には多くの外資系企業が日本に進出してきた。当時は外資単独では許可されず日本企業との合弁という形だった。その頃の会社で今でも存続している企業はそう多くはない。今までに数千の企業が日本市場から撤退した。撤退の理由はいろいろあろうが大きく分けると次のように考えられる。

その国特有の流通を無視する
他の国での経験(成功体験)を重視し、その国の独自性を軽視する
3年から5年での社長の交代
投下資本の回収を急ぎすぎる
雇用及び賃金面での柔軟性のなさ

分からないでもない。本国では直販で売ってきたから日本の一次卸、二次卸、時には三次卸経由なんて店に並べるまでに時間がかかりすぎるから日本でも直販ルートでとか、この方法でメキシコでは大成功を収めたのだから日本もレベルは大差ないだろうからこれで行こう、などで失敗する。外人社長が5年を過ぎても日本にいると税制面で日本人と同じような扱いになり目減り分を会社が補わなくてはならない(と昔聞いた)からその前に帰ってもらう。かつ新社長はたいてい前社長と違う方法で実績を伸ばして力量を見せようとして全社が混乱する。その上社長が変わるたびに部下は日本のビジネスを一から説明せねばならないし、全得意先に紹介しなくてはならない。トップも任期が長くないことを知っているので成果を早く出そうとする。一方競合の日本企業は、儲けは後からついてくる、まずは基盤づくりからのスタンスでやるので外資に長期的な勝ち目が薄いことが多い。自信満々で日本に進出したので誇りある自社のシステム(職務給、給与体系、昇進・評価制度など)を修正することを好まない。こうして多くの外資が失敗した。

基本には日本と株主の発言力の違いがある。我慢強い日本の株主に比べ、アメリカの株主は短期の成果を期待する。四半期病と揶揄される三か月ごとの売り上げと利益および配当を注視し、不満だと経営者の首を挿げ替えることもする。だから経営陣は発行済みの株価総額を上げることに(株価を上げること)一生懸命にならざるを得ない。当然外資が日本に上陸したのは売りと利益を上げるためなので日本の経営陣にも同様の要求をすることになる。

当然のことながら外資の良いところ優れているところも多くある。GAFAのように最初から世界市場を見据えて設立され成功を収めた会社もあるし、世界中で長く愛されている高品質の食品、飲料、日用品、精密機器製品も多い。ファッション衣料や化粧品のように強固なブランドイメージを確立した揺るぎない製品も数多い。製品以外でも

原材料の一括購入
集約された生産拠点での効率的な製造
資金と人材を集中しての研究と開発
マーケティング・ノウハウ

などは外資というかグローバル企業の圧倒的な強みだと思われる。製造面でのスケールメリットを生かした生産は嗜好性が国によって異なる消費財では利点が薄れつつあるが、半導体や医薬品、コンタクトレンズのような世界共通製品で小さくて価格が高い製品は空輸物流費も安価なので強味が維持されている。集中化された研究開発の成果はブロックバスターを生み出し続ける医薬品業界を見れば明らかだし、新製品開発も含めたマーケティング・ノウハウの重要性はコカ・コーラ、スターバックス、アップルなどの国境を越えての一貫したメッセージとブランド確立が証明している。



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外資と聞くと多くの人は、やることがドライで時に冷徹、英語ができる人が働いている、給料が高そう、が主な印象だろう。引退から十年後に2年間だけ旧財閥系の食品会社でアドバイザーとして派遣で働いたが基本的には外資しか知らないので比較は困難だが、確かにレイオフなど人員削減をしたり、ブランドや事業を売却したり、採算が取れないと分かると即日本市場から撤退したりドライな面はある。しかし最近は日本の会社も早期退職制度やM&Aを日常的に行っている。Going concern(企業の永続性)概念の浸透が進み財務の健全化のために遅まきながら何らかの手を打つ必要性が出てきたということだろうか。

英語ができる人は確かに多い。戦後の外資には英語はできるが経営を知らないタイプのトップがそこそこいたがそういう人たちは淘汰されていった。最初に入社した会社には外人が多かったせいか帰国子女の秘書や部長クラスにたくさんの英語達者がいた。得意先も外資が多かったので必要性もあり、アメリカの大学を卒業した新卒も採り始めていた。社内では帰国子女でグループができたり日本人同士なのに英語で話している光景も見られた。逆にアメリカの大学出身者同士では、卒業校の格もあるのか、妙な対抗意識があるらしくとげとげしい雰囲気も時々見かけた。私費で留学すると一千万くらいは投資しているので早く出世して回収しようという姿勢は今でも多くの外資で見られる。

転職して入った会社はマーケティング部だったせいか周りは私以外は全員アメリカの大学卒だった。かつ半数はMBAホルダーだった。みんな毎朝英字紙を読み、流ちょうな英語でプレゼンをした。時々私が理解できない英語のジョークが飛び交う。最初の大学では英語の単位を落としまくって退学処分を食らい、アメリカに行った経験もなく英語を使うことがほとんどなかった自分は最初のプレゼンで躓いた。説明をするのは記憶していることを話せばいいのだが質問が飛んでくる。質問の意味も完全にはつかみ損ねたが答えも口から出てこない。2~3分の沈黙。上司の上司である本部長が「気楽にやってくださいね」と声をかけてくれるが気楽などには決してなれない! こんなプレゼンが数回続いた。30代半ばではそう簡単に英語はうまくならない。開き直るしかない。
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それでこう考えた。外資の共通言語は英語ではない。共通言語は数字とロジックだ。外資で生き抜くためには英語はコミュニケーション手段として必要ではあるが、英語はあくまでConvenient LanguageであってCommon Languageではない。数字とロジックが共通言語だ。誰もが納得できるロジックを打ち立て、それを数字で裏打ちしてプレゼンや説明ができれば、英語がそんなにできなくても外資で生き残ることができる。自らを納得させるにはちょっと苦しかったがそう信じるしか方法はなかった。しかしそれで結構救われた。

数字はできるだけ暗記するようにした。資料を見ないで「当社製品がシェアを0.5上げたのに対し競合の製品Aは前年同期の17.4%から16.9%へ0.5ポイント下げました。そうです、我々がシェアを奪ったのです」と大きな声で説明するだけで聞き手(本社の外人)は信用する。前年の17.4は17.6か17.2だったかもしれないが、資料を見ながら説明するのとそらんじている(ように見せる)のでは信頼度が違う。誰もそこまでさかのぼって確認はしないし。それに外人さんは意外と数字に弱い。回帰分析をして、知名率が5%上がれば好意度は2%上昇します、その相関係数は0.878と非常に高い、と説明すると皆黙り質問もそこで途切れるのがほとんどだった。

給与に関しては確かに外資のほうが高いように見える。年功給と職務給の違いにもよるのだろうし、外資への転職リスクをオフセットしなくてはならないし、高くしないと日本の外資は優秀な人を集められるだけの評判、実績に欠けているのかもしれない。しかし目に見えない要素を考慮するとそんなに差がないように思われる。以前新聞記事で読んだのだが、日本の上場企業は従業員に払う給与の1.53倍を支出している。厚生年金保険料(18.3%)や健康保険料(11.64%)の労使折半分の負担、雇用保険料負担分(過半を会社負担)、労災保険料(全額会社負担)以外にも福利厚生費(社宅、家賃や社員食堂補助、託児所、海の家や山の家の保養所、研修所、社員のレクリエーション等)、退職給与積み立て分、慶弔見舞金などを加えると支払い給与の5割強のプラスを払っている。一方外資の場合は一握りの巨大外資以外は福利厚生費はごくわずかである。せいぜい所属する業界健保の施設を利用するかリロクラブのメンバーになるくらいのものだ。とすると外資では従業員に支払う給与の1.3倍くらいしかかからないことになる。この1.53との差額を給与として社員に払えばトータル人件費を増やすことなく見た目の給与が高くなるということだ。騙されてはいけない。


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70歳になりました。あっという間の70年でした。私が生まれた年に日本人男子の平均寿命が初めて50歳を超えたのですから、長生きをしていると言うこともできます。
会社勤めを辞めてからちょうど10年。振り返ってみると自分の会社人生には10年に一度大きなイベントがあったことに気づきました。

10年前の2007年6月。親会社の米国人社長との定例個人面談で業務報告をしようとしたら「今日はいい」と遮られ、米本社がバファリンやエキセドリンなどの商標を日本のJVパートナーに売却することを決めたので会社は来月一杯で解散されると唐突に伝えられました。一週間後にプレスリリースが出るのですぐデューデリジェンスを極秘で始めろ、JVパートナーへの業務引継ぎは発表後一週間で終えろと通常ではありえないスケジュールです。社員のことを考えると社内発表までの一週間は辛い毎日でした。発表後に書類だけの株主総会の議事録が廻ってきて会社の解散と自身の代表取締役の解任決議に署名をしたことを覚えています。たまたまその日が60歳の誕生日で、役員でなくなることは定年を意味し7月末で退職となりました。

その10年前の1997年秋。日本ペプシコーラ社の本部長は会議室に緊急召集され、社長から本社が日本の事業をサントリーに譲渡すると決定したと告げられました。12月で会社は抹消され社員はサントリー(の子会社)に転籍になるとのことでした。マーケティング責任者だった私は広報担当に話をし、翌月に行われるサントリーの記者会見の準備を依頼しました。これも秘密裏に進めるため広報担当も苦しかったと思います。その後社内にはサントリーから数名が常駐し業務引継ぎのための聞き取りが始まりました。結局マネジメント、製造・開発スタッフは不要ということで退職することとなり、私も何か月かのハローワーク通いをすることとなります。ペプシマンのキャンペーンが成功し業績が回復している時だけに無念な思いだけが残りました。

そのまた10年前、1987年。スミスクライン&フレンチにコンタック担当のプロダクトマネジャーとして入社して三か月後、住友製薬のOTC事業を吸収合併してスミスクライン住薬という会社になりました。同時に住友製薬から数十人が転籍してきましたが、除虫薬や殺鼠剤を中心に営業力のプッシュで売るコテコテの関西企業とTV広告のプルで売る外資が融合するはずもなく、社内は二つに割れたバラバラのままで朝礼も別々に行われる状態でした。入社して間もない私はどちらにも属することができず宙ぶらりんで居心地の悪いまま退職を決意しました。予期した通り数年後に提携は解消され社名はスミスクライン ビーチャム コンシューマーヘルスケアという長い名前に変わっていました。

しかしよく考えるとたまたま10年ごとにイベントが起こったのではなく、自分が30歳では、40歳では、50歳ではこうならねばという妙な概念に憑りつかれて性急に新しいチャレンジ(40歳、50歳直前の転職)をしたために引き起こした部分もあったのではと考えるようになりました。大学を退学処分され社会に出たのが4年遅れで、早く同い年の仲間に追いつこうと焦ったことも影響していたと思います。自分でキャリアを作り上げる意欲も大事だけれど、運を天に任せるのもひとつの方法だったかもと今では考えられるようになりました。


今年は最後のイベントからちょうど10年目。あと半年何も起こらなければいいなあ。




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